データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 上代  淑 (かじろ よし)
 明治4年~昭和34年(1871~1959)教育者。明治4年松山市に生まれ,大阪府の私立梅花女学校を卒業して,明治22年岡山市の山陽英和女学校の教師となる。明治26年,アメリカのマウント・ホーリョーク女子大学に入学,バチェラー・オン・サイエンスの学位を取得し,明治30年帰国し,再び山陽女学校に勤務する。明治41年,校長となり昭和34年88歳で死去するまで校長の要職にあり,同校の教育と管理運営にあたる。彼女はクリスチャンであり,キリスト教的人文主義の理念に基づいて生徒の教育にあたり,「奉仕」「隣人愛」の具体的実践の必要性を強調した。これは,良妻賢母主義の精神とも一致し,在校生や卒業生に与えた人間的感化は極めて大きいものがあった。昭和23年,岡山市の第1回名誉市民となった。

 加賀山 金平 (かがやま きんぺい)
 天保2年~明治35年(1831~1902)明治初期における立間ミカンの栽培先覚者。宇和郡立間村(現吉田町)に生まれる。立間の温州ミカンは,慶応元年宇和郡俵津浦の苗木商熊吉が,兵庫県川辺郡東野村より,温州ミカン苗55本を導入,立間村白井谷の加賀山千代吉が植栽したのが,紀州産苗木導入のはじめとされている。その後明治初年には,立間村の三角勘六が商用で上阪するのに託して,前記東野村より温州苗木数十本を導入し,加賀山金平等がこれを試植した。次で明治4・5年ころより直接東野村から苗木の購入を行い,山野を開墾,或は良圃に栽植して,果樹栽培の有利性を説き勧奨に務めた。特に加賀山金平は,自ら東野村に赴き,苗木を購入移植して益々栽培の拡張をはかった。明治17年東京で開催された第10回全国重要物産共進会に加賀山金平が出品したリウリン(温州ミカン)が一等賞に入賞し,立間ミカンの名声をあげた。その外在来品種の中から優良品種の接穂を前記東野村に送り,優良苗木の繁殖につとめるなど,立間ミカン中興の祖となった。

 加賀山 平次郎 (かがやま へいじろう)
 明和7年~天保15年(1770~1844)温州ミカン導入の先覚者。吉田領の宇和郡立間村白井谷(現,北宇和郡吉田町)生まれ,古吉とも称した。明治24年版『愛媛県農事概要』に「蜜柑ハ北宇和郡立間村ン特産ニシテ,伊予大蜜柑卜称スルモノ即チ是ナリ」とある。この立間村に温州蜜柑を最初に導入したのが平次郎であった。寛政5年(1793)平次郎23歳のとき,土佐国香美郡山北村(現,香我美町)から紀州原産の温州蜜柑(当時リウリンと呼ぶ,季夫人の転化か)の苗を求め,これを庭先に植えた。後にこれを母樹として,寄せ接ぎを行い,苗木を育成し,親戚・縁者に配った。この結果,温州蜜柑は立間川流域の緩傾斜面に拡大した。平次郎の長男千代吉の代にも紀州系の苗木が導入され,さらに改良された。平次郎は天保15年9月3日74歳で没した。

 加地 信之 (かじ のぶゆき)
 元文3年~文化5年(1738~1808)宇摩郡土居八か村の大庄屋。歌人。通称丈助。盛黌 またその庵の名から山中庵とも号す。風雅に一生を送ったふうで,東予一円の歌の宗匠をつとめた。安永ころの石岡八幡宮社中の「詠百首和歌」の中にその名を見出すのをはじめとして,「草庵百首和歌」で宗匠をつとめ,高鴨神社に遺る和歌資料にも信之点のものがある。周円法師の『松葉集』を出版した折にその序文を書いたのも,信之が宗匠の地位にあったからであろう。しかし信之の歌集はまだ発見されていない。冷泉為村の門人でもあった。

 加藤 彰廉 (かとう あきかど)
 文久元年~昭和8年(1861~1933)北予中学校長・松山高等商業学校長・衆議院議員。文久元年12月27日,江戸愛宕下で松山藩士宮城正脩の次男に生まれた。6歳のとき松山に帰り,加藤彰の養嗣子になった。養父は五十二国立銀行頭取を務めた。大阪英語学校で学んだ後,明治17年東京大学文学部政治学理財学科を卒業した。文部省・大蔵省出仕,山口高等中学校教頭,広島尋常中学校長を経て28年市立大阪商業学校教頭になった。同校の高等商業学校昇格(現大阪市立大学)に尽力して, 42年同校長に就任,大正4年辞職した。同校卒業生の推薦で同年3月衆議院議員選挙に立ち,最高点て当選したが,翌5年任期途中で郷里松山の私立北予中学校(現松山北高校)の校長になった。同校で独立自尊の精神を強調する傍ら,加藤恒忠・井上要・新田長次郎らと私立松山高等商業学校(現松山商科大学)の設立を企画,大正12年同校創設と共に初代校長に就任した。 15年の第1回卒業式で「実用・忠実・真実」の訓示は「三実主義」として松山高商の校訓となっている。温厚謹厳,高邁な人格は教師・生徒から慈父の如く敬慕された。昭和8年9月18日71歳で没し,道後常信寺に葬られた。また松山高商構内に加藤記念館と胸像が建てられた。

 加藤  彰 (かとう あきら)
 天保5年~明治43年(1834~1910)第五十二国立銀行頭取として銀行業の基礎を築いた。天保5年11月12日,松山城下出淵町(現松山市三番町)で藩士岡本茂胤の子に生まれ,のち加藤家を継いだ。初名博。藩校明教館に学び,改選流槍術達人であった。明治元年松山藩広聞所判事に任ぜられ,2年兵制判事,3年権大属庶務監察兼刑法掛,6年石鐡県刑法局課長を歴任して官を辞した。10年6月特設県会の議員に選ばれ,その後,15年8月~19年3月, 22年12月~23年2月県会議員に在職したが,政治活動にはあまり関与しなかった。明治11年小林信近らと松山に第五十二国立銀行(現伊豫銀行)を開業し,12年郡長になった小林の後を受けて頭取に就任して同銀行の基礎を築き, 30年7月普通銀行に転換しで31年頭取を引退した。明治43年11月14日76歳で没し,道後常信寺に葬られた。北予中学校長・松山高等商業学校長の加藤彰廉は養子である。

 加藤 暁台 (かとう ぎょうだい)
 享保17年~寛政4年(1732~1792)俳人。岸上氏,長じて加藤氏,のち久村氏。別号,暮雨巷・龍門など。享保17年名古屋に生まれ,俳諧を美濃風の巴雀・自尼の父子に学ぶ。尾張徳川家に仕え,江戸詰屋敷祐筆部屋惣帳方に出仕したが, 28歳の春致仕,32歳のころ名古屋で暮雨巷一門を形成した。天明3年(1783)蕉翁百回忌取越法要を京都などで営み,復古調を唱えた。寛政2年(1790)二条家花御会の宗匠を務め,最初の「花の本」の称を得た。横井也有の庇護も受け,丈草に私淑し,蕪村一派とも吟詠,東の蓼太と並称されたが,天明六家の第一といわれ,蕉風復帰の運動を唱道し,『延宝二十歌仙』『熱田三歌仙』『去来抄』など翻刻して芭蕉を顕彰した。臥央編『暁台句集』『暁台七部集』和詩『鐘筑波』などがあり,絵画にも巧みであった。寛政4年1月20日京都にて没,61歳。松山の栗田樗堂は,天明7年(1787)大和の国めぐりをして都に上り,暁台と歌仙を巻き,暁台の序を付した樗堂の紀行句集「爪じるし」は,『暁台七部集』の一部に収められた。その後も樗堂は,暁台の教えを受け,井上士朗と暁台門の双璧といわれている。

 加藤 岡谷 (かとう こうこく)
 明治16年~昭和元年(1883~1926)今治市桜井に生まれる。本名を興といい,岡谷の他楊舟とも号している。松山中学在学中に聴覚を失い,画道に専念する。京都に出て四条派の三宅呉暁,川北霞峰に師事する。各地の共進会で活躍し褒賞を受ける。郷里にて没す。 43歳。

 加藤 貞泰 (かとう さだやす)
 天正8年~元和9年(1580~1623)大洲6万石加藤家初代藩主。幼名光長・作十郎。甲斐国府中24万石領主加藤光泰の長子として近江国北部磯野村に生まれる。父が朝鮮の役で死去した後,文禄3年15歳で家督を相続し,美濃国黒野4万石に封ぜられ,慶長5年関が原の戦いで近江国水口城を攻略し,その功により同15年伯者国米子6万石に封ぜられ,左近太夫に任ぜられた。慶長19年~元和元年の大坂冬・夏の陣での軍功により,元和3年伊予国大津(洲)6万石へ転封となり,8月大津入城後は藩体制の確立に努めるいっぽう,同6年大坂城改築普請などの手伝いを勤めた。同9年大津藩主として在位わずか7か年43歳で病死。江戸浅草海禅寺に葬られる。貞泰人となり仁愛深く,節義を重んじ,武術に達し,とりわけ八条流馬術に長じ,師植原次郎右衛門儡原より「無明一巻抄」の秘伝を受けた。また暇日には詩を賦し,歌を詠じ,連歌を好打など風流人であった。

 加藤 自慊 (かとう じけん)
 天保8年~明治29年(1837~1896)儒学者。宇和島藩士で加藤安賢の子として生まれる。幼少のころより学を好み,明倫館を経て,小松の近藤南海に学ぶ。安政5年,江戸に出て昌平黌に入り,帰藩して明倫館教授となる。維新後は神山県~愛媛県の県官として教育の任に当たる。明治14年旧藩主伊達春山の後援で継志館を開いて子弟の教育をする。県令関新平の地方巡視で継志館の学風志気に感銘して右大臣に上中し,自慊は太政官より褒賞ぜられた。更に明治24年宇和教育義会の企てで明倫館が設立されるや招かれて教鞭をとる。継志館の教授も兼ねて人材養成に努める。明治29年5月,59歳にて死去。

 加藤 太郎松 (かとう たろうまつ)
 安政4年~昭和11年(1857~1936)漁業功労者。西宇和郡三崎地区における缶詰その他水産製造業の草分けと,韓国への出漁者の先達としての役割を果たしたほか地方自治の功労者。安政4年3月8日宇和島藩三崎浦串(現西宇和郡三崎町串550番地)で父千代松,母夕子の次男として生まれる。兄平太郎は5歳年上であったが39歳の若さで没した。父千代松は米・砂糖のほか雑貨商を営む傍ら農業を家業としていた。太郎松は当初家業の商店を経営していたが,明治20年,太郎松の血族5人と親友の植田虎一の計6人をもって西宇和郡串浦に水産商社「丸一組」を組織し,地元で採れるあわび・さざえを原料として缶詰工場を現三崎漁業協同紺合所在地に創設した。しかし,これらの地元資源の乱獲を防止するとともに缶詰工場の原料確保のため,明治27年に丸一組と地元漁民との間に雇傭関係を結び韓国漁場の中心地である大黒山島(全羅南道,木浦沖合)に集団で1か月近くかかって通漁し,現地にあわび・さざえの分工場を設置した。これに伴い三崎地区漁民の海士操業上の便宜を与えたため,出漁者は年を追って増加し,このころは毎年漁船70隻(5~6tの無動力漁船),漁民数にして270人余が,3月上旬~11月下旬に至る間採貝操業し活況を呈した。この漁民(海士)が採取したあわび・さざえはすべて現地の工場に水揚げされた。「丸一組」は創立以来漸次健全な発展を遂げ,工場を韓国(黒山島)に一か所,内地に三崎,佐伯,串の三か所を常設し,必要に応じて臨時に作業場を分設するまでになった。太郎松は将来の漁業動向をいち早く察知してその振興に努めたが,特に水産物の加工部に注力した。このためあわび・さざえ缶詰をはじめ,煮干いわし・海草(クロメより沃度採取)・するめ等の製造に意を用い,この改良を奨励したほか明治38年三崎信用組合を創立し,遠海出漁に多大の尽力をしたため,同40年には関西九州府県連合共進会より水産功労者として表彰された。また明治23年34歳で第1期の村議会議員に選ばれてから合計6期間同職を務めたほか,大正6年~8年の間第9代三崎村村長に就任し村政に多大の貢献をした。これ以外にも学務委員や郡会議員等の公職を歴任して,青年の風紀の粛正に熱意をもってあたり,自ら夜学会を創設し,串小学校の建築費や神社の山林を寄付するなど,地方自治の面でも多くの功績を残した。昭和11年10月12日本籍地にて79歳で没した。地元の住民は氏の功に報いるため昭和元年串部落のノカサ越に頌徳碑を建立している。

 加藤 恒忠 (かとう つねさだ)
 安政6年~大正12年(1859~1923)正岡子規の叔父,後援者で,外交官・衆議院議員・貴族院議員・松山市長を歴任して声望があった。安政6年1月22日,松山城下湊町で儒者大原有恒(観山)の三男に生まれた。幼名忠三郎,号拓川。姉の八重は子規の母である。明治3年藩校明教館に入り父の教えを受け,観山の死去と共に上京,9年司法省法学校に入校,原敬・陸羯南らが同窓であった。 12年父の伯父加藤家の養子になり, 14年中江篤介(兆民)の仏学塾に学んで一時帰省した。 16年旧藩主の息久松定謨の随員としてフランス遊学に出発,パリ法科大学などで学び,東京日々新聞の通信員を務めて生計の足しにした。 19年外務省交際官試補になり欧州の各国に出張して24年帰国した。外務参事官・大臣秘書官などを経て25年パリ駐在の書記官に任ぜられて再び渡仏,日仏条約改正などに奔走した。 30年帰国して外務大臣秘書官ついで人事課長に進んだ。 35年特命全権公使としてベルギーに駐在,万国赤十字条約改正会議などに出席した。 40年外相林薫と対立して外務省を退職,大阪新報の社長になった。 41年5月郷党の要請で松山市から衆議院議員選挙に出て当選,国際政治を論ずる立場から党派に属することを嫌い無所属を通した。 45年衆議院議員満期退任後,貴族院議員に勅選された。大正7年パリ講和会議に西園寺公望大使の随員として出席,8年シベリア派遣臨時大使としてシベリア出兵の処理に当たり満蒙・中国などを視察した。10年国際連盟協会の会員となり国連平和思想普及を遊説した。大正11年5月郷友の強い要請で松山市長に就任,城山払い下げ問題,松山高等商業学校(現松山商科大学)設立などに尽力したが,このごろから食道ガンが悪化,大正12年3月26日市長在職のまま64歳で没し,遺言により松山市相向寺に葬られた。随筆・日記などを集めた『拓川集』6冊,『拓川資料』3冊,などが残されている。正岡家を継いだ忠三郎は三男である。「代議士は全国の代害者にして1県1市の代表にあらざるゆえ……自分の言動が選挙人諸君の意思や利益と全く相反するかもしれない」とは代議士当選の際の挨拶の一部である。

 加藤 直泰 (かとう なおやす)
 元和元年~天和2年(1615~1682)新谷加藤家初代藩主,大洲第二代藩主加藤泰興の弟。名は泰但・大蔵のち直泰。『徳川実紀』に,元和9年直泰が大洲6万石のうち,1万石の内分をうけたと記しているが,実際には内分についての兄弟紛争が落着した寛永16年に,新谷1万石が成立する。同18年26歳の直泰は,在所への暇を許されて御国入し,家老佃の屋敷で所領を興す準備を進めた。翌19年春から秋にかけて在所を新(大洲市大字新谷)と定め,上新谷村のうちに陣屋と待屋敷などを建設し,大洲藩士から選別された31人の引越しを完了した。直泰は歌道にすぐれ,鳥丸権中納言光賢に学び,北野槃近能円から古今伝授を受けた。天和2年67歳で死去。新谷法眼寺に葬られる。

 加藤 文麗 (かとう ぶんれい)
 宝永4年~天明2年(1707~1782)江戸幕府中期の旗本。三代大洲藩主加藤泰恒の六男,大洲生まれ。名は泰都,幼名織之助,諱は泰高。正徳3年大叔父加藤泰茂(旗本2,000石)の養子となり,翌年家督を継ぎ寄合となり,享保17年御使番となり,大坂御目付代などの諸職歴任,寛延3年大御所吉宗隠居付,西丸御小姓組番頭となり,従五位下伊予守に任ぜられた。翌年吉宗逝去に依り諸役御免となったが,のち西丸御小姓組番頭に再任された。宝暦6年病により役儀を免ぜられ,隠居して人道,豫斎と号した。文麗の号の示すように画才に秀れ,狩野周信を師とし絵筆に親しむこと29年,狩野派の正風を修め一流画家となり,安永7年『文麗画撰』を門人らが刊行した。描くところは,多方面にわたっていたが,とくに人物を得意としていた。彼の作品は大洲藩内の社寺・旧家に数多く遺されている。天明2年75歳で没。東京都麻布広尾光林寺に葬られた。

