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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 木子 七郎 (きご ひちろう)
 明治17年~昭和30年(1884~1955)建築家。木子家は代々宮大工の家柄で,父清敬は慶応4年の大坂御親征に供奉し,次いで宮内省内匠司に出仕し,明治22年には工科大学造家学科の講師となって日本建築の講義を担当した。その後内匠寮技師として,皇居・青山御所・伊勢大神宮・京都御所等の造営設計に参画した。七郎はその四男として明治17年4月東京で生まれ,兄幸三郎と共に建築の道に進んだ。明治44年,東京帝国大学工科建築科を卒業し,大正2年,建築設計監督の業務を開始,関西を中心に活躍した。県外における作品には,新潟県庁舎・松江公会堂・大阪日赤本社等がある。松山出身の実業家新田長次郎の女婿(妻カツ)となったことから,松山市内でも多くの建築物を設計したが,明治末期に西欧から導入された鉄筋コンクリート造り建築を,この地方に普及した功績は大きい。その作品は次のものがある。
<現在滅失したもの〉
伊豫農業銀行湊町出張店(大正3年,落成後は同行本店となる)・大丸百貨店ゲストハウス・松山高等商業学校講堂(大正13年)・愛媛県立図書館(昭和8年)
<現存するもの〉
久松家別邸(万翠荘,大正11年)・石崎汽船本社(大正13年)・愛媛県庁本館(昭和4年)
 昭和30年9月没。享年71歳。

 木野戸 勝隆 (きのと かつたか)
 嘉永7年~昭和4年(1854~1929)神職。嘉永7年11月9日喜多郡阿蔵村(現大洲市)に生まれる。性学問を好み,初め大洲藩校の錦綱舎に漢学を学び,続いて帰郷中の矢野玄道に師事した。玄道に私淑した勝隆は,のち彼の著述の忠実な助手としても活躍し,『神典翼』『皇典翼』の成稿に尽くした。明治7年京都に遊学し,同14年には皇典講究所教諭,さらに浅間神社宮司を経て伊勢神宮称宜となり,皇学館教授・館長をつとめる。のち加茂別雷神社・多賀大社宮司に転任し,大正9年勅任官待遇となった。勝隆は同郷の常磐井精戈とも親交を結び,明治26年,彼の死を悼んで「なにしかもみうせましけむともどもにはかりしてとらなしもおへずて」の歌を霊前に捧げた。昭和4年の退任に伴い従五位に叙せられたが,同年11月13日74歳で没した。『定本古語捨遺』『祭式摘要』『神典翼皇典翼補遺』『矢野玄道先生外伝』などの編著書がある。死後,これらの著作や蔵書は西条・伊曽乃神社の文庫に納められた。

 木原  茂 (きはら しげる)
 明治16年~昭和53年(1883~1978)実業家。明治16年9月13日,高部村(現今治市高部)に生まれる。幼少のころから進取の気性にとみ,長じて商業経営の才に秀でる。日露戦争に出征し,明治45年今治市で綿糸販売業をはじめ,大正3年には独力で綿織物工場の経営に着手。同6年木原興業株式会社を創立しその社長に就任する。以来50有余年間,まさに綿業一筋に生き,その決断力と行動力で多くの試練を克服し,今日の今治綿業を全国有数の主産地とするのに多大の貢献をした。この間,大正13年の大阪合同紡績(現東洋紡績),昭和11年の長崎紡績(後倉敷紡績と合併)等の誘致を成功させる等綿業の隆盛に多くの功績がある。昭和19年緑綬褒章,同35年黄綬褒章,同39年には勲五等双光旭日章を受章する。昭和43年には第1回の愛媛県功労賞を受賞する。昭和53年11月21日95歳で死去。

 木村 幾久太郎 (きむら いくたろう)
 生年不詳~明治39年(~1906)旧西条藩の豪商近江屋に生まれる。幼名を信祐と呼び成人して近江屋の当主となる。明治維新を迎えて職を失った多数の士族に対する金融の便宜が求められるなかにおいて,明治5年から12年にかけて全国で153の国立銀行が設立されたが,西条においては同12年4月東町札の辻に第百四十一国立銀行が設立され7月から営業を開始し,初代の頭取となった。同行は資本金5万円,旧藩主松平頼英が総裁となり多額の出資をした。同行は明治29年10月に営業満期となり普通銀行に転換して株式会社西条銀行と改称して営業を続けたが,昭和3年12月芸備銀行(現広島銀行)に合併されて同行西条支店として今日に至っている。明治39年5月14日没した。万福寺墓地内の光明寺飛地に葬られる。

 木村 敬二郎 (きむら けいじろう)
 慶応元年~昭和2年(1865~1927)教育者。西条藩侍講直太郎の次男として生まれ,維新後,宇摩郡野田村(現土居町)に移住し,生涯小学校長として子弟の教育に専念し,教育者の手本として尊敬された。
 明治18年,愛媛県師範学校の高等師範科を卒業,すぐに香川県の加文小学校長となり,続いて長尾高等小学校訓導,宇摩郡三島高等小学校長を歴任,同25年,小富士高等小学校が創立されると, 28歳の若さで初代校長になる。以来30年間にわたって同小学校長を務め,大正11年,同校が廃校になると宇摩女子農業補習校長になり,昭和2年62歳で死去するまで35年間,土居町の子弟教育に心血を注いだ。
 県下初の小学校教員で奏任官待遇を受け,数々の栄誉に浴し,教え手たちによって小富士小学校庭に銅像が建てられた。

 木村 太郎 (きむら たろう)
 明治16年~昭和38年(1883~1963)郡中町長・県会議員。明治16年5月2日,伊予郡郡中湊町(現伊予市)で生まれた。
 家業の製材業を営むかたわら,町会議員を務めた。昭和6年9月~10年9月県会議員に一期在職した。昭和10年9月~19年3月郡中町長になり,郡中港湾の整備拡張に力を注ぎ,郡中町と郡中村の合併を進めた。また郡中漁業組合理事長として魚市場の運営や共同販売などに尽力した。昭和38年11月25日80歳で没した。

 木村 利武 (きむら としたけ)
 嘉永3年~大正3年(1850~1914)初代松山市長。嘉永3年11月28日,松山城下柳井町で藩士木村利長の長男に生まれた。明治4年松山県庁掌, 7年愛媛県雇・戸長, 11年風早郡書記,13年同郡長心得,19年風早和気温泉久米郡長心得を歴任, 23年1月松山五十二銀行取締役となったが,同年2月推されて初代松山市長に就任,29年2月まで市政を担当して市発展の基礎を築いた。その後,松山商業銀行頭取・松山商業会議所会長などを務めた。大正3年10月2日63歳で没した。

 木村 信競 (きむら のぶたか)
 文化6年~明治10年(1809~1877)松山の富豪。通称次(治)五兵衛。信翁,信乎,信天,己巳翁と号した。木村家は大木村と尊称され,藩政時代から屋号を「布屋」という豪商であった。信競は若くして京都に遊学,香川景樹についた。彼のもとで歌道,国学を究める。敬神尊王の念厚く,近藤芳樹,大国隆正らを迎え,国学を奨励した。有為の人材に援助を惜しまず,三輪田元綱,河野通融,黒田千箭らの俊秀たちを育てた。信競には『藤古呂毛』,『直目霊』, 『道廼技折』,『七ヶ条鏡草』,『身滌規制』、『唯一辨』,『幽府神祭略』などの著書がある。維新後,大山祇神社宮司に任ぜられる。明治10年8月21日68歳にて没す。

