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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 随筆

 近世の随筆は、いわゆる随想類ばかりでなく、見聞、評論から学問的な考証や研究、時には諸書からの抜書きまでを含むものである。学者や作家の手控帳であったり、余技であったりするものが多いからである。伊予の随筆もこうした中から質の高いものを多く拾い出すことができる。

 本間游清

 吉田藩医本間游清は、天明元年(一七八一)吉田に生まれた。字は士龍。号は九江・九皐・眠雲・潜雲・潜斎・消閑子・清閑子・蛛庵といった。少年時代、創立間もない時観堂に入り、徂徠学派亀井南冥・昌平学派林鳳岡に学んだ森退堂に師事。後、江戸に上り、昌平学派儒学者として声望一世に高い肥後藩儒古屋昔陽に漢学・漢詩の指導を受けた。更に村田春海に国学・和歌を学び、また『薬圃擷餘』の著者『成形図説』(百巻)の編さん者として高名の薩摩藩医曽占春について本草学を修めた。
 修得した学問の領域は極めて広く、国学・和歌・漢学・医学・本草学等いずれにも令名をはせた。特に和学においては、平田篤胤の識見、伴信友の考証と並んで博覧強記、知識の豊富さで、当代三大家と称された。
 天保二年(一八三一)二月二九日吉田藩六代藩主伊達村芳の侍医を兼ねて夫人満喜子の歌道師範となり、「外出勝手次第、御門限御用捨」の恩典を与えられ、二人扶持加増一五人扶持を支給された。
 游清は資性篤実温厚、人と交わって誠実、門弟の指導は懇切丁寧であった。入門者あとをたたず、山田常典、横山由清、横山三千子(由清養母。光格天皇より「桂子」の名を賜わる。)、江沢講修、広瀬文炳、武田千頴ら著名な儒学者・歌人が輩出した。
 嘉永三年(一八五〇)八月一六日江戸八丁堀吉田藩邸に没した。墓碑は高輪泉岳寺にある。
 著書は頗る多く、国学・和歌・音韻・漢学・漢詩文・随筆・医学・本草学・有職故実・物名・地誌・紀行・日記・研究・評論等広範囲に亘っている。
 游清の随筆は、その豊かな学識に基づいた、日本・中国の古典研究と正確豊富な資料考証に立脚した推論が特徴である。
 〈みみと川〉『耳敏川』とも書く。游清の代表的随筆で、また、近世伊予の本格的な随筆代表作である。八六巻の大著で、見聞・体験・随想・評論・考証・歌論・交友・覚え等、内容は広範囲に亘り、豊富で、游清の学問の深さ、人格の高さ、思想の確かさを窺うことができる。そのうちの一巻を概観しよう。
 〈視聴随筆〉『みみと川』中の一巻で、文化一二年(一八一五)四月一三日から同年一一月一〇日まで、游清数え年三五歳の時の見聞・随想・覚え書等を八五項目に亘って記述したものである。項目若干を掲げよう。(筑波大学蔵『視聴随筆』は、「目録」と「内容」の順が不一致である。静嘉堂文庫蔵自筆本『視聴随筆』により、項目番号を便宜的に付した。)

  一、 出羽荘内の人を殺したる男の改心後の善行。
  二、 幽魂招妻。貧しい夫が没後、魂魄となって相思相愛の妻を幽界に招く。
  三、 蜀山人狂歌。(別に狂歌に関する項、四・四四・四五・四六・四七)
  一四、片眼魚。吉田の友人高月長徳の便り等。
   一九、物名を詠める歌。
   二七、経学歌仙。
   三二、「きつにはめなで」考。『伊勢物語』語彙考。
   三五、「洒宜冷飯」屋代弘賢の説について。
   四一、家兄の歌。家兄伊予吉田におはせし時の歌七首。
   五九、中江藤樹墨跡。吉田高月長徳より贈り来る藤樹筆「経解」中「誠意」項全文筆写。
   六三、権大僧都堯孝和歌三〇首。
  六七、羽佐間宗玄の事。友人先祖間重次郎後裔の事。
  七一、山鹿素行赤穂流謫考。
  八五、愚詠三首。自作和歌。
    山家冬景 薄氷砕くる音に窓を明て谷河渡る鹿をこそ見れ
    夕木枯 夕暮は人目も離れて草の戸を鎖ては明る木枯の風
    遠山初雪 武蔵野の尾花は風に散はてて初雪白し秩父甲斐嶺

