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伊予市誌

4 各種団体の状況

 男女青年団 
 一九二五(大正一四)年に大日本連合青年団、一九二七(昭和二)年には大日本連合女子青年団が発団式を行った。本県では一九二六(大正一五)年に愛媛県連会青年団が設立され、一九二八(昭和三)年愛媛県連合女子青年団が発団式を挙行した。こうして市町村の単位団体から、県、国につながる男女青年団の組織は確立されたが、満州事変を契機として、これまでの自主的な活動は次第に影をひそめ、団の体系を通してその組織と事業は画一化の方向をたどった。

 国防婦人会の誕生 
 明治時代末期に軍の後援を目的として発足した愛国婦人会はその後次第に会員を増加し、郡中付近の町村でもその事業が拡充強化されていった。一方大正時代に組織化された地域婦人会(主婦会)も家庭教育、生活改善などで着実な歩みを続けていた。しかし、満州事変が起こってから「非常時意識」という時代の要請が、大きな圧力となって女性にのしかかってきた。こうした時代の背景によって、一九三五(昭和一〇)年六月、県は猪股学務部長名で、国防婦人会結成のすすめを通牒として発した。これに促されて同年九月一八日に郡中村、一〇月二一日に北山崎村で国防婦人会が生まれ、同年一二月には伊予郡支部が郡中小学校庭で発会式をあげた。やや遅れて南山崎村・郡中町・南伊予村にも結成された。国防婦人会は、「国民皆兵制の精神に立脚し、全婦人を網羅し、その挙国国防の実をあげ、もって近代戦の様態に対処せんとするもの」で、その白い割ぽう着に、団の文字を染め抜いたたすきを掛けた服装は、非常時意識を一段と高めた。

 少年団 
 少年団日本連盟が生まれたのは一九二二(大正一一)年であるが、郡中地方ではやや遅れて、一九三〇(昭和五)年に町田広高を団長とする五色ボーイスカウト、一九三一(昭和六)年に菊澤薫を団長とする郡中健児団が結成された。どちらも団員数は三〇人内外であった。団員はキャンプ・山登り・道後グラウンドで野球試合の球拾い・軍隊が来たときの民宿案内・出征軍人の送迎などの活動を行った。一方満州事変は日中戦争、更に太平洋戦争と進み、世は軍国主義一辺倒となったので、一九四一(昭和一六)年にボーイスカウトは発展的に解消して、大日本青少年団に統合された(ボーイスカウト愛媛県連盟『あしあと』第一号)。

 少年防火隊 
 松本小学校は一九三一(昭和六)年に少年赤十字団に入団した。また、同年少年防火隊が設立された。尋常科五年以上の男子が隊員で、毎月一回、月の初めに各分団ごとに各家庭を訪問して、かまどやふろ場などの付近の整理、えんとつの破損、防火用水の用意などを点検した。火災の場合には、消防組を作って防火活動を行った。