データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 伊達氏以前の宇和島

 藤堂高虎の治世

 藤堂高虎は文禄四年(一五九五)七月、秀吉から宇和郡で七万石を与えられ、父白雲(虎高)を伴い伊予国に入国し、板島丸串城に入った。ここは後の宇和島であるが、宇和島と改称されたのは元和初年のことで、藤堂氏の治世を通じて板島であった(平凡社「愛媛の地名」)。時に高虎四〇歳のことで、彼はここに父白雲と城代として義弟藤堂良勝(新七郎)を置き、自らは蔵入代官地としての大津城に入ったと思われ、「大洲地蔵嶽城、文禄四乙未、藤堂佐渡守高虎殿入国」(予章記)を信じてよいようである。
 ここには天正三年(一五七五)以来、西園寺宣久がいたが、小早川隆景は持田右京を城代として置き、天正一五年戸田勝隆も戸田与左衛門を城代とした。高虎は慶長一三年(一六〇八)まで一三年間、四〇歳から五三歳という働き盛りで、慶長の役に水軍の将として渡海、帰国後は関ヶ原戦に参画し、いわゆる兵馬倥偬の間に明け暮れ、一方伏見・駿府・江戸の間にあって家康の下問に答え、また特技の城の修理・改築(膳所・伏見・大坂・江戸・丹波篠山など)にあずかるなどの多忙な生活で、領国にあって民政に力を注ぐ時期は少なかったと見られる。「宗国史」には高虎について「慶長元年八月、板島城を修す」と記すのみであるが、父の白雲が高虎の意図を体して朝鮮出陣中も城の普請を引き受け、城下町の造成を図り、宇和郡文化の中心を宇和町からこの地に移したといわれている。
 彼の伊勢転封と交替する富田信高は、一二万石を得て板島城主となったが、その入国に際して高虎は城代藤堂新七郎らに宛て宿・路次人馬などの手配をさせている(資近上、二-117~119)。

 富田信高の治世

 富田信高(?~一六三三父知信の後をうけ伊勢安濃津城主)は慶長一三年に伊予に入国した。『恩栄録』に「加三万石(五万石) 予州板島 富田信濃守知勝(又は信高)、勢州津より移る、合十二万石」とある。
 彼は宇和海から瀬戸内海へ航行するとき佐田岬を迂回する不便を避けようとして塩成峠の最狭部の切抜きを計画して失敗した。佐田岬は全長四〇㌖あって最大幅は二キロメートル、最小幅はこの塩成峠付近で〇・八㌖である。信高は慶長一五年~一七年に藩内から人夫を集めて掘らせたが、堅い岩盤があり工事は難航した。『宇和旧記』に、

 塩成の方ふりより三机の方こぶり迄、三百四拾間、高さ弐間より十弐間まで、同底幅、塩成の方は弐拾四間、三机の方は四拾間、同峠の中上口の幅三拾一間、

とある。これは塩成掘切跡の凹地の説明で、信高の工事廃棄の模様を示すものである。当時の工事技術では不可能であったと見なくてはならない。
 富田信高は妻の兄、坂崎出羽守成政と争い、幕府に訴えられて、慶長一八年一〇月一八日将軍秀忠の前で対決させられて敗れ、宇和島の封地一一(二)万石を没収され、奥州磐城平の鳥居忠政に預けられた。事の起こりは坂崎成政の家中に甥の左門という者がいて人を討って逐電し、伊勢安濃津の富田信高の家に逃れてかくまわれた。富田の妻は坂崎の妹であった。坂崎はこのことを聞き富田に左門を返すように迫ったが、富田は「我が許を逐電し居所を知らず」と答えた。坂崎は怒って、慶長一〇年(一六〇五)に自ら安濃津の城に行き捜索しようとした。折柄、富田は伏見に出向いていたため、坂崎は伏見まで後を追い、富田と対決しようとした。周囲の人々が漸く押しなだめて事なきを得たが、坂崎の憤懣は止まず、江戸へ下り訴えたが証拠なくて上裁に至らなかった。左門も今は富田の許に隠れかねて、富田の友人高橋元種(日向国飫肥七万石)の許に逃れてかくまわれた。富田の妻は左門の窮迫を憐んで、毎年夫にかくれて米三〇〇石を与えていた。ところで、始め左門が坂崎家を亡命したとき、行動を共にした友人がいつしか心変わりして、富田の妻から左門に宛てた手紙を盗み取り、これを坂崎に渡して自らの帰参を願ったので、坂崎は大いに悦び、これを証拠として訴え出たため上裁に及び、富田は亡命の者をかくまったことはないと陳じたが、妻の手紙が証拠となり、高橋元種も共に所領も収公され、高橋は筑後柳川に配流、立花宗茂に預けられた。その後、町奉行は左門を搦め取り、家士を添えて籠輿にのせ獄屋に送った。左門は籠輿の内で自ら縛をとき躍り出て、家士の刀を奪い警固の者に切り掛かったが、組み伏せられ獄につながれ、のち誅せられた。
 一〇月二六日、高虎は家康に召され、収公の封地宇和島のことを沙汰すべしと命じられた。旧領であったからである(「台徳院殿御実紀」巻二四。)『廃絶録』に、「十二万石 伊勢(予)板島城 富田信濃守信高、十月廿五日、妹(?)聟坂崎出羽守直盛と申争ひの事糺明を遂られ、信高が越度により鳥居左京亮忠恒(忠政)に預けらる」とある。
 こうして慶長一九年一二月、伊達秀宗が一〇万石で入国するまで宇和島の地は藤堂高虎に管せられ、良勝が居城していた。