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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 紀行文

 紀行文は、かつて有職故実を書き綴った日記が、土地土地の名所知識を教えることから発展したものであると言われる(折口信夫)。即ち、道の記としての日記が紀行文を形づくったのである。『土佐日記』『更級日記』『東関紀行』『海道紀』など中世前の紀行文は、近世にいたり、芭蕉の『奥の細道』をはじめ、各階層の人々の作にまで拡がった。
 近世に入って紀行文が盛んになったのは、徳川幕府の政策による地方と江戸との交流、泰平による民心の安定が旅行に目を向かせたこと、産業の振興と道路の整備、町人文化の台頭、社寺参詣の信仰の旅が盛んになったことなどによるものと思われる。
 伊予近世の紀行文は、一八世紀以降に集中しており、国外の旅行先は、江戸が最も多く二〇件を数え、以下京都・四国・九州の順になっているが、まず歌人・俳人の紀行のみをまとめておこう。

 歌人・俳人

 歌人・俳人の紀行文には、和歌や俳句が数多く挿入されている。和歌や俳句を作ることを目的とした旅(吟行)の記と、見聞の所感を和歌・俳句・漢詩に表現した旅の記とがあるが、いずれにしても、和歌や俳句などを詠み込むことで紀行文にうるおいを与えている。
 まず、歌人であり国学者である大山為起(資112)の『東遊紀行』を挙げよう。
 『東遊紀行』は、元禄六年(一六九三)二月一〇日から三月五日にかけて、松山から桜三里を通り西条へ、同志の招聘に応じて赴いた際の紀行文で、数多の和歌や漢詩が挿入されている(資118)。次はこの書出し部分。

  あがすむ里より東にあたれるを新居といふ。此所の人々志をおなじふして、道を学ひのためにあれをまねく事はや二とせあまりみとせになりぬ。いなみかたくてきさらぎの十日また夜ふかきにすみ所を出て東山の辺に着ぬ。時なる霞たちて野山も川もそれとわかたぬ程に、行く行く明はなれつる雲間より日影さし移り……

 『東海道中日記』(西条藩士か)は、君命を受けて新居浜から江戸へ往った道中歌の旅の記録である。文政四年(一八二一)一一月二三日出発し、一二月一七日に品川に到着するまでの一月ほどの記である。

  十一月廿三日故郷を首途して新居浜浦伊勢丸となんいへる船に乗組み、御代嶌に泊る。
    ふる郷をわづかへだてゝみよしまに波のうきねの夢も結はず
 『東武紀行』(松山藩八代藩主松平定静)は、明和八年(一七七一)一〇月九日、江戸を出立して、一一月二四日松山城に入るまでの紀行文である(資768)。次は書き出しの部分である。

  明和八の年、伊予の国しる所へ御暇下し給りて かみな月十九日江戸をたち侍る これかれつどひ来て見送ぬ。こたび将軍家より賜りぬる馬にのりて立出る。「のる駒とゝもにいさみて出でたてばかへさの旅路遠しともせず」