 加藤 正恵 (かとう まさえ)
 嘉永4年~昭和6年(1851~1931)貴族院多額納税者議員。嘉永4年5月新居郡黒島村(現新居浜市)の地主の家に生まれた。明治15年以降黒島村・多喜浜村戸長を勤め,多喜浜村郵便局長を兼ねた。明治37年9月貴族院多額納税者議員に選ばれ, 44年9月まで在職した。互選者資格名簿によると国税納入額は1,787円であった。貴族院議員選挙は15人の多額納税者の互選で行われたが,加藤互選の際は先の2度にわたる選挙でいずれも互選者の多い新居郡から当選者を出していたため他郡互選者から不満が出たので,加藤は小西荘三郎らの要求するままに額面4,600余円の公債証書を愛媛親睦会と称する互選者団体に寄付して当選した。加藤はのちこれを選挙法違反であるとして返還請求訴訟を起こしたので,庶民の関与しない貴族院議員互選会の裏面が白日にさらされた。昭和6年2月25日79歳で没した。

 加藤 泰秋 (かとう やすあき)
 弘化3年~大正15年(1846~1926)大洲藩加藤家第十三代藩主。第十一代藩主泰幹の次男。実名康之進。元治元年兄泰祉の急死により,善嗣となって18歳で襲封したが,直ちに慶応元年から向こう3か年間の倹約を令すると共に,家臣給与を100石につき25石と低く抑えるいっぽう御用銀・寸志銀を村方で募集して,軍備費などに充てた。慶応初年から明治初年にかけてインフレ的傾向がつのり諸物価が高騰したので,諸賃金や藩専売としていた楮・紙などの価格の引き上げを行い,切手を発行してインフレに備えたが,諸物価は高騰するばかりであった。慶応2年(1866)の凶作にあたっては,夫食元立千人講を企画し,領民の相互扶助に役立てるとともに,貯粟を放出して窮民を救済した。朝廷尊崇の念が厚かった泰秋は,慶応2・3年総督以下200人の兵を派遣して摂津西宮の警衛に当たった。同3年の小御所会議の際には,藩兵を出して御所を警衛した。明治元年大坂の徳川慶喜親征の行幸には先鋒供奉に任じ,戊辰の役に当たっては,2箇小隊(武成隊という)を甲府城警衛・奥羽征討に派遣し,明治元年天皇東幸の際,騎馬で行幸先駆を勤めた。同2年版籍奉還を願い出て,6月大洲藩知事に任命され,同4年東京府貫属を命ぜられ廃藩置県により免職。上京して5か年間明宮(大正天皇)に伺候した。同24年には北海道の虻田郡内に, 173町歩の農場と330町歩の牧場を経営して,喜多郡民を送り込んで,北海道開拓に貢献した。また東京に学寮肱水舎を開設し,旧藩民子弟の育英に努めた。明治17年子爵を授けられ,貴族院議員も務め,従二位に陞り80歳で死去,大洲曹渓院に葬られる。

 加藤 泰温 (かとう やすあつ)
 享保元年~延享2年(1716~1745)大洲加藤家第五代藩主。第四代藩主泰統の嫡子。実名は泰古・泰見のち泰温と改めた。父の急死により享保12年12歳で父の遺領を相続。ところが5年後の享保17年には蝗害によって収穫皆無となり,大飢饉となって多数の飢人が生じ,餓死者も出る始末となり,藩をあげて飢饉対策に取り組んだ。一方大飢饉発生の直前と元文5年(1740)に,城下町に大火災が発生した。この天災と人災に加えて,参勤交代に伴う公役・勅使供応の公役などにより,藩財政が極度に窮乏したので,御用銀・御用米の拠出を命ずると共に,享保20年・元文2年には,厳しい倹約令を発して財政の緊縮を図った。好学の泰温は,文教に力を注ぎ,陽明学を三輪執斎に講せしめ,その高弟の川田雄琴を大洲に招き,藩民の教化にあたらせ,延享元年には学堂建立の命を発したが,翌年28歳で泰温か死去したので中止となった。冨土山如法寺に葬られる。

 加藤 泰興 (かとう やすおき)
 元和5年~延宝5年(1619~1677)大洲加藤家第二代藩主。初代藩主貞泰の嫡子として,米子に生まれる。元和9年家督相続。この時弟大蔵直泰に1万石を分知する。(寛永19年実施)寛永元年従五位下出羽守に任ぜられ,同15歳で初めて大洲入城。直ちに藩体制の確立につとめ,まず藩権力の基盤である藩領の整理統合を図り,寛永11年松山藩との間に替地を断行し,大洲領飛地として本領から離れていた桑村郡と風早・浮穴郡の内と松山領であった伊予・浮穴郡の内と領地交換をして,全領域の大部分を一つにまとめあげた。次に家臣団の充実につとめ,先代貞泰就封の際引率した給地侍は,泰興の代には新規召抱えなどにより209人に激増した。さらに藩の軍事力強化のため再三にわたり,大洲城の城塁修補につとめた。このように藩権力の強化につとめると共に,幕府から課せられた大坂城・江戸城総城郭改修・仙洞御所復興などの普請手伝いの公役を勤めた。さらに寛永4・11年の2度にわたり松山城,寛永17年高松城,明暦3年丸亀城とそれぞれ諸城の在番役を果した。延宝2年2月隠居。その間泰興は心流槍術の稽古に励み,自得した槍術の極意を自著『槍術勝負工夫ノ書』で述べており,近世槍術の名手として,『武芸小伝』にも名を連ねている。槍禅一如の境地に達するため,名僧盤珪永琢に帰依し,寛文11年(1671)永琢を開山として,冨士山如法寺を建立した。隠居後入道して月窓と称した。58歳で死去。如法寺に葬られる。

 加藤 泰觚 (かとう やすかど)
 明暦2年~享保11年(1656~1726)伊予新谷藩1万石加藤家第二代当主。明暦2年に生まれるが,大洲第二代藩主泰興の孫であり,第三代藩主泰恒の兄である。新谷初代藩主直泰に嗣子がないので,寛文9年本家から養子として入る。宝永元年と正徳3年に駿府城加番を命ぜられ,小藩にとって過大な負担となる。享保元年10月12日病気で隠居を許され,家督を嫡男泰貫に譲る。享保11年2月24日,71歳で死去。東京都台東区松が谷の海禅寺に葬られる。

 加藤 泰済 (かとう やすずみ)
 天明5年~文政9年(1785~1826)大洲加藤家第十代藩主。第九代藩主泰候の嫡子。天明7年父の急死により1歳余で相続。公辺には天明元年生まれとして届け出た。実名は泰重から泰定,のち泰済となった。前代に引続き公役の負担は重かった。寛政11年(1799)の美濃・尾張の東海道筋川々普請の手伝いとか,文化10年・文政6年の関東川々普請の手伝いなどの公役がそれである。そのうえに寛政11年の全城下町780軒の火災,文化3年の江戸上・下両屋敷の火災と文化元年・文政9年の大洪水による水災などにより甚大な被害が出た。この結果財政が窮迫したので,長い実施期間を規定した倹約令を公布した。寛政元年から5か年間,同6年から10か年間延長,つづいて7か年間延長という具合に倹約期間の延長が図られ,倹約発令期間中は家臣の給与は高100石につき20石支給という低さに押さえられた。こうして文化末年から文政初年にかけて藩財政もようやく安定するようになった。文政3年(1820)泰済は,文武の奨励・城中儀礼の細目・身分格式の遵守などをうたった「文政法令」を布達し,士風の刷新を図った。一方郷町へは随時触書を発して,庶民生活を規制し,また商品の運輸規定を公布し,享和2年には商札条目を規定して,在郷・在町の商業を統制した。泰済は,このように藩政改革を推進した。好学の泰済は,陽明学・朱子学を学び常盤井守貫から橘家神道を吸収し,諸学志向の藩風を築き上げた。とくに泰済が師父典範として敬仰していた韓魏公の伝録を,自ら校合し刊行したことは注目される。41歳で江戸で没し,浅草海禅寺に葬られる。

 加藤 泰武 (かとう やすたけ)
 延享2年~明和5年(1745~1768)伊予大洲藩6万石加藤家第七代当主。第五代藩主泰温の次男として,父没後1か月の延享2年7月13日大洲に生まれる。違腹の子である。実名は初め泰政という。宝暦12年2月,かねて願い出ていた泰衑の隠居に伴い18歳で家督を相続するが,治政は僅かに6年で終わる。その間財政難は相変わらず続いた。就任早々の宝暦12年3月,朝鮮通信使来朝に際し供応役を命ぜられ,その所要経費捻出のため家臣一統に対し,給与の差上げを命じ,高百石につき九人扶持支給という最低給与を実施する。明和5年には,尾張・美濃・伊勢の川堤普請の公役のため領内郷村に3か年の高懸りを命じ,寸志銀も申し付けた。明和5年5月22日,24歳で死去。墓所は大洲市柚子冨士山如法寺にある。

 加藤 泰理 (かとう やすただ)
 文化12年~慶応3年(1815~1867)伊予新谷藩1万石加藤家第八代当主。文化12年11月21日,第七代藩主泰ともの子として生まれる。天保2年3月父の隠居に伴い,17歳で家督相続。天保年間も藩財政が窮迫していたが, 1度廃校中絶していた藩校求道軒を再興し,侍講の暉山児玉堅蔵清徳を教授とし,一切の経営を委任する。嘉永元年11月には対外情勢を考慮して,郷・町に多額の御用銀を割り付けて,軍備の充実を図った。しかし参勤交代の公役は歴代の通り勤める。文久2年12月20日隠居し,慶応3年3月20日,江戸で死去。 53歳。東京都台東区松が谷の海禅寺に葬られる。

 加藤 泰恒 (かとう やすつね)
 明暦3年~正徳5年(1657~1715)大洲加藤家第三代藩主。第二代藩主泰興の孫。実名は泰経・泰常・泰恒。延宝2年祖父泰興の隠居により,18歳で祖父の家督を相続した。泰恒は在府中火消番を16回,神田橋門番を2回,江戸参向勅使供応役2回,日光参向門跡供応役3回朝鮮通信使供応役1回などの諸公役,宝永6年には江戸城普請手伝いの公役を勤めたが,大洲藩にとっては,過大な経済負担となって,藩財政を圧迫するようになった。そこで彼は天和元年,家中への俸禄給与を知行給与から蔵米給与へと変更し,給与基準を免四ッならしにして,知行地支配の権力すべてが,藩主に帰一する体制を確立した。天和3年(1683)村々百姓に対し,その心得箇条書を公布して,家業出精・綱紀粛正・ぜいたく禁制・年貢割付の公正・旅人宿泊規定などを令した。乗軒と号し,絵画を狩野第2代養朴常信に学び,諸侯中の画道の雄と称され,宝永2年(1705)には富士鷹の3幅を描き,朝廷に献上した。和漢の書道を究め,清水谷家について和歌をたしなんだ。治世42か年に及んだ泰恒は,痢疾により逝去。 58歳。冨土山如法寺に葬られる。

 加藤 泰貫 (かとう やすつら)
 延宝4年~享保13年(1676~1728)伊予新谷藩1万石加藤家第三代当主。延宝4年10月25日,二代藩主泰風の嫡男として生まれ,父泰觚の隠居に伴って享保元年10月家督相続,11か年の治政のうち,享保5年9月から1か年間の駿府城加番勤務のほか記すべきものがない。享保12年6月3日隠居,翌13年9月21日,新谷で死去。 51歳。大洲市新谷の大恩寺に葬られる。

 加藤 泰候 (かとう やすとき)
 宝暦10年~天明7年(1760~1787)伊予大洲藩6万石加藤家第九代当主。第六代藩主泰衑の四男として宝暦10年3月2日に生まれる。明和6年5月に就封したが,以後天明7年7月までの治政18年間は,まさに災害と公役対策に終始していたといえる。明和9年江戸の大火によって大洲藩屋敷が全焼し,藩は経費節約のため大洲中の丸の屋敷を解体し江戸へ回送した。天明7年には肱川流域で大洪水が発生したり,通常参勤公役や江戸参向勅使の供応役,関東筋・豆州川々の普譜手伝の公役など財政難が続き,明和9年から3か年の倹約令を発し,家臣の給与を高百石につき9人扶持とした。ついで,安永3年からも5か年の倹約令を出し,天明3年には9人扶持給与とするなど財政難切抜けの施策を実施する。天明7年7月4日,28歳で死去,東京都台東区松が谷の海禅寺に墓所がある。

 加藤 泰祉 (かとう やすとみ)
 天保15年~元治元年(1844~1864)大洲加藤家第十二代藩主。第十一代藩主泰幹の嫡子。名は於菟三郎のち泰祉に改める。嘉永6年父の急死により9歳で家督相続。同6年江戸城西の丸普請手伝い,文久元年和宮下向にっき勅使馳走役などの公役を勤めたが,文久2年からの参勤交代制改革に伴い幕府の公役は減少した。しかし安政元・2年に大地震が起こり,藩領・江戸に大震災が発生し,大洲城・江戸藩屋敷の被害は甚大であった。加えて安政2・6年と万延元年・文久2年の各年にそれぞれ洪水が起こった。大洲城中の大破に対しては,村々より加勢夫を差出し,分限者から借上銀を命じ,庄屋達から加勢夫30人以上の銀納負担が募られ,災害復興が進められた。万延元年農事奨励費を生み出すための勧農銀制度を発足させる一方,連年の災害・不作に疲弊した村方を救済するため,囲麦・貯粟の放出,田畑起料300貫余の下付,困窮者救済事業(郡中波止場砂掘工事など)の実施など諸施策を推進した。尊王攘夷の立場をとっていた泰祉には,『攘斥書』・『防海策』などの著述がある。元治元年,20歳で没し,冨土山如法寺に葬られる。

 加藤 泰とも (かとう やすとも)
 天明3年~明治4年(1783~1871)新谷加藤家第七代藩主。第六代藩主泰賢の嫡子。幼名を恒吉,号は誠翁。文化7年父の隠居により, 26歳で家督相続。新谷藩は前年から引続き5か年にわたる本家支配下にあったが,同10年泰ともが藩政に慣れたとみて,本・支藩熟談の上,行政面は新谷の手に取り戻したが,財政面は本家支配が続いた。同11年秋は,本家支配の年限明けの年であったが,倹約令は引続き徹底した厳正なものにし,風紀の粛正を命じた。従来の検見取の税法を,経費節約のため定免制に改め,向こう3か年間実施することとした。文政3年藩は村々に御用銀を命じ,江戸表の借用銀の増加を緩和しようとした。天保2年48歳で隠居を許され,新谷に移り明治44年,88歳で逝去。新谷楓山に神葬。

 加藤 泰宦 (かとう やすのぶ)
 元文2年~明和8年(1737~1771)伊予新谷藩1万石加藤家第五代当主。元文2年8月,第四代藩主泰広の子として生まれる。父の隠居に伴って宝暦6年8月家督を相続し,同年12月18日従五位下,近江守に叙任する。宝暦13年朝鮮通信使来朝につき,淀から京都,遠江国新周駅までの鞍皆具二匹分の差出しを命ぜられ,明和5年には駿府城加番を命ぜられるなど公役を果たす。明和8年7月4日,35歳で死去。墓は大洲市新谷の大恩寺にある。

 加藤 泰令 (かとう やすのり)
 天保7年~大正2年(1836~1913)新谷加藤家第九代藩主。第八代藩主泰理の嫡子。名は真之助。文久2年父泰理の隠居に伴い家督相続。幕末維新動乱期の藩政をみること数年,文久3年には沿岸警備のため,農民鉄砲隊「郷組」を組織した。同年京都朝廷守衛の親兵貢進を願い出て許され,泰令に召命内勅が降下したので,藩兵を率いて参内し,宮廷守護の任についた。明治元年天皇東京御幸にあたって,供奉後衛の任を果した。同2年大洲藩主加藤泰秋とともに版籍奉還を願い,新谷藩知事を拝命。同4年東京府貫属を命ぜられ,廃藩置県により藩知事免職。明治17年子爵を授けられ,同40年正三位に叙せられた。大正2年, 77歳で逝去。浅草海禅寺に葬られる。

 加藤 泰広 (かとう やすひろ)
 宝永7年~天明5年(1710~1785)新谷加藤家第四代藩主。大洲第三代藩主泰恒の7男。幼名は右京,実名は泰春のち泰広と改名。享保9年(1724)新谷第三代藩主泰貫の養嗣となり,同12年家督相続。泰広は好学で,江戸藩邸に秋田の人多田儀八郎を招き,その講義を受けた。新谷藩の藩士教育の矯矢であろう。延享5年(1748)朝鮮通信使の帰国に当たり,遠江国新居駅より淀駅までの鞍皆具2匹分差出しの公役および,同年の駿府城加番などの公役を勤めた。宝暦6年隠居,同9年新谷での療病を許され,天明5年75歳で逝去。新谷大恩寺に葬られる。

