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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 国家仏教とその地方弘通

 わが国への仏教は、はじめ主として朝鮮半島からの帰化人によってもたらされ、畿内において徐々にひろめられつつあるとき、百済の聖明王によって仏像・経巻が伝来されるという、いわゆる公伝を契機に、急速な国家的受容が始まったとみられる。特に、推古天皇二年(五九四)の三宝興隆の詔以来、帰化人の造寺・造像をはじめ、中央の貴族・豪族たちの積極的な仏教受容の中で、聖徳太子の受容と斑鳩寺の創建は、その後の日本仏教を方向づけ、展開の布石となったことは疑い得ない。太子の没年は推古天皇三〇年(六二二)とされるが、没後二年の同三二年に行われた調査によると、寺が四六か所、僧尼あわせて一三八五人を数えたのが(日本書紀ほか)、持統天皇六年(六九二)には、全国の寺院数五四五か寺というから、急速な発展である。すなわち、律令国家の仏教に対する積極策の表れた一端である。それは、舒明天皇一一年(六三九)に造建された百済大寺が、大化元年(六四五)の仏教興隆の詔を経て、官寺としての機能を明らかにし、やがて大官大寺(大安寺)の建立へと展開した。

 諸国における講経・仏会

 中央における講経の記録の初めは、舒明天皇一二年(六四〇)の恵隠による無量寿経の講説である。推古天皇一六年(六〇八)小野妹子に従って入唐した恵隠は、舒明天皇一一年帰朝、請来した無量寿経を講じたわけである。地方における講経の記録の初出は天武天皇五年(六七六)で、使を諸国に遣わして金光明経・仁王経を講ぜしめたとある。金光明経、詳しくは金光明最勝王経、法華経・仁王経とともに鎮護国家の三部経の一つで、最勝会において講ぜられた。当時まだ諸国には後の国師または講師に当たる僧がいなかったので、中央から使僧を遣わしたのであろうし、また、後の国分寺のような官寺もなかったのであるから、国司のいる国衙の庁舎で講会が行われたのであろう。すなわち、天武天皇一四年(六八五)に、「諸国の家ごとに」とあるのがそれであり、このとき、国衙の庁舎に仏舎を造り仏像を安置させたというから、これが後の国分寺造立の伏線となる。
 こうして国司の支配下に仏舎ができると、国家鎮護の講会が、中央の指令のもと、国ごとにしばしば行われることになる。持統天皇七年(六九三)には仁王経講会が行われ、同八年には金光明経百部を諸国に置き、毎年正月上玄の日に読ましめたというから、その後朝廷で行われる正月の年中行事になったわけである。ついで、大宝二年(七〇二)には諸国の国師を任じ、国家仏教を地方に弘布する基礎ができたことになる。さらに、神亀二年(七二五)にも最勝会を諸国に指令し、同五年には金光明経一〇巻ずつを頒ったとある。
 天平時代に入り、同九年(七三七)には、国ごとに釈迦像を造り、大般若経を書写させたとあり、記録の上では写経のことが初めて出てくる。また、同一二年にも法華経の写経が行われている。写経に関連して中央寺院と伊予の関係を示すものとして、天平二〇年に久米熊鷹が東大寺写経所に入っていたことは別項に述べるとおりであり、天平宝字二年(七五八)には、伊予介某が東大寺へ経師一人を送っている。また、この年、国ごとに金剛般若経の書写がみられる。
 さかのぼって天平一〇年(七三八)に最勝王経を諸国に転読させたとあるが、転読というのは、経典の全部を通読する真読に対し、経巻の題目または経の初めや終わりを、経本をパラパラと繰りながら読むことで、大般若経六〇〇巻の転読は仏会の中で一般に行われていた。ついで同一二年、七重塔の造立を諸国に命じた翌一三年、国分寺建立の命が下った。なお、天平宝字元年に諸国で講経の行われた梵網経は、十重禁戒・四十八軽戒を主内容とする大乗律第一の経典であり、のちに奈良六宗といわれる仏教教学の中核となった律学の根本経典である。