 この紀行には四〇首ばかりの和歌が載せられており、文もまた流麗である。
 よく旅をした歌人に大洲の三瀬宗円(資113)がいる。天保二年(一八三一)『長崎旅日記』から始まり、天保七年には二月から九月にかけて上方・江戸・日光・筑波山・木曽までの大旅行をしている(無題の旅日記)。さらに『わが帰りさき』『旅日記』は天保九・一〇・一一年の三年間に京都へ四度の旅の記である。いずれも沢山の和歌が載せられている。同じく大洲の有友正修は金毘羅への旅日記や『筑紫日記』を残している。清家堅庭の『日記』も九州旅行の記である。
 小松高鴨神社神主鴨重忠(資236・252・268)にも文政五年の伊勢参宮の『神路山紀行』があり、さらに一〇年にも『神路山紀行』があり、和歌を含む。この年には、その時のメモや支出帳もある。天保二年には『上京旅中之日記』、五年にも『上京旅中之日記』、また弘化五年『大内山紀行』、文化五年『都路紀行』、文化元年出雲への『八雲やま紀行』、文化五年道後への『温泉紀行』がある。
 『雅子日記』(久松雅子)は元治元年(一八六四)江戸を発ち、松山に帰り、翌慶応元年江戸に帰るまでの歌日記である。『如鏡稿』(武智五友)は慶応の頃、藩命を受けて和歌山に使した時の紀行で、和歌・漢詩を含む。『あやにしき』(三上是庵)は、明治八年江戸から東海道を経て三津まで帰った旅の記で歌四〇首がある。
 俳句関係の紀行文としては次のものがあげられる。
 『旅のおぼえ書』(井手素文)。享和三年(一八〇三)三月、門田兎文(一茶の立ち寄った人として知られる)が素文を伴って、北条から屋島までの旅の記で、途中、四国霊場などの寺社で見聞したことを記録している。「咲出して人こそかざす桜かな 暁雨」「旅立や花と鳥とを道しるべ 素文」など、折々の句が詠み込まれている。
 『存のほかの日記』(狸兄編)宝暦四年(一七五四)刊。伊勢神宮参拝のあと、東海道を通って江戸へ往き、江戸を立って日光・松嶋・象潟・軽井沢をめぐる紀行文、句多し。『頭陀流し』は吉野紀行を含む。
 『李大無名草子』(李大編)宝暦四年、小豆島や大坂の富天を訪ねての旅。
 『よよし簾』(風状編)。寛延三年(一七五〇)刊。宇和島から三津への旅。含芽・志山等の句あり。
 『爪じるし』(暁台序)。天明七年(一七八七)、京都・高野山・大和への旅の記。暁台らとの歌仙、発句あり。
 宇和島藩士、渡辺静山には『静山紀行』として「庚午紀行」(京都見物)や「壬申紀行」(彦根伊井家への使者の旅)がある。
 『五十日々記』(梅月堂)安政二年(一八五五)、三津を船出し、明石・須磨を経て、京都・宇治・長谷寺・奈良への旅。発句多し。
 『五升旅日記』(野田五升)。安政年間、東海道を経て江戸へ、さらに日光山・中仙道を廻っての俳諧紀行。

 江戸往還

 江戸までの三百里は船の旅、陸の旅である。三、四〇日の道中には関所あり、川どめあり、危険な山坂越えあり、当時の人々は随分と難渋したことであろう。出発に当っては家族親類縁者などが集まって酒肴を用意して食事をし、旅の平穏を祈るのが慣例であった。心学者近藤名州(元良)の『海陸日記』にも

  夫よりして俄に東へ下るの用意をなしければ追々親友の人々家ことに招きて旅立のこと路をなぐさめむとて茶酒などたまわりける。……各々こゝろこゝろに馬のはなむけをたまはりぬ。

とある。『海陸日記』は心学者、近藤名洲(元良)の旅行記で、彼は心学研究のため、三度江戸におもむいた。第一回は文政一〇年(一八二七)、第二回は天保六年(一八三五)、第三回は天保一一年(一八四〇)である。第一回には、『海陸日記』ほか、『東都日記』『日光山道中日記』『東海道帰行日記』を、第二回には『遊学掌中記』を、第三回には『東遊日記』『東都帰路日記』をものしており、心学者との交友の状況や名所旧跡の探訪や社寺の参詣など、和歌をまじえ、特に京都にては都中見物に多くの紙面をさいて具体的に描写し、道案内としての性格も有している。『海陸日記』には冒頭のあたりに、出立に当って友人知己から道中心得なるものを教えてもらっている記事がある。
    親の案じ常に心に忘れずばけがあやまちも大かたはなし
    国処その禁制を先聞てかたく守りてゆるがせにすな
  右七首(うち五首略)毎朝旅宿発足の節御となへなさるべし。又、旅中宿等に休処しても立しなに必ずアトミソワカと言ふ神呪御となへなされ候て、立しあとをかへり見て御立可被成候。是物を失念し取り落さぬ極秘伝なり。又、途中にてたとい尤らしく申候とも必々外人の道つれは決て無用の事。別して男女の間は慎しみ酒食養生等は不及申、籾灸治にも折折おたりなくすへ可申事。
  右 堵菴先生の御教訓なり。別に同人よりうちみきりきづなとの薬を五勺賤別にあづかる。

