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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 民間の慈善救済事業

 クリスチャンによる慈善活動

 明治時代における民間の慈善事業活動は、岡山孤児院創設者石井十次、巣鴨家庭学校創設者留岡幸助、日本救世軍の創設者山室軍平など熱心なクリスチャンの業績に負うところが多い。
 愛媛県においても、明治二四年一月、米国婦人コルネリオ=ジャジソン、二宮邦次郎、西村清雄らが協力して松山市三番町に私立松山夜学校の前身である普通夜学会を創設した。これは昼間就学できない労働者に授業料なしで普通教育の機会を与えるもので、通学不便の者には寄宿舎を設けた。夜学校の運営費は、米国婦人伝道会社の寄付金や愛媛県の補助金及び篤志家の寄付金で賄われ、明治二七年には永木町に校舎を新築移転し絣工場を併設して生徒の授産と教育をすすめた。
 明治三四年七月、松山紡績会社へ入社したクリスチャンの大本新次郎は、無教育のために堕落していく工女の存在を憂いて、同年一〇月より自宅で夜学会を始めた。翌三五年四月には松山市傘屋町に女工寄宿舎を設け、それを松山同情館と称した。大本は、親元を離れて来松した工女をここに収容し、毎日二時間ずつ普通教育を施すとともに、キリスト教の教旨に基づいて徳性の涵養に努めた。明治三九年一〇月、夜学会は発展的に解消されて私立松山同情館女子夜学校となり、作業場を併設して寄宿生に機織の業をも授けた。
 宇摩郡上分町(現川之江市)では、明治四〇年一一月三日、上分町愛生慈善会が創設された。この会を主催したのは上分町のキリスト教会牧師であると思えるが、同教会の史料は散逸している。『愛媛県誌稿』下巻によると、愛生慈善会の事業は、(1)天災地変のため生活の途に窮するものを救済すること、(2)無告の鰥寡孤独廃疾及び同情を寄すべき赤貧者に生活方法を授けたり、救済をなすこと、(3)有為の少年及び青年が、学資がなくてその目的を達し得ない場合、補助を与えること、(4)社会公衆のために有為と認める衛生及び農商工業に関する講演をなすことなどであった。事業費は会員組織であるため会費で賄い、明治四二年以降は町内の窮民に対する金銭給与のみならず、大阪・東北・九州などの水害・火災による被害者にも義援金を送った。また大正元年からは、町内の貧民に毎年盆と暮の二度、施米を実施することを決めている。なお、同会会員には独自の門標が配付されていたといわれる。

