データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 藤堂高吉時代(一六〇八~三五)

 藤堂高虎が慶長(一六〇八)一一月に伊勢国に転封になってから寛永二一年(一六三五)九月に松平定房が入部するまでの二七年間、今治二万石を領知するのは高虎の養子・藤堂高吉(一五七九~一六七〇)である。高吉は丹羽長秀の三男で、天正七年(一五七九)六月一日江州佐和山城で誕生し、幼名を仙丸といった。同一〇年秀吉の所望で羽柴秀長の養子となったが、同一六年に関白秀次の嫡子秀俊が秀長の世子と定まったため、一〇歳の仙丸は改めて藤堂高虎の養子となり、宮内少輔高古と名乗った。
 文禄の役には父に従って出陣し、わずかに一五歳で勇戦して「小藤堂」と称された(聿脩録)。慶長の役では全羅道南原城を包囲攻撃して軍功の多かったことを「宗国史」が記している。父高虎の寵愛を受けて成人したが、慶長六年に実子局次が生まれてからは高吉の立場が変わってくる。加藤家との出入りのあった拝志事件なども高吉を苦しい立場に追い込むことになっている。「高吉公御一代之記」に、
                      
 関ヶ原御陣の頃までは高山様(高虎法名)に御子なきゆえに寿栄様(高吉法名)を実の御子のごとくなされ、御分家などの御もてなしにてはなかりしに、慶長六年に大通院様(二代高次)御誕生ありしより、御実子なれは御相続になさるへきとの思召出来し、折ふし幸に林(拝志)の出入おこりたれは、それを寿栄様の御越度になされ、公儀を重んじ野村に押込置なされしに、三年目に権現様(家康)の御意によって寿栄様は野村より出させられ、御蟄居はすみたれとも其間に公辺の御取繕ともありて別に寿栄様へ二万石下され候て、此時よりして御別家に御成なされしにては有ましきや云々

とあるように、高虎も四六歳となり初めて実子を持つようになると、高吉は疎んじられるようになった。慶長一三年に高虎が伊賀・伊勢に転封になると、越智郡で二万石だけを高吉に残して一家は伊予国を引き揚げてしまうことになる。この二万石は本来、高吉自身のものであった。一万石は養子に入るとき父秀長から、また一万石は慶長一一年に家康から与えられたもので、「これ迄御父子の分けへだてなく、高山様の御知行のように成り来りしもの」(高吉公御一代之記)であった。
 寛永七年一〇月五日に高虎が江戸柳原の邸で七五歳で死去すると、高吉は早速江戸に向かい江州水口まで行くと、ここで高次の使者から父の遺品を渡され、江戸まで来るに及ばすとのことで、家臣鎌田新兵衛を江戸に下し自らは今治に引き返したとあるのは(同書)、明らかに本家と高吉の仲の不和を物語るものであろう。
 高吉は参勤交代の義務から免除されていた。このことは高虎から願い出て免除されたものであったが、本家との間か疎遠となると孤立感が強くなり、却って高虎の願い出たものが迷惑に思われて来た。「大坂御陣以後、御参勤御交代初め候砌、高山様には宮内少輔儀少身の代りに、江戸詰御赦免下され候へと、御味方のように御願い其通りに仰付けられ」(同書)と幕府との結びつきを断たれたことを嘆じ、高虎の処置を悪しざまに述べている。
 高吉の治世時代の資料は乏しいが、慶長一四年九月一九日付で家老矢倉兵右衛門に宛てた知行状が残っている(神奈川県大磯・小野家文書、以下同)。越智郡鳥生村で二〇〇石、同郡中寺村で二〇〇石、計四○○石、物成一四〇石とあるから租率は三・〇五である。翌同一五年六月一一日付同郡大浜村で一〇〇石の加増があるが、この分の物成三五石とあるから租率は三・五である。この矢倉家老は「宗国史」によると元和元年(一六一五)大坂の陣に高吉に従って出陣し討死している。寛永五年一二月二六日二代目矢倉兵右衛門が鳥生村のうちで二〇〇石の加増を受けている。物成三ッ半とあるから七〇石である。同年同日小野作兵衛に中寺村外四村のうち二〇〇石(租率三・五)を与えている。翌寛永六年四月一〇日に高吉の子武蔵から小袖、隼人より単物、五郎より帷子を二代目矢倉兵右衛門に贈り、高吉から「互の身祝いたく候間、子供より内々遣度旨に候、拝領仕るべく候、幾久しく目出度存ぜられるべきもの也」との添書がある。少身の家中では主君の家族と臣下との間も暖かく睦じかったものと想像される。
 寛永一二年(一六三五)、高吉は同年九月二日に伊賀国名張に国替となり、松平定房が今治へ入封した。藤堂高次の伊勢領分の近所へという幕府の配慮で伊勢国飯野郡・多気郡のうち二万石を与えられたが、高次のはからいでそのうち五、〇〇〇石を名張に替地してここに住居を定め、これまで通り江戸詰赦免、したがって藤堂家筆頭家老、二万石の家臣という形になった。
 なお高吉は寛文一〇年(一七六〇)九二歳の長寿を保って名張の地で死去した。法号は大蓮院殿徳翁寿栄大居士。遺領二万石は長子兵部に一万五、〇〇〇石、残り五、〇〇〇石は弟及び姪ら三人に分与された。子孫は明治になって男爵を授けられた。

(注)現在は異なる学説もあります。