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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第四節 地方労働委員会

 地方労働委員会の発足

 終戦後労働組合の再建に伴い、労働争議の調停に当たるため、昭和二一年一月二一日本県にも次の労務調停委員が委嘱された。
  学識経験者代表委員 伊予銀行頭取         平 山 徳 雄
  〃         松山経済専門学校長      田 中 忠 夫
  〃         県会議長           赤 松   勲
  事業主代表委員   別子鉱業所長         重 野 宗 広
  〃         伊予鉄道社長         武 智   鼎
  〃         倉敷工業北条工場長      近 藤   充
  労働者代表委員   四国機械工業工員組合長    加 藤 長 次
  〃         宇和島造船所職工       岡 田 岩之助
  〃         東洋レーヨン愛媛工場工手長  川 又 金 一
 昭和二一年三月一日、労働組合法(旧法)の施行に伴い、同月二七日労務調停委員は解職され、県に地方労働委員会が設置され、次の第一期委員が任命された。
  公益委員   中 平 常太郎  醸造業
  〃      田 中 忠 夫  松山経済専門学校長
  公益委員   山 中 丑之助  煉炭製造業
  〃      小 西 親 愛  弁護士
  〃      平 山 徳 雄  伊予合同銀行頭取
                      (六月一一日辞任)
 (七月五日より 加 藤 雄 一 元松山逓信局長就任)
  労働者委員  安 平 鹿 一  衆議院議員
  〃      加 藤 長 次  四国機械労組委員長
  〃      真 鍋 梅 一  日新化学労組委員長
  〃      伊 藤 園 義  別子労組委員長
  〃      田 村 光 一  波止浜ドック労組委員長
  使用者委員  武 智   鼎  伊予鉄道社長
  〃      重 野 宗 広  井華鉱業(別子)所長
  〃      木 原   茂  木原興業社長
  〃      長 山 芳 介  南予運送社長
  〃      袖 山 喜久雄  東洋レーヨン(愛媛)取締役工場長
 第一期委員は同日第一回総会を開き、初代会長に中平常太郎委員を選任し、事務局も設置された。労働委員の任期は一年で、委員数は本県の場合公益、労働者、使用者各側五名、計一五名で今日まで変わりがない。任期はその後昭和四一年四月三〇日の労働組合法の一部改正により二年となった。昭和五八年一二月三一日現在、創設以来二六期の委員が任命されている。委員が毎期必ずしも任期内に改選されず任命が遅れているのは、委員選出の難航、係属事件の事情などによるものである。現在(昭和五八年一二月三一日)までに委員延人数は四一四名(内、公益一三四名、労働一三七名、使用者一四三名)となっている。
 昭和二四年六月、労働組合法の全面改正と労働関係調整法の一部改正で、労働委員会制度の運用面で大きな変更があり、更に同年八月に中央労働委員会規則(後に労働委員会規則と改称)が制定され、労働委員会業務の手続きが定められた。昭和二七年七月には地方公営企業労働関係法の公布があり、同企業職員は原則として労働組合法、労働関係調整法の適用を受けることとなり、地方労働委員会の取り扱うところとなった。また、地方自治法の改正もあり、地方労働委員会は都道府県の執行機関としての地位が一層明確にされた。
 かくて、本県の地方労働委員会は、その職務である不当労働行為の申立の審査や労働争議の調整を通じ本県の労使関係の安定に寄与している。