 国分寺と国分尼寺

 前述のように、天武天皇一四年(六八五)に諸国の家ごとに仏舎を造らせたのは、国分寺造立への伏線であり、天平一二年(七四〇)の七重塔建立の指令はその前触れであった。そして、天平一三年二月一四日(『続日本紀』には二四日)、国分寺建立の詔が発せられた。これは唐の大雲経寺の制を模倣したものであるというが、その内容は、国ごとに七重塔を造り、金光明最勝王経・妙法蓮華経各一〇部を写し、天皇が別に親しく字金光明最勝王経を写して塔ごとに一部を安置しようというものであり、ついで出された条例により、僧寺・尼寺の二つを造り、僧寺には僧二〇人、最勝王経一〇部を置いて金光明四天王護国之寺 (後に国分寺)、尼寺には尼僧一〇人、法華経一〇部を置いて法華滅罪之寺(後に国分尼寺)とし、経済的基礎として両寺共に水田一〇町のほか護国寺には封戸五〇戸を施入した。
 ところで、伊予国分寺の場合、寺伝によると、中央から本性上人が下向し、桜井郷半田里(国分)に寺域を決めて建立にかかったが、容易な事業ではなかった。一方の国分尼寺の寺地は国分寺の東南一〇町の同郷青木里(今治市桜井小学校付近)と決められていた。諸国の国分寺は、すべて新しく建立されたわけではなく、旧来の寺が転用されたものもあるが、それにしても再興の業は容易でなく、天平一六年(七四四)には、正税の中から稲四万束を割き、僧尼の二寺に二万束を出挙してその利息を造立に充てるなどしたが進捗せず、同一九年には、有能な郡司を造営に当たらせ、三か年以内に完成するよう指示し、さらに水田を施入しているから、伊予の場合も例外ではなかったろう。
 『続日本紀』によると、天平感宝元年(七四九)、宇和郡の凡直鎌足が伊予国分寺に資材を寄進、その功によって従五位下を授けられており、天平勝宝八年(七五六)には、伊予など二六か国に対し、朝廷から灌頂幡一具、道場幡四九首、緋綱二条を与えて、聖武帝周忌御斎の装飾に当てさせ、使用後は国分寺の寺物にさせた。すなわち、前者によってまだ国分寺が造営中であり、民間の有力者の経済的援助が必要であったことがわかり、後者によって、伊予国分寺など二六か寺がほぼ完成したことが推察される。建立の詔が出されてから一五年後のことである。ちなみに、法華尼寺は天平勝宝五年の落成で、国分寺の余財で建てたというから、右の国分寺完成の年もこの年またはそれ以前とすることもできる。なお、天平神護二年(七六六)には、伊予国の大直足山が、稲七万七八〇〇束、鍬二四四〇口、墾田一〇町を国分寺に寄進して、その子氏山が外従五位下に叙せられたとあるのは、国分寺完成後の功賞であり、これまた民間の寄進を必要とした一証左である。
 国分寺の創建は、金光明最勝王経の信仰に基づくもので、毎月八日にはこの経を転読し、半月ごとに戒翔磨という戒律の行法を課し、正月には一七日間の吉祥天悔過の法を行わせた。吉祥悔過は、薬師悔過・阿弥陀悔過などとともに奈良時代に盛んに行われた悔過の一つで、吉祥天を請じて、犯した罪悪を懺悔し、攘災と招福を祈願する行法で、やはり金光明最勝王経に由来する(辻善之助『日本仏教史』)。
 また、中央で進められた東大寺の造建は、天平勝宝元年の大仏開眼をもって完成、諸国国分寺の中心寺となり、東大寺を中心とする鎮護国家のための国教としての仏教体制の基礎が確立し、国分寺はその中に組み込まれた。