 加藤 泰賢 (かとう やすまさ)
 明和4年~天保元年(1767~1830)新谷加藤家第六代藩主。第五代藩主泰官の嫡子。幼名は覚十郎。明和8年父の死により, 4歳で家督相続。天明3年藩校求道軒を創立して,藩士の教育につとめた。寛政12年(1800)の駿府城加番などの公役と領内に頻発した災害による年貢収入の減少により,藩財政が窮迫した。泰賢は全藩にわたって倹約を命ずる一方藩内郷町に寸志銀・御用銀の拠出を求め,家臣の給与も格段に引下げて,財政難を切り抜けようとしたが,遂に文化6年には破産の危機に立ち至った。この年から5か年間宗家大洲藩が支藩新谷を行政・財政にわたって全面的に管理することになった。その責を負ってか文化7年には隠居,翌8年には剃髪して出雲入道と称した。天保元年63歳で逝去。新谷法眼寺に葬られる。

 加藤 泰衑 (かとう やすみち)
 享保12年~天明4年(1727~1784)大洲加藤家第六代藩主。池ノ端加藤泰都の長男。実名亀之助・藤馬,号は楊(穴冠にふるとり)・喩堂・挙扇。延享元年西の丸徳川家重の御小納戸となり,翌2年小姓を拝命したが泰温の急死にあい,その養嗣となり,泰温の遺領相続が許された。泰衑は,延享5年の朝鮮信使供応役をはじめ,3回にわたる江戸下向勅使の供応使などの公役を勤めた。これら公役と火水の災害によって,前代に引続き藩財政が窮乏してきたので,延享から宝暦にかけて倹約令を公布するとともに,藩士の給与を高100石につき米豆15~19石の最低水準に押し下げて,財政難から脱却しようとした。寛延3年(1750)には,内ノ子を中心とした1万8千人の農民騒動が起こったが,農民の要求の大部分をうけ入れて解決した。泰衑の教養は大名間で有名であったが,養父泰温の家史編さんの遺志を継いで,ひろく史料の収集編さんにつとめ,15か年間かかって宝暦9年(1759)『北藤録』全20巻を完成した。また泰温の遺志を継いで,延享4年藩校止善書院明倫堂を創立するなど文教の発展に尽くした。 57歳で死去。墓地は大洲西山根曹渓院にある。

 加藤 泰統 (かとう やすむね)
 元禄2年~享保12年(1689~1727)大洲加藤家第四代藩主。第三代藩主泰恒の次男。巳之助通称左門ついで隼人と改める。号真軒。正徳5年(1715)家督相続。同6年には江戸参向勅使の供応役,享保2年には鍛冶屋橋門の普請手伝いの公役を勤仕した。泰統の治政わずか12年。この間前代から引続いた風水害ことに肱川大洪水の頻発,城下町の火災などにより財政難に陥った藩政を立て直すために,それまで検見取だった税制を改革しようとして,享保元年から5か年の期間,定免制に切替えを断行した。その結果収入の固定平均化が実現し,財政が安定するようになった。いっぽう彼は藩用不足を補うため,町人百姓に対し,藩債・御用銀・借上米・引上米など出銀米を命じ,財政難を切り抜けようとした。借上米・差上米は,この後藩財政運用上通例となった。享保12年37歳で死去。冨上山如法寺に葬られる。

 加藤 泰幹 (かとう やすとも)
 文化10年~嘉永6年(1813~1853)大洲加藤家第十一代藩主。第十代藩主泰済の嫡子。実名は泰仁・作十郎から泰幹となる。号は簡斎・岳竜。文政9年14歳で家督相続。文政12年(1829)には,甲斐国川々普請手伝いの公役を命ぜられ,その経費の一部負担として家臣達の給与のうち高100石につき1石の割合で差上げ米を命じた。天保7年(1836)の江戸参向勅使,天保13年の江戸参向智恩院門跡それぞれの供応役を勤め,嘉永元年には大坂城修復手伝いを命ぜられたので,それら公役経費の一部を負担させるため,領内村々に村高100石につき米6升の高懸りを提出させた。いっぽう歴代藩主が苦しんだ大洲盆地の大洪水の被害を軽減するため,天保2年10月以降肱川が盆地から川下へ流出する慶雲寺山角を削除し,川幅を拡げる工事を進めた。しかし同7年・9年には不熟損毛の田畑3,600町歩に及ぶ大水害に見舞われ,風水害は弘化2・3年,嘉永3・5年と続発した。このため天保10年から向こう5か年間の倹約を令し,藩当局の予算も2割減として,経費の節約を令した。天保13年には,幕政改革にならって,諸物価引下げ令を下し,「諸色値段定」で公定価格を示した。泰幹は父の遺業の『韓魏公伝録』を全部完成したうえ,10か年かけて『韓魏公集』17冊を刊行した。なおこの書の印行はわが国では唯一のものである。 40歳で没し,浅草海禅寺に葬られる。

 加藤 泰行 (かとう やすゆき)
 宝暦3年~明和6年(1753~1769)伊予大洲藩6万石加藤家第八代当主。宝暦3年6月27日,第六代藩主泰衑の長男として生まれる。名は初め泰顕のち泰英,相続して泰行と改める。治政わずかに10か月で,明和6年5月8日,15歳で死去。墓所は東京都台東区松が谷の海禅寺にある。

 加藤 雄一 (かとう ゆういち)
 明治34年~昭和25年(1901~1950)逓信省官吏・松山逓信局局長。明治34年2月26日温泉郡新浜村高浜(現松山市)で生まれた。松山中学校・松山高等学校を経て大正14年東京帝国大学法学部政治科を卒業した。同年逓信省に入り,昭和5年貯金局事務官に任ぜられ,下関貯金課長・仙台貯金支局長・大阪逓信局を経て松山逓信局長に就任した。 20年6月退官,22年4月初の県知事選挙に立候補したが,青木重臣に敗れた。昭和25年12月12日49歳で没した。

 加藤 嘉明 (かとう よしあきら)
 永録6年~寛永8年(1563~1631)松前城主から松山城下町を建設し愛媛県に縁の深い武将,幼名を孫六,左馬助と称し,永禄6年三河国幡豆郡永良郷(愛知県尾西市)に生まれた。父は岸三之丞教明,少年の頃父に従って近江国に出て羽柴秀吉に仕えた。幼少から騎馬に長じ,秀吉の臣,加藤景泰に知られ養子となる。天正年間賤ヶ嶽の戦いで七本槍の1人として武名を揚げ,伊予郡松前に入り6万石を領した。また浮穴,和気,温泉,伊予の4郡中で4万石の蔵入代官を命ぜられた。また朝鮮の役では家臣河村権七郎,佃十成らを率い敵の軍船160艘を捕獲し藤堂高虎と軍功を争った。関ヶ原合戦には東軍に加わり伊予半国の大名となった。土木に長じた足立重信によって石手川を改修しまた重信川と合流せしめて松山城下町を建設し完全な平地と3,000町歩の水田を得た。
 はじめ城山は南北2つの峰から成っていたが,これを1つにするために間の谷を埋め,ここに井戸を掘り立て周囲を下方から積み上げて城の井戸とした。こうして得た城山の山容は東南が緩傾斜で北部は切り立った断崖をなしている。
 平山城としての城山の比高は約100メートルでその上に築いた5層の天守閣は堂々たる威容を備えていた。この城郭と城下町の地割があらましでき上った慶長8年10月に嘉明は家臣,町人たちを引きっれて松山の新城下町に移り住んだ。ここを松山と名付けたのは若松,松代,松江,高松などと同様に松平氏の松を表わし繁栄を願ったものという。嘉明は松山にあること25年,寛永4年(1627)に会津40万石に栄転した。寛永8年9月に江戸桜田の自邸で68歳で病没し,江戸府中の善福寺に葬られた。

 加茂 正雄 (かとう まさお)
 明治9年~昭和35年(1876~1960)学者。明治9年8月15日,松山市千船町に生まれる。東京帝国大学工学部を卒業し,機械工学を研究するために,英,米,独等に留学すること7年,帰国後は機械工学をはじめ経営産業能率に関する日本の権威者となる。東京大学の教授,退官後,名誉教授となり,法政大学工学部長にもなる。工学博士で,機械工業協会・経営士会・冷凍協会の各会長ともなる。著書には『工業日本の進路』『定量蒸気機関の設計』等がある。昭和35年8月29日死去, 84歳。

 加茂 百十 (かも ももとお)
 文化7年~明治27年(1810~1894)神職。新居郡中野村(現西条市)に生まれる。本姓は野間,名は茂庭。父は,同村伊曽乃神社神主野間下総守真澄。祀職を継いで,文化13年に従五位下上総介,天保5年近江守,同13年には従五位上・大宮司職号を勅許される。明治維新に際しては,隠れたる勤皇宗の一人といわれ,「君は海世は波なれや人は魚何を隔つる潮なるらん」などの歌を残している。孝明天皇の御歌所に奉仕し,復活された弾正台大監察にも就いたが,のちこれを辞して岡山県中山神社・安仁神社(ともに旧国幣中社)などの宮司を歴任し,明治15年には新発足の皇典講究所委員を命じられた。晩年には自ら請うて郷里に帰り,同19年に新居郡石鎚神社祠官となり,次いで愛媛県皇典講究所理事を委任されるが,明治27年3月15日,84歳で没し,神戸村中野上野の墓所に葬られた。

 香川 熊太郎 (かがわ くまたろう)
 慶応2年~昭和20年(1866~1945)実業家・海南新聞社長・松山市長。慶応2年7月30日,久米郡平井谷村今吉(現松山市)で農家の長男に生まれた。小野村会議員・小野村耕地整理組合長・温泉郡会議員などを経て,明治43年伊予米穀取引所専務理事,大正9年同取引所理事長になった。また松山市瓦斯会社の救済を引き受けて社長に就任,再建事業家として非凡な器量を示し,映画館経営,織物業など幅広く事業を手掛け,松山奥丁会議所副会頭にも推された。大正14年社長成田栄信と岩崎一高ら政友会県支部幹部の対立で傾きかけた「海南新聞」の経営を引き受け,〝不偏不党〟〝純性中立〟を旗印として紙面刷新に努めた。昭和6年11松山市長に選ばれて就任,8年2月病気を理由に退職するまでわずか1年余の在任であったが,人事の刷新,市立工業学校の県立移管,小学校整理,塵芥焼却場の改築などの難問題を解決した。その後,国民政党明倫会の県支部長となり,昭和16年戦時統合で一県一紙の「愛媛合同紙聞」が誕生すると,その初代社長に就任した。昭和20年10月12日,79歳で没し,邸内にその頌徳碑が建てられた。

 戒田 敬之 (かいだ けいし)
 明治34年~昭和52年(1901~1977)愛媛県副知事。明治34年2月19日,伊予郡岡田村(現松前町)の農家に生まれた。西宇和郡の千丈高等小学校の助教を務めた後上京,大正13年警視庁巡査を務め,夜は中央大学専門部に通って昭和3年卒業した。同年4月県庁に入り,戦後,労働部長・出納長を歴任して30年副知事に就任した。同郷の白石春樹らと共に久松県政を支え,銅山川分水問題の解決,道前道後水利総合開発事業の完成などに尽くした。 38年副知事を退職,その後県公安委員会委員長・県社会福祉協議会長などを務めた。愛媛県青少年育成協議会会長のとき,昭和39年2月「少年の日」実施を提唱しその要項を県下全中学校に発送,松山市立御幸中学校・拓南中学校が実施,翌昭和40年2月から県下251校の全中学校において「少年式」が挙行されるようになった。昭和52年5月8日76歳で没した。

 戒能 通孝 (かいのう みちたか)
 明治41年~昭和50年(1908~1975)法律学者。温泉郡三内村(現川内町),井内戒能氏の後裔で,栄三郎の長男として長野県で生まれる。朝鮮京城大学を卒業。民法・社会学を専攻し,早稲田大学,東京都立大学の教授となる。気品のある学者として著名で,昭和28年早稲田大学が日経連の資金援助のもとに経済学講座を増設したことに抗議して辞任をしたり,日本人権協会長として人権擁護に非常に熱意をもった進歩的学者として有名であった。昭和39年岩手県小繋地区の入会権をめぐる争議には都立大教授の職をなげうって,その退職金と自宅を売って訴訟費用に投じ,自ら弁護士としてその支援にあたった。法律学者と人権擁護の精神を貫くために全生涯と全財産をかげたことは,当代まれにみる人物といえる。昭和44年東京都公害研究所の初代所長となり,雑誌「公害研究」を出す。著書には『社会生活と宗族法』『裁判』『法廷技術』『暴力』『法律入門』などのほか,時事評論も多い。その強烈な個性と行動力は,戦後日本法学界に異彩を放っている。昭和50年3月22日,67歳で死去。

 戒能 通森 (かいのう みちもり)
 生没年不詳 戦国末期の久米郡南方,則之内,浮穴郡井内(いずれも現川内町)地域を支配した領主。通運の子。備前守の官途を有し,出家して法名を顕意と称した。則之内の大熊城を本拠とする。大熊城は,標高850メートル,比高約650メートルの高峻な山頂にある山城で,多数の郭と堀切の跡を今にとどめている。
 戒能氏は古くから河野氏の重臣で,通森は,『河野分限録』によると,御一門32将,家老5人,御侍大将18将のうちの1人に数えられている。家臣として,宇和川,小山,大平,野口,上野,江戸,樫尾,森,南,吉井,山前,大野,戒能などの諸氏が記録されている。確実な文書史料上の初見は,永禄10年の村上通康・平岡房実連署書状に「戒能備前守」と見えるのがそれである。『予陽河野家譜』によると,豊後大友勢,中国勢,阿波三好勢が来襲した時,あるいは喜多郡地蔵嶽城(現大洲市)主大野直之が反乱をおこした際など河野氏の軍中にあって重要な役割を果たしている。また,天正13年(1585)小早川隆景の伊予進攻の際,河野通直に降伏をすすめたのも通森であったという。また,天正15年の通直の伊予退去後は,命によって御台所の伴をしたという。死没年は明らかではないが,川内町井内の大通庵に後世建立された通森の墓がある。子に通次と通邑があり,通次は早逝したが,通邑は帰農して近世井内村の庄屋になったと伝える。

 鍵谷 カナ (かぎや かな)
 天明2年~元治元年(1782~1864)伊予絣の創始者。カナは今の松山市西垣生今出の農家鍵谷清吉の娘として天明2年に生まれている。元治元年5月28日82歳で没し,墓は今出の長楽寺にあり,過去帳は松前町の善正寺に,位牌は今出の小野山フミエ宅で祀っている。長楽寺の墓は今出の共同墓地から昭和28年12月25日に柳原多美雄らにより,ここへ移したもので夫婦墓である。カナは小野山藤八に嫁した。主人は俗名四郎左ヱ門で天保10年正月25日とある。戒名は「春岳浄勇信士・慈光妙照信女」と刻まれている。後にカナは普益院の院号を贈られている。
 胸像が松山城の長者平にあったが昭和58年に絣会館(松山市久万の台)前に移した。伊予絣の記念碑が今出の三島神社と長楽寺と道後公園内に建っている。伊予絣の創始者が鍵谷カナであるのに異論はないが,創始した年代と,カナの独創か久留米絣の模倣か異論がある。三島神社と道後公園の碑と伊予史精義の模倣説に対して,長楽寺の記念堂のは独創説すなわち押竹説である。
 昭和4年高松市の織物研究家田中清範が来松し,久留米絣模倣説は次の諸点で誤伝としている。久留米絣の井上伝はカナより6歳若いこと。享和2年は伝は14歳であること。この年カナは長男が生まれて金比羅参りは無理なこと。今出辺りの人は久留米の人々と一緒の船で参詣する筈がないこと。久留米絣は絣の発祥地でなく享和2年には小千谷・薩摩・琉球・大和で絣が織られており,松山では道後縞が普及していたことなどを挙げている。起源を文化年間とした本があるが,これは川崎三郎教授が「松山高商論文集」で誤りであることを指摘している。

