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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 製紙業の発展

楮と紙の生産

 近世の伊予の紙は、原料の雁皮・三椏・楮に恵まれ、質量ともに全国有数の地位にあった。延宝以前の副業的段階では、原料は自生種のものを主とし、不足分は土佐などから移入した。しかし各藩は原料確保と品質向上のため楮などの栽培を勧め、生産が軌道にのると専売制によって保護と統制を加え、増収につとめた。楮、後には三椏も山間農家の重要商品となり、植栽と伐り出しは男、釜蒸し・皮とり・寒中での晒しは婦女により調整された。
 紙の生産・専売は宇和島藩が早い。創始を慶長年間とする土佐紙発祥地の成山(現、高知県伊野町)でも、宇和島領日向谷村の新之丞を紙祖とする(『土佐紙業史』)。厚手で堅牢・良質の泉貨紙は、慶長二年(一五九七)二月に没した兵頭太郎右衛門が製法を考案した。寛文八年(一六六八)には一万束を産し、寛延二年(一七四九)に野村・山奥・川原淵の三組で泉貨紙と杉原紙八、一二三束を産した。また鳥子紙も産し、延宝二年(一六七四)から幕府献上分を五色に漉いている(『愛媛県編年史』7)。流通統制では、既に寛文九年以前から問屋紙の品質を上中下に分けていた。専売制は元禄元年(一六八八)五月に開始され、領内産の紙を二七軒の指定問屋に買い上げさせ、内藤三右衛門を登せ役人として大坂へ出荷した。新規商人の扱いや他所売りは停止である。翌年五月、大坂の紙問屋は銀三〇〇貫の上納により丁字屋市兵衛となった。
 他所売り停止は宝永二年(一七〇五)一二月と正徳二年(一七一二)四月にも布達された。しかし元禄の専売制は不況からか、生産意欲を減退させたためか、前期三組の紙漉き人は以前九〇四人で四、〇〇〇束上納のところ享保一八年(一七三三)一〇月では四〇九人で二、八三四束と減少している。また正徳・享保期には大坂の問屋から宇和島の紙が他領から出荷されていると再三苦情があり、抜け売りと抜け買いで過料を払う在方商人、百姓が大勢いた(田苗真土亀甲家文書)。原料の楮は延宝三年に楮の自生する山野の伐採を禁じて保護した。天和元年(一六八一)一二月には椿元銀の貸し付けを始め、郡奉行・目付の下に元締をおいた。正徳六年、椿皮の他領移出を禁じたが、銀納を願って反対する百姓に対し、村ごとに「楮株改帳」を作らせて数量を確認した。享保二八年以降は前記三組には特に楮の栽培を奨励した。
 松山藩では初期は楮の自生した久万山が紙業の中心で、御手山半紙の名があった。享保七年(一七二二)七月には、各郡へも楮苗を配布して入念の育成を命じた(資近上二-182)。元文三年(一七三八)六月には紙方役所を設置し、資金の前貸制により紙を上納させた(鹿島博物館所蔵文書)。寛保元年(一七四一)の久万山騒動では紙や楮に関する要望も含まれるので、当時紙漉きがかなり盛んであったと思われる。小松藩でも楮は山間部に多く産出された。同藩は大洲領から小西伝兵衛(享保二〇年没)を招き、代々御用紙漉師として美農・判紙・泉貨紙などを漉かせた。