 私寺の建立

 葬祭にかかおる権勢の象徴は、かつては古墳であったが、大化二年(六四六)の薄葬令による古墳造営の禁止を待つまでもなく、古墳から私寺(氏寺)の建立へと移った。中央における最初の私寺は蘇我氏の飛鳥寺(のち法興寺、さらに元興寺)であり、崇峻天皇元年(五八八)から造営を始め、法興寺として完成したのは推古四年(五九六)一一月であり、同年一〇月には聖徳太子が僧慧聡とともに伊予の湯に来浴され、これを契機に創建されたと伝えられるのが法安寺(現小松町北川、その寺趾に真言宗高野派法安寺)である。その年代の真偽はともかく、中央の私寺にあまり遅れないで、地方にも私寺が建立されたことが推察される。ちなみに、石田茂作『飛鳥時代寺院址の研究』によると、考古学的研究の結果飛鳥時代建立寺院と推定されるものは四六か寺で、畿内以外の五か寺のうち伊予にあった二か寺として、この法安寺のほかに湯之町廃寺があげられている。法安寺が聖徳太子の道後温泉来浴を契機とするというのであれば、湯之町廃寺こそ、直接あるいは間接にせよ関係があるとみてよい。石田も、このことをあげ、この地方への仏教文化の移入の早かったことが察せられるとしている。また、飛鳥時代の瓦が出土した寺の例として、伊予では中之子廃寺をあげている。
 なお、石田は、先にあげた考古学的研究の結果飛鳥時代建立と推定される四六か寺に、文献の上だけに見られる三か寺を加えて、飛鳥時代に存在した寺を四九か寺と推定し、書紀記載の推古三二年(六二四)現在の寺院数四六か寺に近いと言っている(同書)。それが白鳳期に入って、地方への仏教の普及によって、持統天皇六年(六九二)には五四五か寺を数えるに至り、さらに、東大寺・国分寺を中心に仏教が弘布され、地方における寺院の建立が増加、延暦二年(七八三)までその勢いは続いたが、同年六月の私寺建立の禁止によって鈍化したものの、なお、民間の寺院建立は続いた。
 地方における私寺の建立は、地方豪族がその権威を誇示し、権力を確立し維持するという政治的効果をもねらったものであって、国司による建立もあったが、主として在地の郡司層によるものであった。景浦勉『伊予の歴史』(上)によると、平安初期までに伊予の郡は一四郡を数え、それぞれの郡には地方豪族が部族を従えて繁栄、のちには郡司に登用されて権力を握るものもあった。これを各郡別にあげると凡氏(宇摩郡)、賀茂氏(神野郡、のち新居郡)、多治比氏(周敷郡)、凡氏(桑村郡)、越智氏(越智郡)、中原氏(野間郡)、物部氏・風早氏(風早郡)、伊予別公(和気郡)、伊与部連(温泉郡)、久米直(久米郡)、浮穴氏(浮穴郡)、凡氏(伊予郡)、凡氏(宇和郡)ということになり、これらが伊予の氏寺建立に何らかのかかわりがあるとみられる。
 その一例は、前にあげた法安寺で、周敷郡の豪族多治比氏の建立と推定されており、推古天皇四年の創建と伝える。また、湯之町廃寺については、今のところ特定氏族との結びつきは明らかになっていないが、白鳳時代の創建とみなされ、一町四方と伝えられた寺域は、松山市道後祝谷一丁目の現文教会館のあたりの高台と推定されている。また、中之子廃寺(現松山市土居町中ノ子)の創建は湯之町廃寺よりやや下るとみられるが、石田茂作はこれを「伊予国風土記逸文」にある久米寺と推定しているけれど、昭和五三年に発掘調査が終わってほぼ全容の明らかとなった「来住廃寺」(松山市来住町、廃寺跡に黄檗宗長隆寺がある)が、この地方の豪族久米氏の氏寺久米寺であるとする説が有力になった。この寺も湯之町廃寺と同じ白鳳期の建立で、道後平野における最古の氏寺とみられる。
 伊予の古代寺院跡については、考古学的調査内容を中心に『愛媛県史 原始・古代I』に詳述されている。それには、川之江市の宝蔵寺跡など三二か寺をあげているが、そのうち、右にあげた諸寺のほか古代廃寺の主要なものには、河内廃寺(新居浜市高木町、現真言宗河内寺、白鳳時代の創建とみられる)、真導廃寺(西条市中野、奈良時代末期創建)などがよく知られている。なお、特異なものに天河寺がある。正平五年(一三五〇)の炎上以後廃寺となり、今は極楽寺(石鎚山真言宗本山として修験の寺、西条市大保木)に本尊を移遷して法灯を継いでいる。その創建は寺伝による以外に資料はないが、白鳳八年(六八〇)役の行者による開創と伝え、天河寺の遺物として、極楽寺の対岸(加茂川右岸)山頂下にある寺跡より少し下った路傍にあった「石の判」が、極楽寺の重宝として残っている。これについて、『愛媛面影』には上仙の刻んだものだろうと言い、『西条誌』には、天河寺の盛時徒弟たちがここに遊んで戯れに彫ったものだろうと記している。
 こうした私寺の廃絶は、霊亀二年(七二八)、寺舎・華堂の廃頽したものを国司によって兼併せしめたという記録に始まり、氏族の衰微、郡司などの制度の崩壊による地位の喪失など、諸種の社会的要因によるものであって、中世末期に至るまで私寺の建立と廃絶は繰り返される。

