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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

五 鉱業と窯業

鉱業の概要

 鉱業の歴史には何回かの大発展期があったが、特に近世初期、戦国大名による金銀山の開発は画期的であった。しかし伊予は金銀鉱に乏しく、試掘の記録しかない。金は慶応二年(一八六六)、朝倉村金山で家老立合い下に問掘が行われ(資近上三-100)、銀は慶安元年(一六四八)五月に、久万地方で黒藤川村(縮川村)の茂兵衛が梨下銀山で試みた(「久万山小手鑑」)。ただ幕末から明治にかけて、銅山川流域ではねこだ流しによる砂金取りが、広範囲に行われた。他国では盛んであったたたら製鉄も少ない。宇和島藩山奥組の窪野村では鉄鉱が試掘された。松山領風早郡米之野村では、石見浜田領の鉄砂元役清井新四郎が統領二人を連れて安政五年(一八五八)一二月に埋蔵量が多いと報告した。開発のため奥山の薪炭林の買い取りを藩に願ったが、藩は不許可であったようである(湯山村史料)。
 銅は寛文ころから中国向けの重要輸出品となり、元禄に入って別子銅山が稼行されると、各地で採鉱熱が高まり、享保期を頂点として数多くの銅山が開発された。しかし別子以外は零細鉱山で、断続的に稼行され、地域の開発や百姓の日傭稼ぎに役立つ程のものはなかった。銅は粗銅のまま大坂の銅座に移出され、棹銅に精製して長崎へ回送した。伊予で特色のある鉱産は小松藩の輝安鉱と大洲藩の砥石材で、ともに起源も古い。
 幕末期からは、多様な鉱産物が開発されたが、そのうち明治期に産業として発達したものは石灰石と花崗岩の採石のみである。久万山西明神村の庄屋梅木源兵衛は、安政六年(一八五九)に松山藩から硝石御用掛りを命じられ生産した。明和六年(一七六九)七月、宇和島藩は日土村鐘乳石・内海水晶・山奥方解石・三机打ケ浦石の採石を禁じ保護した(『愛媛県編年史』8)。また嘉永七年(一八五四)に領内の銅山とともに石炭の開発を計画し、福岡藩から技師を招いたが成果はなかった。

諸銅山

 伊予では約三〇〇の銅山が開発された。その多くは宇和島藩域の現西宇和郡一帯で、三波川系の結晶片岩中に多数の含銅硫化鉄鉱床の鉱脈を含んでいる。鉱山は藩有で、ほぼ一〇年単位で稼行を願い、定額の運上を納入する請負制が一般であった。しかし初期には労働者が集まらず、採算もとれずに数年で交替した例が多い。また探鉱・採鉱・焼成には専門的技術を持つ山師と、相当の資金を要したため大坂・阿波など他領の請負者もみられた。逆に伊予からの進出もあり、西条領の桑名弥左衛門は正徳三年(一七一三)に土佐郡の銅山を、大町村庄屋田中勝之丞も同四年に同じく吾川郡池川郷安居鉱山を経営していた(『土佐藩経済史』)。産銅の不振期であった元文四年(一七三九)から、住友の泉屋は諸国の銅山を調査しているが、伊予分一〇七か所の結果はほとんどが「役ニタタズ、望ナシ」で、有望あるいは見込ありとしたのは朝倉金山、日土今出など数山であった(「諸国銅山見分控」)。
 採鉱・焼鉱に伴う周辺の農作との問題は、開発当初からあった。小松藩領の保野山は、享保一六年(一七三一)に試掘に成功したが、西条側から領民の柴草刈取場である、悪水が出ると百姓が難儀をするとの申し入れで、採掘が中止となった(小松藩会所日記)。宇和島藩では、享保四年三月に、伊藤郷右衛門を日土銅山御用に任じ、焼吹に当たっては、作物に煙を当たらせぬよう監督すべき旨を指示した(『伊達家御歴代事記』)。享保二年四月、千原銅山の吹方に対し、川下の百姓から銅汗が旧畑に障るとの申し出があり、同二一年一月には周布村庄屋弥兵衛、北条村組頭善右衛門らが、松山藩庁へ対策を嘆願した。しかし藩は、そんな事はない、帰って藩(西条・小松)とも相談せよ、銅山は熟練者の萩生村善を衛門にやらせているので当人から説明させると解答した(小松藩会所日記)。

