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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

三 洋学の積極的導入と藩校の改革

二宮敬作

 宗城の父山口直勝が渡辺小山の門人であり、高野長英とも面識があったことは、宇和島藩に蘭学の花が咲いたことと無関係ではなかろう。しかし宗城は攘夷論者であったから、嘉永六年(一八五三)ペリーが来航した時、養父宗紀が開国論を述べたのに対し、これとは立場を異にし、海防に強い関心を示し洋式軍備・兵式の導入のために蘭学を保護奨励したのである。
 幕末・維新の宇和島には多くの蘭学者が住み、または招請された。シーボルトの弟子二宮敬作とその甥三瀬周三(諸淵)、シーボルトの娘イネ、高野長英、村田蔵六らがその代表的人物である。
 二宮敬作(一八〇四~六二)は宇和郡磯崎浦(現、保内町)の生まれで、生家は酒などを売る半農半商であった。文政二年(一八一九)長崎に遊学し美馬順三に蘭方を学んだが、同六年シーボルトがオランダ商館付医員として来日し、翌年長崎郊外に鳴滝塾を開いたので門下生となり、高野長英・小関三英らと共に学んだ。苦学生の彼は師より学資の補助を受けた。
 敬作はその後、シーボルトに従って江戸に赴いたが、シーボルトが帰国する際に起こった文政一一年のいわゆるシーボルト事件に連座して投獄された。敬作は国外追放となった師の娘イネの養育を託されており、天保元年(一八三〇)郷里に帰り、同四年卯之町で開業すると天保一一年イネを呼び(『愛媛県百科大事典』)、医業の傍らイネに医師としての教育を施した。イネはのち長崎で日本最初の女医として産科医を開業し、安政六年(一八五九)再び来日したシーボルトは、敬作の厚情に感激したという。
 敬作は外科手術で抜群の技量を発揮し、弘化二年(一八四五)には帯刀を許され、嘉永二年(一八四九)には卯之町に来た高野長英を自宅二階にかくまった。敬作は安政二年宇和島藩から藩医に準ずる待遇を受け、卯之町から宇和島に移ったが、翌三年甥の三瀬周三を伴って長崎に行き、同六年旧師シーボルトと対面したものの、中風症にかかり文久二年三月一二目長崎で没した(『宇和町誌』)。

楠本イネ

 イネ(一八二七~一九三〇)は、シーボルトと長崎丸山の引田屋の遊女其扇(楠本滝)との間に生まれた。父がシーボルト事件で国外追放になったため、卯之町の二宮敬作の許に寄留し医学を学んだが、のち岡山の石井宗謙(シ―ボルト門下生)に産科学の手ほどきを受げた(一九歳ころ)。ところが間もなくイネは石井宗謙の子高子を生んだが、宗謙の死去により長崎に帰ることになった。失意のイネを二宮敬作は卯之町に呼び(安政元年)、当時宇和島に来ていた村田蔵六について蘭学を習わせた。安政三年イネは長崎に帰って産科医を開業し、同六年再来日した父シーボルトと再会した。イネはその後も二度にわたって宇和島を訪れ、伊達宗城のすすめで伊篤と改名した(『愛媛県百科大事典』)。
 元治元年(一八六四)イネを宇和島に伴っだのは、高野長英・村田蔵六から蘭学を習った大野昌三郎である。昌三郎がこの時イネと共に伴って来た彼女の娘高子は、二宮敬作の甥である三瀬周三の夫人となる。

