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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

4 小説・戯曲

 小説

 大正期の小説は、人生派の礎を築いた自然主義が底流にあり、余裕派の写生文も「ホトトギス」を牙城とした。やがて白樺派の人道主義、現実を知的に解明し構成する新現実派が現れ、後期には新感覚派とプロレタリア派とが対立し、昭和期に入ったが、戦時体制下に統括され、活躍した県人は少ない。
 高浜虚子は、大正期に入って「ホトトギス」を小説写生文と俳句に二分したが、写生文に熱中して「杏の落ちる音」「道」「十五代将軍」など執筆を続け、大正四年(一九一五)『柿二つ』を東京朝日新聞に連載、晩年の子規をめぐる俳人の諸相を描く中に、病苦を超克してゆく心情に触れた長編の傑作である。
 久保より江は、少女時代に愚陀仏庵の子規・漱石に可愛いがられたが、大正一四年虚子が序文を書き、『嫁ぬすみ』を出版、「中の川の思出」は明治の松山の風物を、「嫁ぬすみ」は博多の風習を描き、少女時代に漱石や子規に可愛いがられた後日譚などがある。
 戦記文学では桜井忠温と水野広徳が知られている。桜井忠温は、旅順の戦場を訪ね、大正二年以後『銃後』『将軍乃木』『大将白川』などを続刊、昭和五年陸軍少将で退役、翌六年『桜井忠温全集』六冊、画集一冊を出版、隻手での執筆で、映画化もされた。水野広徳は大正三年『次の一戦』で日米戦争を仮定、『戦影』も匿名で出版した。私費で欧州の戦跡を視察し、軍国主義に幻滅、大正七年に退役、第二次大戦に『日米戦ふべからず』と反戦論を主張し発禁になった。遺稿自叙伝もある。
 坂本石創は西宇和郡川之石生まれ、長編処女作『開かれぬ扉』が、大正九年田山花袋に純な無邪気な作と認められ、『梅雨ばれ』『蘭子の事』などを刊行したが、昭和四年花袋と絶縁、帰郷した。同七年花袋三回忌に『結婚狂想曲』を自費出版、花袋の晩年の愛欲生活などを描写したが、同九年以後随筆風となり、同一七年『盤珪禅師』を刊行した。高橋新吉は、大正七年の「生蝕記」で佐藤春夫に認められた。この時、一九歳であった。同九年「万朝報」の懸賞短編「焔をかかぐ」が当選した。その後『ダダイスト新吉の詩』、小説『ダダ』で、極度の神経症中の行動・精神状況を追跡、昭和一一年『発狂』に短編をまとめ、長編『狂人』は足利紫山に参禅して、狂を考察したものを発表した。白川渥は新居浜生まれ、昭和一五年第一二回芥川賞候補作「崖」(文芸首都)は、戦争未亡人の再婚問題を扱い、当局の忌避にふれる点もあるので、入選を逸した(滝井孝作評)が、「村海記」「天人」などの執筆を続けた。
 昭和初頭には、松山高等学校生宮本顕治・金達寿・平田陽一郎らの『松高創作集』がある。戦時下では、昭和一七年の三島安精(越智郡大三島町)著『海軍』は、伊予水軍をテーマにした歴史小説である。仲田庸幸(伊予郡双海町)著『田舎教師の記』は漁村小学校教師の人間性を、同一八年陸軍少尉原田末一(今治)の『戦盲記』は両眼失明を、一九年武田勝義(北宇和郡広見町)著『土の尖兵』は、農業を営み土に生きる人を描いている。