  「視る」景、「聴く」音をこめた和歌で結んだ構成は、「視聴随筆」の題名に誠にふさわしい配慮であろう。〈蝶のふるまひ〉表題は「蝶乃ふるまひ」(清水千清遺書)とある。游清が火難にあい、仮住居して後の随筆二巻から抄録したるもの。見聞・体験・随想・研究・評論・覚え書き等三八編を収録した。概観すると先ず「すみかのさま」を冒頭に述べ、「紙うつ声」・「海山の月」・「水の姿」等を続け、「四方の硯抄」で「世の中のなにごとにもあれ、目にふれ、耳にきくことただに打すつべからず。まいてわが日の本の昔を尋ぬるには大和歌を枝折りとらざれば、いかで神路の源にわけ入ること」ができようかと各編、和歌を加えての随想。また、文政九年(一八二六)国学者天野政徳・海野幸典らとの歌合、自作詠史和歌、藤原俊成の長短歌、歌学の大家加藤景範のこと、儒仏神三道に精通した梁田蛻嵓のこと、小沢芦庵の「ただこと歌」のこと等を情趣深く和歌を交えて述べ、最後に「はな吹秋」を置き、『散木奇歌集』秋の「何かさもはな吹く秋にかはりぬる冬は深雪をもたぬものかは」を挙げ、『夫木抄』・『芸文類聚』等日本・中国の古典を引用して歌論を結んでいる。
〈新続無名抄〉上下二巻。上巻跋に天保一五年(一八四四)一〇月二八日の記がある。源俊頼の歌学書『俊頼無名抄』、鴨長明の歌論書『無名抄』にならい、その続編としての歌論を試みたもので、古典歌集を論拠として所懐を述べたものである。上巻の目録は、(一)平家物語誤の事、(二)西吹風の事、(三)あさき柱の事、(四)水まさ雲の事、(五)尾花の秋といふ事、(六)初雁の歌の事、(七)みくりくるといふ事、(八)かるもの事、(九)鴫ののぼり羽の事、(一〇)姉帰の事、(一一)良春大納言鹿の歌の事の一一項目についての考証評論、下巻は、定良歌光彪評の事等二九項目についての論評随想である。
〈答問七箇条〉序文に「時はう月のなかば、御代の名は文政一一年(一八二八)」とある。游清時に四七歳、古典歌語に関する論評である。(一)おほよそ衣、(二)しらさ雲、(三)よろこぶ雲、(四)ゐのこ雲、(五)みづまさ雲、(六)鵲の鏡、(七)梁塵の七語彙につき、日本及び中国の古典の用例を挙げて解説したものである。「梁塵」の項に例をとると、まず藤原仲実(一〇五六~一一一八)の歌「吹だつる笛のしらべの声きけばのどけき塵もあらじとぞ思ふ」を取り挙げ、『夫木抄』、『土佐日記』に及び、『列子』の「湯問第十一章」全文を掲げて「韓娥の歌声、余音梁を遶る」故事を述べ、更に『博物志』、『芸文類聚』、『杜氏通典』を引き、本朝の『梁塵秘抄』に至る周到な考証である。
 別に『雑続無名抄』の著もあり、また、文化八年(一八一一)稿の『雞字考』(三巻)も「雞字」に関する語彙考で、収録した豊富な故事解説は極めて興味深い。
 游清の随筆の特色は、精細緻密な考証、豊富な資料の裏付けと独得の推論のたしかさである。

