データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 国家仏教と国分寺

国分寺と国分尼寺の創建

 天平一三年(七四一)、聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、国ごとに僧寺・尼寺を建立させた。国分寺建立の背景には、当時天然痘などの疾病の流行と飢饉による社会不安や、天平一二年(七四〇)に大宰府においておこった藤原広嗣の乱、および対新羅関係の悪化などによる内外の危機感があった。こうした情勢が五穀豊饒・国家安寧を祈る国分寺造営の動機となった。天平一三年の詔勅によれば、国ごとに金光明最勝王経一部を安置した七重塔一基をつくり、僧寺に、僧二〇人、最勝王経一〇部、尼寺には尼一〇人、法華経一〇部をおいている。そして、その経済的基盤として僧寺に封戸五〇戸、水田一〇町を、尼寺には水田のみ一〇町を施入している。なお、この詔勅には、国分寺という名称はなく、僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と称するとある(続日本紀)。
 国分寺という名称の由来については、かつて国府にあった国府寺の転訛したものとする見方がある。つまり、『日本書紀』天武天皇四年(六八五)の条に「諸国の家ごとに仏舎を作れ」とあることから、これを国府ごとの寺院(仏舎)、すなわち国府寺とし、これが国分寺と呼ばれ始めたとするものである。この見方はともかく、国分寺の名称は天平一三年(七四一)以後しばしばみられるようになる(続日本紀)。
 伊予国分寺の創建時期については、『続日本紀』天平九年(七三七)条に「国ごとに釈迦仏像一躯をつくり、また、大般若経一部を写せ」とあることを根拠に、天平九年から建立に着手したと推定する説がある。
 伊予国分僧寺も、天平一三年(七四一)の詔勅以後、本格的に建立に着手したと思われるが、造寺の負担は重く、全国的にも造営は進まず、天平一九年(七四七)には朝廷は石川年足・阿倍小嶋らを各地に派遣して状況を視察させ、また有能な郡司を造営に当たらせるとともに、三か年のうちに造営を完了するよう指示している。この時に、施入された僧寺九〇町、尼寺四〇町の水田も造営促進のための費用であろう(続日本紀)。
 天平感宝元年(七四九)、宇和郡の凡直鎌足が伊予国分寺の仏像造立などのために資材を献上し、その功によって破格の外従五位下に叙されている(続日本紀)。このことは、国分寺の造営が遅れており、郡司層の有力者と思われる鎌足の協力を必要としたことを意味しているのであろう。こののちの天平勝宝八年(七五六)には、朝廷から伊予・讃岐・阿波・土佐など二六か国に対し、灌頂幡、緋綱などの装身用仏具類を与えているので、おそらく、このころまでには、七重塔を中心とした伽藍の造営も完了していたものと思われる。おそくとも、天平神護二年(七六六)に、伊予国の大直足山が稲七万七千八百束、鍬二千四百四十口、墾田一〇町を国分寺に寄進して、その子の氏山が外従五位下を授けられているが、この時までには完成していたであろう。

国分寺の遺構

 伊予国分寺(僧寺)は今治市国分字殿田にあり、その塔跡が国指定史跡となっている。塔跡の北西約ニキロのところは、伊予国府跡推定地のひとつとされている上徳地区である。国分寺の建立地は、一般に、国府に近く、人家の雑踏から離れていて、しかも交通便利な南向きの高台地が求められた。昭和四八年の愛媛県教育委員会によって行われた発掘調査によれば、従来遺跡として知られていた所から塔跡とその基壇が検出されている。一七・四メートル(五八尺)四方の正方形の基壇上には一二個の礎石が残存しているが、この礎石は八世紀代に広く普及した出柄式である。柱間寸法も中央間が三・六メートル(一二尺)と脇間の三・三メートルに比べてやや広く、八世紀の興福寺や元興寺の手法を採用していたことをうかがわせる。これらから判断して、天平一三年の詔勅にいう七重塔が存在していたことはほぼ間違いないことと思われる。伽藍の様式については、塔が回廊外にある東大寺式とみる見解もあるが、いま一つはっきりしない。
 出土瓦には、白鳳期的要素をもつ素弁蓮華文軒丸瓦や四重弧文軒平瓦があるが、主体は平城宮式や東大寺式の瓦である。このような点からいっても、国分寺の完成は天平勝宝八年から天平神護二年の間に求めることが妥当と思われる。なお、国分僧寺の広さは他の例からみて、ほぼ二町四方、尼寺は一・五町程度とみられる。
 愛媛県指定史跡の伊予国分尼寺塔跡は、伊予国分僧寺の南東約ニキロ、今治市桜井郷の引地山山麓にあるが、塔の礎石は基壇上に六個残っている。
 この国分尼寺塔跡については、『日本霊異記』にある越智大領の祖、越智直が建立したとする説がある。越智直は白村江の敗戦(六六三年)で、唐・新羅連合軍の捕虜となったが、観音菩薩に祈ったところ、無事帰国することができ、後に越智郡に寺を建立したという物語である。この寺を国分尼寺の前身とすることもあながち根拠のないことではない。つまり、国分尼寺の創建にあたって、本寺の子寺である塔頭としたことも想定せられるからである。このあたりの小字が他中といわれるのもこのことに関連があると思われる。また、出土瓦からみても、白鳳時代の単弁蓮華文・複弁八弁蓮華文軒丸瓦や奈良時代の均整唐草文軒平瓦が出土しているので、さほど無理なく、既存の寺院を国分尼寺に転用したことも考えられよう。ただ、国分尼寺は、塔のないのが一般的であり、この点疑問が残る。『類聚三代格』にも国分僧寺とは異なり、尼寺に妙法蓮華経一部を置くとは記されておらず、一般的には塔が存在しなかったとみられている。しかし、備中の尼寺推定地などのように塔跡の存在が指摘されている例もあり、塔跡をもった尼寺があっても不思議ではないように思われる。
 白鳳時代から奈良時代にかけて、国分寺・国分尼寺のほかにも、伊予国では数多くの古代寺院が建立され、その実態が発掘調査等によって次第に明らかにされつつあるが、それらについては『原始・古代I』第五章第二節を参照していただきたい。