高野長英

 二宮敬作と同じくシーボルトの門下生であった高野長英(一八〇四~五〇)は、陸奥国水沢(現、岩手県水沢市)出身の蘭学者・蘭医である。シーボルト事件では連座を恐れて逃亡し、広島・京都を経由して江戸に入り、麹町貝塚で開業、渡辺車山らと尚歯会を結成したが、天保一〇年(一八三九)蛮社の獄により幕政批判の罪で永牢となった。しかし、弘化元年(一八四四)江戸伝馬町の牢舎火災を機に脱出、各地に潜伏した。伊達宗城が藩主となった年である。
 嘉永元年(一八四八)二月三〇日、江戸詰の宇和島藩医富沢礼中(伊東玄朴より蘭法医学を修業した人物)は、宗城の命によって足軽二人を連れ、出羽浪人伊東瑞渓を伴って佐戸を出発し、同年四月二日宇和島に入った。この伊東啓次は高野長英の変名である。役目を果たした礼中は江戸に帰り、長英は宇和島に留まって蘭学塾五岳堂を開設して藩士を教育する傍ら、『砲家必読』などの兵書翻訳に従事し、久良砲台の築造にも尽力した。
 長英は翌年一月宇和島を去るが、この間二宮敬作と親しく交わり、彼の家の二階に寄留したこともある。長英に師事した者たちの中では大野昌三郎が特に出色であった。
 長英の宇和島滞在中家老桜田佐渡の別荘に住んで四人扶持を給与されたが、江戸の留守宅への仕送りはかなり困難であったらしく、宇和島入りから四か月後、見るに見かねた富沢礼中が藩に対して一〇両の借用を申し入れ(『藍山公記』一五)、藩もこれを認可してようやく急場をしのいだようである。

村田蔵六

 伊達宗城の安政改革期に七年間宇和島藩士として在籍し、蘭学教授・兵書翻訳・軍艦設計などで大きな足跡を残しだのは村田蔵六(一八二五~六九)である。彼は周防国吉敷郡鋳銭司村(現、山口市鋳銭司)の町医師村田孝益の長男として生まれ、梅田幽斎(蘭学)・広瀬淡窓(儒学)に学んだのち大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。その後長崎に遊学したが、再び適塾に帰り塾頭となった。嘉永三年(一八五〇)郷里に帰って医師として開業したが不振であった。高野長英が宇和島を離れてのち、蘭学教授を捜していた伊達宗城は、大野昌三郎の献策をいれて蔵六を雇い入れることにした。嘉永六年一〇月『藍山公記』巻四九によれば、宇和島藩では大野昌三郎宅に寄留していた村田了庵(蔵六)に航海術に関する書物を翻訳させた。この結果を見た昌三郎は、蔵六の蘭学の学力はすばらしく、他国へ修行に行かなくとも蔵六に習うので事足りるくらいであるし、藩にとっても翻訳などで役立つ、ついては、昌三郎に与えられている修行手当二人扶持と金一〇両のうち、一○両を蔵六の賄い用にいただけないだろうかと申請した。藩はこれに対して二人扶持と一○両を支給することとし、世話を昌五郎に任せた。蔵六は、翌七年藩士(兵学者)として取り立てられ、兵書の講義・翻訳、軍隊編成や砲台築造の研究を行ったが、特筆すべきことは、軍艦雛形の製造に従事したことである。安政元年(一八五四)嘉蔵(剛原巧山)と共に長崎に出張して研究した蔵六は、翌二年二月から試作にかかり、幾度かの失敗にもかかわらず、同年九月には試運転にこぎつけた。蔵六は安政三年伊達宗城に随行して江戸に赴き、幕府の蕃所調所教授方子伝、講武所教授となったが、万延元年(一八六〇)出身地の長州藩に帰り同藩士となった。著書に「軍艦内部構造説明書」・「海軍銃卒練習軌範」などがある。蔵六はすなわち大村益次郎で、明治維新に功があり、明治二年兵部大輔となり、兵制の大改革を企てたが、京都で暴徒に襲撃されて死亡した。

