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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 熟田津

斉明女帝来湯の目的

 斉明女帝の伊予への行幸は、百済救援という緊迫した情勢のもとでおこなわれた。百済救援軍を率いた天皇の一行は、斉明七年(六六一)正月六日、船団を組んで難波を出発し、同年正月一四日に伊予国の熟田津石湯行宮に到着し、そして三月二五日に九州の那大津に向かった(日本書紀)。
 この記事によれば、天皇の一行が熟田津に滞在した期間は二か月余に及ぶことになるが、難波から筑紫までの行程でこれほどの長期にわたる滞在の例はない。緊急を要する事態であったにもかかわらず、長く熟田津にとどまったのはなぜであろうか。その理由の一つに次のような見解がある。すなわち、斉明女帝は、かつて舒明天皇の皇后として伊予の湯にきており、女帝の思い出の地であった。加えて、天皇はすでに高齢であり、長い旅に耐えられる状態でなく休養を必要としていたというものである。確かにそのような目的もなくはなかったであろう。しかし、より重要な事は、この度の戦いは古代における最大の対外戦争であり、国家の存亡をかけたものであったということである。それゆえ、熟田津への滞在が、天皇個人の健康によって左右されるようなことはなかったと思われる。そのことは、斉明女帝の崩御の後、一か月も経ずして救援軍が朝鮮半島に派遣されていることからもうかがうことができる。したがって、斉明天皇一行の滞在は、単なる保養の目的ではなく、おそらく伊予国やその周辺諸国の地方豪族軍を結集し、渡海の準備をおこなうためであったと考えられる。伊予国の越智直や物部薬などは、その兵士徴発の具体的な例であったといえよう。

額田王と熟田津の歌

 この度の斉明女帝の一行のなかには万葉の代表的歌人である額田王が加わっていた。彼女は初め大海人皇子の寵愛を受け、のち天智天皇の後宮に入っている。しかし、彼女の後宮での地位はさほど高いものでなく、皇后・妃・夫人につぐものであった。それではこのような額田王がなぜ百済救援軍に随ったのであろうか。熟田津の歌を取り上げてその理由を述べていくことにしよう。
「にぎたつに船乗りせむと月待てば、潮もかないぬ、今はこぎいでな」(万葉集)。この歌は額田王によって詠まれた万葉初期の代表作といわれるが、これはどのような意味をもって詠まれたものであろうか。これについて、船遊びの際に詠まれたものとする主張がある。しかし、国家の存亡をかけたこの時期に悠然と船遊びに興じた可能性は少ない。長期の滞在とはいえ、時間を空費する余裕はなかったであろう。したがって、この歌は、軍の出発にあたって詠まれた神事の一つであったと考えられる。当時の航海は非常に危険であり、それだけに神を祭るための宗教的な行事が重要な意味をもっていた。そして、ここにこそ額田王が救援軍に随った理由があるのではなかろうか。つまり、額田王は、単に中大兄皇子の夫人というだけでなく、宮廷祭祀や種々の神事に携わった巫女的性格をもった人物として参加したとも思われる。
 なお、この歌について山上憶良の『類聚歌林』(原本は散逸している)は、斉明天皇が九州に向かう途次に道後に滞在した時、かつてこの地に来たことをなつかしんで詠んだものと解釈している。

熟田津の所在

 さて、熟田津の所在については、古くから論争の的になって、多くの見解が出されている。しかし、いずれの説においても決定的な根拠はなく、今の時点ではどの説が妥当であるとはいい難い。文献からその所在を明らかにすることは困難であり、今後の考古学的調査によって明らかになるのを期待するほかない。ともあれ、はじめに、その所在をめぐる代表的な見解をあげておこう。
 ①山越~吉田説―諸文献によって温泉に近い山越付近まで海に通じていたとし、山越から吉田浜に至る地域に港が存在したとする説である。
 ②和気・堀江説ー熟田津の言葉の示す意味から解釈して熟田津は、相当広い平野で、しかも海に面し、船着き場となっている所である。また、航路や地形などから考えて和気・堀江方面が比定地として適当であるとする考え方である。
 ③古三津説ー現在の三津港は、古代には古三津の付近まで湾入し、港になっていたとし、距離的にも熟田津の比定地にふさわしいとする説である。なおこの説は、偽書である『二名洲大鑑』に依拠している部分が多く、検討を要する。
 これらの説の他にも多くの説がある。ただ、いずれにせよ『源氏物語河海抄』に引用されている『温泉記』の記事は信頼性の高いもので重要である。その中には「潺々として海口に及ぶ」とか、「海を辞すること二、三里」という言葉があって、温泉が海の近くにあったことを示唆している。これによって、温泉から比較的近い所に港(熟田津)があったと考えるべきであり、松山市周辺に熟田津が存在したことを動かすことはできないであろう。
 ところで、ここで注意する必要があるのは熟田津の比定地の多くが和気郡内とされていることである。郡単位で比定地を考えるならば、熟田津が同郡内のいずれかにあった可能性はきわめて高いと思われる。和気郡に熟田津がおかれたとすれば、それは、この地域の支配者であった伊予別君がいたからではなかろうか。この別君については第一章第一節で述べたように、伊予の他の国造層とは違い、大和朝廷との間に特殊な結びつきを有していた。したがって、この和気郡もまた大和朝廷の軍事的中継地としての特殊な役割を担っていたと考えられる。また、和気郡の周囲には久米部・物部、あるいは秦勝に率いられた秦部など軍事的な役割をもつと思われる部が存在しているため、兵士の徴発も比較的容易であったことによるとも考えられる。
 現在は熟田津の所在そのものに関心が集中している観があるが、しかし、より重要な事は瀬戸内海全体の中で熟田津がどのような役割や意味をもったのかを追求していくことではなかろうか。

山部赤人の来浴

 山部赤人は、奈良時代前期、万葉第三期の宮廷歌人であり、柿本人麻呂と並び称せられる人物である。そして、彼の歌には、和歌浦・芳野・富士山など、名勝の地をめぐり、自然の美しさを詠んだものに秀れたものが多いことから自然歌人、あるいは叙景歌人と評されている。この山部赤人は伊予の湯を訪れ、長歌と反歌を残している。長歌は、道後温泉を讃えるとともに、かつて天皇や皇后が来湯したことをしのんだものである。しかし、反歌では、「百式紀の大宮人の飽田津に船乗りしけむ年の知らなく」と詠み、大宮人の来湯はすでに遠い過去の出来事として語られている。
 ところで、天武一三年(六八五)に大地震があり、これによって伊予の湯がとまったことがみえ(日本書紀)、まだ、この段階では伊予の湯は中央貴族らの関心の対象でありえたようである。しかし、赤人が来湯した頃には皇族が伊予の湯に訪れることもなく、諸記録からも伊予の湯は姿を消している。このように律令体制の確立とともに伊予は罪人流刑の際の中流の国とされるなど、中央貴族にとって僻遠の地と認識されるようになった、赤人の歌は、その推移を物語るものであろう。
 それでは、伊予の湯および伊予が中央から忘却されたのはなぜであろうか。それは次のような理由であったろう。かつて朝廷は半島経営に積極的に関与し、その結果、伊予国は瀬戸内海航路の中継地として重要な役割を果たした。しかし、白村江の戦い以後、半島への関心は失われ、その一方で内政面が重視されるようになった。このように、朝鮮半島との関係が消滅し、瀬戸内海航路の重要性が減少するとともに、伊予の重要性もまた減少する結果となったのである。