 木村 八郎 (きむら はちろう)
 明治36年~昭和54年(1903~1979)西宇和郡矢野町(現八幡浜市矢野町)に生まれる。家は五反田縞の織物業を営み,幼少のころより絵に親しむ。大正10年大洲中学校卒業後上京。本郷絵画研究所に入り,岡田三郎助に師事する。昭和7年29歳で帝展に初入選。以後春台展,文展,光風会で活躍し昭和17年には光風会員に推挙される。又この年の文展出品作「網を繕ふ」で岡田賞を受賞,無鑑査となる。昭和19年,戦争激化とともに郷里の八幡浜に疎開終戦をむかえる。間もなく八幡浜美術会を結成し,地域美術の発展と後進の指導に努める。昭和27年には,愛媛美術協会後の新たな愛媛県美術会を結成するに際し,初代理事長となり,戦後愛媛美術の発展に尽力。又翌年より愛媛大学教育学部講師も勤め,穏健重厚な画風と人柄で学生を魅了,県美術教育に多くの後継者を育てる。昭和32年再び上京。東京都保谷市に居を構え,武蔵野の自然に画題を求めた「農家の庭」「梅」など徹底した写実に独自の点描を加味した気品ある作品を次々に発表する。昭和54年6月28日76歳で没す。

 木村  庸 (きむら よう)
 天保12年~明治16年(1841~1883)松山の富豪。松山出淵町2丁目(現松山市三番町七丁目)で木村信競の長男に生まれる。父信競と交流のあった国学者で歌人の大国隆正に学び,国学,和歌を究める。地方歌壇の興隆に寄与した歌人である。地方文化人であると同時にまた汽船を購入して海運に力を注ぐなど地方産業の発展に功績を残した。明治9年「愛媛県御用新聞」の題字で発行された新聞が経営に行き詰まると,木村庸が第三代目の経営者として乗り出し,翌10年,海南新聞と改称する。信哉,鯨夫,五射夫,二郎,信古,五草穂,愛宕庵,茶不老,不老宕と号す。晩年は東雲神社社司を務めた。明治16年2月21日41歳にて没す。

 木村 鷹太郎 (きむら ようたろう)
 明治3年~昭和6年(1870~1931)評論家。宇和島で生まれる。明治21年,明治学院に入学するが退校処分を受け,東京帝国大学歴史選科に入り,後哲学選科に転学する。卒業後,陸軍士官学校教官を務めるが,上司と衝突して辞職,新聞記者となる。同30年,井上哲次郎,高山樗牛らと「大日本協会」を結成し,日本主義を鼓吹する。一時結婚のため帰郷し「京華日報」に入社するが,長くは続かなかった。同34年から翻訳・著述に専念し,特にバイロンの研究に新機軸を展開『バイロン文界の大魔王』『バイロン評伝及詩集』を発刊する。また与謝野鉄幹と鳳晶子の仲人をしたことは後に晶子が鷹太郎の著書に賛歌をささげる由縁である。後,『プラトン全集』を翻訳したり多彩で奇想天外の発想で明治末期から大正年間に日本文学界を闊歩した。昭和6年7月18日,61歳で死去。

 木村 好子 (きむら よしこ)
 明治37年~昭和34年(1904~1959)詩人。明治37年に新居郡新居浜村(現新居浜市)に生まれる。旧姓は白川で,作家の白川渥の姉に当たる。新居浜在住時代より赤松月船から詩を学ぶ。上京して,昭和2年詩人で美術評論家の遠地輝武(木村重夫)と結婚する。日本プロレタリア作家同盟,プロレタリア詩入会に参加して活動。中野重治の妹で詩人の中野鈴子らと同世代で庶民的で平等な表現で世に知られる。のち癌に倒れ闘病中に夫が編集してくれた『極めて家庭的に』が遺稿となる。他に『1935年詩集』に『落葉』『日本プロレタリア詩集』に『洗濯デー』などの作品がある。昭和34年10月24日,55歳で死去。

 木和村 創爾郎 (きわむら そうじろう)
 明治33年~昭和48年(1900~1973)本名を正次郎といい,松山市河原町に生まれる。松山商業学校中退後大阪に出て,印刷所で働きながら北野恒富の書生となって絵を学ぶ。大正13年京都市立絵画専門学校を卒業。日本画家西山翠嶂に師事して院展で活躍するが,昭和17年42歳で上京。その後版画に専念する。繊細な感性の豊かな色彩で多色木版画を手がけ,日展,国画会展,日本版画協会展,光風会展などへ相次いで発表,特に日展には20回の入選を果たし,光風会では会員に推挙されている。昭和33年から10年間,日本各地を巡り歩いて制作した「渓谷シリーズ」は特によく知られている。その後フランスのル・サロンに日本の風景版画を出品し,銅,銀,金賞を連続受賞し無鑑査となるなど,海外でも認められる。昭和48年11月6日,東京で73歳で没す。

 吉備朝臣 泉 (きびのあそん いずみ)
 天平15年~弘仁5年(743~814)右大臣吉備真備の子。孔門童子として聞えがあったが,性格はことさら偏急で物に忤うことが多かったという。天平神護3年(767)2月,従五位下近衛将監として大学員外助を兼ねたのが史料上の初見で,その後大学頭,造東大寺司長官などを経て天応2年(782)6月,前任石上家成のあとを承けて伊予守に就任した。時に従四位下。しかし在任中は下僚と協調せず,しきりに告訴された。朝廷の勘問使に対する泉の言辞も不敬に渉ったため,治績にみるべきものなく犯状のみありとして,延暦3年(784)3月,伊予守を解任された。翌年には藤原種継暗殺事件に関連して佐渡権守に左降された。のち参議,南海道観察使,左右大弁,刑部卿などを歴任したが,政事の処置に紀なく,剛戻の性は老いても変わらなかったといわれる。弘仁5年閏7月8日卒す。この時散位正四位上。 71歳であった。

 吉弥侯部 勝麻呂 (きみこべの かつまろ)
 生没年不詳弘仁4年(813)2月,伊予国人勲六等として同族佐奈布留と共に野原と改姓された。神亀2年(725)閏正月,陸奥国俘囚144人が伊予に移配されたが,勝麻呂らはその系譜を引くものであったと考えられる。天長9年(832)12月,阿波国に移された伊予国俘囚吉弥侯部於等利等男女5人も同様であったろう。吉弥侯部(君子部)は本来律令国家に帰降した蝦夷(俘囚)に与えられた姓の1つであり,東北経略にあたった中央豪族のうち上毛野氏との関係が深く,のち同氏との同祖関係を主張している。弘仁年間は俘囚計帳進上,俘囚への賑給支給開始と,その公民化政策が進められた時期である。かかる政治的動向の下で,すでに勲位をおび,於等利のような俘囚の呼称も消え,徐々に俘囚身分からの上昇を遂げつつあった勝麻呂は,改姓によって,最終的に公民身分の獲得に成功したわけである。

 吉良 銀次郎 (きら ぎんじろう)
 明治5年~昭和6年(1872~1931)県会議員。明治5年8月11日,宇和郡豊岡村(現北宇和郡松野町)で旧庄屋吉良義路の長男に生まれた。38年以来村会議員になり,明治44年9月~大正4年9月県会議員に所属し,また宇和島鉄道の会社の重役も務めた。大正11年2月明治村長に選出されたが,政争を嫌い,辞して受けなかった。昭和2年6月宇和島市に転籍,同6年10月15日59歳で没した。