 山田常典

 文化四年(一八〇七)八月吉田藩士平井源兵衛の子として生まれた。通称は常介。字は晋。号は蕗園・藍江・楓江・臣木舎といった。江戸に上り、国学・和歌を村田春海・清水浜臣・本間游清に学んだ。後、新宮侯水野忠央に招かれ、藩学学頭に任ぜられた。弘化四年(一八四七)から嘉永六年(一八五三)の間、『丹鶴叢書』編さん主任として藩主の蔵書中より国史・国文・和歌・物語・記録・故事・医学等に関する稀覯本を校訂編輯して七帙一五八冊を刊行し、校訂の厳密さと造本の精美さは、当代比類なしと絶讃を博した。文久三年(一八六三)七月七日江戸に没した。随筆二著を掲げよう。
〈山田常典遺稿〉別名『嘉永集』。嘉永七年(一八五四)一一月の跋に「まだ若かりしほどより時々につけて書すさびたりしを、ひろひあつめたれば、いみじゅうつたなきもあまたあれども、むかしの思ひ出はさすがにうちもやりがたくてこそ」とあるように、書き留めた随想に和歌を付して六二編を収録した。冒頭に消息文「ある年のはじめに師翁に奉けるふみ」を掲げ、加藤千浪・井上文雄・兵頭清典らあての和歌まじり消息文を続け、「惜秋辞」・「論兵」・「春の夜蛙を聞くこと」「小蝶を悲しむ詞」・「酒」・「あべたち花」・「ことなし草」「丹鶴叢書納箱書とののおほせにて」・「江沢講修家集の事」「柳春弁」等興味深い随筆を続け、最後に「おみの木陰物語」で結んでいる。常典を理解する上に恰好の随筆集である。
〈井底雑記〉常典が読破した膨大な古典の中の難語句を研究調査し、用例を挙げ、評を加えて書き留めておいたものを文久二年(一八六二)上下二巻に編集したもの。「乙をカナデとよむこと」・「御津前」・「入戸」・「営の字をイソグと読むべきこと」・「めどにけづり花」・「今昔物語用字」・「鴬のももひろとなく」・「言語禁忌」・「月をみるは、いむといふ事」・「蟹目」・「ひぢかさ雨」等豊富な古典の用例引用と解説を上巻一〇九項目、下巻七六項目に亘り詳説している。

 矢野玄道

 文政六年(一八二三)一一月一七日大洲阿蔵に生まれた。通称は茂太郎。諱は敬遠・真弓・谷倶久。号は太清・大清・倚松堂・梅廼舎・子清・天放散人・扶桑真人・失放散人・神皇旧臣・神臣散人・後楽閑人・マスヒトノタメと称した。初め父道正・大洲儒者川田資・山田東海らに師事、後、松山に出て日下伯巌に学び、更に昌平黌に入り古賀侗庵に従って朱子学を修め、ついで平田篤胤・同銕胤の門に入って国学を学んだ。伴信友・玉松操・常磐井厳戈らと親父、神道に基づく国家再建に奔走した。
 維新後、修史館御用係・宮内省御用係・皇典講究所文学部長歴任。明治一九年(一八八六)一一月六日大洲に帰り、翌二〇年五月一九日没した。
 著作に対する信念は「身没而朽不者三、曰徳、曰文、曰書」で『神典翼』・『皇典翼』をはじめ著書は頗る多い。
〈矢野玄道翁随筆抄〉天保~嘉永の間、石畳村久保家に寄宿していたころの日記抄である。和文・漢文・和歌・随想を記録したもので、当時の玄道の動静・交友・思想変容の過程等を窺うことができる。
 ただし、この書は、大正八年(一九一九)玄道日記一〇巻余中の抄録で、日記の全貌を詳細に知ることはできぬ。

 奥平棲遅庵

 明和六年(一七六九)五月九日武蔵忍藩江戸藩邸にて生。本名は定時。通称は定次郎・幸次郎。号は玄圃・麟祥院。崎門佐藤直方系稲葉黙斎門。綾部・浜田・新発田諸侯に招かれ、晩年今治侯賓師となり文教興隆の基礎をつくる。嘉永三年(一八五〇)八月九日没。
〈戊戌漫録稿〉天保九年(一八三八)元旦試筆に「洪範」の「九疇五福」を思い、「古稀翁棲遅庵」と署名「古の稀なる歳も戌の年歳寄る犬の様ぞ醜き」と来し方を反省、自戒の語を冒頭に、ついで見聞・随想を述べた。渕源を尊び、道統を重んずる崎門朱子学の立場から、人物論・時事評論・体験随想に若干和歌をまじえながら漢文で記録した。