大洲藩の和紙

 五十崎を中心とする大洲藩の和紙は、大洲半紙の名で江戸でも知られた。二代泰興の時、土佐の浪人岡崎治郎左衛門(寛文五年没、九七歳)を御用紙漉として召抱え、古田村五十崎に作事場と入用道具を藩費で整えた。五代平兵衛は六人扶持九石を与えられた。民業では越前の善之進(元禄一五年没)を紙祖とするが、藩も土佐から楮を移入して援助した。紙業の伸張は著しく、享保一五年(一七三〇)には早くも専売制を実施し、五百木屋・和泉屋など一〇軒の紙問屋を指定し、領内産の紙を買い上げさせて上方に移出した。しかし藩の強行策に対して百姓側も寛延三年(一七五〇)に大規模な一揆を起こした。
 藩側はその後統制を強化し、宝暦七年(一七五七)に民間の取引を停止させ、藩船を使用して製品をすべて大坂蔵屋敷に納入した。翌年八月に楮の移出を停止、同一〇年七月に楮役所を五十崎ついで寺村と北平に設置した。同月紙役所を城下・内ノ子・中山に設置、楮苗代や元入銀の前貸制により、楮・和紙をもすべて藩の買い上げとした。抜紙については特に厳正で、紙目付を置き、組頭に見取役を命じた。宝暦一二年には別に紙支配庄屋二一人を命じ、抜紙を捕えたら褒賞を与えるとして取り締まらせた。同年一二月分、「内ノ子紙役所」への納まり高は半紙・白保・塵紙など合わせて二、三七六貫余、三七七束余となっている。こうした徹底した専売法により、文化ころは六万締を産し、同藩の知行実収入二万八、〇〇〇石に匹敵したという。
 技術面では天明年間に内子で染紙の技法が考案され、寛政一〇年(一七九八)に石州の技術を移入した。しかし度々の栽培奨励にもかかわらず原料の楮は不足し、土佐に藩吏を派遣し、年々五、〇〇〇貫前後を移入した。

後期の専売制

 西条産紙のうち奉書は、天明ころから「伊予正」の名で江戸でも声価があった。天保四年刊「無名翁随筆」(浮世絵師渓斉栄泉著)では、柔らかく絵具をよく吸収し、浮世絵用の最上紙としている。原料の楮、特に長繊維で脂肪分に富む赤楮は、黒瀬・大保木など石鎚山麓の五か村に産し、谷口の氷見楮役所で集荷され、その西方の千町山・荒川山などの楮は、大町の楮役所に集められた。多い年には三万貫余にも達し、明治三年一二月には四、〇四九貫(一〇貫目に付銭札四匁計一貫六一九匁余)が、神拝村の紙役所に納入された(氷見村郷土誌)。不足分は弘化三年から石見大森からも移入している。
 同藩の紙漉きは藩営であり、紙役所には紙漉長屋一八軒があって、他藩からも招いた漉師三六人が専業で従事した。掛役は紙方二人、下役三人がいて検査や積登せにあたり、交替で上乗して大坂に行き、売立値段の立合吟味に当たった。幕末には民業も発展し、百姓の作間稼ぎとして行われた。文久二年(一八六二)には石田村の森田重吉が藁奉書を考案した。幕領国安村では田中佐平(享和元年生)が、越前や九州の技術を入れて奉書紙を改良している。
 小松藩では寛政以前に楮・紙両役所があり、やはり生産物集荷のほか楮苗の配布や資金貸し付け、取り締まりにも当たった。特に奉書紙は同藩第一の国産品であり、大坂相場を知らせる飛船を常に走らせていたために徹底した専売策をとり楮・紙は全て藩の買い上げであった。領内産の楮では不足し、紙方役人を石見に派遣して文化一四年(一八一七)に二、〇〇〇貫、文政一一年(一八二八)には七、〇〇〇貫を買い付けている(資近上四-14・23)。紙は藩船玉吉丸に積み、紙方の頭取や勘定方らも上坂し、池田屋・丹波屋らの指定問屋に売ったが、下値の際には蔵屋敷に保管した。藩では財政再建のためこれら問屋から紙を抵当として文政一一年八月に銀六〇貫、安政四年一月には七五貫もの融資を受けている(小松藩会所日記)。
 小松藩の抜け売り取り締まりも厳しいものであった。安永九年(一七八〇)二月、楮抜け売りの千足山村百姓は過料を課せられ、享和二年(一八〇二)五月、抜け買いをした紙場紙漉三人のうち大頭村の鉄右衛門は紙場立入り差留、庄八は追払い、清吉は呵となった。弘化三年(一八四八)七月、奉書紙を抜け売りした妙口村久太郎と赤滝村又蔵を回り方が発見し、紙漉を停止されたが、結局二人は出奔した。天保一三年七月、楮植付代一三〇匁を貸与せられた南川村熊蔵ら三人は、楮苗改めにより規定植付本数の約三割が不足していることが発覚し、残金に利息をつけて取り上げるなど、細かい取り締まりも行われている(小松藩会所日記)。

