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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

七 八幡浜港と宇和島港

 八幡浜・宇和島両港は、共に本県宇和海側に位置する良港で、県内七つの重要港湾のうちに含まれる。港湾法に基づく重要港湾に指定されたのも、両者同時で昭和三五年(一九六〇)六月のことであった。両港はこのように多くの類似点をもつ半面、果たしてきた歴史的役割りにおいて、またその結果としての現況においても、きわだった相違点をもっている。例えば現在の八幡浜港は、商港であると同時に第三種漁港(注)であるが、宇和島港は漁港の指定を受けていない。ことほど左様に両港は時には相対抗し、時には相補いながら発展して来たわけだが、その近代一〇〇年の歩みを顧みると、最近の二〇年間、海上輸送フェリー化の波の中で両港が経験した変化ほど大きいものはなかったのではないかと思われる。こういう観点を持ちながら両港発展の歩みを跡づけてみよう。

  注 漁港は漁港法上第一種~第四種に分けられる。第一種は利用範囲が地元の漁業を主とするもの、第二種がこれに次ぎ、第三種は利用範囲が全国的な規模のもので、県下では八幡浜のほか中浦(御荘町)・深浦(城辺町)の二港がある。
   なお、第四種はいわゆる避難港で離島・辺地にあるものが多い。

 明治期までの両港

 八幡浜港は、諏訪崎・矢野崎の両岬に擁せられ、この外郭をなす佐島・黒島及び鳥島が自然の防波堤となって西風を除き、水深く、天与の良港である。一〇世紀の初め海の豪族の根拠地に利用されていたが、慶長年間宇和島藩主が港の経営に意を用いたのが同港発展の端緒をなした。幕末期に至って宇和島藩主の命を受けた八幡浜商人、高橋長年らは長崎貿易に取り組む(移出商品は地元のカンテン、木蝋など)。そしてこの長崎貿易で地力をつけていった八幡浜商人は、明治期に入って更にその活動範囲を広げ、八幡浜港を基地として四国西南・九州東岸をおさえ、更に阪神にまで及んだ。明治八年(一八七五)菊池清治が外輪蒸気船八幡丸(三五〇トン)を建造して大阪へ就航させ、同九年第二八幡丸を建造するに伴い、海上交通の発達は目を見張るものがあった(『八幡浜市誌』)。八幡浜が「伊予の大阪」といわれるようになったのは、この時期以降であった。表交3―29に示すとおり、明治一七年当時、八幡浜港の移出入額は県下第一であった。
 しかし、好事魔多し、明治一九年に続く同四二年のペストの流行は、入港する船舶の厳重な取り締まりと鮮魚類の販売禁止に及んだ。荷物の移動禁止は八幡浜港に大きな打撃を与え、伊予の大阪の面影はどこへやら、港勢は急速に衰えていった(表交3―30は大正二年の諸国出入船舶を示しているが、かつて県下第一をほこった八幡浜港は今や川之石・長浜より下位にある)。
 一方藩主お膝元の宇和島港は、前面に九島が横たわり、湾入深く天然の良港とされてきたが、初代藩主が樺崎にお台場を設けたのが港湾建設の始まりといわれている。維新後、旧藩時代の城濠の一部はそのまま残されて内港の一部となったが、この濠は長い間、改修はおろか浚渫さえも行われなかった。そのため内港は年と共に市内諸河川が運び込む土砂によって埋まり、干潮時には舟の出入りさえも不自由になっていた。明治一八年(一八八五)宇和島運輸会社の宇和島丸が処女航海に出たのは先の樺崎からだったが、当時ここには乗客のための小さな待合室があるのみで桟橋などもなく、客の乗降、貨物の積みおろしなどはすべて和船を漕いで連絡した(同社『七十年を顧みて』)。また、大阪商船会社・宇和島運輸会社が登場するまでこの地方の海上輸送は川之石の「ほてい屋」を筆頭に西宇和人に制圧されていた。明治末期の宇和島港の港勢について、『山村豊次郎伝』は「……海運上至便の位置を占めながら帆船以上の船舶出入に不便なるの故を似て対岸取引の商権は悉く八幡浜に奪われ、宇和島の商勢振わざること約四十年の歴史をつくった。」と述べている。

