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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 公費による窮民救済

 恤救規則の制定

 近世にみられた囲米・救助米・御救小屋、行旅病人あるいは行旅死亡人・盲人・棄児などに対する救済の諸制度も近代に入って法制が整備された。明治四年六月「行旅病人取扱規則」、「棄児養育米給与方」などの太政官布告や太政官達が出され、明治七年一二月八日には「恤救規則」が布達された。これは扶養義務者のいない極貧の独身者が老齢のため就業できない場合、国や地方自治体が一定の救助米を給与することを決めたものである。「恤救規則」は明治新政府がとった最初の救貧法であるが、その前文で「済貧恤窮は人民相互の情誼によるべく、放置し得ぬ者のみ」をこの規則をよりどころとして救助してよいとし、今日の社会福祉諸法令のような強い実効性を伴わないまま、昭和七年一月一日施行の「救護法」まで五八年間改正されることなく存続した。
 明治時代における資本主義の発展は社会の近代化を促進する反面、生活環境の不備、衛生観念の未発達などに起因する疫病の流行や天災の発生とあいまって多くの生活困窮者を生じさせた。政府は「備荒儲蓄法」(明治一三年六月)、「質屋取締法」(同二八年三月)、「行旅病人及行旅死亡人取扱法」(同三二年三月)、「下士兵卒家族救助令」(同三七年四月)などの諸法令を制定したが、明治二三年の第一回帝国議会では、政府提出の「窮民救助法案」に対し、「窮民救助のごときは隣保相扶の情誼に委ねて何ら差し支えなし、公金を一個人のために使用することは種々の弊害を伴う」との考えが支配的であり、公的責任をもって生活困窮者を救助するという考えは国民に浸透せず、隣保相扶観念が近代の窮民救済策の根本原理として存続した。
 「恤救規則」が布達される以前の愛媛県では、明治五年四月、「座頭扶持渡シ方廃止ノ通達」、「貧民及不具者救助ニツキ告諭」、「乞食追払ニツキ取締掛設置」などが出され、明治六年三月には「鰥寡孤独廃疾者救済方法ノ通達」、翌七年二月には「棄児養育米下シ渡シノ布達」が発せられた。座頭扶持は江戸時代から始まったもので、農民から年間三升の米を上納させ、これを盲人に給与してきたものであるが、宇和島県は明治五年四月一八日、政府の指示に従ってこれを廃止した。廃止に際し、宇和島県は、人の助けをのみ頼りにし、自ら生計を営む考えがなくてはならないと告諭したが、生計を営む具体的方策は講じられなかった。
 明治八年一月四日、愛媛県は「恤救規則公布ニツキ告諭」(資社経下三九四)を発した。告諭は「恤救規則」を「今般、済貧恤窮ノ御規則被仰出、実二天日ノ覆フ所雨露ノ潤ス所至ラサルナク、萬々有難キ御沙汰」と賞賛したが、「無告ノ窮民救助出願ニツキ布達」(資社経下三九四)では、元来、恤救は人民相互の義務であり、親戚隣保で扶助することができなければ、組合または一村一区において相応に扶助するのが当然であり、それぞれ救済方法を立て、できるだけ官救を仰ぐことがないよう各区々長に指示した。