 仏教者による慈善救済

 仏教界においても貧困家庭の児童教育や釈放者の保護更正を中心とする事業が積極的に進められた。北宇和郡宇和島町では、近隣町村各宗派の僧侶で構成した六和会が明治二〇年ごろから眞教寺に設けた慈恵学校に、宇和島町や丸穂村(ともに現宇和島市)の貧困のため就学できない児童を集め無料で教育することを計画し、同二五年ごろからこれを開始した。この慈恵学校運営費を得るため宇和島町の篤志家は慈恵会を組織して経費の一部を補助したといわれる。
 明治三〇年三月、宇和島町の今井真澄は近隣町村の有志婦人に呼びかけて大師信心講を主催し毎月二〇日には法話会を開いた。この会に集まった婦人は御詠歌を誦じて街頭を巡回し、喜捨として受けた金品を町内の貧困家庭に恵与した。この活動はその後も続けられたが、その間、婦人たちの目は貧困家庭の幼児救済に向けられ、救貧事業を目的とする団体の組織化が計画された。明治三三年、指導者の今井が同町の龍光院福寿寺住職となると、同年三月二〇日、宇和島済美婦人会の前身である信徒婦人会を結成した。明治三七年一月二〇日、宇和島済美婦人会が正式に発足し、貧民救済を中心としながらも日露戦争による軍人遺族の救護・慰問などに尽力した。初代会長には松根敏(伊達宗城三女、松根内蔵夫人、松根宗一・同東洋城の母)が就き、旧宇和島藩士族の夫人や商家の夫人が会員に加わった。宇和島済美婦人会は、その後龍光院境内の「おこもり堂」に貧困家庭の幼児一〇人前後を集めて保育した。その間、その母親たちは安心して他家の米つき、障子はり、田植えなどをして日銭を稼ぎ、生計の一助とした。宇和島済美婦人会は大正期に入って本格的に保育事業を進めた。
 愛媛保護場は明治二八年七月一日、松山市鉄砲町の愛媛県監獄の付属建物を県より無料で借り受け、一四名の出獄者を収容して開所した。これは出獄しても頼るべき所もない人々に生業を得る道を指導し、再犯を予防する目的をもつ更正施設で、設立当初の運営経費は県下の司獄官吏が各自の俸給の一%を拠出してこれに充てた。愛媛保護場設立については、明治二〇年以来、松山監獄副典獄の野田直幹が教誨師を通して司獄官や県内各地の宗教家、篤志家にその設置方を呼びかけてきたものであったが、民間団体による免囚保護事業というよりも官営事業的色彩もみられた。
 愛媛保護場では、大正三年末までに五四一名を収容保護し、生業指導の後四九八名の保護を解除した。収容の基準は不明であるが、明治四二年「愛媛県統計書」の愛媛保護場欄には、「無断出場」した人数も記されているので、更正指導を受ける人々はある種の拘束を受けていたものと推察される。
 明治四五年七月三〇日、明治天皇が崩御され、同年九月二六日には「恩赦令」が発せられた。このため赦免を受けた人々が出獄したが、この時、本県でも県当局の勧奨を受けて各寺の住職が結集し、釈放者の更正指導を目的とした保護会を結成した。大正二年六月一八日、これら保護会が連合して愛媛県保護協会を組織し、その後結成された保護会(表1-12参照)も県保護協会の傘下に入って、協会が設定した担当地域内の釈放者に対する保護更正に当たった。
 なお、愛媛保護場と愛媛県保護協会は大正四年に合併し、同年四月五日には財団法人愛媛保護会が結成され、保護会の総裁には県知事が推戴され、会長は検事正、副会長は警察部長と典獄(刑務所長)が就任した。これを機に愛媛保護場は同年四月二七日松山市末広町に移転し、その後、同市柳井町に事務所と被保護者収容所を新築して移転した。