 吉良 麟太郎 (きら りんたろう)
 文久2年~昭和12年(1862~1937)一本松村長・県会議員。文久2年3月20日,宇和郡増田村(現南宇和郡一本松町)で吉良宇賀次郎の長男に生まれ,慶応義塾に学んだ。父は明治15年~17年県会議員を務めた。衆議院議員矢野丑乙は実弟である。明治22年町村制施行以来一本松村会議員として活躍,一時助役も務めた。 35年林道開発の議が起こると路線をめぐって各部落間で対立したが,これの調停に奔走して解決,惣川線の外に37年には一本松線林道開さくを実現した。この功をたたえて昭和10年増田の林道入口に頌徳碑が建てられた。40年9月~44年9月県会議員に一期在職した。大正11年3月一本松村長に就任して昭和4年10月まで在職,不況のなか村費節約に苦慮しながら産業技術員・村医誘致などを図って村民の生活向上に努力した。昭和12年10月2日75歳で没した。

 城多 又兵衛 (きた またべえ)
 明治37年~昭和54年(1904~1979)音楽家。明治37年3月30日。三重県に生まれ,昭和4年東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科を卒業する。同6年から9年までローマの聖チェチーリア音楽学校へ留学する。帰国して母校東京音楽学校の教授となる。同31年愛媛大学教授となり,特別教科(音楽)教員養成課程の設置認可を受けるのに大きな働きをなした。ちなみに特別音楽課程は昭和34年4月1日設置され,本県の音楽教育に大きな貢献をしている。のち,京都教育大学へ転出し,以後,上野学園大学,作新学院大学,昭和音楽大学などに教授として音楽教育の発展と後進の指導に当たった。自身もテノールの歌手として活動を続ける。著書には『コールューブンゲン』『コンコーネ・五十番』など多数ある。昭和54年3月30日,75歳で死去。

 城戸 豊吉 (きど とよきち)
 明治24年~昭和40年(1891~1965)花かつお製造創始者の1人。明治24年11月30日伊予郡北山崎村尾崎(現伊予市)の網元,父瀧次郎の長男として生まれる。大正6年,27歳のとき大阪市場で販売されている削り節に着目し,同年4月郡中村栄町(現伊予市)において城戸商店を飢立し,削り節機械3台を購入して「花かつお」の製造を開始した。その後大正10年,事業の拡張を目的として同米湊1719番地に工場を建設したが,激増する需要に応ずるべく,昭和12年さらに同米湊1698-6の現在地に新工場を建設して業績の拡大に努めた。昭和15年,全国削節工業組合連合会理事長に就任して業界のリーダーとしての役割を果たしたが,昭和16年第二次世界大戦のため削り節も統制配給制度となり事業は非常な制約を受けることとなった。さらに昭和19年には業界企業整備令実施に協力して全面廃業し,戦争のため金属回収を目的とした機械設備一式を国に供出した。そして同年5月には海軍により工場が接収されてしまったが翌20年9月終戦に伴い,再び海軍から工場の返還をうけた。昭和22年から生産を再開し,同25年8月には東京城戸商店の設立と名古屋出張所を開設するなどして経営基盤の強化に努めた。昭和25年11月会社を法人組織に改組し,社名を株式会社城戸商店とし,社長に就任した。同社は本社を伊予市米湊に置き,開発本部・営業本部を東京に設置しているほか,北は北海道から東北,関東,中部,阪神,中国,四国,九州と全国一円にわたって29ケ所の支店又は営業所をもっているほか,伊予市に2工場,福岡に1工場を設置して製造にあたっているが,現在は多様化する消費者のニーズに応え,花かつお,削りぶし,だしの素,カツオパック,めんつゆ,かつおだし等多彩な製品を手がけており,生産額において全国屈指の会社として発展している。さらに同氏は昭和30年2月には合併前の郡中町長にひきつづき初代伊予市長となり地方自治の面でも地元の発展に努め33年11月には黄綬褒章の栄に浴したほか,伊予市名誉市民として永くその功績がたたえられている。本社敷地内には36年4月に建てられた彫刻界の泰斗,北村西望による胸像がある。昭和40年7月14日73歳で死没した。

 城戸 幡太郎 (きど まんたろう)
 明治26年~昭和60年(1893~1985)教育学者。明治26年松山市三番町に生まれる。明治44年松山中学校を卒業,早大予科を経て大正5年東京帝国大学心理学科・選科・を卒業。卒業論文は「書の心理学的研究」で小学校生徒を被験者にした研究であった。卒業後は精薄児教育に関係し,その知能の構造について実験研究を行う。大正11年ライプチヒ大学に留学し,同13年に帰国し法政大学教授となる。昭和6年から同8年にわたって岩波講座『教育科学』全20巻を刊行し教育の科・学的研究の先鞭をつける。城戸の学問的業績を波多野完治は,表現心理学,日本精神史,教育地理学,心理学問題史,の四つに分けられるという。雑誌「教育」の編集にもたづさわるが,昭和19年には廃刊となり,治安維持法で検挙されたこともある。戦後は,昭和21年文部省教育研修所所長,教育基本法や六三制教育の確立に貢献。同26年北海道大学教育学部長,同38年北海道学芸大学学長などを歴任し,その間,同32年には日本教育心理学会会長にもなる。著作としては『教育学辞典』(昭和11年)『教育科学的論究』(昭和23年)『教育科学七十年』(昭和53年)等があるが,『古代日本人の世界観』『日本思想と生活心理学』『国語の表現性と国民性』等の著作で代表される日本精神史研究があり,その幅広い研究をうかがうことができる。昭和48年以降は正則高等学校の校長として,高齢にもかかわらず現役の教育者として同57年まで活躍した。なお,松山市における生家は『坊っちゃん』に出てくる宿屋「山城屋」である。昭和60年11月18日92歳で死去。

 紀井 為一郎 (きい ためいちろう)
 明治13年~昭和42年(1880~1967)銅山川疎水功労者。明治13年3月2日宇摩郡川滝村(現川之江市)の資産家に生まれる。京都美術学校を経て岡山市で美術倶楽部を経営していたが,大正2年郷里に帰り,以後銅山川疎水の開設に心血を注いた。
 水不足に悩む宇摩郡では安政年間(1854~1860)から疎水計画が立てられていたが,紀伊が乗り出したために計画は本格化した。ただ,彼の計画は個人企業の要素が強かったため挫折,大正13年以降は山中義貞・合田鶴太郎・森実盛遠らによって,公営による疎水実現運動が進められた。銅山川疎水運動の口火を切った紀伊も疎水組合や期成同盟会の常任幹事としてこれに参画,昭和28年・には柳瀬ダム(金砂湖)が完成,翌29年・には銅山川の水が法皇山脈中の隧道を通って宇摩平野へ流れ込んだ。なお,銅山川疎水は,発電用水・農業用水・工業用水として利用され,現在の伊予三島市・川之江市の発展に大きく寄与している。昭和42年2月24日86歳で死去。

 紀  淑人 (きの よしと)
 生没年不詳 9世紀の代表的文人長谷雄の次男。延喜9年(909)正月左近将監に任じられたのを初見とし,以後右兵衛佐,左衛門権佐など主に武官の経歴を歩んだ。承平5年(935)正月河内守に就任した後,6年正月海賊を搦め捕った功で従四位下に叙されており,この間追捕南海道使に任命されたらしい。5月伊予守(大介)となり,その寛仁の世評でもって日振島に屯聚する海賊2500余を帰降させ,田畠を給するなどして勧農につとめた。しかしこの時淑人は70歳に近い高齢であったと推測され,同年海賊追捕の宣旨を蒙っていた藤原純友らの助力を得ての成果であったろう。天慶2年(939)12月,随兵を率い海上へ出奔を企てる純友の制止を試みるが失敗,純友召喚を都に要請した。純友の乱終熄後の天慶6年2月丹波守,天暦2年(948)正月,河内守に再任された。