 県外人の作品

 森鷗外の「護持院原の敵討」(大正一〇年一〇月「ホトトギス」)は、父の敵を探して、関東・関西・四国へ、銅山から道後温泉で逗留し、八幡浜から九州へ旅立ったが、むなしい伊予路の旅を描いている。
 徳富蘆花の『思出の記』は宇和島が舞台であり、『黒い眼と茶色の目』(大正三年)は、明治一八年から一年四か月間、従兄の今治教会伊勢時雄牧師の下、鐘の音や少女を思い出す青春記で、今治に限りない愛着を懐いている。子母沢寛の『新選組始末記』(昭和三年)は維新生き残りの人の聞き書き形式で、松山の原田左之助を描いている。
 林芙美子の実父は周桑郡壬生川生まれ、『放浪記』は日記体自伝的小説として「新鋭文学叢書」で刊行、丹羽文雄の『南国抄』(昭和一四年)は、北宇和郡吉田の城下町を背景に、南国人の欲と情を描き、和田傅の『ここに泉湧く』(昭和一六年)は、伊予郡南山崎村吉沢武久の涙ぐましい村おこしの農民小説である。藤森成吉(長野県)著『若き洋学者』(昭和一六年)は、叔父二宮敬作に学んだ大洲の三瀬諸淵の数奇な半生を描いている。
 火野葦平の父は松山市姫原生まれ、葦平は福岡県若松市で石炭仲仕の親分となり、労働組合運動にも専念したが文学に転向、昭和一三年第六回芥川賞受賞の『糞尿譚』は、第二の故郷松山から小倉へ帰る船内で書き上げたものである。徐州会戦に従軍して『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の兵隊三部作や戦争小説を続刊した。
 
 児童文学

 今治出身の池田蘭子一家あげての「立川文庫」は、明治四四年から大正一四年ころまでに二〇〇余編、石鎚山の麓猿飛橋から「猿飛佐助」を実在人物のように扱った忍者物・英雄豪傑譚は少年の血を湧き上らせた。荒唐無稽と文学史家からは疎外されたが、文学に志した人々からその意義大と認められている。
 久保喬(宇和島)は、松山商業在学中、短歌・詩を投稿、川端康成の推薦で、小説「白い時間」を発表、太宰治らと同人誌に参加、児童文学を志向し、昭和一八年『光の国』を出版、以後児童文学者として活躍した。

 戯曲

 戯曲において中央で知られたのは岡田禎子、映画脚本では伊藤大輔・伊丹万作らが新境地を拓いていった。岡田禎子(松山)は東京女子大に学び、岡本綺堂門で劇作に志し、昭和四年『正子とその職業』を発表、同性愛という新しい素材よりも、作品として注目され、菊池寛から「日本のどんな女流作家とでも拮抗すべき秀れた女流として推薦」され、翌年「新鋭文学叢書」に収載された。本叢書は新興芸術派とプロレタリア派より各数名掲載される中で、林芙美子・芹沢光治良らと中間派の新鋭として気を吐いた。女性新人として「愛痴」「数」などの戯曲を公表、ラジオ用一幕物も執筆した。昭和一九年疎開帰郷、農村の実態を題材としていった。
 大野釣月(松山 本名悌)著『西郷南洲翁秘話 戯曲 道後湯の華』(昭和一一年 一幕三場)は、明治八年道後に立ち寄った西郷南洲が三味線箱に書き残した筆跡にまつわる逸話を戯曲にしたものである。
 伊藤大輔(宇和島)は松山中学卒業後上京、小山内薫に師事、松竹キネマ研究所で「酒中日記」など脚本を書き、大正一二年帝キネで「酒中日記」助監督でデビュー、日活京都に転じ、「丹下左膳」「大岡政談」で大河内伝次郎・阪東妻三郎らを時代劇大物スターに仕立てあげた。
 伊丹万作(松山)は松山中学で二年先輩の伊藤大輔に勧められて脚本を書き、俳優として映画に出演、片岡千恵蔵プロに入社、自作脚本で監督、昭和一〇年「忠治売出す」、翌年「赤西蠣太」は年間最高級の傑作と評された。日独合作映画「新しき土」の日本版監督、同一六年「無法松の一生」など、映画に文芸性をこめた傑作が多い。