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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

5 野村組騒動

騒動勃発の誘因

 文政一三年(一八三〇)の野村組騒動は、①宇和島藩領におげる検地・地割制度・専売制度・新田開発等の強行による農民への負担の過重、②低生産制と零細性とを持つ同藩の自然的条件にともなう彼らの生活の窮迫とその疲弊、③世襲的な庄屋の権勢の強大なこと、④村役人が高利貸資本家として中間搾取をするのに対する小農民層の反感、⑤封建制の動揺により生じた被支配者たる農民の政治意識の向上による自覚などの諸遠因を基礎としている。
 農民らは自由売買を禁じられている椿および製紙の抜売を行い、それが発覚して文政一二年に過料銀を課せられることに決定した。翌一三年二月に、庄屋から過料銀の納付をいい渡された。そこで野村組一八か村の農民は、野村山ノ神に集まり合議の結果、一〇か条からなる要求書を庄屋層へ提出した。
 その内容は①楮・製紙等の抜売に対する過料銀を納付する期限の延期、およびその軽減の要求、②さらに板役・横物成(部落費のようなもの)・小物成・茅・大豆銀納および米銀納につき疑義ありとして、村役人の不正を糾明するなどであった。そのほかに③井川夫食米の割付と、④彼らの間から選出した年行司の手に藩からの「御触出書付」を渡すように要求した。

庄屋側の返答書

 いっぽう庄屋たちも協議を重ね、たまたま回国中の代官と合議したらしく、九日に農民に対する返答書が発表された。その返答書によると、①過料銀は五か年賦となっているから、初年度分を上納するよう、②大豆銀納については農民の希望に応ずる、③板役・横物成・小物成等にっいての疑義は、算用帳を検討すれば解消するとし、④触出書付を年行司に見せることは速答しかねると書かれていた。
 この間にあって庄屋側は弁解と説得に努力するとともに、彼らを刺激することを怖れた結果、要求事項全般にわたっての返答を避けた。茅の課役、普請夫役等については、確答を後日に譲り、彼らの硬化した感情を緩和しようと計った。藩庁は庄屋側を保護激励して、農民側の要求に屈しないよう指令し、封建制の維持補強に熱意を傾けた。そこでこの騒動も庄屋の勧誘によって、農民側か軟化し、急速に解決するかのようであった(「野村百姓中徒党願筋一件」)。

年行司から庄屋への要求

 ここで注目されるのは、各村の農民層から選出された年行司が、この事件の表面に登場したことであった。この騒動において年行司が農民を指導した形跡のあったことは、野村庄屋から藩吏にあてだ書簡によって知られる。野村組二一か村の年行司たちは合議のうえ、六か条の要望書を提出した。その要望書を見ると、年貢米を蔵へ納入する時に年行司が付きそう事項をはじめ、年行司の地位の再確認を要求するとともに、庄屋らの不正を糾弾しようとする強硬な態度を表明した。あたかも同藩領内で伊方騒動および二見・加周浦騒動ならびに蔵良騒動が勃発していたから、この機に乗じて、野村組の年行司は隣接する多田組の年行司に連絡し、彼らの権限を拡大して、これを村政に反映させようと意図した。

年行司から代官への願書

 さらに野村組の年行司は協議の結果、「願訴訟覚之事」を野村代官所へ提出した。これによると、①前記の横物成等の諸入用の割当には、村役人にまかすことなく、直接に書類を年行司に渡すこと、②大豆銀納を三月まで延期すること、③無尽の割当てについては、農家を困窮させるものであるから廃止することなどであった。要するに、村役人にのみに村政を委ねないで年行司を証人として、あるいは監視人として、その村役人の不正を取り締まろうとする意図から出たものであろう。これを前記の要求とあわせ考えると、年行司は農民の利益代表者として、村政に対する発言権を強大にしようとする画策から出たものであろう。
 藩庁側においては、紛争の拡大とその激化を怖れるあまり、年行司に対し妥協を余儀なくしたのであろう。それは庄屋から下代吉右衛門あての書簡によると、年行事の職権を黙認したように考察される。さらに留意すべきは、年行司の指導のもとにあった農民層の村役人に対する不信の表明が、ひいては幕藩体制に対する反抗をも意味するものであったことである。ことに下層農民を基礎として年行司の村政への進出と、庄屋層への対抗勢力化を意図したこの農民騒動も、その類型の一として注目されるであろう。