 景浦 直孝 (かげうら なおたか)
 明治8年~昭和37年(1875~1962)明治8年7月12日松山城下の北夷子町72番戸(現三番町二丁目1-3)に生まれる。父は充孝,母は與禰。伊予史談会を創立,幹事・顧問・名誉会長となり,松山子規会会長としても活躍。稚桃と号した。明治27年県立伊予尋常中学校を卒業,生石尋常小学校准訓導・湯渡高等小学校訓導などを経て,明治34年県立松山高等女学校に奉職。大正15年から昭和13年までは私立北予中学校教諭。
 大正3年西園寺源透・曽我部一郎らと「愛媛県を中心とする歴史及び地理の研究並びに資料を蒐集保存すること」を目的とする伊予史談会を創設した。
 「伊予史談」に発表した論文・評論は100編に近い。特に先人顕彰に尽くし川田雄琴・土居通重・三輪田元綱・三上是庵・村上義弘・重見通勝・得能淡雲など贈位された人物や松平定政・烈女松江・藤原純友・香波晋・夏目歌石・正岡子規・吉田蔵沢・栗田白堂・原田佐之助・近藤篤山・三輪執斎・篠崎三島・矢野玄道・新田義宗・同義治・伊予来目部小楯・加藤嘉明・広橋太助・蒲生氏・義農作兵衛・佃十成・田中一如などを研究紹介している。
 文化・経済史の論文としては「伊予絵画史の片影」「茶道の沿革と松山藩」「歴史上より見たる江戸時代の経済統制と伊予」「漢詩の沿革と伊予の漢詩人」「黄檗宗の沿革と伊予の千秋寺」「道後温泉の沿革について」「地名から見た伊予商業史の一班」「伊予に於ける近世画道の沿革」などがある。
 昭和28年3月19日愛媛県教育文化賞・同30年1月愛媛新聞賞を受け,同35年1月4日には故柳原極堂翁についで2人目の松山市名誉市民に選ばれた。
 主な著書としては大正4年,『伊予史料の研究』,大正6年陶山斌二郎・羽田又永と共編の『愛媛県誌稿』,同13年『伊予史精義』,昭和9年『伊予史の研究』,同29年『伊予文化史研究』,同36年『伊予史論考』,昭和45年『伊予史点描』(遺稿集),その他十数種がある。『伊予史精義』は初の系統的な伊予の通史である。この書は,伊予史談会の西園寺源透・菅菊太郎・曽我部一郎・三宅自得らの研究成果を取り入れている。
 景浦の活動は新体詩にも及んだ。明治33年の「伊予鉄道唱歌」は景浦と田中好賢の共作。昭和37年8月19日に87歳で病没,小坂町墓地に葬られた。

 景浦  将 (かげうら まさる)
 大正4年~昭和20年(1915~1945)プロ野球選手。大正4年7月20日松山市永代町生まれ。腕相撲と遠投抜群で水泳,剣道など万能の景浦は先輩藤本定義コーチに非凡を認められ松山商業学校3年で野球部入り。昭和7年第9回選抜中等野球大会で2度目の優勝をとげた松山商業学校は史上初の春夏連覇をめざし同年8月第18回全国中等野球選手権大会決勝に臨んだ。が,中京商と延長11回3-4で惜敗し藤本監督の野望は断たれた。景浦は投手兼三塁手として同点三塁打を放ちヒザ骨折のままプレーを続ける敢闘ぶりは名勝負と共に球史に残る。立大に進み1年生で早くもレギュラー,2本塁打を放つなど強打で昭和10年秋のリーグ優勝に貢献,同年中退,先輩森茂雄監督の阪神入り。翌11年12月9日巨人・阪神同率決戦で四番景浦は巨人沢村投手から巨神戦1号本塁打を記録。同年秋防禦率1位で最優秀投手,同12年秋首位打者,同年春,同13年春連続打点王。投手としてまた三塁,外野も守る不世出のスーパースターといわれた。同14年(1939)入隊,同20年(1945)5月20日比島カラングラ島で30歳の若さで戦死。同40年12月野球殿堂入り。

 影浦 房五郎 (かげうら ふさごろう)
 明治元年~昭和26年(1868~1951)南山崎村長・地方改良功労者。明治元年9月21日,伊予郡上唐川村(現伊予市)で庄屋の家に生まれた。明治22年町村制実施の際南山崎村の村役場書記になり,収入役・助役を経て34年村長に就任した。以来大正15年までの長きにわたり村政を担当,小学校の統合,貧困児童の補助,学校林の造成,青年風俗の匡正,勤倹貯蓄と納税完納,道路改修などを推進,勧業面では園芸研究会を設けてびわの品種改良と増産に努め,明治44年唐川びわ共同組合を設立して特産品の保護を図った。大正5年地方功労者として県知事表彰を受けた。昭和26年6月20日82歳で没した。

 梶谷 永五郎 (かじたに えいごろう)
 明治27年~昭和60年(1894~1985)教育者。明治27年喜多郡上須戒村(現大洲市)に生まれる。上須戒小学校から県立大洲中学校を経て愛媛県師範学校を卒業。大正3年から40余年の長期間,公立学校の訓導,校長を務め,更に大洲市教育長を務めた。人となりは温情篤く,誠実で,明敏な頭脳で研究を重ね,博覧強記であった。昭和10年当時,上須戒小学校長であった彼は,村おこしについて,村の有志と真剣に語り合い,明玄農土道場をつくり,その初代の道場長となった。この道場の指導原理は「汝の郷土を開発する者は汝自らなり」ということで郷土開発に師弟同行の実践を行った。このような修練道場は各地にみられるが,「郷土」を目的原理として位置づけたものとしては昭和期の郷土教育の特色を明確にしたものである。現在,「少年自然の家」として活用されている。昭和58年には上須戒小学校に寿像が建てられた。 91歳で死没した。

 梶原 利太郎 (かじわら りたろう)
 明治19年~昭和41年(1886~1966)明治19年1月3日大洲市南久米に生まる。家業の農業を営む傍ら若くして牛馬商の免許を取り,牛馬取引の公正化を図ると共に牛馬飼養の奨励指導に努力したため地域農家に重宝がられ,その精励ぶりや高邁な人格は牛馬商仲間からも畏敬されるところとなる。大正5年には遂に喜多郡家畜商組合長に推され,以来45年の永きに亘り組合長を勤めた。この間には,畜産組合と提携し優良種牛馬の購入,改良,保留あるいは産牛馬奨励,酪農の導入などを図ると共に共進会への協力,家畜市場の整備,後継家畜商の指導育成などに努力し地域の畜産振興に寄与するところが大であった。また昭和4年には建設業を興こし,16年には県建設業協会喜多支部長となり,後には大洲市建設業協会理事長や県建設業協会理事に就任するなど,この業界での活躍も関係者の注目の的となった。このほか昭和18年には地元南久米村長を3年,同21年から大洲市会議員を永年務める間に議長職等にも就任する等家業に尽酔する傍ら,数多くの公職に就き政業界のため常に大局的見地に立って苦難をいとわず地道な努力を傾げ,なくてはならない存在での功績は誠に偉大である。かくて畜産功労者など知事表彰8回をはじめ日本家畜商組合長,全国市会議長会長など多くの表彰を受けてきた。そこで郷党こぞって氏の遺徳を偲び大洲城地の肱川を臨む岩上に高々と顕彰碑が建立されている。昭和41年5月1日80年有余の生涯をまっとうした。

 梶谷 杏洲 (かじたに きょうしゅう)
 嘉永元年~昭和3年(1848~1928)医師・俳人。八幡浜の医者で国学者であった梶谷守典の後裔にあたる。名は守真,通称は三圭,六如庵とも号した。大阪に出て小野田某に医術を学び,オランダ人エルメレンスに西洋医学を学び帰って家を継ぐ。天性文雅を好み医業の傍ら俳句をよくした。杏洲の弟に梶谷栗洲がおり兄同様医師(眼科)をしながら俳句をよくした。梶谷家は代々医家で,歌人,俳人が多い。昭和3年3月15日死去, 80歳。墓は八幡浜万松寺にある。

 梶谷 鉱之助 (かじたに こうのすけ)
 明治11年~昭和13年(1878~1938)医師・県医師会副会長。明治11年2月10日,宇和郡矢野町(現八幡浜市)で医者梶谷三圭の次男に生まれた。大阪市立第一中学校を経て明治37年京都帝国大学医科大学を卒業した。大学卒業と同時に帰郷,八幡浜で医院を開いた。当地最初の帝国大学出身医学士として名声高く,遠方より診察を請う者も多かった。外科手術を得意とし,多くの人命を救う一方貧しい患者からは一切薬礼を取らなかった。昭和10年~13年県医師会副会長に推された。大正11年以来八幡浜町会議員になり,昭和10年市制実施の際初代市長が選任されるまで市長職務を管掌し,初代市会議長に就任した。町立病院設立にも功労かおり,院長以下全医師を京都大学から招聘した。昭和13年6月8日60歳で没した。

 片上  伸 (かたがみ のぶる)
 明治17年~昭和3年(1884~1928)文芸評論家。号は天弦。明治17年2月20日,今治市波止浜に生まれる。松山中学校時代から文学への関心を抱き,早稲田大学で坪内逍遥らの指導を受け,卒業後「早稲田文学」の記者となる。後,早大講師,教授となり,文学部長も務めた。始め『テュソンの詩』を刊行したが,明治40年12月「人生観上の自然主義」を発表して本格的な文筆活動に入る。第一期は自然主義擁護の時代であるが,日本の自然主義の中に主観的浪漫的要素のあることを指摘している。これが発展して第二期の生命論的,芸術至上主義の時代に入る。大正2年の『生の要求と文学』がそれを代表する。第三期は再び現実に赴きロシア文学研究の時代に入る。大正9年早大文学部に新設された露文科の主任教授となり,人道主義にも傾いた。晩年の第四期は唯物史観の時代に入る。後のプロレタリア文学理論の基礎となる『文学評論一主として社会現象としての文学の考察』を出版している。以上のように片上伸は時代とともに歩み成長した真摯な言論家であったが,惜しくも昭和3年3月5日44歳で脳溢血のため倒れた。死後『ロシア文学研究』が出版された。完全なものではないが『片上伸全集』3巻がある。

 片野 淑人 (かたの よしと)
 文久元年~昭和9年(1861~1934)宇摩・越智・温泉・新居の各郡長を歴任して小作争議の調停に実績をあげ,初代今治市長になった。文久元年5月15日熊本県に生まれた。明治16年明治法律学校(現明治大学)を中退,司法省雇となった。各県讐察署長を歴任して愛媛県警察部保安課長に転じた。 42年8月宇摩郡長を最初に43年4月越智郡長,大正2年6月温泉郡長, 5年4月新居郡長を歴任した。温泉郡では米作争議の調停をして小作料の引下げを地主に納得させて鎮静化させた。その実績で小作争議の激しい新居郡の郡長に転任した。同郡では農事調査会を発足させて地主・小作人間の利害基礎資料を集めて小作問題の根本的解決に乗り出し裁定案を示して争議発生以来4年振りに解決に導いた。この行政手腕が買われて,大正9年11月初代今治市長に選出され就任した。今治港開築や市道37線改修,図書館・公会堂建設などの実績をあげ,昭和7年まで任期を重ねた。昭和9年3月72歳で没し,今治大谷墓地に葬られた。

 片山 萬年 (かたやま まんねん)
 明治27年~昭和45年(1894~1970)明治27年8月16日東宇和郡中川村(現宇和町)坂戸に生まれる。本名栄一。烏陵,一東,芦邨,何苦荘,萬年はその号。書家。大洲中学校から松山中学校に転校後中退。 17歳宇和町で書道教授を始め, 20歳過ぎるころ上京,日下部鳴鶴の食客となる。井上霊山主宰の雑誌「書道及画道」に「書道の科学的研究」を発表して注目を浴びた。
 大正14年大阪で中央書道会を主宰し公募展を開催。その後長尾雨山に招かれ平安書道会に参与するなど東西書壇で縦横の活躍をしてきたが,昭和4年を境に書壇の表面より引退,孤高の人をもって後進の指導に専念した。篆隷楷行草の各体を得意とし,その書は雄渾,宇和町誌は「独学新書境を開き,書聖中林梧竹の再来かと騒がれ,その書風は一時期全国を風靡した」と記している。
 戦後,松本芳翠から日展参加をすすめられたが固辞。昭和43年第二回芦屋市民文化賞を受けた。昭和45年1月18日75歳で死去。

 勝間田 稔 (かつまだ みのる)
 天保13年~明治39年(1842~1906)明治期の県知事。天保13年12月13日長州藩士の子として長門国萩に生まれた。幼名百太郎,戊辰戦争に従軍して越後国新発田へ軍監として出陣,そのまま越後府判事試補に登用されて柏崎及び小千谷民政局に在勤した。明治4年5月,十二等出仕・戸籍係として郷里山口県に転属, 7年まで在勤した。12年内務省権少書記官として再び官途につき,讐保局長・戸籍局長・社寺局長などを歴任して,18年1月愛知県令になり,明治22年12月26日愛媛県知事に就任した。勝間田は,前任地愛知県において民業の振興に努力を傾け,道路拡張を計ったり,新田の開墾を積極的に進めるなどの施策に励んだが,その急ぎ過ぎが県会・県民の反感を買ったという。そのためか,本県では着実主義を貫いた。明治25年四国新道の完工後,着手しようとした主要国県道大改修事業が県会の反対にあうとその施行を先送りするなどがその例であった。「間田夫」と号し書をよくしたが,明治25年松山藩旧士族15名が屯田兵として北海道移住に際し「赤きこころを中にして銃と鍬とを右左,家をとまして国を守り,高きほまれを世に残せ」という送別の書を贈った。本県には5年1か月在任して,27年1月20日宮城県知事に転出, 30年には新潟県知事になった。明治39年1月30日63歳で没した。

 桂  作蔵 (かつら さくぞう)
 明治35年~昭和43年(1902~1968)初代近永町長・県会議員・衆議院議員。明治35年1月23日,北宇和郡旭村奈良(現広見町)で桂賢蔵の長男に生まれた。松山農業学校卒業後,小学校代用教員・農会技術員を務め,大正13年に農村青年党を組織して政治活動に従事した。昭和3年7月旭村助役になり,7年7月旭村村長に就任,3期連続在任して,16年11月初代近永町町長に選任された。6年9月県会議員に選ばれ,3期連続終戦時まで在職,民政党の闘将として活動, 18年12月~19年11月には副議長に選ばれた。村政で手がけた省営自動車の近永~大洲間運行開始,県立北宇和農業学校の設置,通産省アルコール工場の誘致などは県会議員としての政治力に負うところが大きかった。昭和21年4月戦後初の第22回衆議院議員選挙に進歩党から立候補,最高点で当選したが,わずか1年在職しただけで次の22年4月の選挙には立たず,政界を退いた。昭和43年7月31日66歳で没した。 43年4月多年の地方自治功労者として従五位勲四等瑞宝章が授与され,広見町役場前に胸像が建てられた。

 桂  安恵 (かつら やすえ)
 明治19年~昭和9年(1886~1934)旭村長・県会議員。明治19年10月2日,宇和郡奈良村(現北宇和郡広見町)で桂角太郎の長男に生まれた。小学校訓導を務めた後,44年12月旭村長に就任,大正11年6月まで在任して村政を担当した。その間,利害のからみで容易に実現しない部落有林野の統一に取り組み折衝を重ねてこれに成功,基本財産の造成と地方自治の振興に大きく寄与した。また里道維持規則の判定と常設工夫の設置による道路の維持管理などを推進した。昭和4年3月~6年9月菅正憲の補欠として県会議員に一時在職した。昭和9年11月21日48歳で没し,村葬で送られた。

 門田 金治 (かどた きんじ)
 生年不詳~享和元年(~1801)砥部焼の功労者。上麻生村(現伊予郡砥部町)生まれ。庄屋の一族,豪農で大洲藩御用の油商でもあった。安永4年初め大洲藩は,彼の財力・手腕を買って,創業早々の五本松村(現伊予郡砥部町)唐津山上原窯(拝領窯ともいった)の経営を彼に譲った。藩は彼から運上・冥加銀を徴収するのを得策としたからだった。彼は早くから肥前より重大夫,筑前より五三などすぐれた陶工を招いて,焼成の改良に務め,企業として成立するようになった。生来剛気・仁侠の人で慈善心豊かな人であり,村の難渋者を救済したりした。藩は彼の功をみとめ,苗字を与え庄屋に次ぐ格式を与えた。墓は砥部町柳瀬にある。

 門田  晋 (かどた すすむ)
 万延元年~昭和11年(1860~1936)素鵞村長,県会議員・副議長,県農会長。万延元年11月23日,温泉郡小坂村(現松山市小坂町)に生まれた。明治16年郡連合会議員, 23年素鵞村助役,29~40年同村長を務めた。40年9月県会議員にたり,初当選ながら副諭長に選ばれ44年9月まで在任した。政友会に所属して県支部幹部の1人であった。県農会の幹事・評議員ついで県農会長として農業団体の発展に尽くし,41年には四阪島煙害の解決を県知事に訴えた。41年2月粟井村長に就任して,村内融和に務め,農具の改良・害虫駆除など農業の発展に努めた。昭和11年10月6日75歳で没した。

 門田 兎文 (かどた とぶん)
 延享4年~文化6年(1747~1809)庄屋・俳人。延享4年風早郡八反地村(現北条市八反地)に生まれる。六代与左衛門,号は暁雨堂・無得・高教など。宝暦13年(1763)17歳で改庄屋格,村庄屋役,安永9年(1780)大庄屋役,享和2年(1802)同役御免となる。祖父以中(元文元年没)は,風早俳諧最初の人。兎文は17歳で句集「きさらぎ」に入集,高縄寺句額奉納に参加,寛政5年(1793)下難波大師堂松の下に,芭蕉百回忌記念の藤花塚を10人で建立した。寛政7年1月小林一茶来遊して歌仙を巻き(寛政七年紀行・旅拾遺),翌秋宜来亭での句稿を阿堂(一茶)送付,冬病気見舞いに訪れている。文化4年(1807)還暦の賀に,伊勢・尾張・松山などから詩・歌・句の詠草を贈られたが,文化6年11月26日没, 62歳。翌年浅海本谷葛城神社の奉納句額に,暁雨堂高教として跋と句を掲げている。