と、なかなか心学者らしい気のくばりようである。
 前出の、俳人野田五升の『旅日記』は安政年間に旅した記録で、あとがきに「伊勢参宮・関東行・東海道・日光山詣・信濃善光寺拝礼・木曽街道を暦テ谷汲山詣・江州多賀宮詣ノ日記帖」とあるごとく、船路より東海道・江戸・日光山-仲仙道-京都までの寺社詣を中心とした旅日記である。冒頭に「梅散るやねはん彼岸をあとにして」の五升の辞世句が添えてある。
 江戸と三津を往復したときの旅日記に、保見文陸の『いよ日記』がある。まえがきに「一世には二度見へぬ父なる人の、ことし七十余六才のよはひになり給ひけるをとひ奉らまく……」とあり、この老父をたずねる目的で天保一五年(一八四四)九月江戸を出発し四〇日間をかけて三津往復を果たして、数十首の和歌を挿入している。
 江戸への旅日記には、前出の『東武紀行』『東海道中日記』のほかに、中野元勝の『旅中諸事控』(天保元年、一八三〇)、松山九代藩主松平定国参勤の旅を記した『源定国朝臣御紀行』がある。松山藩士のものでは、『江戸紀行』は嘉永三年三月参勤交替の江戸までの旅の日々の記録。また『江戸往還記』は文久元年正月三津を出帆、江戸表に滞在し、帰藩するまでの記で、所用など実用記事が多い。さらに野沢小才次『江戸日記』は文久三年参勤随行、翌年帰着の江戸往復の記録で、所々に所感も記している。宇和島藩のものでは『江戸紀行』(著者不詳)がある。天明六年三月出立の参勤随行の記録で、安倍川までの記事がある。『勿再紀行』は堀内信左衛門が文久三年江戸表まで旅した時の紀行で狂歌がある。
 これに対し、江戸から伊予への旅には、近藤名洲の紀行のほかに、森武太夫の『春のかりがね日記』がある。これは明治元年(一八六八)二月二六日に江戸を出発し、四月二日宇和島に帰るまでの帰郷の旅日記で、百余首の和歌が収められている。末尾の部分に帰郷のよろこびの表現があるので掲げておく。

  かくするうち、磯ぎはに船はてぬるにぞ、いつかはとまちに待ちしひとびとのしたしき限り迎ひにとてつどひ来つ、岸べにたちふたがりとくとくなどそゝのかせば心あはたゞしく、旅すずりかいやりすて、よそひをもあらため、さうぞきて、とみにあがらましと、おのれも人も船のうちゆすりてさざめきわたるぞうれしくて……

 伊予江戸間に於ける宿泊のか所を、前出の『東武紀行』によって列挙すると、江戸・戸塚・小田原・沼津・江尻・金谷・浜松・赤坂・熱田の宮・四日市・土山・草津・淀川(船)・中の嶋・兵庫・加古川・室の浦・室の浦(風強く船出さず)・坂越・牛窓・下津井・自石・輛の浦・三津・松山と、二五泊を要している。一日一〇里余を徒歩で旅したペースであるが、社寺参詣や名所旧跡の見物に重きをおいた旅になると倍ほどの日数がかかっている。

 讃岐・山陽・九州路

 四国では金毘羅参詣、屋島などの霊場巡りが中心になっている。(遍路関係は別項)。『伊与路讃岐路海道集控』(直堂十七真留、天保八年〔一八三七〕八月)は、道案内的紀行文で、中に道後温泉の紹介がある。

