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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 奈良時代末期までに創建と伝える寺院

 大和時代の古寺

 すでに述べたように、中央で飛鳥寺・法隆寺・四天王寺などの創建が終わった後の推古天皇三二年(六二四)の書紀・扶桑略記の記録によると、全国の寺院数は四六か寺ということであり、考古学的考察から、伊予国では法安寺と湯之町廃寺(同六年=五九ハ、建立と天徳寺縁起にいう)の二か寺が存在したといわれるのは確かとみてよい。しかし、伝承の上では、太山寺(松山市太山寺町、用明天皇二年=五八七、真野長者草創)、善法
寺(松山市朝生田、推古天皇三二年=六二四、河内国井上寺の宥全開創)があったことになるがこれらは確かでない。全国に四六か寺あったという推古天皇三二年から六八年後の持統天皇六年(六九二)には、それが五四五か寺と著しい増加を示し、伊予でもその間に草創と伝える寺が多く、〈表I-1〉に示したような諸寺がある。いずれも法相宗であったとみられる。これらぱ伝承の上で知られることをそのまま記したので、厳密に言えば、中には虚偽があるかも知れず、また、開創の年代がもっと下るとみた方がよい寺院が多いかも知れないが、いずれも古寺であることは間違いない。
 つづいて大和時代末期までの開創と伝える寺に〈表1-2〉に示した寺がある。このあたりになると、この年代に開創されたこと、が確かとみられる寺が多くなる。

 奈良時代の寺

 ついで、奈良時代の開創と伝える主な寺にはつぎのような諸寺があげられる(表-2)。やや繁雑のきらいがあるがあえてあげたのは、このように古い時代にこれだけの寺院があったと伝えられていることを知っていただくためである。ただし、本節の初め以来あげた寺は、それぞれの縁起によってあげたもので、確かな資料のないものがほとんどであるから、創建の時期をもっと後代へずらし、再建とある年代があればそれを採り上げた方が確かな場合もあろう。