告諭や布達を受けた区戸長は、区内の名誉にかかわるものとして極力官救の恩恵に浴さない方針を出したが(「庄内村誌」)、県当局は同年一月二五日、官救は容易に伺い出るものではないが、事実余儀なき場合は親族並びに身寄りの者の有無など詳しく調査し、申し出よとの布達を出した。更に同年八月二九日にも、「恤救規則」により救恤されるべきものの範囲を詳しく述べるとともに、趣旨は救恤にあっても「別段ノ給与ヲ乞ハサルヲ以テ本旨トスヘシ」との内務省達を伝え、暗に村内の隣保相扶を指示した。こうした県当局の指示に基づき、西宇和郡二及浦(現三瓶町)では、明治一八年、「二及浦窮民救助方法」という地区独自の規則を設け窮民救済を行った。規則は、「第一条、赤貧ニシテ自カヲ以テ食ム能ハズ、親セキ・有志等ノ救助スル者ナク、生計ヲ失フ者ハ、三十日以内救助スルモノトス、但シ官ノ救助ヲ受ケル者ハ給与セズ、第二条、救助ハ窮民一人ニツキ、一日精米三合以内ヲ適宜給与ス、但シ三歳未満ハ給セズ、第三条、窮民ニシテ疾病ニカカル者ハ其ノ症状ニヨリ薬価ヲ給与ス」などとなっていた。
 現在までの調査では、二及浦の窮民救助規則が県下最初の例であるが、他の町村では「無告ノ窮民救助」の方法をめぐって混乱が生じていた。すなわち、明治一七年八月一一日、西宇和郡八幡浜浦戸長は西宇和郡長に「貧民救助之義二付伺」を出し、「無告の窮民救助の儀は明治八年坤第百十七号を以て御達の趣もこれあり、(中略)然るに同号達中にある廃疾老幼などにこれなく、普通壮健のものにして方今世上金融の途閉塞し、為に生計の途を失し、元来資力なく其日稼きのものなれば当時日傭人の需要乏しく、偶々些少の金銭を得ることあるも、一家数口を糊する能はす候にて隣保の者共より扶助せしも、隣保多くは貧民にしてよくこれを救助する能はす、殊に親属の頼るへきなく今日の糊口に差支、飢餓旦夕に迫り状態実に憫然のものにして、屡々恤救を願出候ものこれあり候間、如何処置いたすべき候哉、至急何分の御指示下されたく」と尋ねた。これに対し、西宇和郡庶務掛は翌日付の文書で「(前略)恤救の儀は人民相互の義務にして、親戚隣保に扶助するものこれなくは、組合或は一村中にて相応の保育いたすべき筋につき、容易に伺出ざるは勿論に候得共、実際捨置難き場合に於ては県令へ経伺相成候様いたしたく、郡長代理へ経伺の上、別紙相添此如掛りへ申通候なり」と回答し、廃疾、老衰幼弱以外の赤貧者の救助について具体的指示を出さず、あくまでも各村浦の相互扶助を基調にしながら、捨て置きがたい場合のみ伺い出るよう回答した(八幡浜市誌編纂室所蔵文書)。
 明治一二年一一月刊行の「愛媛県統計概表」によると、このころの救助者数が遭災一三四名(賑恤金合計一、一八五円)、廃疾一二名(同八五円)、疾病一〇名(同四五円)、幼弱五名(同一五円)、盲目五名(同三九円)、老衰五名(同四四円)、貧窮四名(同三六円)、独身二名(同一九円)となっており、明治二〇年代以降は、表1-7に示すように、毎年四〇~五〇名の人が廃疾、老衰、疾病、幼弱などのために新たに救恤された。なお、明治三八年以降の「愛媛県統計書」には、市町村費による救助者数がみられ、その数は官費によるものの数倍にのぼっている。