市之川の輝安鉱

 小松藩新居郡大生院村市之川の輝安鉱は、近世では白目・白味といわれ、時に産する結晶の大きさは世界でも稀であった。『続日本紀』の文武二年、人宝元年などに伊予国から朝廷に献上した白蝋・錫鉱がこれであろうといわれる。寛永二年三月、大生院村の年貢の中に白目があるが(『小松邑誌』)、延宝七年(一六七九)九月、金子村曽我部伝右衛門が再発見し稼行しか。焼成は鉱石を焼いて酸化アンチモンとし、木炭粉を混入して高熱三遍元した。その後同家により千荷・大鋪・本番鋪など三五か所が開坑され、享保期には月一、〇〇〇斤を産し、一〇分の一の運上銀が上納された。享保二一年には与一右衛門と同村庄屋の願いで大坂屋源八も経営に加わり、その後も同家独力、又は共同で稼行された。しかし元文二年(一七三七)白目にからみが混入して品質が悪化し、売行不振となって明和六年(一七六九)に休業し、その後しばらくは低迷期となった。
 寛政四年(一七九二)四月、巡検使来山の時は八代六郎左衛門の独力稼行中であったが、七年には永易村矢野矢一右衛門と共同でした。しかし一〇〇斤当たり銀一二〇匁と下落し穴ため九年には休業、文化元年(一八〇四)小松の専二郎と再興したがこれも間もなく休止した。売買に当たっていた大坂の大塚屋弥三兵衛ら三名も買い入れを中止した。その後市況が回復し、文化九年四月、泉屋は壬生川の石見屋善兵衛を通じて鉱山の下げ渡しを願ったが藩は許さず、精鉱の販売のみを許した。

小松藩の専売

 文化後半からは大坂資本の移入と藩の専売政策による積極的開発が行われた。同一一年一〇月、泉屋との間に年間一、五〇〇斤(一〇〇斤に付き八〇〇匁)の販売を許し、泉屋は同年一二月に江戸で一〇四貫一五〇匁の白味地金を販売し、一五九両余を藩に上納した。好況をみた大塚屋らも文化一三年には年間二、〇〇〇斤の買い付けを、泉屋の三割増の一〇〇斤当たり銀一貫五〇目で願った。これら大資本による遠国販売も好況の一因で、価格は文政一〇年で一〇〇斤当たり一七両の高値であった。文政元年一〇月に、藩は掘り子からの買取価格を百斤当たり一六〇匁から二〇〇匁に改定したが、その差の利益は五倍以上であった。
 小松藩は文化末年、鉱山の開発維持と、藩札下落によって銀引替に困り、銀四〇貫を大坂千草屋から借りた。更に文政元年九月には財政建て直しと藩札改定のため白味六、〇〇〇貫を担保に銀三〇〇貫を同家より借財した(資近上四-12~18)。鉱山経営に自信を得た藩は、文政一〇年突然大坂との縁を切り、楮の買い入れで縁のある石見国西田村の二川三右衛門と銀山師加藤庄造に、市之川の請負と販売を任せた。同一三年二月、三右衛門が藩に報告した吹立量は一三三貫六〇〇目で、運上はその一〇分の一である。藩の通告に驚いた泉屋武兵衛、大坂屋利右衛門ら大坂白味十人組の問屋は、我々の力で遠国末々にも販売した、文政二年以来永久売捌の約束である、三右衛門らの年限が終われば再び我々に販売させてくれと嘆願を行った(資近上四-26)。
 その後三右衛門らにより稼行が続けられたが、天保九年(一八三八)に庄造が死亡し、三右衛門も中止をしたので同一二年三月、預け山制をやめて御手仕成山(藩直営)とした。経営は藩役人、元請は漸く一一代曽我部陸之助の伯父覚二郎となり、一一月までに銭三貫一一八九匁を投じて整備をした。翌一三年から安政三年(一八五六)までの平均産出量は約四、一八〇貫八〇〇匁でかなり多いが、価格は大坂蔵屋敷渡しで一〇〇斤当たり三六〇匁と低落している。販売は南久太郎町の松屋弥兵衛に任されたが、同人と蔵屋敷との「白味取渡定書」によると白味の生産は山分百姓の稼ぎとし、国産としては公儀に届けぬ、蔵入までは藩の費用とする、販路は松屋の自由とするとしている(小松藩会所日記)。藩は文久元年(一八六一)大坂屋源八の請負として大坂の資本を移入したが、やがて廃藩となり、小松県・松山県を経て石鉄県へ引継がれた。

