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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

6 天保―慶応年間の一揆

田所・柳沢騒動と宇和川騒動

 天保八年(一八三七)三月に、大洲藩領喜多郡田所・柳沢の両村(現、大洲市)の農民が、徒党して藩庁に減租するよう強訴した。おそらく凶荒による生活の困難と、彼らに対する負担の過重によって奮起したと推察される。しかし目的を達成できない前に、主謀者の田所村農民佐吉と柳沢村の喜太郎・弥六の三人が逮捕され、斬罪に処せられて、計画は失敗に帰した。
 嘉永三年(一八五〇)に松山藩領浮穴郡西明神村(現、上浮穴郡久万町)の農民は、庄屋梅木源兵衛の非違をあげて徒党し、藩庁に強訴した。藩では改庄屋正岡源右衛門に命じて農民の指摘した点を調査させたが、大きい事故ではなかった。そこで藩は源右衛門に両者の調停に当たらせ、翌四年一〇月に至って、和議の成立を見た。
 大洲藩領喜多郡宇和川村(現、肱川町)は、櫨の実の産地として知られていた。その村の農民は、隣接する大谷村(同上)の製蝋屋冲野屋が櫨実の買い上げについて、つねに暴利を貪っているのを憤慨していた。文久二年(一八六二)に宇和川村小藪の農民甚作・芳松・安吉らが村民を教唆して大谷村の金毘羅宮に屯集し、冲野屋を襲撃した。しかし彼らの暴挙も何らの効果をもたらさなかったらしく、同じような騒動が翌三年の夏、および翌々元治元年(一八六四)の春にも起こった(『南予遺香』)。

大瀬騒動と桑村騒動

 幕末期の政治・経済の混乱によって、物価は騰貴し世相は不安定であった。大瀬騒動は慶応二年(一八六六)七月に、大洲藩領喜多郡大瀬村(現、内子町)の農民福太郎が村役人と衝突したのにはじまる。福太郎は村社の神職立花豊丸に檄文を依頼し、これを近村に配布して、内ノ子村に参集するよう煽動した。このため隣接した村前・五百木・河内・論田・智清・平岡・北表・重松・古田・大久喜・内子・廿日市・六日市の各村の農民が多数参加し、同村の酒屋成留屋、内ノ子の豪商五百木屋等を襲撃して家屋・家財を破壊し、さらに大久喜・古田両村の商家にも損害を与えた。被害をうけた家屋は六〇軒に及び、参加者は一時一万人に膨張したという。その後、一同は五十崎河原に引き揚げ、凱歌をあげて解散した。これを大瀬騒動・奥福騒動ともよび、福太郎・豊丸は逮捕され、獄舎で病死した(『加藤家年譜』)。
 桑村郡のうち新市・黒木・中村・楠・河原津・大野・宮ノ内(現、東予市)の諸村は幕領であって、松山藩の預地となっていたが、村政はほとんど庄屋に一任されていたため、村民の要望を無視し、専断の嫌いがあった。慶応三年(一八六七)に天災による凶作のため、農民は生計に窮して庄屋に米穀の借用を申出るとともに、庄屋の非違を攻撃した。彼らの一部は、松山に赴き藩庁に強訴するものもあった。
 庄屋側では八月に楠村庄屋青野四郎右衛門を松山へ送り、農民の不当と、これに対する処罰を願い出た。そこで藩庁は農民を相ついで召喚して取調べを行ったが、地元でも両者が対立して紛糾が続いた。一揆の主謀者は松山の北屋敷に留置され、処分の申渡しが行われた。ところが翌四年正月に、松山藩が朝敵として、土佐藩兵に軍事占領されたため、農民は釈放され事件は終了した(国分叢書)。