 行旅死亡人と棄児養育

 「行旅死亡人取扱規則」は明治四年に制定され、明治三二年には「行旅病人及行旅死亡人取扱法」となった。これは農村生活の窮乏などに起因して都市へ流出する人口の増加や、各地を流浪する人々への応急保護と行き倒れ者の取り扱いを定めたもので、ともに現在地主義によって各町村長が保護や埋葬を行い、当該府県が費用の最終負担を行った。
 本県でもこれらの規則、法令の施行細則を出し、特に明治三二年七月の「行旅病人・行旅死亡人及び同伴者救護取扱い手続」(資社経下四〇二)では、診察料、薬価、食料、寝具料、小屋掛料、仮埋葬料など代替すべき費用の種類と限度額を具体的に示した。西宇和郡二見浦(現伊方町)では、明治二一年の暮れに行き倒れがあり、同伴者の言から本県和気郡古三津村(現松山市)に本籍を有する者(氏名略)であると判明した。九町浦戸長役場では死亡人の本籍地の役場へ照会をしたが、人違いであるとの回答を得、明治二二年一月四日、本県の「海南新聞」に死亡広告を出した。その後九〇日を経過しても原籍は一向に分からず、同年四月六日、埋葬諸費用を愛媛県に請求し、県は、四月一八日、「旅行死亡人仮埋葬諸費明細書」に記された一円二二銭を戸長役場に下し渡した(「九町浦外一ヶ浦戸長役場文書」)。
 松山市では、行旅病人があった場合、適当な場所に小屋掛けをし、または個人に依頼して救養に当たっていたが、明治四二年三月、温泉郡立花村(現松山市)に行旅病人収容所を設けた。しかし、収容所の室内に精神病者の監視室を備え、行旅病人は精神病者と同室に収容されるというのが当時の実態であった。明治四二年度の松山市における行旅病人は一四名であった(「松山市史料集」第一一巻)。また本県全体では、表1-8に示したように、毎年ほぼ二〇〇人前後の行旅病人及び行旅死亡人を数えている。
 棄児養育は、江戸時代には養親がみつかるまで棄児は所在町村の費用で養育されるのが一般的であったが、明治初年、町村から第三者に預けて養育する場合に限り、棄児が一〇歳に達するまでは、政府より養育米を給与するようになった。明治四年には「棄児養育米給与方」の太政官達が出され、棄児を個人がもらい受けて養育する場合も、その子が一五歳に達するまでは養育米が支給された。その後、明治六年より太陽暦が採用されたのに伴い、年齢の数え方が満年齢になり、養育米支給は満一三歳を限度とされ、昭和七年の「救護法」施行までこの制度が存続した。
 本県では、明治六年一〇月一九日、「棄児厳禁の告諭」を発して、「(前略)人として其子を棄るものあり、豈これを何とか言んや、然りと雖も好んてこれを為すにあらす、多くは淫奔野合して生るゝか或は貧窮にして養ふ能はさるか必す止を得さる事に出す、されど愍へきは其子にあらすや、幼少のときより人並に立こと能はす、或は氏素生の分らさる者よと常々人に侮られ、(中略)荷も父母の心あるもの固より思に忘れさらんや、速かに自首して謝罪せは盡く允して親子其所を得せしめん、しからされは厳密捜索を遂け父母共に厳科に処すへきものなり」と県下に触示した。しかし、こうした告諭もさしたる効果がなく、県下に「棄児拾ヒ揚ケ之義二付届」や棄児養育の例は多くみられ、明治一二年一一月刊行の「愛媛県統計概表」には、このころ養育費を給与されていた棄児数は男一九二名、女三七六名もあった。
 明治二〇年九月二日、西宇和郡八幡浜浦の某氏門前で生後六か月くらいの捨て子が発見された。村ではその子に名前をつけ、生年月日を定めて村内で養育した。この養育料は戸長役場から郡役所に申請され、満一三歳になるまで養育米として年々七斗ずつの米が下し渡された(「八幡浜市誌」)。松山市では、明治二四年度に「棄児又ハ路頭二漂泊セル幼者」三名を救護したが、明治三一年度は棄児養育米を受ける者が一六名に及んだ。その後は徐々に棄子数も減少し、明治三五年、同三六年度は保護された捨て子は皆無で、彼らが成長し満一三歳になると養育米の支給が絶たれるため、明治四一年度末に棄児養育米を受ける者は三名となっていた。
 明治三二年以降の養育費を受ける棄児数を表1-9に示しているが、県下全体でもその数は徐々に減少し明治四〇年には四一名になった。