 門田 正経 (かどた まさつね)
 文久元年~大正13年(1861~1924)言論人。「大阪毎日新聞」などの編集長として活躍した。文久元年11月松山一番町で藩士門田正業の次男に生まれた。白川福儀は実兄である。英学所・北予変則中学校で草間時福の有陶を受け慶応義塾に進んだが,明治12年中退,末広鉄腸の「朝野新聞」に入社,ついで出雲新聞に雇われた。16年帰松して公共社に入り「海南新聞」の編集を手伝い政談活動を続けた。傍ら,私塾南溟義塾を径営して生計を立てた。17年矢野文雄・岡崎高厚の推挙で「大阪毎日新聞」創立に参画,のち主筆・編集長になった。桂太郎の知遇を得て,42年台湾協会専門学校幹事長に推され,のも拓殖大学理事長になった。大正13年12月8日63歳で没した。

 門屋 尚志 (かどや なおゆき)
 明治11年~昭和14年(1878~1939)衆議院議員。明治11年1月温泉郡素鵞村(現松山市)に生まれ,伊予郡郡中町(現伊予市)で成人した。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校)を径て東京高等商業学校(現一橋大学)に学んだ。 32年6月~33年7月の1年余母校松山中学校で英語の教鞭を取り,洲本中学校(淡路島)に移った。やがて日本綿花会社に招かねて社員となり,重役に進んで日本綿花同業会理事長にも推された。大正9年5月の第14回衆議院議員選挙に憲政会から推されて第2区で出馬,松山中学校同窓生や教え子の支援で当選したが,次の13年5月の衆議院議員選挙には立たなかった。昭和14年7月21日61歳で没した。

 門屋 禮三郎 (かどや れいざぶろう)
 明治17年~昭和47年(1884~1972)果樹栽培功労者,政治家。中予地方における柑橘栽培の先駆的存在として活動するとともに,果樹組織の育成指導に尽した。明治17年8月27日温泉郡潮見村谷(現松山市谷町)に生まれる。明治35年梨の全盛期に柑橘栽培の将来性を予測し,自らその栽培に従事する傍ら,果樹研究会を結成するなど,柑橘産地形成の基礎をつくった。大正2年伊予果物同業組合の設立に参画し,昭和12年伊予果物同業組合副組合長となる。戦後昭和23年温泉青果農協組合長及び愛媛県青果農協連会長となり果樹農業団体の育成発展に尽した。その外潮見村長,松山市議会議長,裁判所調停委員などを務め,幅広い活動の事績を残している。昭和30年藍綬褒章,愛媛新聞賞(第1回),昭和33年法務大臣表彰,昭和39年勲五等双光旭日章等を受けた。松山市谷町に頌徳碑が建っている。昭和47年10月9日88歳で死去。

 金井 滋雄 (かない しげお)
 明治30年~昭和50年(1897~1975)スポーツ功労者。明治30年7月28日温泉郡堀江村(現松山市堀江町)生まれ。大正6年(1917)愛媛県師範学校を卒業,松山高等女学校(現松山南高校)で体育教師として女子スポーツの指導に当たる。大正13年道後に総合運動場完成と同時に県体育協会誕生し先輩相原正一郎と共に世話役となる。YMCA第1回バスケットボール審判講習会を初受講,同競技の草分け的存在。昭和21年から同49年まで県バスケットボール協会会長。県立松山高女の金井に対し私立済美高女の竹田直一体育教師との対抗意識で女子体育向上は顕著で「県女の金ヒゲ,済美の渋ウチワ」と名を馳せた。昭和50年11月3日死去。 78歳。昭和39年愛媛県スポーツ功労賞を受賞する。

 金子 亀五郎 (かねこ かめごろう)
 明治8年~大正7年(1875~1918)喜多流能楽師。松山城下の魚町(現松山市本町)で明治8年1月30日生まれる。兄徳太郎の妻が崎山龍太郎の妹であったこともあり,崎山や荻山権三に習って子方の時から東雲神社神楽などに活躍して麒麟児と謳われた。
 明治34年ころ上京し喜多流宗家六平太の門に入って頭角を現し,後には同流師範総取締りとして重きをなし全国に足跡を残している。近眼で眼は糸の様に細かったと云い,型は古風で或意味では茫漠として捕え難い処もあり,小技にとらわれない正統派の芸であったが,声量が豊かで彼の率いる地謡は他流に比して抜群に優秀であり,型よりもむしろ謡に特徴がめったと云う。
 芸術家肌で小事にこだわらず日常生活には無頓着で,東京で名を成してからも雨の中を尻からげで太股を出して平気で歩いたと云い,そのおう揚さは仲間内で「金子式」と呼ばれたそうである。盲腸炎の処置が遅れて大正7年6月12日43歳で没したが,師喜多六平太は「何物にも換え難い愛弟子を失った」と慨嘆し,なお長命ならば斯界に揺ぎない地位を築き上げる大器であり早逝が惜しまれた。家跡は,父に劣らず仙骨を称せられた故五郎が継ぐ。

 金子 幹太 (かねこ かんた)
 明治9年~昭和31年(1876~1956)明治9年山口県萩市に生まれる。郷里の中学校,高等学校を経て東京帝国大学の文科に学び,西洋歴史を専攻し,明治39年卒業する。卒業と同時に千葉県の中学校に赴任し,9年後,同県の大多喜中学校長に転じ,更に大正2年山口県の岩国中学校長になる。折りしも松山高等学校が開設されるに当たって,教授として招へいされ,前校長橋本氏のあとを継いで三代目の校長となった。当時は学校争議の頻発で松高においても橋本校長排斥運動かおこり,同盟休校が行われる時代であった。幹太は規則一点ばりの接し方でなく,崇高にして大なる愛を以て学生に接し,教員学生の渾然融和を図り,慈父の如く慕われていた。昭和31年11月18日山口県荻市で80歳で死去。

 金子 魚洲 (かねこ ぎょしゅう)
 生年不詳~明治11年(~1878)宇和島藩士の金子篁陵の子として生まれる。父は明倫館の教授を勤め藩中の碩学と称せられ,尾藤二洲の学風を広め,藩の文教に尽くすところが多かった。魚洲の名は通孝,通称は孝太郎,号は夢盡という。明倫館に学んだ後,江戸に出て昌平黌に学び,帰藩して明倫館の教授となり,陽明学に傾倒し水戸学の思想を鼓吹した。その学識は父篁陵にも勝ると言われたが,晩年は不遇であった。明治11年7月7日に没し,宇和島市大超寺に葬られる。

 金子 正次 (かねこ しょうじ)
 昭和24年~昭和58年(1949~1983)俳優。昭和24年12月19日,温泉郡中島町津和地島のミカン農家の次男として生まれる。子供のときからすばしこくて,はしかい少年で,松山聖陵高校へ入学するが,大阪,東京へ家出を繰り返し保護司の手をわずらわせたこともある。昭和47年退学して東京映像芸術学院に入校,同48年卒業公演で劇作家内田栄一に認められ,同49年劇団「ザットマン」を旗上げする。同50年結婚,シナリオも書くが映画俳優として「竜二」に出演。ヤクザの日常生活を描いた作品で,はかない男のロマンを表現したものである。映画化された自作シナリオ作品に主演し,封切り日の大入りを見届けて一週間後豚臓ガンで昭和58年11月6日死去。33歳。短気でケンカ早くて,アクが強くて無頼のニオイをいつもふりまき,しかも人なつっこいこの男はその短い人生を一編の映画に託し,風のように逝った。この「竜二」は,毎日映画コンクール新人特別賞,映画鑑賞団体全国連絡会議・主演男優賞,日本アカデミー賞・新人俳優賞,ブルーリボン賞・新人賞,映画芸術・特別演技賞を受ける。

 金子 元宅 (かねこ もといえ)
 生年不詳~天正13年(~1585)戦国時代の武将。備後守と称する。金子氏は,武蔵七党のひとつ村山党の一族で,武蔵国入国郡金子の地を本貫とする東国武士である。その一族が鎌倉時代に新居郡に地頭職を得て入部し,土着し(現在新居浜市内に金子の地名が残る)在地領主化していったものと考えられる。
 戦国時代末期,新居・宇摩両郡に勢力を有した石川氏の家臣団中の実力者であり,実質的に両郡の主導権を握っていた。元宅は,当初長宗我部・毛利両氏と意を通じていたが,毛利氏の対織田戦の戦況がしだいに不利となり,河野氏の権勢が衰えるにしたがい,毛利と離れ,長宗我部元親と起請文を交して同盟を結んだ。天正13年7月,小早川隆景の伊予進攻の最初の目標とされ,高尾城にたてこもり戦ったが,ついに落城。元宅は城郭に火を放って自殺したと伝えられるが,隆景の手勢のなかにいた赤木蔵人丞が討ち取ったともいかれる。

 懐良 親王 (かねなが(よし) しんのう)
 生年不詳~弘和3年(~1383)後醍醐天皇の皇子。南朝の征西将軍宮。延元元年(1336)10月,足利尊氏の講和申し入れを受け入れた後醍醐天皇は,比叡山を下りたが,このとき諸皇子を各地に分散して再挙を図り,幼年の懐良親王が九州へ派遣されることとなった。懐良親王の一行は紀伊から瀬戸内海を通り,讃岐を経て,伊予の忽那島に着いた。忽那島到着の時期については,諸説あるが,延元4年説が有力である。この時期,忽那七島における実権を掌握していたのは,忽那義範であった。忽那氏一族が親王の供御・御服をはじめ近侍の者の兵糧米を供給したことは知られるが,親王が池内のどこに居を構えていたかは不明である。親王の在島は約3年に及んだが,この間に,忽那島にもたびたび戦乱が波及した。最も有名なものは,足利方の与党である安芸国の武田直信の軍が興国元年(1340)10月に来襲したことであった。この時義範は,部下とともに奮戦して,武田氏の軍を撃退することに成功し,親王から戦功を賞する令旨をうけた。またこの間,九州に関する全責任を委任された親王は,九州経営に関する命令をしばしば発している。やがて親王は,九州へ移って菊池・阿蘇両氏ら宮方の軍を統率することになり,義範が水軍を率いて親王の下向の途次の警戒にあたった。その時期は明瞭でないが,興国2年の暮れか翌3年の春と考えられる。
 親王は肥後の菊池氏の本城にはいり,貞和5年(1349)9月足利直冬が九州に逃れ,大宰府の少弐氏がこれに呼応して中央における尊氏・直義の対立が九州に波及すると,北朝方の分裂に乗じて勢力を伸ばし,大宰府に移った。正平20年(1365)5月,細川氏に対抗するために南朝への帰順を申し出た河野通尭の要望を承認し,通尭に令旨2通を下し,伊予国守護職に補し,本領を安堵した。8月通尭は懐良親王に謁見し,通直の名を賜ったといわれる。正平24年12月には,甥の良成親王を通直のもとに遣わして四国・瀬戸内海の鎮撫を企図した。しかし,建徳2年(1371)九州探題として九州に入った今川貞世(了俊)に次第に圧迫され,筑後矢部(現福岡県八女郡矢部村)に隠退して,ここで没したらしい。

 鎌田 隆一 (かまた たかかず)
 弘化3年~大正13年(1846~1924)医師,特設県会議員。弘化3年12月20日,野間郡浜村(現越智郡菊間町)で医者鎌田玄龍の次男に生まれた。兄の死によって東京で医学を修め,帰郷して家業を継ぎ,医学書『摂生新話(長寿草)』を著した。医業のかたわら学塾を開き子弟を教えた。明治10年特設県会議員に選ばれ,また学区世話係・学務委員として小学教育の振興に努め,青年会「晩成舎」を組織して青壮年の指導に当たった。大正13年2月7日77歳で没した。

 鎌田 新澄 (かまた しんちょう)
 文政8年~明治30年(1825~1897)大洲藩医。大洲藩十高橋孫三郎の家に生まれ,鎌田正澄の養嗣子となる。実名は新徴,通称ははじめ玄閑,ついで玄岱のち玄台と改めた。号は国洲または鵬洲。華岡青洲没後の春林軒家塾に入り,外科医術を学び,また豊後日出藩家老帆足萬里に医学・漢学を,豊後日田の広瀬旭荘に漢詩文を,小松藩儒近藤篤山に朱子学をそれぞれ学んだ。長崎に遊学し,新しい蘭医術を学んで帰り,大胆な外科手術を行った。72歳で死去。

 鎌田 正澄 (かまた せいちょう)
 寛政6年~嘉永7年(1794~1854)大洲藩医,外科。鎌田明澄の長男。幼名清之助,通称は玄閑ついで父の通称を襲名して玄台,字は子等,号は桂洲。幼時より父について医術を学び,18歳で紀州の外科医華岡青洲に入門,5年間修業してカスパル系外科の蘊奥を極めた。また杉田玄白と親交があり,医学知識を交換し,外科医術の修行を積み,中小姓格4人扶持15石給与の藩医を勤めた。弘化2年冬,刑死人を解剖し,藩絵師の門人の写生図を付けた『外科起廃図譜』を翌年春刊行した。嘉永4年には全10巻絵入りの『外科起廃』を刊行したが,それによると,正澄は我国で初めての陰火ヘルニアの手術を発明し,乳癌の手術に止血法の新機軸を生み出すなど,その成功例が具体的詳細に述べられている。正澄には別に刀槍治療法を記した『金創要訣』の著がある。こうして正澄玄台の医師としての名声はあがり,医学修業の彼の門下生は伊予国を中心として西日本全域に及んだ。 60歳で死去。頌徳碑と墓碑は,大洲西山根の大禅寺にある。

 鎌田 明澄 (かまた めいちょう)
 宝暦7年~文政2年(1757~1819)大洲藩医。新谷藩士後藤某の次男で,鎌田清澄の婿氏子となる。通称玄閑のち玄台,子楽といい南溟と号した。若くして讃岐の尾池左膳につき,後江戸に出て杉田玄白に入門,蘭医学を修め,大洲藩に初めて蘭医学を入れ,外科医として令名があった。大洲藩十代藩主加藤泰済に召され,藩医となった。墓は大洲妙光山法眼院にある。

 亀井 官治郎 (かめい かんじろう)
 明治2年~昭和13年(1869~1938)砥部村長・県会議員。明治2年9月8日,下浮穴郡大南村(現伊予郡砥部町)で生まれた。青年のころより地方自治に留意し, 39年砥部村会議員,のち郡会議員になり,大正5年砥部村長に選任されて8年まで,更に13年~昭和4年, 11~13年と4期村政を担った。在職中,道路改修,役場・学校の建設,昭和3年町制実施などの事績をあげ,特に町有林の植林に意を注いだ。傍ら砥部陶業会社社長,明治43年,8月~大正4年3月伊予陶磁器同業組合長に就任して,磁器製造と販路拡張など地場産業の発展に尽くした。昭和2年9月~6年9月県会議員に在職した。昭和13年県知事より自治功労者として表彰され,同年12月31日69歳で没した。町民はその徳を慕って,のち銚子滝前に頌徳碑を建てた。

 亀岡 哲夫 (かめおか てつお)
 安政3年~昭和18年(1856~1943)初代三善村長・県会議員・地方改良功労者。安政3年3月2日,喜多郡春賀村(現大洲市)で生まれた。愛媛県師範学校を卒業して小学校訓導になり,巡回訓導に選ばれた。明治19年喜多郡書記,22年1月県会議員に選ばれ, 28年2月まで在職した。 23年1月町村制実施と共に初代三善村長に就任,以来大正4年まで村政を担当して造林・耕地整理・部落有財産統一などに事績をあげた。大正4年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。明治40年9月~44年9月再度県会議員になり,のち郡農会長ついで県農会長などにも推された。昭和18年7月11日87歳で没した。

 鴨   重忠 (かもの しげただ)
 寛政元年~安政2年(1789~1855)小松の高鴨神社14代神主,歌人。朝倉村八幡神社神主田窪峰忠(歌人)の次男として生まれ,文化4年鴨家の養子となった。学問和歌を好み,篤山に学ぶとともに,歌は芝山持豊,のち飛鳥井雅光の門人となった。杉の屋・碧山堂と号した。文化6年,高鴨相伝の雨乞の秘法を行い成功したのをはじめ,幾度か雨乞・止雨の法を行っている。また高鴨宮・井手里・常盤井の「三景和歌」を持豊ら55名に詠んで貰い,顕彰に努めた。歌集には『杉乃屋詠草集』『碧山堂詠特集』があり,『高鴨神社御日次帳』71冊を書き継いで,貴重な資料となっている。また京都,出雲等への紀行文のほか,父峰忠,妹為子の嫁いだ沼崎誠則,佐伯貞中,覚弁上人等,東予の歌人の和歌集を多数筆写して遣した功績は大きい。安政2年7月19日66歳で没した。屋敷内の代々の墓地に葬られた。