小大下島の石灰

 石灰は白壁造りや土木工事、稲作肥料として多用されたが、慶長ころには貝殻が使用されていた。石灰石を使用し、領外へも移出されるのは享保ごろからである。但し、石灰焼は表向き幕令では指定地以外は禁止されており、自由となるのは寛政一一年(一七九九)八月からである(国府叢書)。石灰焼は石灰石の産地に限られるが、宇和島領の日土村では明和三年(一七六六)八月に山口屋惣右衛門が焼成した(宇和島藩町方記録)。伊予全体では文政ごろから、百姓の作間稼ぎとして盛んとなった。
 越智郡島嶼部では各地で焼成されたが、松山領の小大下島が盛んであった。同島が全山石灰岩であることは、寛政以前から知られていたが村人は製法を知らなかった。文政六年秋に讃岐観音寺町の田中屋忠次郎が来島して鉱脈を確認し、翌年三月に同島小婦こ浦での焼成を出願し、同九年四月に許された。田中屋は大三島の宮浦村でも出願し、同じころ出願していた松山城下の町人宇和川利右衛門、茶屋勘兵衛との間に紛争を起こした。結局文政九年三月に宇和川らが許され、大庄屋菅大之進の所有する新畑八畝を借り、石灰焼釜上家一軒(一〇間に二間半)、物置一軒(四間に二間)を建てて稼行した。上家は翌年六月に焼失し、再建を願った天保一一~一五年ころは、同村岩尻で松山の茶屋利兵衛と脇屋寛十郎が交代で焼いており、同一四年の積出量は三、〇〇〇俵、同一五年は四月までに一万俵の予定であると庄屋に報告している(宮浦村・岡村御用日記)。
 小大下島では断続がちに地元と他村の人により稼行が続けられた。その間天保五年五月には暴風雨で釜屋、納屋が流失しその後火災にあい、同七年三月にも大雨で倒壊した。安政六年の請負天野屋忠助は、近年は各地で焼成が増え、売れ行き不振として、運上納入の延期を願っている(岡村御用日記)。

高山浦の石灰

 宇和島領内の大農家では、自給用に早くから石灰の生産をしていた。直径一メートル、深さ三メートルの釜に、砕いた石灰岩と薪を交互に入れて焼き、下から掻き出し上から補給を繰り返して生石灰を作り、それに水をかけた消石灰を肥料とした(『高川郷土誌』)。西宇和郡の高山浦は、文政ごろに土佐の小型窯の焼成技術が伝わり、同一一年には岩井源右衛門が小網代鉱山を開発した(「明浜町史年表」)。その後中断があったが、水田への使用で需要が高まり、販売を目的とした生産が開始された。
 まず嘉永二年(一八四九)に宇都宮高次郎、翌年同浦小僧都で宇都宮長右衛門(角治)が土佐式の焼成を行った。文久二年(一八六二)忠兵衛と二宮久太郎、慶応二年(一八六六)に鹿村某、明治元年には藤堂・二宮家、二年に山本某らが次々と創業し、「高山石灰」としての産地を形成した。

菊間瓦の生産

 菊間瓦の創始については鎌倉時代の弘安年間説や河野氏築城使用説もあるが、資料的裏付けは困難である。『菊間瓦沿革概況』(明治三八年)では松山藩は松平定行人国時に、従来の菊間瓦株二六軒に加えて温泉郡東野・垂水、和気郡三津浜・堀江・浮穴郡上野・風早郡の和田・鹿峰などに二七株を増設し、合田三之丞を作事方とし、瓦師に出役年三人役と銀四二匁の株銀を課したとする。しかし「浜村番所庄屋記録」では菊間二六株の成立は安永六年(一七七七)で、株札は東野村瓦目付野沢新左衛門、御用瓦方奉行丹生屋繁右衛門から翌年に渡されている。株銀は増株をせぬよう願って一株に付米一俵二斗、天明五年(一七八五)以降は銀二四匁であった。この二六名の瓦師の名前を示す史料は文政二年の瓦師仲間と政右衛門の内済一件、翌年の仕入れ銀貸付け願、安政元年松山城納入瓦商標(一名休み株)などにみられ、長く二六株のままであったことが分かる。
 文政ころの菊間瓦の生産は約五〇〇万枚で、領外では安芸を主な販路としていた。しかし文政三年(一八二〇)七月に、大坂への他国瓦の積み込みが自由になると、瓦生産は急に活気づいた。早速問屋の岩国屋藤右衛門、三原屋庄次郎が上坂し、竹屋太郎兵衛、伊勢屋弥兵衛と販売交渉に当たった。そして文政四年三月までに在庫の一五万枚を積登せる事を約し、大坂安治川北三丁目に「伊予松山菊間瓦棚」(土蔵)を開設した。その後竹屋・伊勢屋を捌方(口銭は五分)とし、仕込銀六貫目を借用し、藩へも瓦株を抵当に一軒分三〇〇目の借入れが恒例となった。問屋の買取価格が余りにも低い場合には、直売りも行われているが、その場合には代金が滞ることが多く、文政八年には訴訟事件を起こしている(浜村庄屋史料)。