 三上是庵

 文政元年(一八一八)六月四日生。松山藩士三上清武三男。幼名は六之助・長太郎、後、退助・景雄。通称は新三・新左衛門。三の丸門番役を務める傍ら高橋復斎・村田箕山に師事。後、江戸に出て西川楽斎に学ぶ。奥平棲遅庵に廻遁して甚だ悟る所あり『師説疑義』を著わして宅門村田箕山より離脱。帰藩後、藩主顧問として維新の難局に対処して功があった。明治四年三上学寮創設経営。
 明治九年(一八七六)一二月四日没した。
 〈恥かし草〉嘉永元年(一八四八)七月一八日編さん。三部作。後に福田正徳の付録一編を付す。
 (一)「賤ガ男身ノ上語り」。弘化三年(一八四六)四月一二日、山田重之助に同行、浜田へ出発する時にあたり、「春山雅丈」あて書き遺した書簡体自省自戒の文。
 (二)「賤ノ男身ノ上物語」。七歳、学に志してより『師説疑義』を著わして箕山門を離れ、棲遅庵に師事して安心立命の境を得るまでの自叙伝的反省自戒の文。
 (三)「行実」。幼年時代の思い出。「たこあげ」・「こままわし」等が下手であったこと、「スゴロク」・「カルタ」等の勝負事を好んだことなど、種々自己の欠点だった事を挙げ反省自戒した文。
 付録 「恥シ艸ノ後書」。福田正徳跋文。

 堀内匡平

 文政七年(一八二四)八月一六日生。興居島の富豪堀内昌郷の男。幼名は伸八・亀之助。通称は清太郎・寛左衛門。号は知郷・桑崖・松陰・看雲・九華・四十八崖。国学・和歌を父及び宣長門の藤井高尚に学んだ。還熊八幡神社宮司玉井春枝らと国事に奔走、城北高石崖に幽閉された。在獄三年、許されて社会教化に貢献。明治一六年(一八八三)一月一〇日没した。
〈堀之内浚へ〉元治元年(一八六四)三月晦日幽閉されて所懐を述べた「良夜月見不の文井叙」(叙は近藤箕山)「堀内家の事」・「書状」等一三項目を収集記録したもので、匡平
行状、堀内家の状況を窺い得る随筆集である。

 その他の随筆

 近世、伊予の随筆に極めて多い。松山軍学者村井知衡(一七六八~一八五七)の『必笑雑話』、同野沢象水(一七四七~一八一〇)の『野沢随筆』、大洲武田敬孝(一八二〇~一八八六)の『異聞雑録』・『老乱世録』、同常磐井厳戈(一八一九~一八六三)の『風林零葉』、中山佐礼谷鷹尾吉循(一八二六~一八九三)の『読書全匱』(一〇巻)も優れた記録である。また三津小池太素(一七九九~一八五四)の『小池水草』(一四巻)、松山儒者高橋静斎(一八〇八~一八五九)の『閑圃耕筆』二〇巻)、郡中漢学者・俳人陶惟貞(一七九九~一八七三)の『半窓雑録』(六巻)、松山儒者増田憲(一七六八~一八三八)の『常羊亭(逍遥亭)坐右録』(一四巻)も貴重な文学資料集でもあろう。
 松山如瓶樵夫の「文によみ、人に交わりて」得た知慧・諺・詩歌等を覚え書き風に記録、短評した『麓塵集』(二巻)、小松長谷部映門(一七八二~一八四八)の蕪村・白雄・暁台・闌更らの句評、古今集等の抜書き、天保一四年(一八四三)九月二二日二条殿華本大明神開眼殿上俳諧に「裏移り」の句を詠む光栄に浴したこと、また、「下血」の薬の処法等を収集記録した『おもひで草紙』等も特色ある随筆集である。
 諸書からの抜書きを中心としたものには、近田八束の『浅沢水』正篇一五巻一九冊(二冊欠)続篇九巻二一冊(二冊欠)がある。