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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 国立銀行の転換と地方銀行の整理

 国立銀行の転換と地方銀行の簇生

 明治二七年(一八九四)日清戦争が勃発した年末に、南予の南しゅん(金へんに隼)社は伊豫吉田銀行に改称した。同年末に愛媛県内では国立銀行が三行、私立銀行が一二行、そして銀行類似会社が四社(信義・楽終・種生・栄松)を数えている。松山興産会社は前年の明治二六年一月、既に松山興産銀行と改称していた。明治二八年、戦勝に湧く日本の一隅では豊田佐吉が自動織機を発明し、海外ではイタリアでマルコニーが無線電信を発明する等、次の時代を切り開く革新的な技術開発が登場していた。また同年一〇月には三菱合資会社が銀行部を開業しており、一二月にはようやく関係を深めた中国の上海紡績会社が設立された。夏目漱石が松山中学校の英語教師として教壇に立ったのは、まさにこの時期のことであった。
 明治二九年から数年間は、県下各地で数多くの銀行が設立された時期である。経済的好況に裏付けられた産業の発展と企業の勃興は、必然的に銀行の成立を容易なものとしていた。まず、その前提として国立銀行の普通銀行への転換をあげなければならない。明治二九年一〇月に、第百四十一国立銀行が西条銀行と名称を変更して新しく普通銀行として再出発した(表金1―6)。次いで翌年の明治三〇年三月には第二十九国立銀行が第二十九銀行と改称して普通銀行となり、さらには第五十二国立銀行が同じ年の七月に第五十二銀行と改称して普通銀行としてのスタートを切った。これら国立銀行から普通銀行へ転換を成し遂げた三銀行のほかに、明治二九年には新たに一〇行を超える銀行が設立されている。すなわち、二月には松山貯蓄銀行が設立され、同じ月に松山商業銀行が松山市末広町に資本金二〇万円で設立されて四月に開業した。三月には東豫銀行が設立され、四月には内子銀行が資本金五万円で、喜多銀行が資本金三万円で、大洲商業銀行が資本金二〇万円でいずれも喜多郡内において設立された。六月になると次第に広がって八幡浜商業銀行が設立され、七月には砥部銀行が設立され、八月には新谷銀行が設立される等、休む間もなく銀行の設立が続いた。九月に入っては、(旧)今治商業銀行の設立があり、一〇月には三津浜銀行が設立されている。この年の四月に農工銀行法が公布されて四六府県に農工銀行の設立が進められるようになり、やがてこれが愛媛県においても実現する運びとなる。
 県下における新銀行の設立気運は、貨幣法が公布・施行された明治三〇年においても同様であった。二月には東宇和郡笠置村(現宇和町)に穂積銀行が設立されたが、六月になると伊豫高山銀行が設立され、これに続いて七月には西宇和郡神山村(現八幡浜市)に五反田銀行が、また宇和島貯蓄銀行が、さらには伊豫周桑銀行がそれぞれの地において設立された。同じ年の一二月には西宇和郡伊方村(現伊方町)に西南銀行の支店が設立され、東宇和郡多田村(現宇和町)には多田銀行がそれぞれ設立された。

 愛媛県農工銀行の開業

 明治三一年(一八九八)一〇月には、農工銀行法に基づいて愛媛県農工銀行が、松山市二番町に資本金七〇万円をもって開業した。この銀行は、殖産振興を目的とした政府系の金融機関であって全国では三七番目に当たっていた。この銀行は後になって昭和一二年、日本勧業銀行松山支店となり新しい出発をすることになる。一方では民間の金融機関としては、一月には伊豫農業銀行が松山市紙屋町に資本金一五万円をもって設立され、二月には温泉郡北条町(現北条市)に本永井銀行が設立され、三月には伊予郡に中山銀行の設立があり、九月には伊豫商業銀行が設立された。次いで一〇月になると東宇和郡笠置村(現宇和町)に常盤銀行が設立され、また同じ月に永長村(現宇和町)に永長銀行がそれぞれ設立された。一二月には北宇和郡岩松村(現津島町)に岩松銀行が設立された。このようにして、愛媛県内では明治三一年の一年間に政府系銀行が一行、民間銀行七行の設立があった。県外では大分県三重町にこの年の七月に大野成業銀行が設立されていた。
 次いで明治三二年は、従来の国立銀行が国立銀行条例によって、営業満期により消滅しなければならない年であった。国立銀行の総数一五三行のうちで、普通銀行として営業を継続する銀行は一二二行であった。残りの三一行は解散、閉鎖あるいは合併によってその姿を消していた。明治五年に初めて国立銀行条例が制定されてから、ある時はその設立を要望され、またある時は時代の変化により設立が制限され、さらには、その目的は終わったとして民間銀行への転換が求められて、これらの銀行はこれからは競争場裡で生きることを求められた。国立銀行としてかつて認可された銀行のうちで、既に二割の銀行は無くなっており、普通銀行として新しく発足した後は、それぞれの所在地で自らの運命を開拓していかなければならなかった。それと時を合わせて、これまでに発行された政府紙幣や国立銀行紙幣もすべてが、明治三二年一二月限りで流通を禁止されて、新しく流通する現金通貨は正貨を除いて日本銀行券に統一され、貨幣法・金本位制による貨幣制度がここに確立されることとなった。
 なお、この年に新規開設された銀行は、二月に多田村(現宇和町)の伊延銀行が設立され、三月には西宇和郡真穴村(現八幡浜市)に佐海銀行、同じ月に伊豫長浜銀行、次いで四月には八幡浜貯蓄銀行、五月には松山市に大野銀行、六月には温泉郡に今出銀行、九月には宇和島共栄銀行が設立されている。この年の銀行開業は依然として旺盛であり、前年の数と同じく七銀行に達した。