大野昌三郎と三瀬周三

 村田蔵六の招請に人きな役割を果たした人野昌三郎は宇和島藩の下級藩士である。嘉永四年(一八五一)の「分限帳」に四人分(内一人分け足高)九俵とある。嘉永元年四月高野長英か宇和島に来た時、谷依中・土居直三郎と共に門下生となり蘭学を学んだ(『藍山公記』一五)。谷依中は僧籍にあったが同年一〇月還俗を命じられ、富沢礼中に製薬法を伝授した人物である。昌三郎は長英が宇和島を去ってのち、嘉永二年八月京都・大坂への遊学を許され、修業中手当として二人扶持と金一〇両を支給された。昌三郎の向学心は強く、嘉永五年八月にはイギリス語・フランス語の修行を願い出た。もっともこの願いが実現するのは、安政二年二八五五)五月中浜万次郎に入門が許された時である。昌三郎は長崎表にも遊学してオランダ通詞森山栄之助にも学んだが、嘉永六年村田蔵六が宇和島を訪れると、彼にも教えを乞うた。この時三瀬周三も蔵六に学んでいる。昌三郎は研究熱心であったが、門弟を取ることは好まず、安政五年藩から須藤為次郎・若松幹太郎への蘭学教授を依頼された時、研究の障害になると一度は断ったほどである。その後昌三郎は長崎に赴き、シーボルトの娘楠本イネとその子タカを伴って宇和島に帰った。このタカ(高子)と結婚したのが三瀬周三である。
 三瀬周三(一八三九~七八)はシーボルトの最後の弟子である。譚を諸淵という。彼は大洲中町の生まれで、叔父には二宮敬作がいる(母倉子が敬作の妹)。安政二年から敬作について医学を学んだが、当時宇和島藩士であった村田蔵六にも入門して蘭学を学んだ。さらに川島再助にも師事したが、安政六年シーボルトが再来日したのでこれに入門し、彼の上京に際しては通訳を勤めることができるほどに上達した。ところがこの通訳が原因で周三は幕吏に逮捕され佃島に収容された。伊達宗城は周三の才能を惜しみ、その釈放に力を貸し、それが縁で後年宇和島藩に客分として招かれることとなった。元治元年(一八六四)出獄した周三は大洲に帰り三人扶持で召し抱えられ、間もなく伊達宗城の招きで宇和島に移り、楠本タカと結婚した慶応二年、新設された英蘭学稽古所の教授となった。またこの年、イギリス公使パークスが宇和島を訪れた際通訳を命じられている。なお、彼は日本で三番目の電信技術実験者でもあった。
 宇和島藩における幕末期の蘭医学は盛んで、緒方洪庵門下一〇人、伊東玄朴門下一三人、鎌田玄台門下一〇人、華岡青洲門下五人、土生玄碩門下一人を数えることができる(詳細は愛媛県史『社会経済6』参照)。

松根図書と明倫館改革

 宇和島藩における幕末の政治体制は、藩主の主導により家老・上士によって固められていた。松根図書(一八二〇~一八九四)は民政担当の家老で、宗城の安政改革は彼を中心に実施された。図書の業績の一つに藩校明倫館の改革があげられる。
 明倫館は、五代藩主村侯時代に創設された内徳館に起源を有する。内徳館はその後敷教館を経て文政二年二八一九)明倫館となり、改称する度毎に拡張整備された。七代宗紀の時代には、それまで医学修業生にのみ与えていた特典を儒生にも与えることとし、修業中二人扶持を給した。また入学資格についても上級武士の子は勿論、御目見以上の本人とその嫡男を強制的に入学させた。こうした藩校の整備をさらに推し進めたのが松根図書である。
 安政二年(一八五五)五月、松根図書は学校頭取に就任して学制改革を実施した。その内容は、春秋の年二回、身分・年齢にかかわらず能力に応じて所定の書物を講義さぜ、学力を試験することとなった。学校世話係として中島源三郎・都築藤太・中島田宮・上原牧太郎が任命されている(伊達家稿本「教育史資料」三)。
 翌三年には明倫館内に小学校を建て、従来明倫館への入学を許されなかった御目見以下の軽輩の子弟を収容した。こうして明倫館は、本館・儒官宅・培寮・小学校・達寮・柔術稽古場・書物庫・槍術稽古場・弓術稽古場・威遠流砲術理論稽古場・剣術稽古場を有する文武総合学校となった(『愛媛県教育史』1)。