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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 軽便鉄道の敷設

 幹線鉄道の建設

 明治五年(一八七二)、新橋―横浜間に、わが国で最初の鉄道が開通した。この鉄道は、人々から「陸蒸気」と呼ばれ、珍しがられ、かん高い気笛と轟音と、煙突から吐く蒸気や黒煙など、すべて「文明開化」の象徴とみられた。続いて京都―神戸(同一〇年)、京都―大津(同一三年)が国営で開通し、明治二二年、新橋―神戸間の全線が開通した。
 一方、私設の鉄道も明治一四年に日本鉄道会社が創立され、上野―熊谷間(同一六年)を皮切りに、現在の高崎線・山手線・東北本線などの建設が具体化した。こうして、政府の直轄する官設鉄道と私設鉄道とが、幹線鉄道において並行する態勢が出来上がった。当時、国内における資本主義の発展はようやく軌道に乗りはじめて、鉄道企業に対する投資もかなり増えつつあった。鉄道投資は幹線部分だけでなく、いわゆるローカル線に当たる部分についても多くの競合計画を生み出した。

 最初の軽便鉄道

 愛媛県の鉄道事業は、明治二一年(一八八八)に小林信近らを中心に資本金四万円で設立された伊予鉄道会社によって、松山―三津間が開通したことに始まる。これは軌道間二尺六寸(七六二㎜)のわが国最初の軽便鉄道であり、私鉄としてもわが国で三番目に古いものであった。この時の機関車は分解し、客車は箱詰めでドイツから輸入した。旅客運賃は松山~三津間下等三銭五厘で、一時間三〇分ごとに一日一〇往復の運転であった。当時はまだ東海道線も全通していない時代で、鉄道は全国的にも珍らしく、試乗に近郷から出かけてくる者も多かった。当時の海南新聞は「汽車はその重きに苦しみ、人力車は軽さをかこつ。いかに健脚を誇る車夫でも汽車の回転には及ばない」と報じている。
 この鉄道について『経済風土記』(大阪毎日新聞経済部編・昭和五年)に、次のように記されている。
  「かくて明治二一年一〇月、西部日本に、初めての汽車が、松山・三津浜間に動いたのであった。二呎六吋の小鉄道が、たちまち地方の人気者になったのはいうまでもない。客車もセミ・スチールだ。ただステップが毛唐向に出来ているので高すぎて、跨ぎ難いが、そんなことはどうでもいい。三津へ、松山へ、馬より早く行けるのだ。誰も彼も、乗った。三銭五厘だ。一文銭を数へて、切符を買っては乗ったものである。中国・九州からも、わざわざ乗客が集まった。鉄器の得意や、思うべしである。毎日、ポッポ・シュッシュッと、青々とした日本の青田をぬって通ったのである。(中略)
   幸に、この『小鉄道』―許可書にも記載されている正式の名だ―は、七朱五厘の配当もし、乗客からは『軽便だ、軽便だ』と礼讃された。で、まもなく、自ら『軽便鉄道』と改称した。軽便鉄道という言葉は、その実体とともに、ここに生まれた。のちには、全国に広まったばかりでなく、法文上の言葉としても、用いられるようになった。」

 当時は馬車が最も便利な交通機関であり、それに比べると数倍の人を乗せて、松山―三津の間、四哩を二八分で走ったのであるから人々にとっては一大驚異であった。開業当時、一日の乗客が二、〇〇〇人、それでも大変な雑踏であった。しかし当時の純朴な乗客たちは、立派な汽車を土足でよごしてはもったいないとプラットホームで草鞋を脱いで、はだしになって乗ったり、座敷へでも上がったように客車の床の上にキチンと行儀よく座ったり、列車がホームに到着すると、機関車に米を振り撒いてパチパチ拍手をうって拝むものもあったということが、今に笑い話として伝わっている。

 鉄道網の拡大

 松山市と三津とを結んだのは、内陸都市と外港との結合である。さらに明治二五年(一八九二)には三津から高浜へと延長された。一方、松山平野の内陸部は、松山―平井間(明治二六年)、松山―森松間(同二九年)、松山―横河原(同三二年)に開通した。伊予鉄道の予想以上に好調な営業成績は、人々の鉄道敷設への意欲を注いだ。そして、道後鉄道会社が設立され、明治二八年(一八九五)から一番町~道後~三津口間の運転が始まった。松山―郡中間(同二九年)も、南予鉄道会社によって開通した。(伊予鉄道・道後鉄道・南予鉄道の三社は明治三三年合併して伊予鉄道㈱と称することとなった)
 開業以来順調な発展を続けてきた鉄道事業は、明治四〇年代に入って電化の時代を迎えた。伊予鉄道では、明治四四年、一番町~道後~古町間を三尺六寸(一、〇六七㎜)の軌間に改良するとともに、電化を完成し、続いて松山電気軌道㈱も同年には電車の運転を開始した。