松山温泉郡道後村に湯有り  左りに記す。
一之湯  男子切り。松山並他所御家中斗昼夜
二之湯  女子切り。昼は雑人入込。夜分は松山並他所御家中御婦人斗。
三之湯  男子切。昼は雑人入込。夜分は松山井他所御家中斗。
十銭湯  男子切。松山並他所御家中斗昼夜。
十五文湯 女子切。松山並他所御家中御婦人斗。昼夜。
養生湯  男女共昼夜雑人一諸に入り込。
三文湯  郷方町方入湯のせつ、男と女と別々に入り込銭湯也。並に他所の人なりとも入湯勝手次第。他所御家中は男女共入療不苦。松山御家中は男女共入療不相成。
馬湯   馬等の類斗。
 金毘羅には多くの人が参詣しているが、伊予上野の玉井忠友には文化一〇、一一年に詣でた時の『讃州道中記』二冊がある。
 『金毘羅参詣の記』(二宮如水)は、弘化二年(一八四五)四月一三日から五月三日にかけて、南宇和郡から宇和島・卯之町・大洲・郡中・河上・小松・河の江を経由して金毘羅に詣でて、帰りは、陸路を逆に八幡浜に出、ここから船で宇和島に着き、再び陸路をとって帰郷した半月余の旅の記録である。和歌五〇首あり。

  弘化ノ二年といふとしの卯月さぬきの国なる金毘羅の御社にまうてんととみにもおもひおこし、なかに友たちもかれこれいてきつ、十三日の朝とく屋とりを立いづ。人々うまのはなむけすとて五六丁ばかりおひきて、大岩峠といふいとなかき坂の麓なるしをりといふ処にて、酒肴もたせきてわかれのさかつきさしかはしなとするほとにはや巳の刻にもなりけれは、いまはとて人々におかれぬ。
   屋とるへき里はいつことしら雲の立行く旅のこゝろぼそさよ。

 『ふなちの記』(作者・時代不詳)は東予から厳嶋・岩国を経て尾道に至る船旅一五日間の見聞記である。ついで、九州への旅も多い。舟路でかえって便利であったであろう。
 『つくしの日記(仮題)』(渡辺円静)は、天明三年(一七八三)の中津・宇佐・日田・長崎・佐賀・松浦川・和布神社など北九州一円の旅。円静には吉野・京都への旅『花の下臥』もある。また香川景樹の門人の近藤忠行の『波路の日並』がある。
 『筑紫日記』(和気貞規)は、嘉永五年(一八五二)閏二月に南予を出発し、船で大分に渡り、太宰府・長崎・熊本等北九州一周の旅日記である。
 『九州紀行』(有友正豊)天保一四年(一八四三)、矢野玄道と同行して九州をめぐった紀行。
 『四国九州剱術試業日記』(池内信夫)嘉永三年(一八五〇)宇佐・島原・長崎や丸亀・八島への剣術修業の旅。
 京都からの帰省の旅には『道記』(著者不詳)があり、安政四年正月に出発し、須磨を経て三津に着き、道後・石手寺・城山などに遊び、七七首の和歌を詠んで京都に帰っている。
 『客中記』(梅木源兵衛)は遍路の急死の頴末を生国の紀州藩へ報告するため、文久二年(一八六一)六月五日、久万を出発して、堀江から船で上坂し、京都を通って紀州への旅の記録である。途中、金毘羅に参詣。

   (自序) 天子の剱宰相の剱は既に乎りぬ。元帥の剱は貴公ならて話ものなしと張良か来翰に韓信もふわと乗り千辛萬苦して謹家四百年の基を興しぬ。それにはあらねとこたび紀の路へ赴くものを聞へならてはとそゝのかされ水無月のはしめ弥次喜多につくる二人連れ道しるへのみをちから草にて、

