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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第三節 労働組合の福祉活動

 昭和二七年二月一三日に愛媛県消費生活協同組合連合会の設立総会、越えて四月一一日に愛媛県信用協同組合労働金庫の創立総会が開かれ、県内の労働組合が研究準備を進めていた労働組合の福祉活動が具体的に発足した。
 生活協同組合県連合会は、松山地区、新居浜地区にある職域消費生活協同組合、購買組織をもつ労働組合などが中心となって結成した。生活協同組合運動は昭和二一年、二二年頃が第一期の隆盛期で、この当時は非常な勢いで主として地域生協が設立された。物資が出はじめ、統制が解けはじめると生協運動は下火となった。昭和二八年頃よりこの生協運動は再び活発となり、生協の設立が増えてきた。この第二の勃興期に設立されるのは、主として職域生協であった。この生活協同組合県連合会に参加した生協は、主として第一期勃興期に設立されて生き残っていた二五の職域生協であった。
 生協県連合会は物資の共同購入を目標としながらも、当面は各単位生協の指導育成面に重点を置き、毎年一回は中央から講師を招いて、実務や理論についての講習会を主催するなどしてきた。
 共同購入については、県連の毎年の総会で論議されて来たが逐次共同購入を行い、その昭和三〇年代後半の実績は次のとおりであった。
 年間物資取扱総額
  昭和三六年度  二二、四三三、〇〇〇円
    三七年度  五四、四九六、〇〇〇円
    三八年度  七九、七一五、一三八円
    三九年度  八一、六三一、〇六八円
 なお取扱商品は電気製品、洋服、時計、などが時と共にその取扱額が高くなってきている。
 労働金庫は、その設立趣意書にあるとおり、「自分達の手で自分達の消費金融機関を持とう」ということで、昭和二五年岡山、兵庫両県でわが国で初めて設立され、労働界の注目するところとなり、やがて各県で設立されて来た。本県の労働金庫は四国では最初の設立であった。
 本県の労働金庫は昭和二七年五月設立認可を受け、開業した。その後、労働金庫の切望してやまなかった労働金庫法が昭和二八年四月成立したのに伴い、昭和二九年二月労働金庫も中小企業等協同組合法による信用協同組合から労働金庫法による労働金庫に改組した。また、労働金庫が大きな目標としてきた中央労働金庫も、この労働金庫法の成立に伴ない労働金庫連合会が昭和三〇年三月に発足した。
 本県の労働金庫は、設立後順調に業績が伸び、昭和三〇年九月からは、従来の生活費、医療費、冠婚葬祭費といった生活資金の貸し出しの外に、労働者の住宅の新築、増改築、購入に必要な住宅資金の貸し出し(貸出額一〇万円、一五万円、二〇万円、二五万円、三○万円の五種、貸出期間五年)を始めた。昭和三七年五月本店を新築、併せて一〇周年記念式典を行った。労働金庫の店舗は、本店を松山に置き、県下七か所に支店や出張所をもっている。
 労働金庫の業績は表2-13のとおりである。
 労働組合の組織化が進み、各地域に労働組合が設立され、その連絡協議会などが結成されてくるに従って、昭和二四年の新居浜労働会館を皮切りに地域の労働会館の建設が盛んになった。県下の労働会館の建設状況は表2-14のとおりであるが、新居浜、松山など改築して二代目のものも多い。
 昭和二九年に大阪福祉協が全国で初めて火災共済事業を開始、以後、従来の生活協同組合では取り扱われなかった共済事業が注目されるところとなり、中央においても共済問題五者会議(日協連、労金協会、中央労福協、総評、全労)が昭和三一年に発足した。
 本県においても、このような情勢のなかで昭和三一年一一月愛媛労済創立準備委員会(地評、全労、労金、生協県連)が発足、昭和三二年に至り任意団体の愛媛県労働者共済生活協同組合が創立され、火災共済事業(限度額二〇万円、掛金年二五〇円)を開始した。昭和三五年には任意団体から生活協同組合法による法人認可を受け、以後次第に共済の事業を増やし、契約高も増大していった。
 昭和四八年に至り、各県の共済組織を全国組織に統合しようという動きが起こり、本県もこの全国組織統合の準備委員会に参加した。昭和五一年全国統合組織である全労済の結成に伴いこれに参加、全労済愛媛県本部として事業を開始した。(従来の愛媛共済も併存)本県では、共済事業のほか共済学校の開設、久万保養所(共済憩いの家)、労働問題資料センターの設置、大腿四頭筋短縮症の自主検診などを行っている。
 本県の共済事業は火災、生命、慶弔、交通災害など八種類に及び、その全種目の業績の推移は表2-15のとおりである。
 労働者住宅の建設については、当時の建売住宅ブームなどを背景に昭和三三年財団法人日本労働者住宅協会(労住協)の設立に伴い、本県にもその支部が昭和三六年四月に発足、その年は新居浜市で二団地三五戸の住宅建設を行った。
 その後、昭和四一年七月日本勤労者住宅協会法が公布され、中央においては昭和四二年三月日本勤労者住宅協会(勤住協)が設立された。本県ではこの勤住協に県三〇万円、労住協八〇万円を出資した。
 この勤住協の設立に歩調を合わせ、昭和四二年五月財団法人日本労働者住宅協会県支部は生活協同組合愛媛県労働者住宅協会(労住協)として再発足した。同年六月労住協の第一回通常総会を開いたが、組合員三二二名、出資口数三四七口、出資金三四万七、〇〇〇円であった。
 昭和三六年以来昭和五八年度まで宅地造成約六三万平方m、開発団地三二団地、住宅建設戸数二、〇七五戸の業績をあげている。昭和四〇年代は大体毎年度一〇〇戸を超す建設を行い、昭和四四年度は一九四戸の最多を記録した。昭和五〇年代は昭和四八年のオイルショックの影響を受けた経済状勢のもとで、その建設ペースは若干落ちたが、県内労働者の住生活の安定、向上に大きな役割を果たしている。

表2-13 愛媛県労働金庫事業の推移

表2-13 愛媛県労働金庫事業の推移


表2-14 労働会館等建設状況

表2-14 労働会館等建設状況


表2-15 全種目共済事業の推移

表2-15 全種目共済事業の推移


表2-16 地域別住宅建設状況

表2-16 地域別住宅建設状況