 困窮士族の救済

 明治一〇年代は没落士族の困窮、西南の役による戦死傷者家族に対する援護措置が図られた。明治一〇年八月「西南ノ役、戦死傷者家族援護ノ通達」(資社経下三九五)が出され、軍人の寡婦孤児は「恩給令」による扶助料下賜のほかに、特例をもって手当金を給与されることになった。また明治一二年一月「没落士族救助ニツキ布令」(資社経下三九五)が出された。従来有禄士族は平民と同一の救助を受けることができない規定になっていたが、秩禄処分の断行以来、いわゆる士族授産に順応し得ず没落していくものが多く、この布令によって、士族平民を問わず鰥寡孤独廃疾などの者は「恤救規則」による救済の対象となり、貧困の質的変化が浮き彫りにされた。
 本県における士族階層の窮乏過程は十分には解明されていないが、西南の役による不換紙幣の乱発と明治一四年以降のデフレ政策の展開など急激な経済変動に翻弄された士族の中には、生計の途を失うものもみられた。旧松山藩では維新後士族の家禄を大幅に削減し、上中士族は二〇石七斗、下士は一〇石八斗が平均とされた。また漸次帰農の計画が進められ、廃藩置県、秩禄処分の中で士族はその身分的特権を失った。明治一四年三月、県令関新平が内務卿に申請した「旧松山藩士族授産ノ為メ綿布織資金拝借ノ儀二付伺」(「資料 愛媛労働運動史」第一巻所収)では、「恩賜ノ金員モ負債ノ為メニ償ヒ、或ハ農商二帰スルモ其労働ト術策二達セス、若干ノ金員ヲ消費シ或ハ固守禄券ノ利子二頼テ一家数口養フニ苦ミ、且ツ近年物価日ヲ逐テ騰貴シ窮彌窮シ候」と士族の窮乏を説明し、惨然たる困窮を座視するのに忍びない状況を述べている。この授産事業は政府拝借金五万円、士族共同出資五万円で工場と機器を整え、困窮者を集めて綿布織(伊予縞)を産する計画であったが、政府は資金貸し付けを却下した。
 旧吉田藩では、士族遠山矩道が明治五年に神山県庁より桑苗の配布を受け士族生計の道を開き、明治一三年四月には興業社を設立して蚕糸業を起こした。明治一六年一〇月一六日、興業社に参加した遠山ら三八〇余名の旧吉田藩士族は事業の拡張を図るため、資金の貸し下げを出願し、農商務卿より許可された。このほか旧松山藩士族池内信嘉らの松山蚕業会社、今治の三浦清麿らの柞蚕社、宇和島の杉本良棟らの成繭社など蚕糸業に乗り出した士族の中には、県勧業課の後援もあって先進地へ技術伝習者を派遣し、良質の生糸を産して本県の蚕糸業の発展に尽くした人々が多い。明治一六年一〇月二六日、旧小松藩士族竹鼻陶次ら一二一名は地方特産の奉書紙を製造する小松製紙会社設立のため、資金八一〇円余の借用を県庁を通して農商務卿に上申し、翌年これが許可された。和紙の製造が開始されたが、不況が進行する時期であったためか、やがて会社は多額の損金を出して廃業した。授産事業に失敗した士族がその後どのような生計を得たかは不明であるが、旧松山藩士族一五戸五〇余人が福島県安積郡牛庭ヶ原開墾地に集団移住したのも、明治一五年から同一七年にかけてであり、明治二五年には、旧松山藩士族二一戸が屯田兵として北海道の東旭川に入植した。