 愛媛慈恵会と自彊学園

 松山市束本二丁目の社会福祉法人愛媛慈恵会は宇和島済美婦人会と並んで長い歴史をもっている。日清戦争後の我が国では軽工業部門における産業の機械化が進み著しい経済発展を遂げたが、その反面、貧富の差は拡大した。横山源之助の『日本之下層社会』が刊行されたのは明治三二年で、劣悪な労働条件の下で働く当時の労働者の状態を記している。明治二九・三〇年の凶作と金本位制の採用などによる米価騰貴、ひいては一般物価の騰貴に苦しむ細民に対し、政府は明治三〇年一月、恤救規則の適用をやや緩和する通牒を発した。しかし「情状ヲ精査シ救助」することとしたため受給者数はあまり伸びなかった。また同年二月の帝国議会には本県の鈴木重遠(進歩党)ら四議員が、「唯低廉の労銀を給して労働者を使役せんとするは資本家の常情なるを以て、今にして、貧富の融和を図り、他日の禍害を予め杜絶するは独り貧者の為めにするにあらざるを確信す」との理由で、「恤救法案」及び「救貧税法案」を提出したが、委員会に付託されることなく流れてしまった(『日本の救貧制度』)。
 こうした状況下、松山市の吉田政常は仲田銀行頭取仲田伝之しょう、実業家栗田幸次郎、安楽寺住職本城徹心らとともに、明治三二年ころから慈善団体設立を目指して奔走し、時の愛媛県知事本部泰をはじめ官民多くの有力者がこれに賛同した。明治三四年七月二六日、設立総会が開かれ会長に仲田伝之しょうを選んで愛媛慈恵会は設立した。松山市鉄砲町の吉田政常宅が孤児・貧児を中心とする窮民救済の場に当てられた。慈恵会は会員の拠出金と一般の寄付金によって運営されたが、仲田らはより多くの会員を得んと募集に努めた。「愛媛慈恵会設立趣意書」(資社経下五一三)では、貧富の差が拡大進行する時代にあって「若シ富豪ナルモノ単二自己眼前ノ快楽安逸二眩惑シテ更二貧民ノ困苦ヲ顧ミサル時ハ、彼等無教育ノ徒永ク其艱苦ヲ忍フ能ハスシテ早晩鬱憤ヲ洩ラシ不平ヲ唱ヘテ乱暴狼藉大二害ヲ社会二流スニ至ラン」、「故二之ヲ救済シテ人心ヲ正道二導キ淳良二進マシムルハ吾人力社会二対スル義務ナリ、彼トウ眼ナル上流人士ハ夙二覚ル所アリテ貧民学校貧民病院孤児院等各種ノ慈善事業ヲ起シテ貧民二同情ヲ寄セ其苦痛ヲ慰藉シテ貧富両者感情ノ衝突ヲ防ケリ」、「茲二愛媛慈恵会ヲ設立シ大方慈善家ノ翼賛ヲ仰キ虚名ヲ捨テ着実ヲ旨トシ、徐々ニ無告ノ窮民ヲ救済教養シテ社会ノ安寧ヲ保持シ国家福趾ノ増進ヲ計ラントス」と、本県最初の本格的な慈善団体設立の趣旨を述べている。
 初年度の収容児は九名であったが、明治三九年には東北の大飢饉によって生計を失った家庭の児童八〇〇名のうち二五名が愛媛慈恵会に引き取られた。岩手県から来た四歳から一二歳まで二五名の児童のうち学齢児童は松山市立第二尋常小学校に通学し、帰校後は経木真田を編んで若干の収入を得、これを貯金した。これら児童は明治四一年以降、故郷の父母親戚の家計が回復するに従って帰郷した。昭和四六年七月九日付の「愛媛新聞」には、「忘れません六五年前の恩」の見出しで、岩手県の老女から「親身なお世話を受けたことは童心に刻まれている。ひとこと感謝の気持ちを伝えたい」との礼状が愛媛慈恵会に届いたことを報じている。
 岩手県から二五名の児童を引き取ったことから、吉田政常宅の収容施設は狭くなり、明治三九年一一月、愛媛慈恵会は本城徹心が住職であった松山市府中町の安楽寺に移った。明治四〇年代に入って松山市、愛媛県、内務省などから助成金を受けるようになり、明治四三年一〇月には松山市旭町に移転し、明治四四年までに通算一一三名の貧困児童を収容している。なお、昭和に入ってからは養老部をも設け(一一年六月三〇日)、老病者の世話をも行った。
 明治三三年三月、教護事業の最初の法律として「感化法」が公布され、不良少年などの処遇機関として感化院の設置が規定された。しかし、当時は留岡幸助が東京市外巣鴨に創設した家庭学校のように、キリスト教的愛の精神に立脚した自然環境の中で少年を善導していく感化方法が主流であり、公立の感化院が本格化したのは大正四年以後であった。
 愛媛県では、明治四二年三月二六日愛媛慈恵会の一事業として感化院が設けられ、四月一日、松山市木屋町に愛媛県代用感化院自彊学園が開園した。五月に少年一人を収容しその後収容者が増加するにつれて園舎は移転した。大正元年一一月三日温泉郡朝美町衣山(現松山市)に建築中の園舎が落成したため、自彊学園は魚町の浄蓮寺からここへ移転した。
 大正三年四月一日、自彊学園は経営資金不足を理由に県営に移管され、愛媛県立自彊学園と改称された。「愛媛県立自彊学園規則」(資社経下五一六)には園長一名、教師若干名、書記若干名のほか嘱託園医一名が配置され、生徒は家族的配慮の下に訓育され、普通教育と実業教育が施されると記されている。同年七月七日松井豊吉が園長に就任し、大正五年五月三日には学園細則も定められて感化事業は軌道に乗り、大正九年四月一日からは収容定員も二〇名から二五名に増員された。なお同園は昭和九年一〇月一日「少年教護法」の公布に伴い愛媛県立家庭実業学校と改称された。