 喜多川 久徴 (きたがわ ひさよし)
 天保12年~大正10年(1841~1921)小松藩大参事・私学功労者。天保12年10月5日,小松藩家老の家に生まれた。幕末藩政を担い,維新後明治2年小松藩大参事に任じ,職制・禄制・兵式の改革を進めた。15年12月キリスト教に入信,19年松山女学校経営援助の要請を受けて松山に移住した。以後松山女学校(現松山東雲学園)の発展に貢献した。大正10年7月5日79歳で没した。

 喜安 健次郎 (きやす けんじろう)
 明治18年~昭和22年(1885~1947)鉄道院次官。明治18年11月4日,伊予郡恵久美村(現松前町)で生まれた。学者喜安璡太郎は兄である。松山中学校・第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。鉄道院に入り,大臣官房法規課長・鉄道監督官・監督局長を歴任した。監督局長時代に愛媛鉄道・宇和島鉄道を国鉄に買収して,予讃本線の南予開通への目途をつけた。昭和9年次官に昇進,在任6年の記録を作った。退官後帝都高速度交通営団総裁を務めた。昭和22年8月29日61歳で没した。

 喜安 璡太郎 (きやす しんたろう)
 明治9年~昭和30年(1876~1955)学者。伊予郡恵久美村(現松前町岡田)で明治9年1月10日に生まれる。地元の小学校から明治19年郡中村米湊(現伊予市)の高等小学校に編入学したが,松山の伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校する。同校の友人,景浦直孝,仙波花叟らと逞文学会をはじめ,雑誌を出していたが,愛媛県尋常中学校入学後は「文学の栞」を印刷し文学の同好の士と活動する。正岡子規にも近づき指導を受けたり,寄稿を受ける。明治26年上京して東京専門学校(現早稲田大学)文科に入り,同30年卒業。翌年,新潟県高田中学の英語教師となるが,坪内逍遙に呼び戻され,同36年から早稲田実業の教師となり,傍ら雑誌「英語青年」を出していた青年社に入社,社主ともなる。我が国英語教育の向上に尽くした功績は大きい。著書に『湖畔通信・鵠沼通信』 がある。昭和30年12月22日,79歳で死去。

 菊川 忠雄 (きくかわ ただお)
 明治34年~昭和29年(1901~1954)労働運動指導者・衆議院議員。明治34年3月1日,越智郡波方村(現波方町)で菊川延吉の長男に生まれた。大正15年東京帝国大学経済学部を卒業。大学在学中より東京帝国大学「新人会」に入り,学生運動に携わった。卒業後,全日本労働組合同盟本部政治部長,全日本労働総同盟本部総主事,日本鉱山労働組合会長,日本労働組合総同盟総主事を歴任した。昭和9年には第18回ILO総会に労働者代表として出席した。その間,日本労農党,日本大衆党,全国労農大衆党,社会大衆党に所属した。戦後は日本社会党労働部長になり,22年東京都第4区より衆議院に立候補して以来3回当選,中央執行委員・教宣局長として活躍した。昭和29年9月29日夜,青函連絡船「洞爺丸」に乗り合わせ遭難した。53歳。著書に『学生社会運動史』『労働組合組織論』などがある。

 菊川 南楊 (きくがわ なんよう)
 明治29年~昭和5年(1896~1930)野間郡小部村(現越智郡波方町小部)に明治29年12月4日漁師の四男として生まれる。本名は十太郎。けじめ大阪の南画家姫島竹外に師事するが意にそわず,何人かの画家の門をたたいた後,結局京都の南画家橋本関雪のもとに身を寄せる。関雪は「新南画」と呼ばれる独特の画風を築き,第1回帝展の審査員となった人。南楊は,昭和元年帝展初入選を果たし,翌年には郷里の貴布禰神社に龍の絵馬を奉納している。このころから南楊は従来の様式から出て,次第に写生を旨とした画面づくりへと向かう。代表作「夏山図」(個人蔵)の大作は,点描に近い枯筆を主にして,樹林を大らかに描きとめたもので,南楊の創造力の豊かさを充分伝えている。西洋画研究にまで意欲を燃やしていた矢先,交通事故に遭い突然世を去っている。 34歳。

 菊地 和久 (きくち かずひさ)
 安永8年~嘉永5年(1779~1852)伊方八幡神社神主。国学者。歌人。初め大洲の常盤井守貫,後に本居大平について神道・国学を学んだ。古事記を研究し,晩年官命により四国・九州等を巡歴して『古事記』の事跡調査に当った。その著・和歌集の存在を聞かない。嘉永5年12月9日73歳で没す。

 菊地 正行 (きくち まさゆき)
 明治22年~昭和48年(1889~1973)教育者。明治22年1月26日喜多郡粟津村大字米津(現大洲市)の芳我正直の四男に生まる。明治36年宇和島中学校大洲分校に入学,毎日往復5里(20km)の道を通学したが,3人の兄たちが順次日露戦争に従軍したので,正行は1学年修業とともに退学し家業の手伝をした。戦後同39年大洲中学校2学年に編入,翌年愛媛県師範学校に入学,44年卒業した。
 櫛生尋常高等小学校,大洲尋常高等小学校訓導を経て,大正3年豊茂尋常高等小学校長になった。時に年26歳。大正8年櫛生尋常高等小学校長,同10年喜多郡社会主事・喜多郡視学となり,青年の指導・部落改善など社会の教化事業に活躍する。同13年から4年間長浜尋常小学校長を勤め,愛媛県視学宇和支庁詰めとなる。そのあと,宇和島尋常高等小学校長として11年勤める。宇和島での11年間に薫陶を受けた者がその徳を慕い「櫛生会」をつくり,毎年大峯山房に会した。
 終戦後は,郷里の大峯にこもり,民生委員,PTA会長,漁協組合長,人権擁護委員,文化財専門委員等を歴任,郷土の産業開発,郷土史資料の発掘採取に献身的努力をした。愛媛の教育界に残した業績はまことに大きく,県教育行政にあっても,広く県下教育の指導推進に努めた。平泉澄博士に40年余り師事し, 200余通の博士からの手紙を所蔵していることからもうかがえるように,日本精神の研修実践に生涯努め,光彩を放っている。昭和48年9月14日,84歳で死没した。

 菊池 園太郎 (きくち えんたろう)
 慶応4年~昭和17年(1868~1942)慶応4年5月10日八幡浜市1302番地第一に生まれ,明治19年7月獣医免許規則の発表による泰西獣医学の速成科教育を受け翌20年の開業試験に合格し,獣医開業免許状の交付を受け,以来第一線開業獣医師として現在の八幡浜市を中心に保内・三瓶・宇和町地区の牛馬の診療と畜産農家の指導一筋に生涯を貫いた人で,性格至って明朗濶達,頭脳明瞭,清廉潔白で人の面倒みもよく衆望厚く,また経済に長じ経営感覚も秀でていて,獣医業に専心するほか多くの人を使って搾乳販売業をけじめ,八幡浜を起点とする主要路線の客馬車の経営,金融事業にも手を出すなど経世家としても地域に名をなした人であった。特に獣医技術については泰西の新技術の吸収には極めて熱心に習得に努める一方我が国の古来の施療術である草根木皮の薬用投与や烙鉄披針の施用,あるいは馬針による鍼術(ちあいとり)なども大いに賞用して,その技術については畜産家の絶対的な信用を博し,地域の畜産振興に果たした功績は大きく,その高名をたたえるべく地区農民によって宇和町伊延に氏の頌徳碑が建立されている。昭和17年12月23日,74歳で歿す。

