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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

八 みかん輸送の今昔

 現在、愛媛県のみかんはトラックによって約八割、残りを鉄道と船舶が折半するという方法で市場へ輸送されている。温州みかんの栽培が盛んになり、南予からはじまって産地が形成されていったのは明治中ごろからといわれているので、みかん輸送の歴史も一〇〇年近いものかあるが、現在のような形になったのはたかだかここ一○年のことである。南予地方を中心に、愛媛県の農産物を代表するみかんの輸送史を概観してみよう(『愛媛県果樹園芸史』ほかによる)。

 包装の変遷

 まず、荷姿の変遷をみてみよう。
 温州みかんの生産初期には吉田港に来航したみかん船に販売するのが多かったので、この場合は、大小混合のみかんをバラのまま積み込んだ。これを南予地方では「ズラシ」といった。瀬戸内沿岸に地元商人が搬出販売する時は、バラのこともあったが、「カマス」詰めが使われた。
 しかし、出荷市場が地方市場から中央市場へと移り、みかん船の来航も少なくなるにつれて、箱詰めが一般的となり統一荷姿となった。箱詰めには米国スタンダード石油会社の石油空箱や日本石油の米松材の石油空箱が使用されたが、後には輸送用の木箱が作られた(しかし、規格寸法が石油箱と同じだったので、愛媛みかんといえば石油箱詰めというのが通りとなった)。この時代が長く続き、戦後の昭和三四年秋、初めて現在のようなダンボール箱に変わった(ダンボール箱も現在に至るまでには改良の歴史があった)。ダンボール箱の物流合理化威力は大きく、「ダンボール革命」といわれた。
 夏みかんの包装は、当初のカマスから竹カゴに変わり、温州みかんより少し遅れて昭和三六年からダンボール箱に変わった。

 戦前のみかん輸送

 愛媛県におけるみかんの輸送は戦前の海上輸送主力時代、戦後前期の鉄道主力時代及び同後期の卜ラック主力時代に三区分できる。
 戦前においては、①鉄道の開通が遅く陸上輸送の便がなかったこと、②販路が対岸の九州や四国沿岸諸都市、阪神市場であったこと、③県内における産地がほとんど沿岸地方や島しょ部であったことなどにより、事実上海上輸送一本に頼らざるを得なかった。
 海上輸送の形態には、①産地側において商人あるいは生産者が機帆船などをチャーターし「特船」仕立てで送る場合、②内海航路の定期便を利用する場合、③県外商人によるいわゆるみかん船の来航による場合(大正初めにはこれが七~八割を占めていた)の三つがあった。しかし、大正から昭和にかけて生産量の増大・市場の拡大をみ、京浜市場へも多く出荷されるようになるに伴い、次のような海陸中継輸送がとられるようになった。
 ① 南予諸港から神戸まで海上輸送、神戸で鉄道に積み換えて東京まで貨車輸送
 ② 同じく糸崎(広島県)まで海路、糸崎で鉄道に積み換え、東京まで貨車輸送
南予、立間地方のみかんは、予讃線が宇和島まで開通する以前はすべて船で積み出し、京浜へは右の①のルートがとられた。船は昭和一〇年(一九三五)ごろから機帆船による特船も多かったが、それ以前は主として吉田港から宇和島運輸の定期船宇和島丸に積み、神戸に運んだ。ためにみかん出荷期には吉田港に二時間ほども停泊し、船客が退屈して上陸するやら、みかんの重さで桟橋が沈みかけるやらということもあった。
 なお戦前(大正以降)には大陸への輸出が行われていたが(対米輸出は静岡などとの比較で不利だったが、対大陸は逆に有利だった)、この場合は①関門港まで機帆船輸送、ここで定期船に積み換え大連などへ、②釜山まで直接機帆船輸送し、釜山から鉄道で貨車輸送のいずれかのルートによった。

 戦後の変転

 表交3―33は、昭和二五年度における温州みかんの機関別輸送実績を示している。全体では鉄道と船舶がほぼ半々だが、南予の主産地である八幡浜市及び北宇和郡では鉄道依存度が高い(共に九〇%を上回っている)。これに対して温泉郡や越智郡では船舶輸送の比率が高い(これらの地方、特に温泉郡中島町では現在でも船舶輸送が多い)。なお、糸崎まで海上輸送し、糸崎で鉄道に積み換える方法はまだ残っているので(表交3―33では船舶に入っている)、実質的には鉄道輸送の比重はこれより高かったということになる。
 この時期から昭和四〇年代にかけては、季節的に集中するみかん出荷のための鉄道貨車確保が大変だった。時には貨車不足による駅頭滞貨もおこった。昭和三七年の輸送機関別出荷計画は左記のとおりだったという。
  市場出荷計画量   九万八、八八〇トン
  予讃本線経由    七万七、四八〇トン(七八・四%)
  糸 崎 中 継   一万〇、〇〇〇トン(一〇・一%)
  船 舶 輸 送   一万一、四〇〇トン(一一・五%)
 こうした中で、昭和三五年一二月から、宇野・汐留間にみかん輸送の臨時貨物列車「えひめ号」が、更に同三六年から宇野・汐留間をノンストップで走る直通専用列車「四国号」が運行されることになった。これにより貨車の確保とスピードアップが可能になった。特に後者のスピードアップの点では、従来の鉄道輸送だと愛媛県下から出荷して東京市場でセリにかけるのは四日目だったが、この専用列車により三日目売りが可能となった。なお、昭和四一年からは、越智青果農協が糸崎に選果場を建設したのに伴い、糸崎~汐留の直通みかん列車「瀬戸内号」が走ることになった。
 しかしながら、鉄道輸送には依然、①宇高航路の航送力、②駅頭における積み込み能力という二つの隘路が四国側で残っており、増大する需要に対応しきれるものではなかった。
 県下で最初にトラック輸送に踏み切ったのは、温泉青果農協で、昭和三九年(一九六四)のことである。南予地方にもすぐ広がった。まず阪神市場向けがトラック化され、次いで京浜市場向けがトラック輸送に変わっていった。トラック輸送への転換は、鉄道依存体質の残存やコストの事情などにより、昭和四〇年代はゆっくりとしたテンポで進行した。最初のころはトラック業者の帰り車とか、先方に積み荷のある車が主に利用された。一般区域トラック(限定)の免許をもつ愛媛県経済連がみかんの輸送に本格的に着手したのは昭和五一年だった。しかし昭和五〇年代に入ると、一方における本州側での高速道路の整備、他方における国鉄貨物輸送近代化の遅れと輸送力の縮小などによりトラック輸送への傾斜が強まり、現在の姿に至っているのである。

表交3-33 温州ミカン輸送機関別輸送実績(昭和25年度)

表交3-33 温州ミカン輸送機関別輸送実績(昭和25年度)