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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 人力車・自転車の時代

 通行車両の増加

 交通分野の文明開化は非常に混沌とした形で始まった。駕籠、人力車など在来の交通機関に、馬車、馬車鉄道、蒸気鉄道などの外来の交通手段が平行する形で加わったためである。街道や都市の道路交通の変化は、外国領事館員の馬車の運行や、街道上の荷車の解禁・文久二年(一八六二)一二月に始まり、横浜~東京間の邦人馬車の開業・明治二年(一八六九)五月や人力車の営業認可・明治三年(一八七〇)三月などによって更に進んだ。表2-4は、全国の明治年間の諸車台数である。道路交通の発展は、通行車両の急激な増加からうかがうことができる。表2-5の愛媛県の諸車台数についてみると、明治三三年に初めて登場した荷積用の馬車は、その後確実に台数を増やしているのに対して牛車の台数は停滞あるいはやや減少していることが分かる。これは、道路事情が改善され、速度は遅くとも力があって悪路にも強い牛車から、力は劣っていても速度の出る馬車への切り換えが可能になったことがうかがえる。

 人力車と自転車

 明治の初年に爆発的に普及した人力車は、自転車の増加と相反するように、明治三〇年頃から全国的に減少しはじめている。同じように愛媛県においても表2-5に見られる通り、増えていない。自転車は、統計上において三九年に初めて出てくるが、以後四〇年の一、四四六台、四一年の二、一四六台、四二年の二、七九八台と爆発的に増加していっている。しかし、人力車の衰退を決定づけたのはやはり自動車の登場である。
 松山に初めて人力車が登場したのは、発明されて間もない明治四年の末であった。当時の人力車は木製の船型に、カジ棒があって、車体には様々な絵が書かれ、鉄製の車輪であった。これが道路事情の悪い所を走るため、車が横転したり、乗客が振り落とされたりする事故が相次いだ。このことに対する当局側の対応が明治七年一〇月一八日の「愛媛県布達々書」に見られる。
  「近ごろ人力車が便利であることが分かって、乗客も日を追って多くなり、また乗車することも多くなっていくと、自然に老人、子供、あるいは体が虚弱な者まで車引きになっている。そのため、車の運行と引き手の力のバランスが保たれないために、ついに、ひっくり返るという事態を免れず、中には怪我をする者もある。全く、一時の通行の便利を求めて、逆に一生の不便を引き起こすことになりかねないので、これからは始め乗る時に、必ず引き手の老幼強弱を選び、その後で乗車するように。また、市街地や人馬の雑踏の場所では、駆けることはできない規則になっているので、乗客も時々気をつけるようとの告諭があった。
   但し、車中でかぶり物をして、その面体を覆い隠してはならない。
    明治七年一〇月一八日
 いかにも当時の状況が目に浮かんでくる。明治九年一一月二六日付の愛媛新聞にも「当時流行見立」として「ともに危なひも乃は 人力車と士族乃商法」と挙げられている。
 自転車は、明治維新前後に日本に伝わり、ごく一部の者の娯楽用に使われるだけであった。その後、欧米諸国において車体の改良(前後輪が同型となり、チェーン・空気タイヤ等を使用するようになった。)及び価格の低下によって、明治三三年(一九〇〇)頃から輸入量も増加し、実用化されるようになった。その一方で製作技術や工作機械の導入によって国産化の基礎が整えられた。当時高級品だった自転車について、『愛媛タイムス』刊(明治三八年)の『随筆集』に次のような記事が掲載されている。「松山で共進会が開かれた時、私は武智君と二人だけで自転車を連ね石手寺や東雲神社の宝物を拝観して回り、盗まれるといけないからと高い東雲神社の石段を自転車をかついで登ったのを覚えている。」とある。明治末期の愛媛県下の自転車は八八〇台に過ぎなかった。写真2-1はこの頃のものであり、文明化した主な交通手段は、人力車と自転車であった。

表2-4 諸車の台数

表2-4 諸車の台数


表2-5 愛媛県における諸車の台数

表2-5 愛媛県における諸車の台数