 菊池 恭三 (きくち きょうぞう)
 安政6年~昭和17年(1859~1942)安政6年10月15日旧吉田藩領宇和郡川名津浦(現八幡浜市川上町川名津)の庄屋久右衛門泰成の三男に生まれる。明治18年工部大学(後東京帝国大学に併合)船舶機械科を卒業。横須賀造船所,大阪造幣局勤務を経て平野紡績の技師となる。同20年紡績機械研究のため英国に派遣された。後大日本紡績の社長に就任し大正13年三門銀行の頭取となる。同15年第一次世界大戦後天然に代わる新繊維の必要に迫られて日本レーヨン㈱を設立,社長に就任。さらに昭和8年三四,鴻池,山口の三銀行を合併して三和銀行を創設した。大正15年には貴族院議員に勅選された。工学博士。次兄の赤松泰包は畑地村(現津島町)の初代村長で自由民権運動の先駆者。次弟の田中泰薫は日本造船界の権威であった。郷土愛が強く郷里川上小学校建築費に多額の私財を提供。また旧八幡浜商業学校卒業生を毎年三和銀行に採用した。昭和17年12月28日83歳で没した。

 菊池 儀蔵 (きくち ぎぞう)
 明治4年~昭和19年(1871~1944)八幡浜町長・県会議員。明治4年5月20日,宇和郡八幡浜浦(現八幡浜市)で菊池儀一郎の長男に生まれた。都築温の西予義塾で漢学を修めた。23年家業の紙類販売業を継ぎ, 33年西予紙業組合頭取に推された。町会議員・郡会議員を経て36年9月県会議員になり政友会に所属して40年9月まで在職した。大正9年5月八幡浜町長に選任され, 7年間にわたって町政を担当,八幡浜実科女学校の高等女学校への昇格と県営移管,町営住宅の建設,隔離病舎の新設,新旧港の浚渫,町内貫通道路の整備拡張,下水道の新設などの事績をあげた。昭和2年9月~6年9月再び県会議員に返り咲き,公職を退いてからは紙類卸商に専念した。昭和19年3月4日72歳で没した。

 菊池 恵次郎 (きくち けいじろう)
 明治8年~昭和10年(1875~1935)ブラジル移民功労者,実業家。明治8年8月18日,宇和郡八幡浜浦浜之町(現八幡浜市)で菊池清治の次男に生まれた。松山高等学校長・八幡浜市長菊池清治は弟に当たる。明倫館(のち宇和島中学校),第五高等学校を経て東京帝国大学法科・大学政治学科を卒業,夫人の実父経営の福岡県若松市の今西商店に支配人として入社した。大正7年ブラジルへ渡りイタコロミーに広大な土地を購人してから日本からの移民家族に提供,その開拓と指導に専念した。その成功を見届けて帰国,やがて東洋乾板会社社長に就任して写真フィルムの国産化を図り,昭和9年富士フィルム会社の重役に迎えられてフィルムの品質改良と量産を進めた。昭和10年7月16日59歳で没した。

 菊池 慎三 (きくち しんぞう)
 明治20年~昭和18年(1887~1943)苦学して内務官僚となり,秋田県知事などを歴任した。明治20年10月,西宇和郡垣生村(現三瓶町)で菊池俊逸の長男に生まれた。父は真穴・二木生村長・三瓶村長を長く務め,村政に貢献した。小学校を出ただけであったが,向学心に燃え,普通文官試験から高等文官試験に独学で合格,同時に弁護士試験にも合格した俊才であった。明治45年内務省大臣官房秘書課を振り出しに,佐賀・静岡県理事官,軍需局書記官,国勢院書記官,拓殖局書記官,内務省参事官,福井県警察部長を経て,大正12年関東大震災後の帝都復興院調査課長に就任した。その間,欧米に学び,『地方行政制度の研究』『都市計画と道路行政』をなど地方行政の専門家として知られた。昭和4年7月~5年6月秋田県知事に就任,その後は東京市助役,横浜市助役を歴任した。 17年東条英機内閣の下で,南方占領地マレー半島セランゴール州司政長官として赴任,翌18年4月11日シンガポールでの会議の帰途,自動車事故で死亡した。55歳。

 菊池 清治 (きくち せいじ)
 明治19年~昭和57年(1886~1982)松山高等学校長・八幡浜市長。明治19年1月17日,西宇和郡八幡浜浦(現八幡浜市)で菊池清治(載凞)の四男に生まれた。ブラジル移民功労者・富士フィルム重役の菊池恵次郎は兄である。幼名禎治,のち菊池家を継ぎ襲名して清治と改めた。宇和島中学校・第一高等学校を経て明治44年東京帝国大学理科大学物理学科を卒業した。大正3年28歳で郷里の人々に懇請されて八幡浜町長に就任, 7年の米騒動の際にはその善処方に尽くして9月に辞任した。翌年上京して第一高等学校の講師, 11年~15年松山高等学校教授,15年広島高等学校長を歴任して,16年松山高等学校に帰り20年まで校長として戦時下の松高生を励ました。昭和22年公選による初の八幡浜市長に就任,2期8年にわたり学者市長として中学校,市立図書館の建設,母子寮・養老院など福祉事業の振興,結核・伝染病棟の建設,財政立て直し,周辺4か村の編入合併などに尽力した。退任後1年間松山商科大学教授を務めた。昭和17年勲三等瑞宝章,41年県教育文化賞,47年愛媛県功労賞を受賞,51年には八幡浜市名誉市民に選ばれた。昭和57年10月23日96歳で没した。

 菊池 武範 (きくち たけのり)
 明治28年~昭和50年(1895~1975)実業家・タイガー魔法瓶創立者。明治28年11月5日,西宇和郡三島村皆江(現三瓶町)で旧庄屋菊池里美の次男に生まれた。家が没落したので,43年小学校卒業後志を立てて大阪に行き,メリヤス製造業者の徒弟になった。大正3年5月19歳のとき魔法瓶の将来性に着目してその製造工場に勤め,以来9年間,その研究と市場調査に努めた。12年菊池製作所を設立して魔法瓶の製造販売を始め,業績は年を経るごとに上昇した。昭和16年政府命令による統制で日本魔法瓶会社の取締役になったが,戦後再び菊池製作所を再開,28年タイガー魔法瓶工業株式会社と改称,自ら社長として経営に当たり,技術的に優れた品質は利用者の信用を博した。 38年紺綬褒章を授与された。郷里三瓶町の小・中学校の建築設備に多額の寄付を惜まず,42年2月名誉町民に推挙された。昭和50年5月14日79歳で没した。

 菊池 武城 (きくち ぶじょう)
 安政6年~昭和4年(1859~1929)初代喜須来村長・県会議員。安政6年1月28日,宇和郡八幡浜浦(現八幡浜市)で菊池清治の子に生まれ,喜木村(現西宇和郡保内町)菊池忠平の養子になった。上甲礼三に漢籍を学んだ。明治6年副戸長,12年戸長を経て23年町村制施行と共に初代喜須来村長に就任,以後断続的に大正11年までに5期村政を担当した。明治29年3月~30年10月県会議員に在職した。実業面では漸成銀行専務取締役などを務めた。のち黒住教教師になった。昭和4年3月3日70歳で没した。