 明治三〇年代の金融恐慌

 日清戦争によって引き起こされた経済好況はいつまでも続くものではなかった。戦後五年目に入った明治三三年(一九〇〇)四月、東京株式市場の大暴落をきっかけとして、各地に金融恐慌が起こった。前年に引き続いて五月には紡績の第三次操短が始まり、翌年の三月まで続行される。一二月には、熊本第九銀行が支払いを停止する事態が発生して、九州各地に飛び火して金融恐慌が起こったが、四国にはその影響が及ぶことはなかった。愛媛県の産業界では、今治に初めて動力織機が導入されて運転を開始しており、愛媛の産業革命が着実に進行していた。また全国では、宇和島市出身の大和田建樹が作詞した鉄道唱歌が一世を風靡しており、海路では宇和島運輸が航路を宿毛まで延長していた。
 不況と金融恐慌のために銀行の設立気運はいくらか鈍化したけれども、それでもいくつかの銀行の新規設立は行われた。この年の三月には東宇和郡中川村(現宇和町)に中川銀行が設立され、九月には開業中の今治銀行が、(旧)今治商業銀行を吸収合併して翌月に(新)今治商業銀行と改称した。また一〇月には松山に八束銀行が設立され、卯之町(現宇和町)では宇和商業銀行が発足した。明治三三年は愛媛県において私立銀行数がピークに達した年であり総数で五〇行に達した。これに銀行類似会社四社を加えると、県下の銀行業は全部で五四の数であった。これが現在の伊豫銀行に結集されていく経過が、すなわち愛媛の金融史の大部分を構成するものとなる。この年には北海道開発の目的をもって、北海道拓殖銀行が発足した。
 次いで明治三四年(一九〇一)四月、金融恐慌は中部以西に波及し、大阪では第七十五銀行等が支払いを停止するに至った。全国的にみた場合に、この時期は銀行数が二、三八五行に達しており、増加できるだけ増加したいわばピーク状態に到達していた。金融恐慌はようやく県内にも及ぶようになり、同月に第七十九銀行郡中支店では動産が差し押えられている。当時、松山には普通銀行が一〇行、貯蓄銀行が一行、農工銀行が一行あったが、このような情勢に対応して、松山市内の銀行会合において、次のような決議を行った。

 一、此場合、只一途に緊縮警戒のみに偏せず、金融洞開の道を開き、実業家の事業を助けて蹉跌なからしむる事
 一、此場合、当市銀行の内に於て、何等恐慌的事実の起こる時は、便宜相談を遂げ、其事情の許す限りに於て共に協力一致し、之を補助し、金融機関に瑕瑾なからしむるを期する事
 一、当分の内、毎土曜日を期して会合し、互に意見を疎通し、金融界の便宜か商議する事

 右のような対策を講じながらも、一二月下旬には設立後三年を経過した伊豫商業銀行が任意解散を決議し、明治三六年五月には破産が決定している。これによって愛媛県の銀行数は五三行となった。
 明治三五年(一九〇二)六月、東京株式市場は再び大暴落して立会いが停止された。七月には紡績の第四次操短が実施されてこの年の末まで続く。一月には青森連隊の八甲田山遭難が影を落とし、九月には正岡子規が三五歳の若さで病死する等、この年は何とかく暗い感じの年である。四月の日本興業銀行の開業も未だ不景気を払うだけの力を持つには至らなかった。極東ではシベリア鉄道が完成した年であり、日本を取り巻くアジアには暗雲が漂い始めた。翌明治三六年にはアメリカでライト兄弟が飛行機を発明し、またフォード自動車会社の設立もこの時であった。いずれも新しい時代の開幕を告げた出来事であったが、わが国の目前ではロシアは第二次の満州撤兵を一向に履行しない。日本側は次第に神経がいら立ち始める。わずかに明るい情報をあげれば、この年に温泉郡湯山村(現松山市)に伊豫水力電気会社が開業し、松山に電灯六、〇〇〇灯がともった事をあげることができよう。エジソンが電灯を発明してから二四年後、また鹿鳴館に白熱電灯がともって文明開花を祝った時から一六年後に、電灯はようやくのことで松山に到着した。これまた今日、人々が生活する電気の世の中の開幕を告げるものであったと言うことができよう。六月には御前会議においてロシアに対して交渉を開始することを決定し、東大教授七博士は対露強硬論を発表する。その後、交渉は始まるが一向にその進展はない。世論は次第に硬化してくるのであった。

表金1-6 愛媛県における国立銀行の転換状況

表金1-6 愛媛県における国立銀行の転換状況


表金1-7愛媛県内銀行概要

表金1-7愛媛県内銀行概要