松山・今治藩

 松山藩は明和五年(一七六八)八月に城下と久万・丹原に紙役所を設置し、領内産の紙すべてを藩買い上げとした。役所では品質保持のため検印を行い、無判紙の取り扱いや抜け売りを禁じた(資近上二-187)。しかしそれらは簡単には止まず、商人が紙漉に前金を渡しておいて買い付げる方法が頻繁に行われ、文政・天保期には度々庄屋に取り締まりを命じた。生産は依然久万山が中心で、御千山半紙として城下に運ばれた。原料供給にも意も用い、文政九年には一、〇〇〇本に付き銭札二〇目を支給して二万五、〇〇〇本の楮を植えさせた。周布郡でも楮栽培や紙漉が行われた。紙の小売商は、紙役所に願って鑑札が交付された。
 今治藩の専売開始期は不明であるが、天保一二年(一八四一)一二月には宇摩郡三島村で、紙役所が紙漉料二両を貸付けている。同一三年越智郡大浜村に楮苗一、六〇九本を渡し、うち三八〇本は松山一反九畝を開拓して植えさぜているので、天保期には積極的な育成策をとっていることが分かる。主産地は宇摩領で、宝暦ころには自生の楮・三椏により村松・下川村では製紙が行われていた。文化・文政期には幕領の川之江・小川山(小川半紙)・下分・新宮(市仲紙)の各村でも開始された。弘化期には楮・紙ともに生産が増え、上方へ積み出し、今治へも回送した。種類は半紙・諸口・奉書・杉原・泉(仙)貨・中折などであった。
 嘉永五年(一八五二)一〇月の今治藩の専売仕法は、検印制令抜げ売買の禁止等松山藩とほぼ同様で、紙役所差配方は御用商の黒部武右衛門であった(資近上三-103)。安政二年(一八五五)一月には売買についての厳重取締令七か条を布達したが、無判紙の売買は、理由を問わず紙取上げの上過料であった(資近上三-105)。

宇和島藩の専売

 元禄期すでに専売制を行った宇和島藩では、宝暦以降より強力な専売策と生産増加策をとった。元文四年(一七三九)、生産高に対する運上から株札に改めて生産意欲の回復と安定収入を図ったが、宝暦九年(一七五九)一一月、製品の問屋扱いを止めて大坂蔵屋敷扱いとした。また紙質、特に杉原紙と泉貨紙の向上と改良を紙頭取・町年寄・横目に命じた。生産は野村・川原淵・山奥の三組が中心であったが、新たに御荘組へも拡大を図り、楮苗を無利息の五年賦で貸し、製紙伝習のため資金を融資した。
 藩は楮、紙の他所売り抜げ買い等に対し度々禁令を発し、安永六年(一七七七)九月には、抜け紙の丸穂村(毛山村)惣七を流罪とするなどの厳罰で対処した。しかし百姓らの専売への抵抗は強く、天明元年(一七八一)には二組の他所売りを許し、銀八貫目の定額上納とした。その後寛政期に三度目の専売制に移行し、文化期に強化した。文化六年(一八〇九)、城下と野村に泉貨方役所、魚成に半紙方役所をおいて他所売り、他所買い入九を停止し、同一一年九月には郡方・代官・庄屋を取り締まりの責任者とした。楮・紙は藩が価格を公定して全量買い上げである。半紙は検査を厳しくし、合格紙は印を押した。生産増加策では、反当たり一、二〇〇本の楮苗を無利息五年賦で貸して荒地を開かせ、紙漉き支度には同条件で銀五貫目を貸し付けた。抜け紙の取り締まりも強化され、代銀取上げの上過料夫役が命じられた。また密告者には代価の五、六分を与える条件で、摘発を奨励した。なお安政四年(一八五七)の紙漉人数は山奥組五二四人、川原淵組三〇七人であった。

表3-54 小松藩妙口村楮方・紙方勘定帳

表3-54 小松藩妙口村楮方・紙方勘定帳


表3-55 野村組楮大図積寄

表3-55 野村組楮大図積寄