 細民の生活と市町村における救済

 明治八年八月二七日、愛媛県権令岩村高俊の発した「地租改正着手に付き告諭」によって本県でも地租改正事業が開始した。地租改正は、地租の金納化をもたらすものであったが、土地を所有しない小作人にとっては依然として地主に納める小作料は現物納が続いていた。明治一四年に大蔵卿となった松方正義のデフレ政策により、米をはじめとする農産物価格の急激な低下は、農家の収入を減らし農業経営を苦しくするばかりでなく、彼らを窮乏させた。不況が深刻化するにつれて、中小農民は自己の所有地を質入れまたは書き入れ(借金の証文を書くこと)し、明治一九年には本県民有田の三六・九%が借金の抵当になっていた。零細農民の土地喪失と大地主への土地集中の中で、小作人は増加しまた奉公先を求めて都市へ流出する人々も増加した。この年二月、越智郡で、三、三二一人、野間郡一、八六六人、和気郡一、七七〇人、風早郡一、六三六人、温泉郡で三七一人の極貧者を数えている(「明治協会雑誌」一〇九号「日本の救貧制度」所収)。
 明治二〇年、温泉郡で田地一町歩を有する自作農家の年間収入は一五〇円九〇銭で、生産費、税金、公課、食費などの支出一三九円二一銭六厘を差し引くと、手元に一一円六八銭四厘が残った。これが家族六人の衣服費、教育費、衛生費などに充当された。小作人の場合には小作料を差し引いた残りが収入となるため、収入が半減し食費にもこと欠く有り様であった(「資料 愛媛労働運動史」第一巻)
 明治三一年七月八日、政府の指令に基づき本県でも細民生活実況調査を行うよう各市町村へ指令した。これは、(1)ようやくその日をしのぎ得るもの、(2)一家中に一人または数人が他の救助を受けるもの、(3)一家あげて他の救助により生活するもの、(4)飢餓瀕死のもの、(5)貧困のために逃亡するものの五項目に分けてまとめられ、明治三二年から同三七年のものが明治三七年の「愛媛県統計書」に掲載されている。表1-10によると、ようやくその日をしのぎ得る生活をする人が一〇万~一二万人もあり、当時の本県人口一○○万~一〇三万人のうち一〇%を占めていることが分かる。また貧困のために逃亡するものが、多い年で九一〇人、少ない年でも五八五名にのぼり、飢餓にせまり瀕死の生活を送るものも明治三七年には一二五名にのぼっている。この年七月、今治の失業者約一〇〇名が広島県に人夫として出稼ぎに行き、低賃金と苛酷な労働のために職を離れ、大部分の人が帰郷しているが、生活に窮する人々は少しでも多くの収入を得ようとして出稼ぎ奉公に出、明治三七年には、県下全体でその数が同三二年の一・五倍に当たる一万六千人弱になった。こうした人々の中には、発達してきた近代産業の工場労働者となり、彼らは劣悪な労働条件のもとで働き、日露戦争以後、こうした人々の貧しい生活が社会問題として浮上した。
 このような生活困窮者の救済を図るため、県内の各市町村でも種々の方策を講じた。松山市では、既に明治二三年、天候不順と米価暴騰のため飢餓に瀕する人々を救済しようと市内の有志数百名が金銭を集め、二六九円九八銭余を市に委託した。市では、この義援金で安価な外国米を購入し、五月から八月にかけて一九八人にこれを給与し、残金は市の救済費に繰り入れた。明治二四~二六年にかけては赤貧者をみなかったが、それでも、若干の米価騰貴のために生活困難に陥るもの、伝染病に罹り生活の途を失うもの、頼るべき人もいない老衰者などがみられ、これらの人々を救助した(「松山市史料集」第一一巻)。
 西宇和郡八幡浜町(現八幡浜市)では、明治四三年一二月一五日、町独自の「貧民救助規程」を定めた。第一条では「町内在籍ノ貧民ニシテ親族隣保ノ救助スル者ナク又家族アルモ其家族ノ養育ヲ受クル能ハサル事由アルモノニシテ左ノ各項二当ル者ハ此ノ規定ニヨリ救助ス」とし、国費、県費の救助を受けていない困窮者を救済した。救助額は飢渇に迫る者は一人一日精米三合以内、窮民が死亡した場合にはその司葬者に対して葬具費一円以内を給与した(「八幡浜市誌」)。この年六月二九日、南宇和郡一本松村(現一本松町)でも、「基本財産貧民救助基金蓄積条例」が制定された。これは、旧宇和島藩主より寄贈された貧民救助金を基本とし、これに村内有志から募った寄付金を加えて基金化したものであった。条件の内容は次のようになっていた。

  第一条 本村二於テ左ノ費途二充用ノ為メ貧民救助基金を蓄積ス、
   一 自己ノ怠慢二基カサル孤独ノ貧者ヲ救助スルコト
   ニ 貧民子弟ノ義務教育費ヲ補助スルコト
   三 其他村会ノ決議二依リ救助ノ必要アルト認メタル貧困者ヲ救助スルコト
  第二条 貧民救助基金ハ篤志家ノ寄付金ヲ以テ之二充ツ
  第三条 貧民救助基金ヨリ生スル収入ハ其二分ノ一ハ必ス之ヲ原本二編入シ、尚貧民救助ノ為メ支出ヲ要セザリシ残余ノ利子ハ凡テ原本二編入スルモノトス
  第四条 貧民救助基金ノ収支精算ノ要項ハ毎翌年度二於テ之ヲ村二公告ス

 このほか、明治二八年七月二四日に定めた桑村郡庄内村(現東予市)の「救育規定」(「庄内村誌」)、同四二年四月二八日制定の西宇和郡伊方村(現伊方町)「学齢児童貧困者補助規程」(伊方町役場資料)など、県下には、独自の規程を定め、生活困窮者への救済を行った市町村がみられた。

