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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 八代藩主伊達宗城と軍備の近代化

宗城の出自

 八代藩主宗城は、幕臣山口直勝(三、〇〇〇石)の次男として文政元年(一八一八)八月一日、江戸で生まれた。幼名は亀太郎、通称は知次郎・兵五郎。宇和島藩七代藩主宗紀の長男・次男が相次いで夭折したため、文政一二年四月、当時知次郎と呼ばれていた宗城が養嗣子に迎えられた。宗城の祖父直清は、宇和島藩五代藩主村候の次男であったから、伊達の血統を絶やすまいとする藩論によって宗城が養子と決定したといわれている。というのは、将軍家斉の子や薩摩の島津重豪の子である虎之助か候補にのぼり、藩内でも論議が沸騰したのである。
 宗城は、天保五年(一八三四)宇和島に初入国するまでの間を江戸で過ごし、宇和島藩士岡野助左衛門・松根図書・安藤新助・都築訓治らの指導を受けた。渡辺卓山の門人であったといわれる父直勝の影響を受けたため、西洋事情に通じる環境で育った。同年二一月一六日従四位下大膳大夫となり、翌天保六年四月一九日元服し、同八年二月には養父宗紀の三男扇松丸(宗徳)を養嗣子とした。結婚は同一一年、妻は佐賀藩主鍋島斉直の娘益姫である。
 宗城が藩主となったのは、弘化元年(一八四四)七月一六日で、それから安政五年(一八五八)一一月二三日、安政の大獄に関連して隠居し、宗徳に封を譲るまでの一四年余にわたって藩主の地位にあった。彼の治世はその名声から考えれば比較的短期間ではあったが、軍制改革の実施・洋学の積極的導入とそれに関連する人材の登用など見るべきものが多い。また隠居後も義父宗紀と共に藩政に強い影響力を持ち、対外政治活動にも精力的に参画し、島津斉彬(鹿児島)・松平慶永(福井)・山内豊信(高知)とともに幕末の四賢侯と称されている。宗城時代の殖産興業政策として特筆されるのは、安政三年(一八五六)の物産方設置である。宗城は従来の主要国産である蝋・紙・干鰯の専売をより強化するとともに、陶器・樟脳・人参・鰑・鰹節などの新興産業育成にも意を用いた。
 宗城の治世は海岸防備など異国船対策に多大の出費を要したが、安政の大地震・コレラの流行・風水害の頻発など内外ともに非常事態の連続であった。

異国船対策

 宗城が就封しか弘化元年(一八四四)は、フランス船が琉球に来航して通商を求め、またオランダ軍艦が長崎に入港して、特派使節コープスがオランダ国王の開国勧告の国書を幕府に渡した年である。
 幕府は天保一三年(一八四二)外国船打払令を緩和して、薪水給与令を出したが、海防については以前にも増して厳重にするよう布達すると同時に、海岸絵図の作成を諸藩に命じていた。諸外国の開国要求攻勢に対し、幕府は拒否の姿勢を崩さなかったから、海岸防備の必要性はさらに増したわけである。
 宇和島藩では、弘化元年九月八日軍制を定めて、有事の際の出動体制を確立した。その主たる内容は、一の組桜田佐渡と三の組神尾近江とが出動の指揮を執り、儒者の安藤新介と砲術方の石川平左衛門を一の組付きとし、もし人数が不足する時には、各役所で執務中の役人をはじめ、小姓・奥向嫡子・次男・三男まで動員することを通達した。出動人員については、天保一三年の編成とほぼ同様であるが、この年から従来の軍用備米年一〇〇俵に加えて、軍用備金年一〇〇両を積み立てることになった。その運用は御金方が行うこととし、軍用手当の支給割合は、物頭をはじめ侍分本人へは米二俵、嫡子以下には銀一枚宛となっていた。
 また、異国船漂流に際して出動する船と水主の手配についても弘化元年「船組帳」が作成され、翌二年二月一五日出勤元締に対して通達された。兵根も五日分程度を準備しておくよう伝達されている。
 「船組帳」によって、手配人数を表示すれば表七-2のようになる。藩では、これらの警備組の後援のため網船を二〇艘(各一二人乗組)、漁船を八〇艘(各七人乗組)徴発したから、一組の場合出動人員は、軍士を含めて一、二〇六名となった。
 こうした海防への出費と大砲鋳造・兵器製造などは藩財政上大変な負担であったが、これに加えて天保一五年(一八四四=弘化元年)五月一二日に焼失した江戸城本丸の復興費献上が過大な負担となった。そこで、弘化二年七月一八日付で、三年賦五、〇〇〇両上納となっていたものを、一〇年賦上納(年五〇〇両宛)とするよう願い出て、同年九月二日許可を得ている。
 この江戸城復旧費の上納は円滑に運ばなかった。弘化三年七月の暴風雨は四万九六〇石余の損毛を出し、藩では一〇月二一目付で窮民救済に藩の非常用の囲籾一万石の支出許可を願い出、翌二二日付で上納金五〇〇両を三年間猶予してくれるようにと出願した。幕府は囲籾放出については、被害状況が確認されてから再出願せよと命じ、上納金については出願通り三年間の猶予を認めた。囲籾使用は翌弘化四年一月二五日再出願の結果五、〇〇〇石を使用することが許され、同年から三か年で詰め戻すよう指令された。
 こうした財政難の中にあって、軍備の近代化は着実に進められた。特に砲術では、宗紀時代に江戸で修行し、宗城襲封直後に帰国した板倉志摩之助らの威遠流を保護し、火薬製造・門人の育成には特別の配慮を与えた。