 私立愛媛盲唖学校

 明治時代における盲唖者教育は、明治四年九月、工学頭山尾庸三の「盲学校並二聾学校ノ設立ノ建白」と外国人宣教師による啓蒙運動によって胎動した。当時、我が国の特殊教育に関する法的措置は明治五年の「学制」中に「廃人学校」の名称がみられるのみで、盲聾教育が独立した位置を築くには多くの人々の努力と歳月を要した。我が国最初の盲唖教育発祥の地である京都府では、明治一一年五月京都盲唖院が設立されたが、本県出身の旧宇和島藩士族遠山憲美がその設立に尽力した。明治一〇年一二月一五日、京都府下京区に止宿する遠山は京都府知事槇村正直に盲唖学校設立の「建議意見之書」を提出した。遠山は同院職員として奉職したが、同院創立のもう一人の功労者古河太四郎との間に意見の相違が生じ在職七か月にして退職している。
 愛媛県では明治四〇年一一月一六日、私立愛媛盲唖学校が松山市二番町の仮校舎で授業を開始した。同校の設立に当たっては、『一粒米』・『我が村』などの作者であり温泉郡余土村(現松山市)村長として模範村づくりに邁進した森恒太郎(盲天外)の力によるところが大きい。森は明治三八年三九歳で失明し幾多の苦難の後、心眼を開き県会議員としても活躍した人であった。
 彼は、明治四〇年、余土村長を辞しているが、この時、村から贈られた退職慰労金のすべてを盲唖学校設立資金に充て、設立運動を始めた。同年一月、東京盲唖学校を視察して盲唖教育の必要性を痛感した森恒太郎は、帰郷後、愛媛県知事安藤謙介とその夫人に働きかけ、同年一月二〇日、松山市公会堂に安藤謙介をはじめ政財界の有力者一五〇名を集めて盲唖学校後援会発企人会を組織した。後援会は、明治八年宣教師ヘンリー・フォールズが東京に主宰した盲唖教育推進団体楽善会の名にちなんで、楽善会と命名され、「本会は盲唖教育を計るを以て目的とす」、「会員は一ヶ年金壱円を醵出するものとす」、「本会は資金募集の方法として慈善音楽会等を開くものとす」などの規則を定めている。楽善会は慈善バザーや音楽会を開いて三四六円の義援金を得、県費補助の目途もついたため、盲唖学校設立及びそれ以後の経営を愛媛教育協会に依頼した(「愛媛県教育史」第二巻)。
 愛媛教育協会は、明治四〇年五月一〇日の総会で盲唖学校設立を決議し、教育協会役員会は県下の盲唖者総数を二、五〇〇人と推定し、そのうち就学の見込みがあるものは約一六〇人と考え、その三分の一を収容する予定で開校準備に励んだ。九月に制定された「私立愛媛盲学校規則」によると、修業年限は盲生は四年、唖生は五年とし一〇歳以上の者が入学を許可され、定員は盲・唖各科それぞれ約五〇名であった。初年度入学者は盲生四名、唖生一三名であったが、その後、年をおってわずかずつ生徒が増加し、大正三年には盲生二〇名、唖生二六名となり、その出身範囲も県下各郡市に及ぶようになった。
 盲唖学校では、修身・国語・算術などの普通科目のほかに、盲生には弾琴・鍼按術を教授する技芸科、唖生には図画・裁縫・指物を教授する技芸科を設けたが、明治四二年四月に盲部技芸科担当教師太田律馬は在校生徒以外の盲人をも対象に鍼按講習会を開いて県内の盲人に光明を与えた。
 なお、愛媛盲唖学校は明治四五年二月二七日に松山市三番町に移り、更に大正四年三月松山市二番町に転じ、大正五年九月一二日、松山市旭町に校舎を新築(県立松山中学校が持田へ移転したため、その校舎の払い下げを受けた)してここに移転した。この間、教育設備、内容ともに充実され、修業年限も延長された。同校が県立に移管されたのは昭和四年四月一日であった。

表1-12 愛媛県における釈放者保護会一覧(大正4年ころ)

表1-12 愛媛県における釈放者保護会一覧(大正4年ころ)