瓦株の移動

 菊間浜村の瓦株は、廃藩まで二六株(一時二七株)に固定され、一番株から二六番株までの番号が附されていた。休み株・譲株・貸株も許され、一株を数名で持つ七分五厘株・半株・二半株もあったので瓦師は二六名とは限らない。瓦師中は株仲間を作り、仲間規約を作って生産販売の維持に当たった。運営は仲間の選ぶ年行司二人と瓦師総代を中心とした。弘化四年ころの総代は平兵衛と喜右衛門であった。
 瓦株の売買は文政七年から多くの例がある。弘化二年(一八四五)珍蔵の売値は一一軒で米五〇〇俵、翌年孫八の売値は銀七貫二〇〇匁であった。天保六年(一八三五)に半次と政七が各々亀五郎と平太に売渡したが、名儀はそのままで変更しなかった。七左衛門は天保一〇年に半株を珍蔵に三貫五〇〇目で売ったが、役義・年貢米に差支えて同一二年に残り半株も、村方の世話で珍蔵に売った。珍蔵方では不要の株であったが、村外に売られては困るため買い、貸賃をとって七左衛門に貸した。しかし七左衛門は、天保一三年分以降の借賃を払わず、珍蔵は瓦焼を止めて瓦床を明け渡すよう申し入れた。結果紛争となり両者から庄屋を通じ代官所の裁許を願った。貸株は三~五年の年限が多く、貸賃は年間一貫一〇〇目内外である。政右衛門は文化一四年(一八一七)から二年間十七吉に貸し、文政二年から一〇年間与太郎に半株を貸した(浜村庄屋文書)。
 瓦株担保の借財も行われ、弘化四年(一八四七)平兵衛は、持船灘吉丸で波止浜の塩の回送を行うため、所持の二軒の瓦株を抵当として、藩へ二〇〇両の借財を願った。また半蔵・珍蔵・松蔵の三人は、幸永丸新造のため、郡に拝借分の残金銀二四貫に加えて一八貫の貸付けを願った。抵当は二二貫を所有大船二艘、一四貫分を瓦株二軒、六貫が新田二反である。瓦不景気を理由に、奉公人の給米分や瓦焼の仕度銀を、瓦株を担保に藩に米の貸付けを願うのは恒例で、天保・弘化期では一五人前後の瓦師が各一〇~二〇俵の計二〇〇俵前後を、例年願っている。