 講会などへの寄進

 本項の初めに、奈良時代までの諸国における講経・仏会のことを叙述したが、平安時代に入っても、国家仏教的行法として、中央地方えお問わず盛んに行われた。ここでは、中央寺院における講経・法会のため、伊予国からどのような寄進が行われたかを記録の上で概略追ってみよう。これは、別項「中央寺院の荘園と仏教」とも関係のあることである。
 平安時代に入っても国家仏教的行法としての法会は盛んであった。その主なるものは、朝廷で行われた御斎会(昼は金光明最勝王経の講経、夜は吉祥悔過)・仁王会(仁王般若経を講ずる)など、東大寺の修二月会(二月堂行事で悔過の法)・千花会、興福寺の維摩会・涅槃会、薬師寺の最勝会・万燈会、延暦寺の比叡懺法・坂本勧学会・舎利会・不断念仏・八幡放生会などである。
 これらは、主として貴族が中心になって頻繁に行われ、しかも華美に流れたから多くの費用を要し、そのため地方からの寄進を待つことになった。天暦五年(九五一)、おそらく宮中の仁王会のためであろう、伊予から供米一五〇石が寄進され、康保元年(九六四)山城勧修寺(真言宗、京都市山科、醍醐天皇勅願寺)三僧供養のため伊予国などの加挙米があてられ、長保二年(一〇〇〇)には仁王会のために米を寄進して一部は藤原道長の修法用にもあてられ、寛仁元年(一〇一七)には仁王会のための料米六〇石が上納され、万寿五年(一〇二八)には京都法成寺(現廃寺、通称御堂、藤原道長創建、道長は塔頭無量寿院、別名阿弥陀堂に住み、万寿五年ここに没した)へ伊予守済家より念仏僧米四〇〇石を寄進、永久四年(一一一六)には、同じ法成寺金堂の修正会に伊予の封米と油が使われ、また孟蘭盆講にも絹が用いられ、保元二年(一一五七)には同じ法成寺の孟蘭盆会に細美六丈布が供進された。いずれもかなりの負担であったことが想像される。
 なお、古代の地方仏教においても、中央からの影響の下に、功徳のための写経が多く行われ、社寺に奉納したり、願文とともに経筒に入れて地中に埋め、先亡の追福を祈り、衆生と結縁することを願った事例が多いが、ここでは省略する。