 菊池 竹風 (きくち ちくふう)
 明治14年~昭和27年(1881~1952)明治14年5月7日宇和郡安土浦(現西宇和郡三瓶町)で旧庄屋菊池京三郎の長男に生まれた。 39年~41年三瓶村助役,大正3年~7年村会議員を務め,大正4年9月~5年4月県会議員に列した。12年1月~15年8月三瓶町長,昭和2年9月~6年9月三島村長として地方行政を担当した。本名武虎。号は竹風。県会議員,三瓶町長,三島村長,三瓶町会議員等の公職を歴任。また,第二山下高等女学校の設立に当たっては,山下亀三郎との姻戚関係により,設立準備委員となり,開校後は副理事長として運営に参画した。幼時より書を好み,古法帖の臨書に励んだ。特定の師にはつかなかったが,あえて師系をあげると,辻本史邑,近藤雪竹,川谷尚亭等で,若いころには,辻本史邑の「書鑑」誌によって学んだ一時期もあった。とりわけ川谷尚亭に私淑し,円熟した晩年には,竹風流の独自な書風を確立,数多くの作品を残している。昭和27年10月17日死去71歳。

 菊池 哲春 (きくち てつはる)
 明治24年~昭和60年(1891~1985)弁護士・県会議員・県教育委員会委員長。明治24年3月8日,西宇和郡神山村矢野町(現八幡浜市)で菊池治平の長男に生まれた。書誌学者・文学博士是沢恭三は実弟である。明治41年八幡浜商業学校を卒業,在学中から詩歌・俳句に関心を持った。大正6年早稲田大学政経学部を卒業,在学中大山郁夫の下で雄弁会の幹事として活躍した。卒業後古河合名会社に入ったが,10年父の病気のため帰郷,12年弁護士試験に合格して開業した。同年朝日新聞15,000号記念募集俳句で「月の軒青き粟穂がつるしある」が1位となり金盃を受けた。15年以来町会議員,昭和6年9月~13年2月県会議員に2期在職した。戦後, 31年に県教育委員会委員になり47年まで16年間務め, 44年からは委員長に就任した。47年愛媛県教育文化賞, 52年県功労賞を受賞した。木亭と号する俳句は45年俳人協会主催全国大会で朝日新聞社賞を受けるなど健在振りを示し, 50年には句集『本亭百句』を刊行した。昭和60年4月20日94歳で没した。

 菊池 虎太郎 (きくち こたろう)
 明治2年~大正4年(1869~1915)実業家・八幡浜町長・県会議員。明治2年10月3日,宇和郡八幡浜浦新地(現八幡浜市堀川町)で商業を営む菊池守太郎の長男に生まれた。24年東京専門学校(現早稲田大学)政治経済科を卒業して帰郷,代々続いた「新地近江屋」の屋号で醤油醸造を営み,伊予物産・愛媛水産・八幡浜魚市場などの会社にも関係した。32年9月県会議員に選ばれたが, 1期務めてその座を弟浦中友治郎に譲り,同年愛媛県農工銀行の重役になった。 40年八幡浜町長に選任,43年愛媛鉄道の創立に参画してその専務取締役になった。 44年9月再び県会議員になり愛媛進歩党一立憲同志会に所属したが,大正4年9月再選直後の26日45歳で没した。正岡子規の俳句革新に共鳴,旗汀と号して「無声会」を組織,地方俳壇の発展に寄与した。

 菊屋 新助 (きくや しんすけ)
 安永2年~天保6年(1773~1835)伊予縞開発生産の功労者。野間郡小部百姓伝九郎の子として生まれる。文化年間松山城下町へ出,松前町2丁目に伊予縞の綿織店菊屋を開業したが,従来縞の生産に使ってきた低能率の地機の改良を企図し,京都西陣から絹織用の花機を取り寄せ,これを縞の製織に便利な高機に改造することに成功した。彼はこの高機を城下町居住の下級士卒や町人達に貸与して,縞の量産化を図るいっぽう藩当局に対し,文政4年(1821)以降藩益増進を理由に毎年縞生産資金の貸し付けを嘆願し,一部融通をうけた。また高本屋藤吉とはかって資金を調達し,縞の生産増加に努め,四国中はもとより上方・中国・九州などに出向いて縞の販路を拡大した結果,伊予縞生産は画期的発展をみた。 62歳で死去し,墓は松山市木屋町円福寺にある。

 菊山 嘯一郎 (きくち しょういちろう)
 明治9年~昭和43年(1876~1968)医師。辺地の医療・保健衛生事業に貢献した。明治9年9月6日,宇和郡窪野村(現東宇和郡城川町)で菊山玄渓の子に生まれた。菊山家は歴代大洲加藤家の藩医を勤め,祖父逸斉が明治8年窪野串屋で開業した。 18年4月9歳のとき叔父陶不窳次郎を頼って京都に行き医学を修業した。 33年京都府立医学校を卒業して附属病院で研究を重ね,35年北海道札幌病院に勤務した。37年1月帰郷して開業,村医・校医を務め,60年の長きにわたって地域医療と保健衛生の向上,特に学童のトラホームと寄生虫の撲滅のために力を注いだ。昭和26年藍綬褒章, 40年日本医師会から最高優功賞が授与され,36年には城川町名誉町民第1号が贈られた。昭和43年4月2日91歳で没し,町民は準町葬の礼をもって遺徳に感謝した。

 岸 喜二雄 (きし きじお)
 明治29年~昭和35年(1896~1960)明治29年12月17口松山市三番町岸重崔の次男に生まれる。大正10年東京帝国大学法学部政治科を卒業して大蔵省に入り銀行局の各課長を歴任。神戸税関長を最後に昭和17年退官した。その後全国金融統制会理事がら日本興業銀行に入り, 22年7月同行総裁となる。24年日本銀行政策委員に任ぜられた後, 32年に富士重工業に転じ取締役会長に就任した。正岡子規のいとこに当たり洋画をよくし随筆に長じていた。昭和35年3月1日63歳で没した。

 北川 淳一郎 (きたがわ じゅんいちろう)
 明治24年~昭和47年(1891~1972)松山高等学校教授・法律家。明治24年4月22日,温泉郡三内村(現温泉郡川内町)村長を務めた父北川徳次郎の子に生まれた。松山中学校・第三高等学校を経て大正6年東京帝国大学法科大学を卒業した。高等文官試験に合格して内務省に入り北海道庁に勤めたが,大正8年新設の松山高等学校教授として故郷に帰った。以来,昭和22年まで30年間旧制高校の歴史とともに歩んだ。松山高校では,生来の読書欲に加えて恬淡さと進取性をもって学生を導き敬慕された。また大正10年12月の新聞紙上に「松山をして文化の中枢となすためには松山に少なくとも二校の高等程度の学校の存在することが必要である」といった「私立高等商業学校設立私案」を発表して,松山高等商業学校(現松山商科大学)設立の契機をつくった。また山に親しみ,多年にわたって高校山岳部長・愛媛県山岳連盟の会長を務めて,地方山岳界隆盛の基盤をつくり,『四国アルプス』『愛媛の山岳』『いしづち』『松高山岳部史』など四国の山岳に関する多くの著書がある。大正末年から昭和初期にかけて人生問題の悩みから仏教に帰依,仏教の研究家として『求道の精神』『仏教の話』『熊野山石手寺』などの著書があり,仏教青年会・愛媛仏教会の中心として活躍した。元来白山主義者で国家主義・軍国主義を嫌ったが,太平洋戦争の末期道後湯之町住民の要請を断りきれず道後翼賛壮年団長を務めたため,戦後公職追放を受けた。昭和23年弁護士を開業,25年追放解除後は,松山商科大学教授になった。郷土史にも造詣が深く,『小林信近』『重岡薫五郎小伝』『一遍上人伝』などの著書があり,伊予史談会の発展にも尽力した。昭和47年3月7日80歳で没した。