 島谷  章 (からすだに あきら)
 明治10年~昭和36年(1877~1961)軍人。明治10年4月18日松山城下の三春町(現松山市緑町)に生まれる。明治30年陸軍士官学校を卒業し,近衛歩兵第2連隊付となる。同32年に第1師管軍法会議判士に任ぜられた後,同34年陸軍大学に入校したが,翌35年退校した。同36年陸軍省に出仕し,日露戦争中は軍務局付で清国に派遣され,戦後同39年以降は高等軍法会議判士を,大正4年からは陸軍技術審査部御用掛となり,4か月間米国出張するなど,異色の道を歩いた。その後歩兵第61連隊付・岩国次いで本郷連隊区司令官・人事局恩賞課長・歩兵第7旅団長・第16師団司令部付を歴任し,昭和3年には東京湾要塞司令官に任ぜられ,中将に昇進した。次いで第3師団留守司令官に任ぜられ,同4年8月一度待命となった。同7年,第一次上海事変に際し,第11師団が上海に派兵された時には,召集されて留守第11師団長を務めた。昭和36年10月10日84歳で没した。

 軽太子・軽皇女 (かるのひつぎのみこ・かるのひめみこ)
 生没年不詳木梨軽皇子・木梨軽王および軽大娘皇女・軽大娘・衣通姫などとも呼ばれる。両名とも記紀編纂時に虚構された人物とする見解もある。軽太子は父允恭天皇,母皇后忍坂大中姫の第1皇子。軽皇女はその同母妹で第5子。
 『日本書紀』によれば,軽太子は允恭天皇23年3月に立太子した。その容姿は佳麗で,見る者はおのずからにこれを感でたという。軽皇女もまた「艶妙」く,彼女に思慕の念をつのらせた太子は,罪を覚悟でこれと通じた。同24年6月,御膳の羹汁氷結をあやしんだ天皇が命じたトいにより,兄妹姧通のことが発覚,太子は皇位継承者の故をもって皇女のみが伊予に配流された。同42年10月,允恭天皇は崩御するが,このころ太子は暴虐で婦女に淫溺するばかりであったので,民衆や群臣の心は離反し,弟穴穂皇子(のち安康天皇)についた。太子は穴穂皇子を討つべく兵を起こすが群臣は従わず,物部大前宿祢の家にこもったもののこれを包囲され,自死したという。『書紀』はまた,太子が伊予に流罪となったとする一説を紹介するが,この点『古事記』も同様で,大前小前宿祢宅で捕縛された太子は「伊予湯」に流され,後を追った軽皇女ともども伊予で自決したとする。また『古事記』では兄妹相姧の発覚のきっかけも,トいではなく太子の歌となっており,さらに当時禁忌とされた同母兄妹の相姧こそが群臣,民衆離反の原因とするなど,両書の間に若干の異同が見られる。軽太子追放の背景には,皇位継承をめぐる大和朝廷内の深刻な対立があり,太子はその犠牲者とする見方が有力であるが,一方伊予配流の史実性そのものを疑問視する見解もある。
 現在愛媛県内には,軽太子,軽皇女の配流,終焉に関する伝承地がいくつかある。松山市姫原の軽神社および比翼塚,川之江市妻鳥町にあり,明治27年(1894)の発掘で銅鏡,金銅製冠や環状柄頭,金環,銀や水晶の玉類等が出土し,宮内庁の陵墓参考地の指定を受けている東宮山古墳などがその主なものである。

 川上 孤山 (かわかみ こざん)
 明治7年~昭和7年(1874~1932)臨済宗の学僧。諱は全義。新居郡西条町(現西条市)の生まれ。幼少にして壬生川(東予市)東源寺川上磐山の法嗣となり,妙心寺学寮に学んだ後同寮教授となる。また,同寺の宗務部長として宗政に参与した。生涯にわたる経典研究の結果大著『大蔵経索引』を完成して後学に資し,『妙心寺史』は寺史に先鞭をつけた労作である。昭和7年2月15日死去。 58歳。

 川上 拙以 (かわかみ せつい)
 明治34年~昭和51年(1901~1976)新居浜市に生まれる。本名は昌薫。大阪で菅楯彦に師事するが,やがてその紹介で西山翠嶂の門に入る。同門には堂本印象,上村松篁等がいる。大正10年京都市立絵画専門学校に進み,在校中第4回帝展に「浄瑠璃寺」を出品,初入選を果たす。以後帝展,新文展,日展を制作活動の舞台にして, 75歳で没するまで長く活躍する。その間昭和23年には,広島県瀬戸田町耕三寺の本堂天井絵「龍図」を制作,庫裡の襖絵を揮毫するなど知遇を得て,多数の作品が耕三寺博物館に収蔵されている。晩年には陶磁にも興味をもち,陶号を仁和と称して作陶自適の生活を送る。京都で没す。

 川上 宗薫 (かわかみ そうくん)
 大正13年~昭和60年(1924~1985)小説家。大正13年4月23日,東宇和郡宇和町に生まれる。本名宗薫。プロテスタントの牧師であった父が,九州へ転勤するまでの幼児期3歳を宇和町卯之町で過ごした。福岡の西南学院を経て,昭和25年,九州大学英文科々卒業。長崎海星高校・千葉の東葛飾高校などに英語教師として勤務し,傍ら小説を書く。同29年「新表現」に発表した「その掟」以降,五度も芥川賞候補となる。もし受賞していれば,失神派(情痴)作家とは別のコースを歩いただろうといわれる。その後,純文学から離れ,ジュニア小説を経て,風俗小説・官能小説に転じ,大胆な官能描写で流行作家となった。昭和60年10月13日死去, 61歳。

 川崎 利市 (かわさき りいち)
 明治16年~昭和19年(1883~1944)教育者。越智郡大三島町明日村(現大三島町)に生まれ,明治39年愛媛県師範学校卒業。新居郡橘小学校に奉職,異例の抜擢で若冠26歳で同校校長になる。大正2年中萩小学校校長, 7年泉川小学校校長を務める。大正9年,能力別の個別教育の実践にふみきり,「学習手引」による自学自習の学習法を開発した。時あたかも大正デモクラシーの時代で,八大教育論の華やかなりしころである。大正13年,この教育は,子どもの能力開発には効果があるとしながらも中
以下の家庭にはとうてい受け入れることはできないと,当時の泉川村内の政争に巻き込まれ,反対派の同盟休校という事態を引き起こし,泉川小学校の個別教育は挫折するに至った。大正15年,西条大町小学校に転任したが,ひき続き個別教育を継承し,全国的に評判となり,年間3千人もの参観者があったほどである。昭和3年には同校で全国個別教育大会を開催し,全国から5百余名という当時としては珍らしい盛況を示した。昭和4年,個別教育では中学校への進学に適さずということから,反対運動が起こり,彼は波止浜小学校に移った。ここでも活発な個別教育を行い,種々論議をかもした。昭和7年にはフランスのニースで開催された第6回世界新教育会議に日本代表として出席した。その後,東京に出て,著述活動に専念し,昭和19年61歳で死去する。著書には『個別教育の実際』『万有相関論』等がある。墓地は大三島明目白禿寺にある。

 川崎 利吉 (かわさき りきち)
 明治7年~昭和36年(1874~1961)号は九淵。松山出身葛野流大鼓の権威であった。昭和31年公式舞台から身を退く隠退能で無謡一調を打ったが,裂帛の掛声での鼓音は聴衆の胆を揺がせた。晩年郷里松山への帰住を望んだが実現せず,早く後継の子息を喪い,その生涯は風貌と共に厳しいものであった。明治7年樽屋を業とする家に生まれて「りき坊」と呼ばれ,幼時より喜多流高橋節之助や崎山龍太郎等に習ったが,大鼓へ転じて東正親(旧藩抱え)についた。天稟の才を発揮し早々にして技は師を凌いだといわれ,大器は小事にとらわれず東雲神社演能中に舞台で居眠りし,担ぎ込まれて師匠に代役をさせたという話もある。明治25年来松した石井流大鼓家元石井一齋に芸事継承を望まれたが,初志を貫くとて辞退した。明治32年上京して葛野流家元預り津村又喜の門に入ったが約一年で死別し,一時志を断たんとしたが池内信嘉・喜多六平太等の慰留で思いとどまり,生活にも苦しむ艱難辛苦を重ねながら芸の研鑽に努めた。やがて最高峰に登りつめ,天覧・台覧等数多くの栄誉の舞台を勤め,昭和28年日本芸術院会員,昭和30年重要無形文化財(人間国宝)となった愛媛の誇る最高の芸術家である。明治期多くの名人達と技を競ったが,特に名人と言われた宝生九郎が彼の打つ翁の揉み出しの素晴しさに思わず拍手をしてしまい,後でその失礼を詫びたという。所謂芸術家であったばかりでなく理論家でもあり,東京音楽学校邦楽取調係として池内信嘉と協力して能楽の基本八拍子の地拍子理論を打ち立てており,後年は家元預りとして優秀な弟子達を養成した。昭和36年1月24日87歳で死去。墓は東京にある。

 川島 義之 (かわしま よしゆき)
 明治11年~昭和20年(1878~1945)軍人。松山藩士川島右一の長男として,明治11年5月25日松山に生まれる。松山中学校を経て明治31年陸軍士官学校卒業。日露戦争には後備旅団副官として従軍した。同41年陸軍大学校を「恩賜の成績」で卒業し,ドイツ大使館付武官を勤務し,その後陸軍大学校教官・歩兵第7連隊長・参謀本部外国戦史課長・教育総監部第2課長・同第1課長・兵器本廠付など中央畑を歴任した。大正14年5月には近衛歩兵第1旅団長,同15年3月には陸軍省人事局長,昭和4年8月には第19師団長,同5年11月には第3師団長,同7年1月には教育総監部本部長,同年5月には朝鮮軍司令官を歴任した。同9年3月,大将に昇進し,8月に軍事参議官となった。同10年9月には岡田内閣に入閣し,陸軍大臣となるが,同11年2月に2・26事件が発生した。この決起部隊に対し軍首脳部は苦悩し,初めは国体顕現の至誠から出た治安維持行動との見解を採ろうとした。しかし重臣殺害に関しての聖慮もあり,その後一転して反乱部隊と見なしてこれを鎮圧した。事件の解決直後,その責任をとって陸軍大臣を辞任するとともに待命となった。
 昭和15年に朝鮮国民精神作興連盟総裁に就任したが,同20年9月8日没。67歳。墓所は道後の松山市鷺谷共同墓地。

 川田 小一郎 (かわだ こいちろう)
 天保7年~明治29年(1836~1896)天保7年土佐藩士の次男に生まれる。長じて同藩の通商鉱山の事務に当たる。慶応4年2月戊辰戦争に際して32歳で官軍の指揮官となって伊予に進出し別子銅山を差し押えた。この時銅山差し押えの解除を求める住友家番頭広瀬宰平(41歳)の熱意にうたれて同銅山の封鎖を解除し,さらに明治政府太政官に対して銅山の住友家帰属のために力を尽くした。後になり同じく土佐出身の岩崎弥太郎とともに三菱商会を創設し三菱財閥の大番頭としてその発展に貢献した。そのころ明治政府の大蔵郷松方正義に識られて同氏の推薦によって明治22年第三代の日本銀行総裁(最初の財閥出身者)に就任。国立銀行紙幣の償却,銀行業の統一等の業績を挙げた。同29年病のため職を辞し,同年11月8日60歳をもって没した。

 川田 雄琴 (かわだ ゆうきん)
 貞享元年~宝暦10年(1684~1760)大洲藩儒官,止善書院明倫堂教授。貞享元年4月江戸に生まれた。名を資深,通称を半大夫,字を君淵,号を琴卿・雄琴・北窓斎といった。雄琴ははじめ梁田蛻巌について朱子学を学んだが,蛻巌の推挙によって陽明学者として有名な三輪執斎に師事した。刻苦精励の結果,執斎の高弟として重視された。大洲藩主加藤泰温はたびたび執斎の講義を聞き,彼を大洲藩儒に迎えようとしたが,執斎は老齢の理由で謝絶し,信頼の厚かった雄琴を推薦した。雄琴は享保17年(1732)7月に大洲に来て,教育事業に従事した。藩校明倫堂の創設とともに,教授となって藩士のみならず藩民の育成にも努力した。大洲はかつて中江藤樹以後,学問尊重の地盤が形成されていた。彼はあまねく領内を遊説し,民衆の道義心の高揚に努めた。また領内を巡視の結果,多数の篤農家・孝子・貞婦を発見し,その顕彰に努めた。その集大成されたものが『大洲好人録』5巻であって,社会教育に及ぼした影響は偉大であった。雄琴は越後流兵学にも通じ,『軍礼』5巻等の著述かおる。宝暦10年11月に年76歳で没し,興禅寺に葬られ,大正4年正五位を追贈された。雄琴の子芝嶠も明倫堂教授として活躍し,孫の紫淵も寛政異学の禁まで大洲藩教学の興隆に尽くした。14年5月には近衛歩兵第1旅団長,同15年3月には陸軍省人事局長,昭和4年8月には第19師団長,同5年11月には第3師団長,同7年1月には教育総監部本部長,同年5月には朝鮮軍司令官を歴任した。同9年3月,大将に昇進し,8月に軍事参議官となった。同10年9月には岡田内閣に入閣し,陸軍大臣となるが,同11年2月に2・26事件が発生した。この決起部隊に対し軍首脳部は苦悩し,初めは国体顕現の至誠から出た治安維持行動との見解を採ろうとした。しかし重臣殺害に関しての聖慮もあり,その後一転して反乱部隊と見なしてこれを鎮圧した。事件の解決直後,その責任をとって陸軍大臣を辞任するとともに待命となった。
 昭和15年に朝鮮国民精神作興連盟総裁に就任したが,同20年9月8日没。67歳。墓所は道後の松山市鷺谷共同墓地。

 川田 小一郎 (かわだ こいちろう)
 天保7年~明治29年(1836~1896)天保7年土佐藩士の次男に生まれる。長じて同藩の通商鉱山の事務に当たる。慶応4年2月戊辰戦争に際して32歳で官軍の指揮官となって伊予に進出し別子銅山を差し押えた。この時銅山差し押えの解除を求める住友家番頭広瀬宰平(41歳)の熱意にうたれて同銅山の封鎖を解除し,さらに明治政府太政官に対して銅山の住友家帰属のために力を尽くした。後になり同じく土佐出身の岩崎弥太郎とともに三菱商会を創設し三菱財閥の大番頭としてその発展に貢献した。そのころ明治政府の大蔵郷松方正義に識られて同氏の推薦によって明治22年第三代の日本銀行総裁(最初の財閥出身者)に就任。国立銀行紙幣の償却,銀行業の統一等の業績を挙げた。同29年病のため職を辞し,同年11月8日60歳をもって没した。

 川田 雄琴 (かわだ ゆうきん)
 貞享元年~宝暦10年(1684~1760)大洲藩儒官,止善書院明倫堂教授。貞享元年4月江戸に生まれた。名を資深,通称を半大夫,字を君淵,号を琴卿・雄琴・北窓斎といった。雄琴ははじめ梁田蛻巌について朱子学を学んだが,蛻巌の推挙によって陽明学者として有名な三輪執斎に師事した。刻苦精励の結果,執斎の高弟として重視された。大洲藩主加藤泰温はたびたび執斎の講義を聞き,彼を大洲藩儒に迎えようとしたが,執斎は老齢の理由で謝絶し,信頼の厚かった雄琴を推薦した。雄琴は享保17年(1732)7月に大洲に来て,教育事業に従事した。藩校明倫堂の創設とともに,教授となって藩士のみならず藩民の育成にも努力した。大洲はかつて中江藤樹以後,学問尊重の地盤が形成されていた。彼はあまねく領内を遊説し,民衆の道義心の高揚に努めた。また領内を巡視の結果,多数の篤農家・孝子・貞婦を発見し,その顕彰に努めた。その集大成されたものが『大洲好人録』5巻であって,社会教育に及ぼした影響は偉大であった。雄琴は越後流兵学にも通じ,『軍礼』5巻等の著述かおる。宝暦10年11月に年76歳で没し,興禅寺に葬られ,大正4年正五位を追贈された。雄琴の子芝嶠も明倫堂教授として活躍し,孫の紫淵も寛政異学の禁まで大洲藩教学の興隆に尽くした。

 川原 盛行 (かわはら もりゆき)
 大正3年~昭和60年(1914~1985)農業指導者。大正3年9月20日に生まれる。野村尋常小学校高等科を卒業。昭和18年には,魚成村の助役に就任。同27年6月魚成村農協副組合長に,翌年5月からは組合長として活動する。昭和40年5月には城川町内4農協の合併を実現し,組合長に就任する。その間,同30年6月から県農協中央会理事,同35年から6年間は副会長,同43年には県経済連の専務理事を努め,同50年からは会長として営農指導の強化を推進する。昭和60年4月12日70歳で死去。