威遠流の流布

 弘化元年(一八四四)一二月板倉志摩之助は威遠流砲術師範となり、葛西三郎・小波軍平らと共に火薬製造にも従事した。火薬製造については、砲術諸流派の秘伝保持のため、決して他流に漏らすことがなかったが、藩では同二年一一月石川平左衛門の火薬製造所(弘化元年九月焼失)と豊田丈左衛門の火薬製造所を合併し、大超寺奥の伏見屋水車の上側へ新築するように命じた。国家武備の名目で心極流と威遠流の合同が成ったわけであるが、ここに至るまでの板倉志摩之助の苦労は大変であったらしい。弘化二年七月威遠流皆伝を許された宇都宮九太夫をはじめ豊田丈左衛門・堀江南平・粟野大三らが連名で小姓頭に次のような請願をしている。

 板介志摩之助は当夏より威遠流の世話方を命じられ、足軽二人を付けられて、まだ製薬所(本格的な火薬製造所)が無いため、自宅で夜間まで作業に従事している。これに加えて鉄砲鋳造などのために大工(職人)を雇い入れているため出費もばかにならない。もともと困窮している家計であるから、その苦しさは想像するに余りがある。年末には相当の褒美を与えてやってほしい。

 この申し入れに対して、藩がどのような措置をしたのか不明であるが、火薬製造所については前述の通り解決している。これより威遠流は急速に流布した。
 弘化三年七月宗城は、桜田佐渡(家老)に対して威遠流大砲の鋳造追加(三貫目ホーウヰッスル二挺・五百目野戦一挺)と威遠流に入門すべき者の名簿を提示した。ところが、この月の八日と一八日に暴風雨があって宇和島城も破損し、郷村の被害も甚大であったため、桜田佐渡も難色を示した。大砲の鋳造については、まだ野戦銃の鋳残りが二一挺もある現状であるから延期するようにと答え、威遠流への入門を命すべき者(一七名)の中に大内小膳と石川平左衛門が含まれている点にも同意を示さなかった。彼ら両名がすでに一流派を構え、師範としての立場にあったからである。桜田佐渡は、葛西三郎や小波軍平が志摩之助の下で修行することを潔しとしなかったことも例に引いて反対した。宗城もこの意見に従い大砲鋳造を延期し、大内小膳・石川平左衛門を入門者名簿から除外した。
 この出来事は、宗城による砲術諸流派の統一構想が、時期尚早であるとして老職たちの抵抗を受けたことを意味している。しかし、こうした老職や砲術諸派の抵抗にもかかわらず、威遠流拡大を意図する宗城の意志は漸次実現に向かう。嘉永元年(一八四八)板倉志摩之助から提出された威遠流皆伝者名薄に石川平左衛門の名が見える(『藍山公記』一四)のもその一つの現れであろう。砲術五流が威遠流に統合されたのは安政四年(一八五七)のことである。同年閏五月二六日、元福流岡野助左衛門、稲富流上月新五兵衛・門多斎兵衛、自縁流小波軍平、心極流水知太郎右衛門、南鵬流若松総兵衛に対して威遠流への統合が通達されている。もっとも小銃の不易流は現状維持、亀島流は当時師範不在であったため、高弟であった者たちへ砲術統合の趣旨を伝えた(『藍山公記』八八)。ここに宇和島藩は西洋流砲術への一本化が成功したのである。

蘭法兵式の導入

宗紀・宗城は、幕府の所持する蘭書を度々借用して軍備の近代化に意を用いたが、弘化二年(一八四五)には金剛山往還杉馬場に大砲鋳造場を設け、同四年にはオランダ式の兵式訓練を開始した。宇和島藩の軍制改革は宗紀の時代から行われ、すでに天保二年(一八三一)「鷹揚録」(五代村侯の定めた軍制)の改正が行われ、軽卒ばかりでなく侍一般が火器を使用できるように訓練することになっていた。
 オランダ式の兵式訓練の詳細は不明であるが、それまでの四組編成の軍隊を五組に編成替えし、第五組をオランダ式としたようである。弘化二年八月二四目、八幡河原で五組の練兵が実施され、宗城・宗徳が閲兵した。訓練は午前中二組、午後三組で、蘭法練兵は最後に行われている。
 その後、慶応二年(一八六六、藩主は宗徳)一月には、イギリス式ライフル銃の訓練が開始され、小隊以上はイギリス式大隊に改編し、大砲局が設げられた。同年七月銃隊はイギリス式、砲隊ぱオランダ式に改められ、宗城・宗徳が直接指揮をする場合もあった(『愛媛県の歴史と風土』)。

表7-2 異国船漂流の節船組

表7-2 異国船漂流の節船組