 備荒貯蓄制度

 備荒制度は日常生活のなかで不慮の災害、凶作などに備えて穀物などを貯蓄して窮民の救済を図るもので、江戸時代にも社倉や囲米の制度が諸藩で実施されていた。明治新政府は、明治一三年の「備荒儲蓄法」の制定に当たって従来の「窮民一時救助規則」及び「凶歳租税延納規則」を廃止し、凶作などによる困窮者救助の財源を人民公儲金に求めた。このため、「備荒儲蓄法」の施行に際し、明治一三年一二月の愛媛県臨時県会では人民公儲金の徴収が問題視された。反対する議員からは「近年は地方税なり協議費なり人民の出すところ甚多し、此上増額せば民間の苦情を如何せん」との意見が出されたが、結局、地租一円につき一銭二厘の割合で、県内人口一四〇万人(当時現香川県は愛媛県に併合されていた)を積算した人民公儲金と、同じく地租一円につき一銭一厘強に県内人口を積算した国庫配付金をもって特別会計収入予算を決めた。
 明治一四年一月一三日布達の「備荒儲蓄法施行規則」(資社経下三九六)によると、「水火風震ノ難二罹リ自ラ生存スル事能ハス」生活危機に直面している者には、男女老幼をとわず一日に米三合を三〇日以内給与し、その日数は罹災の軽重により郡長が適宜これを定めるとされ、家屋流失、家屋全焼などの場合にも一定額の金銭が支給された。このほか、生活困窮者を救済するため、農具料、種穀料、地租金補助、地租金貸与などの細則も設けられていた。儲蓄金は、儲金、儲穀、支出金の三種に分けられ、このうち、儲金は儲蓄金の半額をもって公債証書に換えて増殖され、支出予算に残額を生じた時は翌年度に繰り越し、不足する時は儲金や儲穀から補充された。愛媛県特別会計中の備荒儲蓄費収支決算の推移を図1-1に示しているが、明治二一年の法改正により国庫配付金及び人民公儲金が廃止されたため、収入は激減し、基金の利息と貸し付け回収金などを財源として救済が図られた。
 「備荒儲蓄法」は明治三二年三月の「罹災救助基金法」成立まで存続したが、この間、「窮民救療規則」(明治一四年)、「風災二罹リ飢餓二迫ル者救助ノ布達」(同一八年)、「伝染病ニ罹ル赤貧者取扱手続」(同一九年)など、窮民医療、罹災者救済などへの救済措置も講じられた(資社経下三九八~三九九)。
 「罹災救助基金法」制定(明治三二年三月)に伴う「罹災救助基金法施行細則」及び「罹災救助規程」(資社経下四〇四・四〇五)は、明治三二年九月九日に布達された。これは明治一三年の「備荒儲蓄法」とその制定主旨はほぼ同じであり、「備荒儲蓄法」の改正とも考えられるものであった。財源は前述の備荒儲蓄金を罹災救助資金と改称してこれに充て(「愛媛県誌稿」下巻)、救助基金総額が一定額を下回った場合には、その不足額を県税より補充することにした。また、「非常ノ災害ノ為メ救助スルハ、自活又ハ自弁スルノ資力ナク且親威隣保等ノ扶助ヲ受クルノ途ナキ者」に限って、焚出しや食糧給与を行い、薬代、被服代、小屋掛料、治療費など給与した。食糧給与基準は、「備荒儲蓄法施行細則」とは異なり、一三歳以上七〇歳までの男子には一人一日白米四合、それ以外の男女には一人一日三合が通算三〇日間以内給与されるなど、その量は増加した。