 木下 伝次郎 (きのした でんじろう)
 明治9年~昭和14年(1876~1939)社会事業家。明治9年,新居郡角野村(現新居浜市)の木下音吉の子として生まれる。幼少のころより神童の評判が高かった。彼一流の信念で終始貫,生半可な学問を嫌った。町会議員に選出されても決していばらず,庶民に人気があり,社寺総代,水利総代など我を忘れて奔走し,「木伝」の愛称で新居三郡に知られた。彼の業績の第一は社寺の再建である。瑞応寺の再興に私財を投げ出し,壇家へ呼びかけ喜捨米制度を新設して成功させた。第2は土木事業で,国領橋の架設,立川の新道建設をやってのけた。さらに竜神温泉を開発し,別子イン探勝の先駆けをなす。第3は公共福祉事業で,学校の建設,その他行政への陳情,大企業への寄附依頼等,和服姿で,才知縦横の働きをする。戦時中周桑郡吉井村の飛行場建設中病魔に倒れる。63歳。

 木下  信 (きのした まこと)
 明治17年~昭和34年(1884~1959)昭和初期の県知事。明治17年2月8日,長野県上伊那郡中箕輪村で木下彦四郎の四男に生まれた。42年7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業,44年11月高等文官試験合格後,長野県属を振り出しに熊本県郡長,長野県郡長・理事官,秋田県警察部長,北海道庁拓殖部長,警視庁刑事部長・警務部長を歴任。大正13年6月加藤内閣により鳥取県知事に任命されたが,わずか4か月で台湾総督府に赴任し内務局長兼土木局長,更に交通局総長を務めた。田中政友会内閣が成立すると免官となり外遊,浜口民政党内閣により昭和4年11月8日愛媛県知事に任命された。木下はその履歴から民政党系とみられ,伊沢多喜男と同郷,「今日あるは伊沢に負うところ多く,その直系である」と評された。木下は,懸案の銀行合同を促進し,対県交渉では高知県との宿毛湾漁業問題を解決し,銅山川分水問題で徳島県と折衝を続けるなど精力的に活動した。しかし不況と緊縮財政下で積極的な施策を推進することができず,9か月在職したのみで昭和5年8月26日長崎県知事に転じた。6年には台湾総督府総務長官に就任した。昭和34年6月27日75歳で没した。

 肝付 兼弘 (きもつき かねひろ)
 天保10年~没年不詳(1839~)県官吏・和気温泉久米郡長。天保10年11月,鹿児島藩士の家に生まれた。明治元年伏見戦争に小隊長として出軍,4年12月宇和島県十等出仕,5年6月県大属,7年3月愛媛県大属で庶務課長,8年学務課長,12年警部長と創成期の県政の幹部を歴任した。 13年8月和気温泉・久米郡長になり19年まで郡治を担当して愛媛県を離れた。

 姜   沆 (きょうこう・カンハン)
 永禄10年~元和4年(1567~1618)李朝中期の宣祖・光海君時代の儒学者。慶尚道晋州の生まれ,日本軍の侵人した慶長2年,全羅道南原でこれに遭遇した。晋州に急きょ帰り義勇軍を募って応戦するが敗れ,一族を率いて海上から逃げ出したが,暴風のため果たせなかった。藤堂高虎に捕えられ一族と共に大津(大洲)に送られた。翌年脱出して豊後まで逃げたが連れ戻された。拘留中金山出石寺の快慶と詩文を交換するなど交流を深めた。伏見に移されてから,相国寺の僧藤原惺窩と知り合い四書五経に注釈を加え,朝鮮儒学を伝授した。惺窩らは恩顧を感じ,その尽力で慶長4年朝鮮に送還された。

 切上り 長兵衛 (きりあがり ちょうべい)
 生年不詳~元禄7年(~1694)元禄3年6月(1690)に備中の吉岡銅山の支配人田向重右衛門は阿波生まれの長兵衛という廻切夫から伊予国の幕府領宇摩郡別子山村の足谷山中に見事な大鉱脈があるという報告をうけた。廻切夫というのは掘子または横番と称せられる鉱夫の中で技倆の勝れた者の役付の名で,長兵衛は中でも坑道を上向きに掘進するのが得意だったので仲間より切上り(切揚り)長兵衛と呼ばれていた名誉の稼人であった。一両年前彼は西条藩松平侯の新居郡立川銅山(そのころ長谷坑)で稼いでいたがある日。立川銅山の峰頂きでその南方500尺ばかりの高い尾根を越した所で紛れもない富鉱の露頭を発見したというのである。吉岡銅山の稼行がはかばかしく行かず頭を悩ましていた重右衛門は元禄3年夏6月,手代助七という老巧な配下に調べさせ相違ないことを確めた。その秋,重右衛門は手代山留(坑夫頭)らを従えて再見分に赴き川之江代官所に出頭し,届け出て川之江を出立し天満村から,中の川,弟地に達した。早朝松明をかぎして道もない深山を12キロメートル余り探しまわり,遂に長兵衛が見たという銅鉱の露頭を尋ね当てた。それは上部で延長1,500メ-トル,下部で1,200メ-トル,深さ1,200メ-トルに達するという別子犬鉱床の尖端で彼等が暗紫色に輝く高質銅鉱の一塊を手にしてどれほど喜んだことか。この堀口を「歓喜間府」と呼んだことからも想像されよう。最初の発見者長兵衛が,まるで別子山神の化身のようにもてはやされるようになった。

 桐野 花戎 (きりの かじゅう)
 明治35年~昭和32年(1902~1957)俳人。明治35年11月8日,周桑郡壬生川町(現東予市)大字周桑1769番地に,父桐野治平,母ミワの三男として生まれる。次兄が,県議会議長を務めた桐野忠兵衛である。本名沢一,のち貴と改名する。大正8年,周桑郡立周桑農蚕学校卒業。同9年,県立農業技術員養成所卒業。同年,県立農事試験場勤務。昭和5年,県農林技手退職。昭和6年,実業教員免許状を下附されて教育界にあり,昭和15年,東伯方小学校訓導を退職。同年倉敷絹織物株式会社社員に任用され,西条工場人事課員となる。この年はじめて俳句をならい,昭和15年11月,倉敷レイヨン西条工場内に発足した俳句結社「燧会」の発起人となり,初代部長となった。会誌「燧」ははじめ謄写印刷であったが昭和26年8月号から本印刷となる。選者は今井つる女・合田丁字路・石井愛舟・桐野花戎らが当たった。石井愛舟は「燧」誌の命名者でもあった。戦前からの俳誌であり,又,戦後の「燧」は社外誌友も多かったことも注目され,数少ない東予地区の俳誌を早くから創刊した花戎の功は大きい。しかも花戎は,その学歴で見るとおりの苦労人で,心の広いやさしい努力家であって,社の内外の人から広く慕われていたが,昭和32年(1957)1月10日,狭心症のため急逝した。満54歳。「燧」の昭和32年3月号(第18巻第3号・通巻173号)は花戎の追悼号となった。『桐野花戎遺稿集』がある。
絶句2句
 集まりて十羽程おり寒雀    花戎
 いつの間に冬日が逃げし寮の窓 同上
       『桐野花戎遺稿集』より。