 労働争議の調整

 本県の労働委員会が今日まで取り扱った労働争議の調整件数の推移は表2-17のとおりである。
 昭和二〇年代は経済の壊滅状態から再建の時代であったが、労働組合の再建とともに労働争議は多発した。このなかで労働委員会に係属するものも多く、その第一号は昭和二一年八月の倉敷紡績今治工場の工場閉鎖問題で、この調停には全委員が当たった。昭和二二年には、井華鉱業別子鉱業所の協約締結問題、四国鉄道局松山管理部や松山逓信局の最低賃金制の確立など大争議が係属した。昭和二四年、二五年は労働運動の退潮とともに県地方労働委員会への係属事件も減少したが、昭和二六年以降は朝鮮戦争の特需景気などを背景に再び増加、昭和二九年には不況が深まるなかで深刻な労働争議が発生、松山精神病院、伊予銀行、キャバレー銀馬車、白方機織の労働争議が地方労働委員会に係属、その調整の取扱件数は四四件の最多となった。このように昭和二〇年代は経済の再建時代で苛烈な労働争議が多発し、地労委はその調整のなかで、当時未熟であった労使関係の慣行の樹立に手を貸す時代でもあった。
 昭和三〇年代にはいると経済は長期経済成長期になり、労働生産性の向上、労働力の不足などを背景に、また昭和三一年からは春闘が発足し、賃上げ闘争が進展した。またこの昭和三〇年代には、タクシーの合同労働組合など中小企業に労働組合の組織化が進んだ。かくして昭和三〇年代は昭和二〇年代に比べ労働争議は倍増し、地方労働委員会の調整件数も増大し、昭和三七年、三九年はタクシーや鉄工の合同労働組合の集団係属で一〇〇件を超した。
 昭和三一年には木藤鉄工所、昭和三六年には丸住製紙の長期の労働争議を調整解決し、昭和三八年には中央労働委員会の管轄指定を受けて伊予鉄道、瀬戸内運輸、土佐電鉄、高知県交通の四社の賃上問題の斡旋を行い解決したこと、さらに昭和三〇年代を通じタクシー、木工、鉄工などの合同労働組合の集団係属争議の調整に寧日なき日であったことは注目される。
 昭和四〇年代も、高度経済成長は持続され、春闘も規模を拡大し進展した。この年代は労働争議は中小企業が中心でタクシーなどの合同労働組合の集団争議は多発したが、大企業の労働争議は減少した。労働委員会に係属される労働争議は年によって増減する複雑な動きを示しながらも減少の方向をたどり、特に四〇年代後半は激減した。昭和四二年の県自交東予支部、昭和四三年、四七年の日赤松山病院、昭和四五年の県自交の労働争議は、昭和四〇年代の地方労働委員会の調整で注目されるものであった。
 昭和四八年の第一次オイルショック以降、経済はスタグフレーションの状態になり、不況と物価の異常な高騰が続き、昭和五〇年代は経済の高度成長から低成長に移っていった。低迷する景気、雇用不安の厳しい経済のなかで、春闘の賃上げも次第に困難となっていった。このようななかで昭和五〇年代の労働争議は、後半微増に転じたとはいえ、減少傾向を示した。地方労働委員会に係属する労働争議も、タクシーなどの集団争議も次第に減少するなど、昭和四〇年代に比べ減少傾向を辿り、昭和五八年は一四件で昭和二五年の一三件に次ぐ少なさであった。
 また、本県は構造不況産業が多く、昭和五〇年代の厳しい景気のなかで企業整備、人員整理などをめぐる労働争議が地方労働委員会に係属し、昭和五二年の波止浜造船、酒六三瓶工場、昭和五四年の阿部会社などの大きな企業整備問題を調整解決した。
 地方労働委員会への調整申請者は表2-18のとおり、昭和二〇年代は圧倒的に労働組合が多いが、昭和三〇年代は使用者、労使双方からの申請も次第に多くなり、昭和四〇年代、五〇年代は年によって、いずれかが多く複雑になっている。昭和二〇年代、三〇年代に職権によるものが多いが、これは道路運送業などの公益事業に多い。
 労働委員会の調整方法では表2-18のとおり、昭和二〇年代は当時の不馴れな労使関係などで調停に持ち込まれるものが多く、年と共に斡旋が中心となり、昭和三〇年代以降はほとんど斡旋となり、今日(昭和五八年一二月末)まで九六%までが斡旋である。 地方労働委員会に係属したもので解決したものは今日(昭和五八年一二月末)まで七二%である。解決率の最も高かったのは昭和二四年の一〇〇%、次いで昭和三四年の九〇%、最も低かったのは昭和五六年の三一%、次いで昭和四六年、四八年の五四%となっており、昭和五六年を除きいずれの年も解決率は五〇%を超えている。年代別では昭和四〇年の解決率が比較的低い。