 凶荒予備組合と共有物組合

 政府の指導と県当局の努力によって備荒貯蓄制度や罹災救助制度が整備されると、江戸時代に起源を有する各郡単位の凶荒予備制度はその必要性が減少してきた。本県における近世以来の各地の凶荒予備米金は、明治の行政制度変革時に関係する町村に還付され、各町村ではこれを公共物の整備などに充当した(「愛媛県誌稿」下巻)。しかし、上浮穴郡や伊予郡では、これらの米金を関係町村の福祉向上めために利用する計画を立て、町村組合制による新たな組織を作った。これらは今日まで種々の活動を続け、当時としては、愛媛県の窮民救済事業に先鞭をつけたものであった。
 「久万凶荒豫備組合誌」によると、明治四年の廃藩置県に際して松山藩租税課出張所より、米一、六一四石六斗八升と金二、六六三円九九銭が久万山大庄屋船田耕作に引き渡され、その管理を委ねた。これは安永四年(一七七五)の非常囲籾、天保九年(一八三八)の松山藩下渡米、天保一〇年の明門元備え金、弘化二年(一八四五)の赤子養育米など民間積立米や松山藩下渡米を数十年間貯えてきたもので、久万山一帯では、これらの米金を基金として、窮民に必要な米金を給与又は貸与してきた。明治四年、大庄屋に委ねられた貯米金は、庄屋制度の廃止と区戸長の設置に伴い翌五年には区長に引き継がれた。明治七年、久谷村、窪野村が久万山から分離したため、両村に積立米金の割り戻しが行われたが、明治八年以降は、この積立米金を「久万山廿四ケ村共有民積米金」と改称し、その後維持規則も整備した。
 明治一二年一〇月、上浮穴郡菅生村(現久万町)の戸長井部栄範は、村会で「民間の患苦は病苦と貧苦の二途あり。然れども民間潤沢なれば病苦は医薬を以て防ぎ、貧苦は他力を以て救助する方法もあり。然るに一般困窮なれば病苦を防ぐ医薬の謝金もなく、まして貧者を補助する資力は更になく、今や独立を名として人気往々にして薄情となり、この二途の難は各人悉く受くるものに非ずと雖も、(中略)予め備えなくんば天寿の人命を飢渇のために失うこと実に恐るべし」と享保大飢饉を例にあげて演説し、藩政時代より租税が減額された当時の久万山において、「今後凶荒の際、官に予備のあることを思わず、一村は一村の方法を設けおく外、他事なかるべし」と救荒予備制度の必要性を唱えた。こうして明治一八年四月一六日、上浮穴郡二四か村連合会は、「久万山凶荒予備」の名のもとにその維持規則を改正した。この年の決算書には、火災救助金、風災救助金、窮民救助金、久万郷学校補助金などの支出費目がみられる。
 上浮穴郡二四ケ村共有の「久万山凶荒予備」は、町村制実施を機に明治二三年一〇月二三日、「明神村外八ケ村久万凶荒予備組合」と改称して町村組合制をとり、歴代の郡長がこれを管理し、大正一三年一月二三日には、「久万凶荒予備組合」と改称して、今日に至るまで連綿として存続している。
 こうした久万地方の凶荒備蓄精神は多くの人々に浸透した。明治一九年の暴風雨に際し、露峰村(現久万町)で代々村役人を務めてきた亀岡家は、困窮する農民に自家の貯穀を放出し、後日、山畑で実のありそうな粟穂を拾い集めて俵に入れた。この俵は同家の茅葺天井につるして保存されるとともに、この年同家に誕生した女児が幾多の災厄を乗り越えて成長することを祈念した。女児は成長して中野村(現久万町)の秋本家に嫁し、現在も一〇四歳で県下最長寿者の一人となった。この間、備蓄された粟俵は第二次世界大戦直後の食糧難期にも開かれることなく、秋本家に移された今も「長寿の粟」として大切に保存されている。
 旧大洲藩領のうち、いわゆる郡中と公称された伊予郡・浮穴郡の三四か村でも、宝暦年間(一七五一~一七六四)より豊作時には凶年に備えまた難渋者救済に備えて「用意麦」を貯えてきた。その後、郡中では藩の勧奨もあって寛政五年(一七九三)以来、数度の豊作年に高割をもって出米し、郡中貯と呼ばれる郷村貯穀制度が確立されてきた。
 明治一〇年の調べでは、米一、〇〇〇石(非常準備として寛政七年に高割をもって出米し増殖したもの)、金二、五七〇円余(非常準備として天保五年より五年間に積立てて増殖したもの)、粟九七一石余(非常準備として天保七年より利米代金をもって購入し、凶作年に村々へ配分したものの残余とその増殖分)、干飯一〇四石余(非常準備として天保三年より製造し貯えたもの)が郡中の共有物であり、明治一六年一二月には貯えられた金穀に関する規約を定めてこれを維持した。明治二三年の町村制実施に際しては、共有財産のうち一万円が関係各村の基本財産もしくは大字の共有財産として配分されたが、他は「原町村外八箇町村共有物組合」の管理下に置かれた(「愛媛県誌稿」下巻)。組合は保有金を各所に融資したが、明治末年から大正期にかけては希望者への低利貸し付けはいうまでもなく、産業組合、耕地整理組合などにも融資され、伊予郡民全体の福利向上に多大の役割を有するとともに、「郡中は一つ」との地域互助意識をも高めた。