 川端 佳夫 (かわばた よしお)
 大正7年~昭和43年(1918~1968)衆議院議員。大正7年6月8日,温泉郡難波村下難波(現北条市)で生まれた。昭和15年青山学院大学文学部を卒業して読売新聞記者になり,のち農林大臣秘書官などを務めた。戦後,昭和24年1月の第24回衆議院議員選挙に愛媛第1区から民主自由党公認で立候補最高点当選を果たしたが,次の27年10月の衆議院議員選挙では落選して代議士は1期3年余にとどまった。東京で東海養魚会社社長として水産会社経営の傍ら全国馬主協会連合会副会長などになった。昭和43年1月14日49歳で没した。

 川本 臥風 (かわもと がふう)
 明治32年~昭和57年(1899~1982)ドイツ文学者,俳人。明治32年1月16日岡山県の生まれ。本名は正良。第三高等学校を経て,大正12年京都帝国大学文学部ドイツ文学科卒業。同年松山高等学校教授として赴任,昭和2・3年の2年間ドイツに留学。昭和24年新制愛媛大学の発足とともに文理学部教授,同39年定年退官した。ドイツ文学の研究教育に従事する傍ら,若くして俳句に志し,臼田亜浪の「石楠」によって活躍,松高赴任後は「松高俳句会」を設立した。昭和25年に「いたどり」を発刊,主宰した。句集に『樹心』『城下』『持田』等があり,ドイツ文学研究には『ゲーテと鷗外』等の著書がある。遺稿集は『石嶺』。また昭和45年に愛媛県教育文化賞を受賞,翌46年には勲二等瑞宝章を受けた。昭和57年12月6日83歳で没し,墓は松山市の蓮福寺。

 河上 哲太 (かわかみ てつた)
 明治14年~昭和27年(1881~1952)連続9期28年間衆議院議員に在ったが,清貧に甘んじた高潔な政治家であった。明治14年10月19日,桑村郡国安村(現東予市)で河上節太郎の長男に生まれた。34年西条中学校を卒業して東京高等商業学校(現一橋大学)に入学,徳富蘇峰の援助を受けながら苦学して同校卒業, 40年蘇峰の国民新聞社に入社して経済記者として活躍,勝田主計らの知遇を得た。大正6年4月第13回衆議院議員選挙に際し勝田主計の勧めで政友会から立候補,初当選した。以来,昭和20年追放を受けるまで当選回数連続9回, 28年5か月にわたり代議士生活を続けた。この間,13年文部参与官などを務め,郷土のためには今治港開港や国有鉄道の誘致などに尽力した。昭和7年5・15事件で大養毅が暗殺された際には,「犬養の棺を擁して軍部と一戦を交うべき」と主張して軍部の台頭に対決,政党による議会政治を守ろうとした。しかし国家主義風潮の高まりの中で意のごとくならず,昭和11年2月第19回衆議院選挙を前に「私の力の限り国政に奔走しましたけれども,自分でも満足する功はなし得ず,殊にほとんど私事を顧みずして国政に奔走しました結果,男子として,将た人の子の親として為す可きことが全く荒廃に帰せんとして居ります」との挨拶状を出して引退を決意したが,支持者の許すところとならず代議士を続けた。 17年12月永年勤続議員の表彰を受け,19年2月郷里の懇請を容れて私立子安中学校の校長に就任,教頭芥川準一郎らの協力を得て育英に当たった。軍部独裁には迎合しなかったが,長老議員の立場上20年には大日本政治会愛媛支部長に就任した。これが公職追放指令の対象となり, 21年10月追放, 26年解除された。昭和27年11月17日71歳で没し,壬生川町新市長覚寺に葬られた。昭和39年故郷の国安に河上記念館と胸像が建立された。

 河上 兵作 (かわかみ へいさく)
 正徳2年~天明4年(1712~1784)今治生まれ。今治藩々士,総社川改修の功労者。名安固。祖父安賢は大山祇神社大祝三島安長の次男であったが,50歳で今治藩に出仕した。兵作は幼時より学を好み,特に経済・土木の道に長じた。享保14年御次小姓となり7石2人扶持で仕えたが次々と出世し,宝暦2年には勘定目付上席,川筋才許方,郷村支配方の大任をまかされた。更に宝暦4年には郡奉行添役として藩政の中核にあり,同10年100石を給せられた。当時総社川は乱流屈曲が激しく,天井川のため度々洪水を起していたが,藩は宝暦元年,総社川の付け替えと中川原筋の普請を企画して兵作らをその裁許方とした。兵作は地形水勢を検討して治水工事に当り,瀬掘り(川浚へ)を強化して河道を安定させた。『今治拾遺』宝暦13年7月の条に゛総社川々筋付替普請落成積功十三年″の記事がある。今治市内柳町の呑吐桶はじめ諸所の橋,樋門なども兵作の監督と伝える。安永9年隠居したが,隠居料三人扶持の外に特に毎年米15俵を給して藩は兵作の功にこたえた。天明4年8月15日72歳で没し烏生村の実法寺に葬られる。法号は清岳自鏡居士。なお嫡子修安が没したため野崎家から養子安重を迎え,天明3年以降は古土居姓を称した。

 河上 量太 (かわかみ りょうた)
 文政8年~明治19年(1825~1886)数学者。文政8年8月1日,今治に生まれる。号は一適,父一幸について関孝和流の和算を学び,弘化元年ころから家業の算術教授を継ぐ。明治2年に藩庁から今治藩の数学指引を命ぜられる。翌3年藩命によって上阪し洋算を学ぶ。廃藩置県後は,石鉄県今治郷学校の教導となり,更に愛媛県八大区第一小学校一等教授となる。明治14年新設された県立越智中学校の三等司教となる。幼少のころより数字に強く,父の感化もあるが生来数学に向いた頭脳で,人々はその才能に驚嘆していたという。門人が今治市海禅寺の墓誌銘に「今治筆算之鼻祖」と記したほどである。明治19年6月21日,60歳で死去。

 河崎 蘭香 (かわさき らんこう)
 明治15年~大正7年(1882~1918)名を菊。西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)の医師神山家に生まれ,河崎家の養女となる。養父は愛宕中学校開校に尽力,初代校長を務め,養母は県下初の女教師であった。初め音楽学校で学び,卒業後京都の菊地芳文について絵を学ぶ。更に再び上京して寺崎広業門下で画道に専念する。明治40年, 26歳で東京勧業博覧会に出品,鏑木清方,結城素明らとともに三等賞を受けている。この年より開かれた文展が蘭香の活躍の中心で,第1回「夕雲」の入選以来合わせて7回の入選を果たしている。第8回展「広間へ」で褒賞に,第9回展「霜月十五日」で三等賞に輝いている。美人画に秀でた閏秀画家として注目を集め,東の蘭香,西の松園と併称され,将来を大いに期待されたが,惜しくも病のため,大正7年3月31日, 36歳の若さで没した。

 河原田 新 (かわらだ あらた)
 安政元年~明治25年(1854~1892)代言人,県会議員。安政元年12月8日,野間郡池之原村(現越智郡菊間町)で庄屋河原田又四郎の長男に生まれた。大阪に遊学して代言人となり,郷里の山林紛争などを解決した。明治18年県会議員になり, 25年5月まで在職,高須峯造らの改進党系愛媛倶楽部に参加して国会開設時の政治運動に従事した。また24年越智郡漁業組合組頭として,広島漁業民との漁場紛争の解決に奔走した。明治25年9月29日37歳で惜しまれつつ没した。没後数年にして有志相寄って頌徳碑が遍照院に建てられたが,現在は菊間公会堂前に移されている。

 河端 五雲 (かわばた ごうん)
 元禄12年~安永元年(1699~1772)江戸中期の松山藩士,俳人。元禄12年松山藩士の家に生まれた。名を氏房,通称を藤大夫といい,俳号を五雲・陶丘・一笠庵・兀々翁と称した。正徳3年(1713)若くして,五代藩主松平定英の御側役となり,享保年間には江戸詰となり,奉行用人・徳川家献門方を歴任し,俸禄500石を給与された。宝暦元年(1751)常府の番頭の重職についた。彼は江戸詰の公務の余暇に,佐久門長水(伊勢風,正風への復帰を主張)に俳諧の手ほどきをうけ,のも松山における俳壇興隆の功労者と仰がれるに至った。安永元年(1772)12月に年74歳で逝去した。彼の句集には,生前の明和6年(1769)に編集された『矢立の露』と,同8年から翌年の逝去に至るまでの句を編集した『大名竹』がある。後者は晩年における彼の最も円熟した俳風をうかがうことができる。五雲およびその一派の清浄な俳風によって,伊予俳壇が堕落した洒落風・花鳥風に吹き荒されなかっただけでも慶賀すべきことであろう。

 河東 可全 (かわひがし かぜん)
 明治3年~昭和22年(1870~1947)俳人。松山藩儒河東静渓の四男として,松山城下千船町(現松山市)に生まれる。本名は詮。通称は秤四郎とよぶ。兄に竹村黄塔,弟に河東碧梧桐がおり,子規とは少年期からの交わりがあり,まさに俳句一家である。旧松山藩の久松家の家扶を勤め,読売新聞の記者にもなる。句集『二葉集』『新俳句』『春夏秋冬』などにすぐれた作品がみえる。昭和22年2月11日没, 77歳。

 河東 静渓 (かわひがし せいけい)
 文政13年~明治27年(1830~1894)儒学者。文政13年9月1日,松山藩士で明教館教授の河東虎臣の子として生まれる。名は坤,字は子厚。初めは父について学んでいたが,江戸に出て昌平黌に入り古賀侗庵に師事する。生来温厚で篤実,刻苦勉励して,帰藩後,藩校明教館の助教を勤め,のち教授となる。維新後は漢学塾「千舟学舎」を開いて一般庶民教育にも貢献する。正岡子規も教えを受けた一人である。一時官職にもつき少参事となる。明治13年まで旧藩主久松家の家扶も務めた。竹村鍛,河東可全,河東碧梧桐は静渓の子であり,それぞれにすぐれた才能を持つ著名人である。著書には『読書別記』『静居雑録』『松山叢談正誤』『静渓随筆』『雑筆』などがある。明治27年4月24日, 63歳で死去。墓所は宝塔寺にある。

 河東 卓四郎 (かわひがし たくしろう) 
 明治18年~昭和22年(1885~1947)軍人。明治18年3月10日,松山市に生まれる。松山中学から第一高等学校,東京帝国大学工学部を卒業し,佐世保工廠造船部長や造船研究部艦政本部出仕技術会議員などを歴任し,昭和11年海軍中将になる。昭和22年5月9日死去, 62歳。

 河東 碧梧桐 (かわひがし へきごとう)
 明治6年~昭和12年(1873~1937)俳人・書家。明治6年2月26日旧松山藩士で漢学者の河東坤(静渓)の五男として温泉郡千船町(現松山市)に生まれた。本名は秉五郎。別号は青桐・女月・桐山・海紅堂など。明治21年伊予尋常中学校(後の松山中学校,現松山東高等学校)に入学,虚子と同級となった。虚子は聖人といわれ,碧梧桐は「ヘイ」というあだ名で親しまれた。在学中虚子らと同人雑誌「同窓学誌」を書写回覧し,能のまねごとをしたりの多才ぶりを発揮し,翌22年先輩正岡子規にベース・ボールを,23年中学3年で俳句を学び,中学3年生で初めて俳句集を作って子規の添削を受けた。明治24年松山俳句会を虚子らと結成し,子規の指導を受けた。同26年京都の第三高等中学校に入学,虚子と下宿を共にし,翌年仙台の第二高等中学校に転学したが,ほどなく退学して東京の子規をたよった。子規は退学に反対したが,陸羯南の日本新聞に就職を斡旋した。明治29年には新進俳人として虚子と共に子規門下の双璧といわれ,「ほとゝぎす」や他の雑誌新聞などの俳句欄選者として活躍した。子規没後,進歩的な彼の句風は,虚子の守旧派と対立を見せ始めた。明治39年から同40年にかけて全国各地を遍歴 さらに同42年から44年再度の遍歴を終え,紀行『三千里』『続三千里』を著作した。この遍歴行によって季題趣味から脱出して,自己の生活のありのままを自然の中に直写し,句の生命は感動の律動的な表現を重視し,自由で天真流露の俳句をとなえて碧派の「新傾向」は黄金時代を迎えた。大正4年ころから自由律の句を認めた俳句を自ら「詩」と称するに至ったが,昭和8年還暦を期して俳壇を引退した。昭和12年2月1日63歳で死去した。虚子は碧梧桐の死去に際し,「碧梧桐とはよく親しみよく争うたり,たとふれば独楽のはじける如くなり」の追悼句を贈った。
 彼の豊かな芸術的才能と,常に新しきを求めてやまない先駆的な資質は,俳句・随筆・紀行・評論ばかりでなく,書の方面にも発揮された。子規より「天資の能」と称賛された能筆であったが,中年になり中国六朝の碑帖や漢の木簡の書に強く感動して,以後は技巧をこえた素朴な自在境の書風に変わった。彼は俳人としても前衛派の原点として,大きな業績を残したばかりでなく,能楽家・ジャーナリスト・旅行家としても卓越した識見をもっていた。著書に『碧梧桐句集』『日本俳句鈔第一・第二』『新傾向句集』『画人蕪村』『日本の山水』『子規と語る』『子規言行録』など多数。松山市役所前に「桜活けた花屑の中から一枝拾ふ」の句碑がある。

 河本 一男 (かわもと かずお)
 明治39年~昭和37年(1906~1962)明治39年6月2日温泉郡桑原村東野(現松山市東野町)に生まれる。小学校卒業後朝鮮に渡り,家具販売業の兄を手伝いながら油絵を学ぶ。大正14年(1925)朝鮮美術展で特選受賞。昭和2年東京に出て太平洋洋画研究所で中村不折に師事。同年最年少で第8回帝展に初入選。同4年太平洋洋画会準会員となる。昭和8年松山へ帰り玩具店を営みながら制作活動を続ける。昭和13,14年二科展に入選。18年以降は創元会に所属。21年愛媛美術協会結成に参画。22年創元会々員となる。26年愛媛美術協会の分裂に際し脱退者と連合し愛媛美術連盟を結成。翌年両派を統合して現在の愛媛美術協会を結成。28年から昭和37年2月25日55歳で没するまで,その理事長を務め県美術界の発展に尽くす。

 菅   章 (かん あきら)
 明治40年~昭和48年(1907~1973)スポーツ功労者。草創期の画家菅天嶺の長男として明治40年西条市氷見に生まれる。東京成城中~日本歯科大を通じサッカー部主将として活躍,同大助教授の後,松山二番町で歯科医を開業。昭和26年(1951)県サッカー協会副会長,同28年同会長。第8回国体誘致を果たした功労者の1人で県体協内のまとめ役として貴重な存在。四国サッカー協会長として昭和39年の東京五輪で四国で唯1人顧問役員として参加。畏友故松田副会長の意志を尊重し小,中学生を対象にした少年サッカー教室を早くから設け,松田杯大会を作った。昭和39年県スポーツ功労賞受賞。昭和48年11月27日死去,享年66歳。

 菅 菊太郎 (かん きくたろう)
 明治8年~昭和25年(1875~1950)農学者,郷土史家。明治8年4月8日越智郡宮浦村(現大三島町宮浦)で生まれ,明治23年7月今治高等小学校卒業,同27年愛媛尋常中学卒業,同32年札幌農学校本科を卒業,同時に北海道庁嘱託として約1か年間シベリヤの農業を視察,帰朝して農商務省に勤務,産業組合法制定の準備に参画。明治35年,病魔におかされ療養のため郷里大三島に帰省する。やまい癒え明治39年,村民に懇請されて小学校の教檀に立ち,大正7年3月まで,大三島高等小学校,宮浦尋常小学校,宮窪尋常高等小学校を歴任。大正7年4月,県立松山農業学校教諭となり教鞭をとる傍ら各地青年団の求めに応じて社会教育講師として青年教育に奔走する。昭和7年12月,県立南宇和農学校校長,同13年8月に県立松山農学校校長に就任,同15年5月から県立図書館長となり郷土文化の発展に尽くす。『カーバー農業経済学』(大正15年),『昭和農村論』,『世界農業史』(昭和9年)などの著書のほか多くの郷土史研究の論文がある。昭和15年,県農会企画の『愛媛農業
史』の発刊に当たり上巻,中巻の執筆に従事,同書により昭和23年に農学博士の学位をとる。昭和25年5月17日75歳で没す。

 菅  橘洲 (かん きっしゅう)
 文化7年~明治33年(1810~1900)教育者。小松藩士で,通称は善太郎,号は芙蓉山人と号す。初めは近藤篤山に学んだあと,江戸に出て昌平黌に入り古賀侗庵に師事し,また佐藤一斎に従って武技を習い,とくに甲州流の軍学の奥義を究めた。帰藩して藩主一柳頼紹に近侍し,養正館の学頭となったり,奉行となって大いに治績をあげる。文久3年退いてからは風月を友として,各地に遊んだが,明治12年より近藤吉山とともに小松地方の育英に尽くし,のち松山へ出て立花の海南書院の学長となり,晩年は香川の観音寺中学校の校長をするなど長年にわたり地方教育に尽力した。詩歌に長じ,書もまた巧みであった。明治33年12月死去, 90歳。

