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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 日清戦争の勃発と貨幣法の公布

 日清戦争の勃発と講和条約の調印

 明治二七年(一八九四)五月、朝鮮半島の全羅南道に暴動が発生して南鮮一帯に広がった。世にこれを東学党の乱と呼ぶが、同月末には東学党は全州を占領するに至った。韓国政府は六月に入って、東学党を鎮圧するために清国に援軍を求めている。日本側では既に単独で朝鮮に一混成旅団の派兵を決定していたので、日清両国がそれぞれ個別に朝鮮出兵を通告する結果となった。そこで日本側は独自の内政改革案を韓国に提示するが、韓国側では一向に乗ってこない。遂に我慢がしきれなくなって、日本側は韓国に対して、清国との宗属関係を破棄する旨を内容とした最後通牒を発したが、期限内に何らの回答はこなかった。七月下旬に日本は軍事行動に訴えて韓国王宮を占領し、八月一日に日本は清国に対して宣戦を布告して、両国は日清戦争の状態となった。戦争となれば莫大な軍費を要することは、既に何回かの内戦において経験済みである。財界では宣戦布告と時を同じくして、渋沢栄一・岩崎久弥らが報告会を開いて軍用金の拠金に奔走する。同月中旬には軍事公債条例が公布されて、世間は軍事色一色に塗りつぶされた。朝鮮半島における戦争は日本軍の破竹のような進撃によって日本側の勝利に終わり、翌明治二八年三月、下関で講和会議が開かれて四月に日清休戦条約が調印された。その内容は、清国は朝鮮の独立を承認し、遼東半島・台湾・澎湖列島を割譲し、賠償金二億両(テール)を支払うというものであった。これに対しては、その後、独・露・仏の三国から遼東半島を清国に返還するようにとの勧告(いわゆる三国干渉)があって、日本は当時の国際情勢にかんがみて、涙をのむ思いをもって同半島の放棄を決定した。同年の一一月に遼東半島還付条約の調印が行われて、改めて日本に対しては報償金として三、〇〇〇万両が支払われた。このことは、やがて中国本土における排日の気運をあおることにつながった。その後一〇年を経過して、この遼東半島が日露戦争の火種となって展開してくる。なお、この日清戦争において、松山の歩兵第二十二連隊は明治二七年の八月三日から一四日にかけて出征し、戦闘に参加していた。

 貨幣法の公布と金本位制の成立

 日清戦争はその結果として、莫大な賠償金と報償金をわが国にもたらした。かつて西南戦争で内征に勝利を得た明治政府は、今回は大国の清国を相手とした外征によって輝かしい勝利を手にした上に、これまで考えたこともなかった償金を手中にすることができた。政府の自信はただに軍事・政治・外交ばかりでなくて、財政及び金融についても同様なものであった。明治二九年(一八九六)五月、日本銀行はいわゆる預金勘定を開設して、戦勝によって、わが国が取得した在外正貨を同銀行の正貨準備として繰り入れることができた。これによって兌換銀行券の発行準備は一挙に潤沢となったことは言うまでもない。翌明治三〇年には、獲得した二億三、〇〇〇万両(邦貨に換算して三億六、〇〇〇万円)の償金を金準備として、同年三月下旬に現行の貨幣法が公布される運びとなった。わが国における金本位制度はこの時において発足したのであった。
 貨幣法の公布による金本位制度の発足は、こうした国内事情のほかに、金と銀の比価の国際的変化という外部事情も手伝っていた。古く明治四年に新貨条例が制定されたころには、金・銀の交換比率は約一対一六が国際的な基準であったが、その後、銀は採鉱技術や製錬技術が進歩したこと、また新しい鉱脈が発見されたこと等によって生産が非常に増加したために、生産過剰となり銀価格は下落する一方であった。明治三〇年には金・銀の国際交換比率は約一対三四にまで銀の価格は下落していた。
 このような価格下落による銀価の不安定性に気がついていたヨーロッパやアメリカの先進諸国は、次々と銀本位制を離脱して金本位制への移行を実現していた。こうした世界的風潮を受けて、わが国もまた金本位制を採用し、明治三〇年(一九五五)三月に公布となった『貨幣法』にこれを明記し、同法は同年一〇月から施行となった。「貨幣の製造及び発行の権は政府に属す」(第一条)に続いて、第二条において、銀の価格が世界的に明治の初めごろと比較して約半分になっていたので、日本円の価値もそれまで純金一・五グラムであったのを、〇・七五グラムと改定した。ここにアメリカの一ドルに対して二円という外国為替平価が成立した。なお貨幣法による貨幣の種類は

 本位貨幣  二〇円、一〇円、五円
 補助貨幣  五〇銭、二〇銭、一〇銭
 補助白銅貨  五銭
 補助青銅貨  一銭、五厘

となった。ただし実際には五厘は鋳造されなかったし、模様の上では龍が金貨から姿を消して、銀貨の裏面にまわされ、五銭白銅貨は偽造を防ぐために模様が複雑となった。
 このようにして、わが国における金本位制の実施とともに、日本銀行券はすべて金貨との兌換券となった。百円券は藤原鎌足と談山神社、拾円券は和気清麻呂と護王神社、五円券には武内宿弥が印刷された。拾円券は裏面に走っている猪の絵が印刷してあったので、人々に「いのしし」と呼ばれて重宝がられたお札であった。貨幣法が制定・施行された明治三〇年は、愛媛県において伊予かんの栽培が始まった記念すべき年でもあった。