他領への進出

 東予地方の製瓦地は、菊間からの進出を起源とする所が多い。しかし各藩とも、自藩の瓦焼業を保護するために、他国からの瓦師の進出や瓦の移入は原則として禁止していた。宇和島藩では瓦の寸法上已むを得ぬ場合や極安値に限ってば許され、坂石村が大洲領の内子から二、〇〇〇枚を買い入れた例がある(「大控」)。こうした背景があったから菊間では紛争を起こしながらも種々の方法で各地へ進出を図った。
 文化初年、政右衛門は西条藩御用となり、同地の花屋助七を通じて販売した。しかし領内でも瓦を焼く者が増えたため、移出が困難となった。そこで政右衛門は文化一四年、持株を息子の十七吉に譲り、岩次郎を助七の養子とし、家内中が西条領に引っ越して製瓦を始めた。菊間の瓦仲間は無株の上に所替の禁に触れるとして抗議し、紛糾の結果善処方を藩に訴えた。同じころ庄五郎の子平次、忠作の子忠五郎、清右衛門の子勝蔵の三人は、大洲領中島で焼方を始めた。無株のために庄屋命で呼び返すと同人等は、我々は日雇いで仕事をしている、株持の政右衛門を放置しておいて、我等を呼び戻すのは不服であると主張した。しかし政右衛門の件は、その後岩次郎が病死をしたため解決した。
 天保二年(一八三一)、政右衛門はもう一人の子長次郎を今治領喜多村へ養子にやり、自分も持株を銀兵衛に譲って引っ越し、焼成を始めた。そして今治藩の職頭に取り立てられ、菊間で修業した手間の者を次々と呼び寄せ、天保八年には六、七軒の瓦屋が並んだ。藩も仕込み銀を貸して援助した。同一四年に政右衛門は浜村に帰り、銀兵衛から株を買い戻したい旨を申し出た。しかし瓦仲間は、政右衛門は今治へ移ったから菊間の瓦師ではない、製瓦の利が今治領に奪われるとして同年の七月と一一月に、藩に対策を願った。今治領の瓦業は次第に発展し、嘉永五年(一八五二)一月では島方だけで二十余軒となった。ために菊間瓦の原料供給地であった野々江・馬刀潟・波方から粘土を買い入れた。そのため菊間瓦師仲間は、不景気で三、四軒が休業中である、藩内土の他領移出を差し留めて欲しいと藩に願っている(浜村庄屋文書)。

陶磁器の生産

 近世に入ると陶磁器の生産は、室町期の茶道の発達、戦国期の朝鮮陶工の招来に続く白磁と赤絵の完成という画期的な発展期を迎えた。特に寛文八年の中国什器の輸入禁止から、国内の製陶業は各地に拡大した。しかし伊予では安永期に砥部で漸く磁器生産が始まり、他の諸窯は殆どが文化文政期以降の開窯であった。また藩の育成策にも拘わらず、先進地の有田・瀬戸の量産に勝てず、充分な生産を上げることなくほとんどが、数十年で廃窯となった。比較的量産され、地方的需要に応じ得たのは多喜浜・川根・西岡焼などで、他地方に移出したのは砥部・御荘・三島焼であった。起源や陶工の系統また製品など、今は不詳となった窯も多い。
 伊予の諸窯は技法や陶工等の系続から備前系・伊万里系・瀬戸系・京焼系に大別される。また三島・御荘・久谷・三間・松瀬川・西岡焼などは、砥部焼との関連が深く、陶工の頻繁な往来がみられた。製品は日常の素焼の雑器から、高度な染付磁器や青・白磁まで多様であるが、いずれも素朴で優美なものが多い。
 越智郡大浜村湊で焼かれた湊山焼は、末広山・城山・今治・伊賀焼など多くの名称があるように、疑問点の多い窯である。伝世品は焼締の甕・花器・白磁~色絵の徳利・茶碗・皿等があり、末広山焼と城山焼を別系統、あるいは併行、また明治初年に移転したとみる説もある。以前は慶応三年(一八六七)、備前陶工河野善助を創始としたが、昭和二九・三〇年の発掘調査により文化・文政期の開窯で、唐津系とされた。窯は幅五尺、長さ五間の登り窯であった。「大浜柳原家文書」では城下北新町の村屋弥兵衛が、かねて探していた職人を得て、安政七年(一八六〇)三月に庄屋を通じて藩に願い、湊山の内浜側(一〇間×四〇間)の地に小窯を築いた。焼成の結果は良好で、更に規模を大きくすれば領内で使用し、藩の繁栄にもなると翌年二月、城下豪商の黒部武右衛門に世話方を依頼し、更に窯場の拡大を願い出ている。