 皇室による慈恵救済

 古代社会においては、旱魃飢饉に窮する人民や孤独廃疾の人民を救恤するため、皇室による租税や賦役の減免措置、医薬・食糧・衣服などの給付措置が講じられた。近代に入っても皇室の慈恵救済は継続され、天災地変に際しては内帑金を下賜して罹災民を救恤し、地方巡幸の際には侍従を遣わして各地の慈善団体や施設の実状を視察し、御下賜金を給して事業を奨励した。更に、大喪、大礼に当たっては、特に内帑金を各府県に下賜して慈恵救済の資とした。
 明治三〇年一月、英照皇太后の大喪に際し慈恵救済資金として四〇万円を各府県に給し、本県にも八、三〇〇円が下賜された。このため県会は恩賜金に追加して明治三一年度から同四〇年度まで毎年三千円を積み立て、これを基金として明治四一年度以降の慈恵救済事業に当てる「慈恵救済基金設置及管理法」(資社経下四〇一)を、明治三一年二月六日に定めた。また大正四年一一月の大正天皇即位式挙行に際しても、地方窮民賑恤のため一万五千余円が下賜された。愛媛県では、同年一二月二一日「賑恤基金設置及管理法」(資社経下四〇七)を定め、賑恤救済や救済事業に対する補助として支出するとともに、郡市町村における非常災害救済費などに貸し付けた。これらの基金には、官民の篤志家から寄付も寄せられ、慈恵救済資金は大正四年末には一一万円余になっていた。
 このほか、風水害などの罹災者に対する皇室からの救恤金の下賜はしばしばみられた。明治二六年は県下に赤痢や天然痘が大流行し、赤痢だけでも患者一万五千余人、死者三、六八七人を出した年であったが、この年の六月末から八月初めにかけては旱魃に苦しみ、一〇月には県下全域で風水害の被害を被った。県はこの被害復旧のために、県債の募集、国庫補助金の支出によって急場をしのいだが、この風水害に際し、天皇皇后両陛下より一、〇〇〇円の救恤金が下賜されるとともに、水害地視察のために片岡侍従が来県した。また、明治四二年八月の南予漁民の遭難(死者一一名)に際しても、罹災民及び遺族に対して三〇〇円が下賜されたが、この時、民間においても義援金募集の運動が行われ、五一六円余が集められた。こうした皇室による慈恵救済は、大正期に入ってもたびたび行われ、明治時代以降の窮民救済策の一翼を担っていた。なお、明治・大正・昭和(戦前)を通して、民間社会事業団体に対しても、その活動奨励の意図もあって御下賜金を下付した例は県内にも多い。なお、明治二二年に設置された日本赤十字社愛媛県支部(当時は日本赤十字社愛媛県委員部と公称)や同三四年結成の愛国婦人会愛媛支部は、日露戦争に際して出征兵士遺家族の援護及び戦傷者の救護に尽力している。

表1-7 恤救規則による年度別救恤人員とその費用

表1-7 恤救規則による年度別救恤人員とその費用


表1-8 愛媛県における行旅病人及び行旅死亡人員

表1-8 愛媛県における行旅病人及び行旅死亡人員


表1-9 養育費を受ける棄児の年度別推移

表1-9 養育費を受ける棄児の年度別推移


表1-10 本県の細民者数の推移

表1-10 本県の細民者数の推移


表1-11 明治37年における郡市別細民者数

表1-11 明治37年における郡市別細民者数


図1-1 愛媛県特別会計における備荒儲蓄費収支決算

図1-1 愛媛県特別会計における備荒儲蓄費収支決算