 菅 源三郎 (かん げんざぶろう)
 明治16年~昭和17年(1883~1942)明治16年2月24日越智郡歌仙村大字池原(現菊間町)で生まれる。大正から昭和にかけで日本郵船,三菱合資会社,近海郵船,東亜海運等の船長として活躍,昭和17年乗船長崎丸が長崎沖にて機雷に触れて沈没し犠牲者39名を出した責任をとり自決。当時の国情もあって,海員道の鑑とたたえられた。北豫英学校(のち北予中学校,現松山北高校)をへて明治34年西条中学校(現西条高校)を第1期生として卒業(同級生に十河信二,河上哲太がいた),翌35年10月東京商船学校(現東京商船大学)航海科に入学。41年卒業と同時に日本郵船会社に入社,運転士(航海士)として欧州航路,米国航路の優秀船熱田丸,阿波丸などに乗船した。大正5年甲種船長免状を授与される。同6年三菱合資会社に移籍,主として近海航路に乗船,同13年近海郵船会社に移り天津航路,台湾航路に従事。昭和14年経験を買われて東亜海運株式会社に入社,天津・上海航路に就航。 16年12月8日太平洋戦争勃発の日,上海沖において米国商船プレジデント・ハリソン号の監視を海軍から指令され,自船が無武装なるにもかかわらず勇敢にこの任務を果たし,同船の拿捕に貢献したとして世人の賞讃を受けた。しかし好事魔多し,翌17年5月12日上海を出航した源三郎指揮下の長崎丸5,268総tは,長崎港外にさしかかった翌日午後2時過ぎ機雷に触接し,あっという間に沈没してしまった。船舶の喪失と多数の犠牲者を出したことに責任を感じた源三郎は,遭難事後処理完了を待って5月20日自決。 58歳。 10月5日郷里菊間町では町葬が執行された。学生時代から謹直で正義感が強い半面,時に意想外のことをやってのける一面があった。

 菅  周庵 (かん しゅうあん)
 文化6年~明治26年(1809~1893)今治藩医。本県における最初の牛痘接種を実施した。字は妙慢,春菘・休叟・香雲・七松と号した。先祖は大三島の祠官で,代々今治藩針医として仕えた。幼時より高橋執州に医学を学んだが,志を立てて長崎に行き蘭医学を学んだ。嘉永年闘牛痘痴を手に入れ,藩医半井梧菴とはかり藩内の反対を押し切ってその普及に努めた。明治26年-8月26日84歳で没した。

 菅  誠寿 (かん せいじゅ)
 明治3年~昭和42年(1870~1967)教育者。明治3年7月29日,越智郡宮浦村(現大三島町)の大山祗神社の傍らに生まれる。明治20年17歳にして尋常小学校授業生の免許状を受け,同22年から大見簡易小学校の教壇に立った。同28年宮浦尋常小学校長となり,さらに実業補習学校長を兼ね,大正5年岩城尋常小学校訓導兼校長となる。大正8年・退職するまで実に32年間教師として卓越した学校経営に当たる。昭和4年から同10年までは,社会事業主事として県庁に勤務し,国民皆和運動,中堅青年指導育成等について県下全般の指導に当たった。その間,愛媛県社会福祉協議会長を務めたり,民生児童委員として,社会福祉事業と同和事業,同和運動に尽力した。とくに,多年の学校教育の経験と社会福祉事業の現状から,児童の年間保育の重要性にたち,保育所の設置,老人福祉のための養老院の設置に各方面への働きかけをやった。誠寿はその名の示すとおり至誠一貫そのもので,昭和9毎には従六位,同10年には勲六等瑞宝章,昭和33年には藍綬褒章,同39年には生存者叙勲の勲五等双光旭日章を受けた。晩年は「楠風園」の院長を務めるなど老人クラブの世話を続けた。昭和42年12月13日,97歳の天寿をもって永眠する。

 菅  太郎 (かん たろう)
 明治37年~昭和55年(1904~1980)内務官僚・衆議院議員。明治37年5月30日,松山市千船町で生まれた。松山中学校・松山高等学校で首席秀才を通し,昭和3年東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。内務省警保局に入り,3年間ベルリン駐在,特高課長などを経て12年満州国の国務院幹部,16年内閣企画院調査官などの要職に就いた。公職追放解除後,27年10月の第25回衆議院議員選挙に愛媛第1区で改進党から立候補して初当選した。 28年4月の選挙で落選したが30年2月の第27回選挙で当選,以後, 33年5月選挙で落選,35年11月選挙で当選, 38年11月選挙で落選, 42年1月と44年12月の選挙で連続当選を果たしたが,47年12月には苦杯をなめるなど当選落選を繰り返した。すぐれた学識と政策通にもかかわらず選挙の弱さが大臣の道を阻んだ悲劇の政治家といわれた。昭和55年1月11日75歳で没した。

 菅  俊一 (かん としかず)
 明治28年~昭和32年(1895~1957)教育者。大正6年愛媛県師範学校を卒業。新居郡泉川小学校訓導となり,金子小学校を経て大正9年今治第二小学校に転任。大正15年,今治市役所学務課に勤め,青年訓練所指導員,市学務主任など多くの要職を兼務した。昭和10年今治青年学校が誕生するや初代校長として青年の育成に努力する。同15年肝教育課長に登用され,同21年,公職追放まで名実ともに市長の顧問として俊腕を振るう。特に第2次世界大戦後山本徳行とともに明徳高校の復興に努力したことも氏の功績の一つである。公職追放後,郷里の岡山村に帰り,悠々自適の生活に入ったが,骨接医としても多くの人に愛された。同27年,推されて岡山村長,同31年大三島町が誕生した時にも初代町長に選ばれ,島内開発に大きく貢献した。島内バスの開通も氏の功績の一つである。同32年の町議会の開会中に倒れ,9月26日,多くの人に惜しまれながら逝去した。62歳。同32年,勲六等瑞宝章が贈られた。

 菅  豊一 (かん とよかず)
 明治39年~昭和61年(1906~1986)宮浦村長,県議会議員・議長。明治39年1月2日,越智郡宮浦村(現大三島町)で生まれた。大正11年郡立農林学校を卒業,宮浦村役場書記を勤め,昭和10年~15年同村収入役,15年~18年伊豫銀行書記を経て,19年1月~21年12月宮浦村長に就任,大三島漁業会長を兼任して戦時下の村政を担当,戦後公職追放された。 24年内海建設会社の社長になり, 30年4月県議会議員選挙に立候補当選した。以来50年4月まで連続5期在職して,県政クラブー自民党に所属, 36年3月~37年3月副議長, 39年3月~41年3月瀬戸内海大橋建設特別委員長, 41年3月~42年4月議長を務めた。昭和61年4月17日80歳で没した。

 菅  辨三 (かん べんぞう)
 文久2年~人正9年(1862~1920)宮浦村長。文久2年9月26日越智郡宮浦村(現大三島町)で生まれた。明治17年宮浦村用係になり, 22年12月町村制施行と共に初代宮浦村長に就任,以来任を重ねて大正7年2月まで村政を担当した。その間,河川改修,小学校の新築,村有財産の蓄積,柑橘の増殖などに事績をあげた。大正9年10月24日58歳で没した。

 菅  正意 (かん まさよし)
 明治11年~昭和11年(1878~1936)好藤村長・県会議員。明治11年3月26日,宇和郡東仲村(現北宇和郡広見町)で菅通久の長男に生まれ,慶応義塾に学んだ。大正3年9月好藤村長に就任,昭和3年8月まで村政を担当した。その間,部落有林野の統一,消防組の設置,篤農者表彰規程の制定,青年団巡回文庫の設置など青年教育の振興,自治月報の発刊など民力涵養運動の推進,道路改修,養蚕事業の奨励などの事績をあげた。昭和2年9月県会議員に選ばれたが, 4年1月辞職して東京に移った。昭和11年4月23日58歳で没した。

 菅  政春 (かん まさはる)
 明治38年~昭和61年(1905~1986)実業家。明治38年越智郡波方村(現波方町)生まれ。加根又流通グループ代表。桜井漆器の販売椀舟より,一代で鹿児島を中核に九州一円,大阪と西日本に根をはる流通業界に君臨する。大正11年, 17歳で椀舟行商に鹿児島へ行き,がんばり精神で今日を築く。更に,38の長,社長,会長,理事長をやり, 53の理事,評議員を務める。今治中学校を中退し,弟の秋登,時雄,有親の4兄弟の組んだ商いのスクラムによって大きく育った。はじめは「菅兄弟商会」の看板を掲げ,漆器が主力であったが,月賦制度と頼母子講をミックスした商法を思いつき大当たりをした。鹿児島に生涯根を張り,鹿児島総合卸商団地をつくり,鹿児島中小企業団体中央会会長になる。生涯愛媛に本籍を残し,波方育英会を創設する。昭和50年勲三等瑞宝章を受け,昭和61年6月20日, 81歳で死去。

 菅  良弼 (かん りょうひつ)
 文政9年~明治6年(1826~1873)松山藩家老。名は淳一郎。
 安政元年,ペリーが再来航したおり,松山藩は藩命により武蔵国大森村から不入斗村までの海岸警備に勤める。この時,良弼は藩兵600人を率いて参加する。(松山年譜)慶応2年,幕命によって長州出征の際,四国各藩の総指揮官として若年寄京極高富が来松した。高富の指示により,良弼は一の手軍を率いて和気郡興居島村を出発し,周防国大島(屋代島)の由宇村に上陸する。長州兵と戦ったが敗れ,風早郡津和地島に引き揚げる。

 菅野 剛吉 (かんの ごうきち)
 明治43年~昭和61年(1910~1986)画家。剛山人とも号す。温泉郡(現川内町井内)の酒造業を営み,村長であった菅野唯次郎の長男として明治43年11月15日に生まれる。県立松山中学校を中退後上京,川端画学校に学び帝国美術学校(現武蔵野美術大学)創立とともに入学,昭和8年その第一期生として日本画科を卒業。在学中より平福百穂・中村岳陵に師事。昭和11年新興美術家協会展に初入選以後17年まで連続出品しその間2度の受賞を重ね,昭和16年郷里川内町に帰郷以後はおもに,郷土で活躍する。昭和21年戦後初めての美術展である県代表美術家展に出品し,同22年の愛媛美術協会結成発起人として参画,以後同展審査員。同23年愛媛日本画研究会(後に愛媛日本画会と改称し副会長)結成発起人として活躍。昭和27年愛媛美術連盟結成発起人,同会が愛媛美術会として新出発をするまで日本画廊の中核として活躍。同55年同会名誉会員に推されるまで常任理事・審査員を勤め,昭和34年以後創造美術日本画廊会員・愛媛支部長として毎回斬新な画風で後進に大きい影響を与え,県下日本画の振興にあたる。また一方,済美高等学校の芸術課程創設に参画し同校美術科講師を勤め,さらに東温高校講師,川内町教育委員など地域の教育文化の振興に尽くした功績も大きい。昭和61年8月1日死去,75歳。

 菅野 寿章 (かんの ひさとし)
 明治26年~昭和48年(1893~1973)果樹栽培技術の普及ならびに果樹栽培技術者の指導育成に尽くした。明治26年温泉郡桑原村字桑原(現松山市桑原町)に生まれる。大正6年農商務省農事試験場園芸部卒業後,広島県・熊本県の地方技師を経て,昭和20年6月農林省嘱託,同21年8月日本園芸連参事,同24年愛媛県青果農協連技師(のち参事)となり,天・地・人三位一体を原則とする適地適産を主唱,特に果樹栽培技術者の指導育成やその連絡研修組織として,園芸技術研修会を創設するなど,果樹栽培技術者の象徴的な存在として敬仰された。昭和35年愛媛新聞賞,昭和37年黄綬褒章を受けた。昭和48年4月24日80歳で死去。

 菅野 和太郎 (かんの わたろう)
 明治28年~昭和51年(1895~1976)経済学者,衆議院議員。岸・佐藤内閣の経済閣僚を歴任した。明治28年6月20日,松山市永木町でたばこ製造・卸売業を営む商家の長男に生まれた。松山商業学校を中退して北予中学校に編入して大正2年卒業した。朝鮮に渡り綿会社に入社したが4年に帰国。6年一念発起して京都帝国大学に入学,卒業後大学院に残り,一時ドイツに留学した。13年彦根高等商業学校教授になり,昭和7年『日本会社企業発生史の研究』で経済学博士号を得た。8年大阪商科大学教授,『近江商人の研究』など経済史に業績をあげた。 11年大阪市教育部長に就任,17年4月の翼賛選挙で推薦されて衆議院議員になった。戦後一時追放されたが,解除後政界に復帰,大阪一区を地盤に当選9回に及んだ。自由民主党有数の経済通として,34年第二次岸信介内閣の径済企画庁長官に就任,41年第一次佐藤栄作内閣と42年第二次佐藤内閣で連続して通産大臣,43年再度経済企画庁長官・万国博担当大臣として,大阪万国博覧会を成功に導いた。昭和51年7月6日81歳で没した。

 簡野 道明 (かんの みちあき)
 慶応元年~昭和13年(1865~1938)漢学者。吉田藩士簡野義任の于。江戸古田藩邸で生まれる。明治2年,帰郷し,狩谷檀斎(江戸中期の国学者)に私淑する父に学び,ついで森蘭谷,兵頭文斎に師事した。明治17年,愛媛県師範学校卒業。県内や兵庫県の小学校に7年勤務したのち,同29年,東京高師国漢専修科卒。東京師範学校教諭を経て,同35年東京女子高等師範学校教授。のち辞して中国に遊び,彼の地の学者たちと交わり,古書の採集,史蹟名勝の探求に専念した。以後,経学研究と辞典編さんに没頭した。『故事成語大辞典』など著書多数がある。大正12年, 20余年心血を注いだ『字源』を刊行,不朽の名著と称される。昭和13年2月11日死去, 73歳。墓地は東京小石川伝通院にある。

 蒲生 忠知 (がもう ただちか)
 慶長10年~寛永11年(1605~1634)加藤嘉明の会津転封後の松山へは,出羽国上ノ山4万石の蒲生忠知が本領の近江国日野牧(現蒲生郡日野町)を合せて24万石を得て入部した。寛永4年(1627)5月7日のことであった。当主忠知は23歳の青年で主従400人は三津に着船,帯同した家臣は蒲生源三郎らの重役はじめ高禄者以下50石以上の者であった。
 蒲生氏は藤原秀郷七代の後裔惟賢が鎌倉時代初期に近江国蒲生郡に移住し,蒲生を称したに始まるとされる。戦国時代に日野城を築いた定秀から賢秀,氏郷の三代の居城となった。氏郷の子秀行は父の跡を嗣ぎ会津60万石を領し,妻は家康の娘振姫であったが,『当代記』は人となりを常々大酒・放埓と記すが30歳で死去,二子あって兄忠郷に父の跡を受け,弟忠知は寛永3年22歳で出羽国上ノ山4万石を与えられた。
 寛永3年の暮れ,忠郷は庖府を患い,弟の忠知は上ノ山から来て看病に努めたが空しく翌4年,正月に25歳で死去,会津60万石は公収された。忠知は兄会津60万石と自らの4万石の家臣を松山24万石で扶養しなくてはならない。一般には会津知行高の三分の一と想定されたが一律ではなかった。そのためであろうか,重臣間に対立が激化し将軍家光の裁決を仰ぐという蒲生騒動が寛永7年3月に起こっている。然し民政一般についての幕府隠密の報告を見ても蒲生の風評は悪くないし徳威原の開墾計画などは池溝を作り立派であったが十分な完成結果は見られない。
 寛政11年8月18日疱瘡にて卒す29歳とのみで参勤の途上か,死去の地も定まらない。末広町興聖寺境内の墓碑は城西大林寺から移したものという。本領の滋賀県日野町には荒れ果てた日野城址と蒲生家を祀る小さな涼橋神社がある。

 学   信 (がくしん)
 享保7年~寛政元年(1722~1789)浄土宗僧。譚は学信。字は敬阿,正蓮社,行誉は嗣法の嘉号。今治鳥生の生まれ。亡母の棺中にて生まれたという伝説がある(『続近世畸人伝』)。幼くして今治の円浄寺真誉上人により剃髪し,勉学,20歳の時江戸の増上寺に籍を置いて精勤苦学する。それから瓢然と京都へ上り,長時院湛慧和上を訪ね,菩薩の大戒を受け「尽形寿」の八斎戒を受ける。高野山へのぼり修行後,伊予岩城島の浄光寺に招かれ,父の死をみとったのち宮島の光明院に入る。松山の長建寺から招かれ,さらに藩主定静の招請でその菩提寺である大林寺に移る。天明元年石原勘助助命の嘆願を藩主定国に容れられず,大林寺を去って宮島光明院に帰る。寛政元年6月7日67歳で没す。著書に『要学集』『蓮門興学篇』,また和歌漢詩集に『幻雲集』がある。伝記『学信和尚行状記』は門弟僧敏の著。