 桐野 忠兵衛 (きりの ちゅうべえ)
 明治33年~昭和52年(1900~1977)果樹産業の振興と果樹協同組織の育成に尽くし,特に本邦柑橘果汁加工の創始者として多大の業績をあげた。明治33年10月8日周桑郡周布村周布(現東予市)に生まれる。大正8年県立農業技術員養成所卒業,越智郡大井村・小西村(現大西町)農会技術員,宇和島市産業技師を経て,昭和8年愛媛県農会技師として大阪に駐在,同10年東京駐在となり,県産農産物の販売斡旋に努めた。同23年温泉青果農協の設立に参画,専務理事となる。同24年愛媛県青果販売農協連合会長となり,本県果樹産業の復興発展に奔走した。その間,柑橘果汁加工の必要性に着目して,県青果連による果汁加工事業を創設し,我が国における果汁加工の草分けとなった。その後果汁業界のトップメーカーの地位を確立するとともに,日本果汁農協連合会長として果汁業界を指導した。その外温泉青果農協の果樹コンビナート,青果連の肥料配合工場,ダンボール工場などを建設し,果樹王国愛媛の発展に多大の貢献をした。また昭和26年より7期連続県議会議員として活動し,県議会議長(昭和35年)も務めた。全国的には,日本園芸農協連合会副会長,日本果汁農協連合会長として活躍した。昭和36年藍綬褒章,同40年菊池賞,同45年勲四等瑞宝章,同年農協功労賞,同49年文部大臣産業功労賞などを受けた。「桐野忠兵衛翁銅像」が松山市安城寺町(県青果連),「桐野忠兵衛翁胸像」が松山市湊町8丁目(温泉青果農協)にそれぞれ建立されている。昭和52年1月4日76歳で死没。墓所は,松山市船ヶ谷町にある。

 義農 作兵衛 (ぎのう さくべえ)
 貞享5年~享保17年(1688~1732)江戸時代中期の伊予の篤農家。貞享5年2月に桧山藩領伊予郡筒井村(現伊予郡松前町)の貧しい農夫作平の子として生まれた。彼は温順勤勉であった。老母が重病にかかった時,十分療養ができなかった。これを悔いて奮起して,村内の荒蕪地を人手し,苦心のすえ良田とし村人を驚嘆させた。また夜はわらじを作って販売したところ,堅牢なので好評を得て,「作兵衛わらじ」といわれた。壮年のころには,田3反3畝余を所持し,他に小作地を耕作して模範の農夫と称賛された。享保17年(1732)5月から降りはしめた雨は7月まで続き,稲は枯死しようとした。さらに浮塵子が異状に発生し,雑草まで食い荒した。このため穀物の収穫は皆無となり,いわゆる享保の大飢饉が襲来した。ことに筒井村では,重信川の氾濫による被害は甚大で,野に青色を見出すことができなかった。彼は飢餓のため倒れようとする身体を奮い起こし,田圃に出て耕作に従事した。しかし彼は昏倒し,隣人に援けられて家に帰り,麦袋を枕として横臥した。隣人はその麦を食べて露命をつなぐようにすすめた。これに対し彼は「この麦種を食べてしまうと,播種すべき麦種をどこから得られるか。私は餓死しても,この麦種によって多数の生命を救うことができる」といい終わって息を引きとった。年44歳で,この地に葬られた。安永5年(1776),松山藩主松平定静は,作兵衛の碑を建て,その事績を顕彰した。

 尭   音 (ぎょうおん)
 享保17年~文政3年(1732~1820)生まれは浮穴郡浄瑠璃寺村(現松山市)庄屋の井口家の出。幼少より仏門に入り修業,宝暦11年30歳のとき,第46番札所浄瑠璃寺中興(慶安~)第11世住職となる。以後30年間務め,寛政4年60歳で浮穴郡拝志村法蓮寺(現重信町上林)に移る。仁慈の志が深く,常々社会のために奉仕することを信条としていた。当時商業の発達,八十八ケ所巡礼の普及で交通量が増大した。彼は岩屋寺から松山に至る間の架橋を決意し,寺務を後嗣に託し,托鉢僧となって各地を遍歴して浄財を集め,久万川・久谷川・石手川に8か所の架橋を実現した。なかでも立花橋の架橋には心血を注いた。藩主に願い出ること数度に及び,藩はその信念に打たれ,資財を若干賜った。「橘口尭音橋出来周防岩国算盤橋の写なり」(松山叢論)として,中央部に橋脚を築造しない橋台が上部に湾曲した橋に設計された。文化14年2月に着工し2年後の文政2年5月15日完成した。幅3間,長さ15間(27ノートル)欄干のある立派なものであった。尭音は悲願の成就した翌年,文政3年12月26日88歳で逝去した。橋のたもとには,尭音の墓碑と供養塔が建立され,その徳を今に伝え,開通した5月15日には毎年頌徳法会を営んでいる。

 凝   然 (ぎょうねん)
 延応2年~元亨元年(1240~1321)鎌倉時代の学僧。字は示観。伊予国越智郡高橋郷(現今治市)に生まれる。諸種の史料では姓を藤原氏と伝えているが,凝然自筆の「与州新居系図」などにより,新居氏と同族の越智氏の出であることがわかる。16歳のとき比叡山延暦寺で菩薩戒を受け,18歳で東大寺戒壇院に登壇して円照から沙弥戒を,20歳で通受戒を受け,東大寺戒壇院主円照に師事する。円照からは主に律と華厳を学んだが,当時の南都仏教界の八宗兼学の風潮を受け,凝然も諸宗を学ぶ機会に恵まれた。円照以外では,泉涌寺の浄因に北京律を,東大寺別当宗性に華厳を,法然の弟子九品寺の長西に浄土を,木幡の真空に真言を学ぶなど諸宗を修めた。また諸宗のほか,外典にもきわめて精通していた。
 凝然は円照をたすけて戒壇院に律を講じ,その後継者としての地歩を固めていたが,建治3年(1277)10月,円照の没後,戒壇院院主となる。著作に専念するかたわら,戒壇院・洛東金山院・唐招提寺・般若寺,伊予国では小池寺(越智郡か)・繁多寺(現松山市畑寺)・久妙寺(現周桑郡丹原町)などで述作や講経あるいは復興に務めた。徳治2年(1307),後宇多天皇に菩薩戒を授け,その後宮中で7華厳五教章』を講じ,国師号を賜った。正和5年(1316)唐招提寺を管し,元亨元年戒壇院で81歳で没した。佐保山に葬るとか,鷲尾山(師円照の埋葬の地)に塔すと伝わる。
 その著述は膨大な数に上り,120余部1,200余巻に及んだといわれる。代表的なものに,華厳宗関係のものとして『華厳探玄記洞幽紗』律令に関するものとして『律令瓊鑑章』空海の名著『十住心論』の釈書といえる『十住心論義批』聖徳太子撰述と伝える三経義疏の注釈書といえる『太子法華疏恵光記』などがある。これらの著作は,再三にわたって校正が行われ,諸説を偏ることなく集大成した上で,客観的に論説を展開するという学問的態度が顕著である。さらに,諸宗に関するもの以外では,各宗の歴史と教義の概要をまとめた『八宗綱要』(伊予国円明寺西谷で著した)や『三国仏法伝通縁起』などの仏教史学に関する著作が有名である。