砥部焼の創業

 陶器中心の時代では、元文五年(一七四〇)編集の『大洲秘録』中、北川毛・大南村の土産品としてとべ焼の名があり、少なくとも享保ごろには生産が始まっていた。立地については須恵器以来の伝統、豊富な原料土や燃料、大洲・新谷両藩の奨励、享保中ごろに廃窯となった陶工の移動等があげられる。しかし業界の動きや庶民生活の向上から磁器の需要増をみた藩では、伊予砥の販売元、大坂の淡路屋治兵衛の勧めもあって、国産の一品として白磁の量産を図ったものである。
 藩命を受けた加藤三郎兵衛は、和泉屋の紹介で肥前人村藩長与窯の陶丁安右衛門・さとら五人を傭い、資金・販売などは御用油商の門川金治、焼成の責任者を原町の杉野丈助とした。安水門年(一七七五)三月、五本松の上原に築窯し、翌年にかけて数回焼成したがいずれも失敗した。そこで筑的から来往していた陶工信吉の案で、同地から粕薬を移入し、安永六年一二月に漸く焼成に成功した。翌年藩は工原窯の経営を金治にまかせた。物原(破片捨場)の調査からは、安永九年銘の磁片も発見されている。その後の砥部焼の発展は以下の様である。

・寛政十二年、上原窯の陶工喜代八が独立し、大南に「御旅窯」を開く。
・その頃北山崎村三秋で釉薬用の三秋石を発見し、粕薬を自給化する。
・この頃渡部忠助が岩谷]に「守本窯」を築く。文化一二年に養子の勇次郎が継ぐ。
・文化一〇年、向伴源治が五本松村花畑にに「下向井窯」を開く。
・文政元年に川登の川床から陶石川登石を発見、従来の外山村の砥石屑より良質で採掘も容易、量産される。
・渡部勇次郎が川登の弘法師に秀れた陶石を発見し移る。しかし交通不便のため間もなく岩谷に帰る。
・文政八年亀屋庫蔵が藩命により肥前から錦手の製法を学んで帰国する。
・この頃喜代八の子源六が「人塔窯」を築き、「村上窯」、「深川窯」なども築かれる。
・嘉永元年、岩谷口の窯元井岡大蔵が煉瓦石(トンバリ)を使用して築窯する。
・川登村庄屋坪内庄太郎が、肥前から伝来の大型水車を二か所に設げ、窯元に石粉を供給する(従来は各窯元が小型水車をもつ)。
・嘉永四年、城戸源六が本焼窯の上に素焼窯を築き、燃料を節約する。

 こうして砥部焼の窯元は嘉永七年(一八五四)には一五窯、慶応四年(一八六八)では一八窯となり(「水車帳」)、磁器産地として知られるようになった。

砥部焼の経営

 磁器焼成に成功した大洲藩は、窯の経営は民間にまかせ、開窯に冥加金、焼成には窯運上、出荷に俵運上を課した(仲田家文書)。窯場は大洲城下から遠いため、郡中の御替地代官所に管理させ製品はすべて郡中に集められ、問屋を通じて出荷した。領内や松山を中心とするが、食らわんか茶碗にも混入するところから大坂へも移出したことが分かる。民窯ではあるが藩の規制は厳しく、また常に技術改良への援助も行った。原料砥の採掘と搬出に当たっては、領民を徴発し、百姓から怪我人が多くて困ると、中止の嘆願が出る程であった。嘉永六年には新谷藩の郡奉行一行が、大平村の砥石山を見分している。
 天保七年(一八三六)七月、藩の布告は無株者の焼成禁止、窯の貸借禁止、絵薬購入先の報告等五か条である。天保上茄永期には、藩の仲介により長崎から絵薬を盛んに移入しているが、往来手形の文面は社寺参詣としている。嘉永七年七月、唐津焼中は、大南・岩谷口両村庄屋の奥印を添え、新谷藩に付絵薬購入の便を謝し、従来通りの販売の自由を願い、今後一〇年間の冥加金二〇両の上納を約した石野家文書)。
 嘉永七年ころには大洲藩は「郡中瀬戸物役所」、新谷藩は「唐津役所」が製品の検査・計量に当たった(仲田家文書)。安政三年一〇月、麻生村庄屋西岡弥平治と岩谷口庄屋日野治右衛門は、五か年間五貫目宛ての上納で唐津問屋を願い、許されている。運上は問屋・窯元が銀三〇匁、卸商一五匁、小売行商は三匁であった。なお、出荷は主として郡中の回船によった。

表3-56 伊予の主要銅山

表3-56 伊予の主要銅山


表3-57 越智郡小大下島の石灰焼成

表3-57 越智郡小大下島の石灰焼成


表3-58 菊間瓦の積み出し

表3-58 菊間瓦の積み出し


表3-59 松山藩内の瓦株をめぐる動き

表3-59 松山藩内の瓦株をめぐる動き


表3-60 伊予の窯業地

表3-60 伊予の窯業地