 伊予国内

 伊予は八藩、それに天領を合わせ、東中南予と長く広がっており、加えて山地が多く、あまたの峠が旅人の前に立ちふさがり、国内といえども旅を困難なものにし、旅の日数も予想外に多くを要した。海の旅も雨や風の時には舟も出ず、旅人は港に泊り風雨の止むのを待たねばならなかった。
 『丙中松山行記』(長野岩太)。天保七年(一八三六)一〇月一日~二四日、川之江を出立して松山に着くまでの旅日記。近藤篤山等との交友の記録が多い。『道後入湯日記』(長野岩太)文化七年(一八一〇)、公用で川之江から松山行の簡単な手記。
 『西行日記』(半井梧菴)。文久元年(一八六一)九月二七日、東予の延喜村を出発し、松山・八幡浜・大洲・卯之町を経由して宇和島に行き、引き返して内子から久万・松山を経て、一〇月二五日に帰郷するまでの約一か月の、『愛媛面影』を執筆するための取材の旅日記であり、調査を目的とした記事の中に和歌二六首が挿入されている。

  十月二十三日朝、服部正名ぬしをとぶ、此度おもひ立つる著書の事ども、図などかゝせておくりてよと、あつらへおきて出づ、巳刻過る頃より道後温泉に行き、湯月のあたり見めぐりて、かの義安寺に詣づ、秘仏堂とて昔より開かぬ厨子のありて、聖徳太子の碑なるべくやなどいふ人もあれば、おもひのはするに、さる物にてはあらじ、碑ならば台石めきたる物もあるべきを、さる物ありともみえず、かの石薬師の類なるべし。

 右の作品のほかに、次のような国内紀行がある。
 『桂山紀行』(蘭興)文化三年(一八〇六)越智郡桂村の桜の名所桂山を尋ねた二泊三日の旅。今治藩家老江島為親にも『桂山の記』があり、桂山は人々の憩いの場所として親しまれていたようである。
 『松山行日記』(長野万里)慶応二、三、四年(一八六六~)、農民騒動の報告等のための松山出張時の旅日記。

 他国人の伊予紀行

 「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」は道後公園にある一茶の句碑の句である。伊予に来遊した人々は概ね、日本最古の温泉の道後の湯に入ることを目的にしたものと思われる。
 『道後入湯道中船中記』(別所包彰)。文政九年(一八二六)四月二〇日、妻とともに一行七名で、高松を船で出立し、尾道を経て道後に至り、逗留して夫婦は専ら入湯、他の者は商用や見物をし、六月一四日、高松に帰着するまでの旅の日記。「五月二十二日 朝晴天。湯へ参り見申候処女湯井三の湯おい込湯共水押込大いににごり居り候に付……」と梅雨による洪水の道後温泉の様子や煙硝・砂糖の購入のさまが印象的に描かれている。
 道後には阿波の沙門良尊がはるばる訪れてきた時の『道之記』がある。和歌、発句も多い。中山を越えて、夏なので桜は散り「夏はなほ花ぐもりより枝くもり」と発句を詠み、道後では「諸人の身のいたつきも伊予の湯のしるしにもるゝ事はあらじな」と礼賛している。湯月八幡宮にも詣で、三津より宮嶋へ向かっている。
 海量法師は近江国の人、禅門に入り、全国六十余州を行脚した。真淵の門人で国学を学び、万葉風の和歌をよくした。旅の記を和歌と和文で綴ったのが『ひとよ花』で、寛政四年刊行された。この中に伊予も含まれており、桜三里を越えて松山に入っている。「こゝを桜ががけといへり、道のかたはら、谷の上、一並びに三十町ばかり桜をうゑつらねたり、折しも如月のつごもりなりければ、咲きも残らず盛りなり。」云々として「南の海伊予の山路に思ひきや吉野にも似る桜みんとは」「山高み咲ける桜を白雲の峰にも尾にもたつかとぞ見る」と詠み、道後では「いさ庭の岡のいで湯のしるしにも旅路のうさはいゆるともなし」と詠んでいる。海量法師には漢詩文の紀行に『臥遊篇』があり、伊予では石鎚山と金山出石寺が詠まれている。
 『予豊日道中日記』(著者不詳)は文化一一年(一八一四)五月、九州への旅の紀行で、途中東予の岩城島などの島々から三津・大洲・宇和島へ立ち寄っている。また『予南紀行』(著者不詳)も、伊予の人の病人を看護して伊予に来た時のもので、川之江に上り、西条、新居浜まで足をのばしている。