 港湾改修事業

 このように、ほぼ明治期を通じて八幡浜港の優位が続き、大正初年には前述のような事情で逆転するが、表交3―31に見られるとおり昭和に入ると八幡浜港が態勢を立てなおし、ほぼ拮抗する状態になる。この間、両港においては以下のような形で近代的港湾の建設が進められる。
 八幡浜では、明治四一年(一九〇八)から四四年にかけて、九、〇〇〇坪の埋め立てによる新港(大黒町地先)建設と、新旧両港の浚渫が県営事業で実施され、以降この新港が港湾施設の中心となる。大正一一年(一九二二)五月には内務省訓令による指定港湾となった(宇和島港も同時に指定)。
 昭和七年(一九三二)一二月港湾整備の長期計面が策定されたが、それには以下の内容が盛り込まれていた。
  (1) 現在の港では船の大型化に対応できないので、港の中心を他に移す。
  (2) 対岸九州との連絡港としての重要性、鉄道交通上の九四連絡基地を考慮し、沖新田地区を整備する。
  (3) 三、〇〇〇トン級一隻、一、〇〇〇トン級以下の小型汽船五隻が同時に係留できる岸壁の築造。
  (4) 西風による波浪を防ぐため、築港防波堤を築造する。
この計画に基づき、昭和九年から工事が進められたが、さほどの進捗をみないまま戦時に入り、中断された。
 宇和島港では、明治四二年(一九〇九)から内港改修事業に着手し、同四三年竣工をみた。この工事内容は当時の築港技術をしのばせてくれる。まず内港入口に土俵を積み上げて潮の出入を断ち切り、内部を排水した。内部の土砂浚渫はすべて手掘りであり、掘り上げた土砂は栄町や湊町の地先に手押車で運搬して埋め立て、なお余った土砂は、城山の西側丸之内地先のお浜外濠近付、すなわち現在の内港から宇和島東高等学校角までの地域に運んで埋め立てた。現在の桝形町はこれによって生まれたのである(『宇和島市誌』)。この結果、内港は面目を一新、船舶の出入りも増えた。なお、大正期以後終戦までの修築事業の概略は次のとおりである。
  大正一〇年~一五年  内港浚渫土砂による泉屋新田及び小笠原新田の埋立
             なお一〇年から一四年にかけて、低湿地を利用して朝日運河を築造した。
  昭和四年~八年    須賀川付替事業を実施(廃川敷を市街化)
  昭和七年九月     港湾修築計画策定、八年一月認可
  昭和八年~一四年   第一期事業(新内港修築事業) 五七〇m、水深三mの護岸修築、浚渫土砂で日振新田及び築地の埋立実施
  昭和一六年~一九年  第二期事業(築地新港の建設)

 フェリー化と両港

 戦後の港湾の発展は、工業港化とフェリー港化につきる。
 八幡浜港では昭和三九年(一九六四)二月、九四フェリー株式会社のフェリーボート「しこく」(二四五トン)が、八幡浜~臼杵航路に就航した。利用はうなぎ登りで、同四四年には一、〇〇〇トン級二隻が投入される。これより先、昭和二三年八幡浜市は新たに港湾計画を策定し逐次実施に移していたが、これは同港が九州・四国間の鉄道連絡基地として選ばれた場合を想定し、これに重点を置いたものだった。その後の自動車の普及は鉄道から道路へと交通体系を変えてしまったが、幸運にもこの事業が役に立ち、「本港は、鉄道連絡港から自動車(フェリーボート)連絡港へとうまく転換できた」(『八幡浜市誌』)のである。
 フェリー基地機能を充実するため、昭和四七年九月から着手して水深五・五m桟橋ニバース、フェリー可動橋一基、駐車場一、九〇〇平方m、主要地方道八幡浜港線と接続した幅員一五mの臨港道路などが整備された。昭和四九年三月には宇和島運輸の本社も同港フェリー埠頭近くに移転してきた。
 戦後昭和二三年宇和島港においても戦災復旧工事が開始され、同三三年にかけて旧内港の埋め立て、築地宇和島港の復旧整備、新内港の浚渫などの事業が完成した。四四年から二か年でフェリー接岸施設が整備され四六年六月から本格的なフェリー就航をみた。また同年七月開港の指定、同八月には植物検疫法による港湾としての指定、更に五二年八月には出入国管理令による出入国港の指定を受け、宇和島港は国際貿易港としての条件を整えていった。この間、宇和島市は昭和四八年に「同市百年の大計」(『宇和島市誌』)に基づく長期港湾計画を策定した。これは同港整備の方向として以下の五本柱をかかげている。①南予流通の拠点づくり、②南予観光開発の拠点づくり、③港湾再開発と都市環境の改善、④レクリエーション・エリアの開発、⑤離島連絡の強化。
 なお、フェリー化以降近年までの両港取扱貨物の推移は表交3―32のとおりである。

表交3-29 県内主要港別移出入額(明治17年)

表交3-29 県内主要港別移出入額(明治17年)


表交3-30 県内諸港出入船舶(大正2年度)

表交3-30 県内諸港出入船舶(大正2年度)


表交3-31 八幡浜港・宇和島港の入港船舶数(隻)

表交3-31 八幡浜港・宇和島港の入港船舶数(隻)


表交3ー32 八幡浜港・宇和島港の取扱貨物(トン数・国内貨物のみ)

表交3ー32 八幡浜港・宇和島港の取扱貨物(トン数・国内貨物のみ)