 越智氏ゆかりの寺

 これまであげた寺の開基を見て、越智氏を開基とする寺の多いのに気づく。前項で地方豪族の氏寺のことを述べたが、古代伊予における豪族の最たるものは越智氏であるところから、あるいは当然かも知れないが、それにしても予想を越えるほど多いのは、縁起の作為によるものか、あるいは、中世に勢力を誇示した河野氏が、『一遍聖絵』に河野の出である一遍のことを「俗姓越智氏」と言っているように、越智氏と河野氏を完全に同族と考え、大山祇神社を共通の氏神とし、河野氏の権威を高めるため古代における越智氏の伝承や事跡を河野の歴史に取り込んだようにも見受けられ、それが寺の縁起にも反映して、仏教における河野氏の功徳を示すために、古代の越智氏を多くの寺院縁起に登場させたということも考えられる。
 最初に出るのが越智益躬で、小千御子を初代として一五代目にあたる。そこでこの益躬以下の系流を仮に『予章記』によってあげてみると
  益躬-武男-玉男-諸飽-万躬-守興-玉興-玉澄-益男-実勝-深躬―好方
となる。以下、縁起にかかわりのある人物について『予章記』に記す限りでの業績を摘記し、ゆかりの寺院のことを列挙してみよう。
 〈益躬〉伊予国府中の樹下という所に館があったので樹下の押領使といわれた。推古時代百済から鉄人を将とした軍勢が九州に襲来、益躬は勅命により九州へ発向、策略により降ってその家来となり、瀬戸内海を案内して播州に上陸、蟹坂の辺で大将の鉄人を討ち取り、天皇から国家の大器と称賛された。説話中の人物としての益躬は、越智郡の大領(郡司、『予章記』も同じ)で、法花経の持経者にして念仏者、その臨終に音楽が聞こえて村里の人々が歎美したとある。
 この益躬を開基と伝える寺院に、法安寺(小松町)、湯之町廃寺(松山市)、東禅寺(今治市)、西光寺(重信町)、願成寺(内子町、年代不明、現時宗)があり、年代的に矛盾はない。また、東禅寺は河野通信と、願成寺は一遍と関係が深いので、こうした縁起となることもゆえなしとしない。
 〈守興〉天智代の人、百済と漢土の争いに際し、勅使として百済へ派遣された。神祇崇敬の念が厚く、あわせて仏教の信者であったことは、次のように諸寺の開基とされていることからわかる。西法寺(松山市下伊台町、斉明七年=六六一、現天台宗)、宝厳寺(松山市道後、天智四年=六六五、現時宗)、高縄寺(北条市、もと歓喜寺、天智九年=六七〇、現真言宗)、仙遊寺(玉川町、天智一〇年=六七一、現真言宗)、真光寺(今治市、天武元年=六七二、現真言宗)である。このうち特に河野氏に関係の深いのは宝厳寺と高縄寺である。
 〈玉興〉 守興の長子、伊予大領と号した。文武朝に仕えていたが、役小角が讒によって伊豆の大島に流されるとき、これに同情した玉興は、三島の神に詣りたいという小角と共に伊予に渡る船中飢渇に苦しみ、氏神に祈念したところ不思議の清水を得て蘇生した(そこを水島の渡といい、現倉敷市水島にあたる)。船はほどなく三島の浦に着き、小角は三島大明神に詣ってのち伊豆の犬島へ渡った。その後、異国人である船頭と筆談したところ、その船頭は、かつて玉興の父守興が蒙古退治のとき南越を過ぎた際三、四年逗留、その時わが母との間に生まれたのが自分であると語り、守興自筆の書を見せたので、この船頭が異母弟であることを知った。玉興に子がなかったのでその異母弟を嫡子として玉澄と称した。その後玉澄は河野郷に住し、玉興は三島を居住地としたが、やがて不和となり玉興は新居郷に移った。これが玉興に関して予章記の語る大要である。もちろん、玉興も伝承上の人物で、この内容も史実でぱないが、先祖以来の三島の神への崇敬が深かったことがわかる。玉興を開基と伝える寺には、八坂寺(松山市、文武四年=七〇〇、現真言宗)、医王寺(川内町、大宝二年=七〇二、現真言宗)の二か寺がある。
 〈玉澄〉  『水里玄義』には玉純、予章記と異なり万躬の子とする。宇摩大領として宇摩郡を治め、樹下大神として越智郡府中の歴代の本拠地に祀られた。玉澄を開基と伝える寺には、嘯月院(今治市、慶雲二年=七〇五、現臨済宗、玉澄の位牌を祀る)、石手寺(松山市、もと安養寺、神亀四年=七二八、現真言宗)、上福寺(川内町、同年、現真言宗)、道場寺(丹原町、天平一二年=七四〇、のち道満寺、現浄明寺、真言宗)などがあり、東禅寺には本尊薬師を安置、医王寺には天平一七年(七四五)再興の伝承がある。
 〈益男〉 玉澄の子、周敷郡司。益男により再興という寺に西法寺(松山市)がある。
 〈実勝〉  『水里玄義』では直勝、益男の子、西条館に住したという。実勝による再興と伝えられる寺に道安寺(東予市楠、延暦年中、現真言宗)、開基とされる寺に、福見寺(重信町、大同二年=八〇七、現真言宗)、理正院(砥部町麻生、同年、現真言宗)、佛性寺(松山市菅沢、天長六年=八二六、現天台宗)などがある。また、大同二年建立という晴光院(松前町神崎)の開基は為世とされているが、年代のほうが正しければこの実勝であろうし、同三年開創という金蓮寺(同)の開基を越智氏であろうとしているのもこの実勝である可能性が大きい。
 〈深躬〉  『水里玄義』の洋躬、寺の縁起に興躬・息躬とあり、実勝の子、桑村館に住した。深躬は、父実勝と共に仏性寺を開創し、醫座寺(松山市東大栗)を再興したと伝えられている。
 〈好方〉  『予章記』は好方を深躬の子とするが、『水里玄義』では深躬より四代目を好方とする。好方は朱雀院時代の人であるから、『水里玄義』のほうが正しいだろう。好方は「越智押領使」として藤原純友の討伐にあたった正史上の人物であるから、このあたりから伝承の域を越えて縁起も確かになるとみてよい。好方を開基とする寺に、本願寺(丹原町、天慶五年=九四二、もと本浄寺、現臨済宗)があり、同年ごろ日振島の円照寺を今治市高橋に移建して円照寺(現臨済宗)としたといい、天暦元年(九四七)河原道場(現東予市河原津道場寺、臨済宗)を再建したと伝える。
 このあとなお越智氏にゆかりの寺はあるがここまでにとどめる。右はあくまでも縁起の上でのことであって、古い時代に建立されたという伝承のものほど問題のあること、また、伝承上のことをすべてあげたものでないこともあわせてご了承願いたい。

奈良朝以前に開創された伊予の諸寺

奈良朝以前に開創された伊予の諸寺


大和時代末期までの開創と伝える諸寺

大和時代末期までの開創と伝える諸寺


奈良朝時代開創の諸寺

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