 不当労働行為申立事件の審査

 昭和二四年六月労働組合法の改正に伴い、不当労働行為については直罰主義が原状回復主義に改められ、その救済が労働委員会の行政的手段によって行われるようになった。
 改正労働組合法では、使用者の不当労働行為としてその第七条に第一号(個人に対する不利益取り扱いおよび黄犬契約の締結)、第二号(団体交渉の拒否)、第三号(労働組合に対する支配介入または経理上の援助)、第四号(労働委員会に対する申し立てなどを理由とする不利益取り扱い)を定めている。
 地方労働委員会では、不当労働行為の申立事件を今日(昭和五八年一二月末)までに、旧労働組合法で二一件、改正労働組合法になってから四〇九件取り扱っている。その年別状況は表2-19のとおりである。
 申立件数は年によって増減があり複雑な動きを示しているが、傾向としては昭和二〇年代、昭和三〇年代、昭和四〇年代と若干ずつ増加し、昭和五〇年代に減少している。特に昭和三〇年代後半から昭和四〇年代前半にかけて増加が著しい。
 昭和二〇年代は労働運動の再建時代で労使関係の慣行も樹立されておらず、経済も壊滅から再建の時代で、とりわけ昭和二九年は朝鮮戦争の特需景気が後退し、きびしい経済不況のなかで深刻な労働争議が多発した。不当労働行為の申立事件も一六件と昭和二〇年代では最多となった。
 昭和二〇年代の不当労働行為の申立総件数は五四件で、そのうち労働組合が申立人であるもの三二件で総数の五九・三%を占めており、その外、個人の申立一七件(総数の三一・五%)、個人、労働組合共同の申立五件(総数の九・三%)がある。しかし個人の申立は年と共に次第に減少し昭和五〇年代はわずか二件にとどまっている(表2-20参照)。
 昭和二〇年代の不当労働行為申立事件の内容は労働組合法第七条一号(個人に対する不利益取り扱い)が総数の六八・七%あり、最も多く、次いで、同条第三号(労働組合に対する支配介入)の二九・七%となっており、同条第二号は一件、同条第四号は無しで、同条第一号、第三号が中心であり、また同条第一号の内容は解雇が圧倒的に多いが、これは年と共に減少している(表2-21参照)。
 昭和三〇年代、四〇年代は経済の高度成長時代で、中小企業中心に労働組合の組織化が進み、タクシー、繊維、木材などに合同労働組合が生まれた。これら労働組合が新規に設立されたばかりのところは労使関係も未熟なためか、昭和三〇年代後半から昭和四〇年代前半にかけてはこれら合同労働組合の不当労働行為の申立が多発し、以後減少している。このことが前述した昭和三〇年代後半から昭和四〇年代の申立多発の原因となっている。
 昭和三〇年代後半から現在まで、同一企業の同一当事者による申立の繰り返し事件も出てきている。また、昭和四〇年代からは労働組合の分裂などによる同一企業内に複数の労働組合が併存する企業での申立が出てきており、これは比較的規模の大きい企業であるのが注目される。
 昭和三〇年代の申立人は労働組合が申立総件数の八八・二%(九七件)を占め最も多く、個人の申立は昭和二〇年代より減少し一二件(総体の一〇・九%)となり、個人、労働組合共同の申立は一件に激減した。
 昭和四〇年代の申立人は労働組合が申立総件数の八二・九%(九七件)で昭和三〇年代より微減、個人の申立は一一・一%(一三件)で昭和三〇年代より微増、個人、労働組合共同の申立は昭和三〇年代より増加六・〇%(七件)となった。
 不当労働行為申立事件の内容は、昭和三〇年代になると七条第二号が増え、また同条第四号が初めて一件現れ、昭和三〇年代の申立内容の割合は七条第一号五〇・四%、同第二号一六・一%、同第三号三二・八%、同第四号〇・七%となった。これが昭和四〇年代になると七条第一号四一・○%、同第二号二四・五%、同第三号三三・五%、同第四号一・〇%となり、昭和三〇年代に比べ七条第一号が減少、他の各号はいずれも増加した。
 昭和五〇年代は昭和四八年のオイルショック以後経済の低成長時代となった。この年代はタクシーなどの合同労働組合の申立も減少し、全体としても申立が減少傾向を示した。
 昭和五〇年代の不当労働行為の申立人は九六・九%が労働組合であり、個人の申立は二件、個人、労働組合の共同申立は一件と激減した。
 昭和五〇年代の不当労働行為申立の内容は昭和四〇年代に続き七条一号が減少、同二号、三号が増え、同四号が五件現れている。
 不当労働行為事件の終結状況は、表2-19のとおり昭和二四年の改正労働組合法以来現在(昭和五八年一二月末)までの間の申立四〇九件のうち、申立人により申立が取り下げられた一三五件を除いた二七四件のうち、命令を出して救済(一部救済を含む)、棄却、却下したもの四九件、和解二二七件となっている。和解が非常に多く総件数の八二・八%を占め、命令が少ないのが特徴的である。また和解についても当事者の自主的和解もあるが、それは非常に少なく大部分は労働委員会が公益、労働者、使用者という三者構成の特徴を生かして関与した和解である。
 昭和二四年六月から現在(昭和五八年一二月末)までの間の年別の不当労働行為申立事件の終結までに要した処理日数は次表のとおりである。処理日数の長い年は、その年に長期にわたって係属した申立事件が終結したことによる。

表2-17 年次別労働争議調整事件取扱状況

表2-17 年次別労働争議調整事件取扱状況


表2-18 調整申請者別取扱件数

表2-18 調整申請者別取扱件数


表2-19 年別不当労働行為事件取扱状況

表2-19 年別不当労働行為事件取扱状況


表2-20 年別申立人別推移

表2-20 年別申立人別推移


表2-21 年別申立内容別推移

表2-21 年別申立内容別推移


表2-22 年別処理日数の推移

表2-22 年別処理日数の推移