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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 松山市の臨海工業地帯


  1 工業からみた地域構造

 松山東部

 松山市の製造業は昭和五五年度、事業所数が一三一三(前年比四・九%減)、従業者数は二万三〇六三人(前年比二・五%減)、製造品出荷額は五六七六億円(前年比一五・九%増)となっている。その一五年間の推移は別表でうかがえる(表2-8)。
 事業所の分布を表2-9によって地区別にみると、味酒地区八・三%、石井地区八・一%、雄郡地区八%、味生地区七・四%などが大きなウェイトをしめている。
 地域的に臨海工業地域(味生、生石、垣生各地区)が一九二事業所で一四・六%をしめ、北部の準工業地域(和気、堀江各地区)も八一事業所、六・二%をしめて、両地域で全体の二〇%余をしめている。従業者数でも臨海工業地が七三五九人で三一・九%、北部の一四・六%と併せて、両地域で全体の四六・五%をしめている。製造品出荷額では前記各地域のウェイトは更に高くなる。
 次に業種別では化学工業の三〇・二%が最も大きく、次いで、一般機械器具製造業一七・六%、食料品製造業一〇・一%と続き、この三業種で全体の約五八%をしめており、これに次いで木材・木製品が続く(表2-10)。


 松山周辺部

 松山市周辺部では表2-11のごとく、松前町が最も重要な地位をしめている。東レ愛媛工場を軸にして、珍味加工中心の食料品製造とが大きく、農業や松山市への通勤とによって町の経済が支えられている。次いで川内町が昭和四〇年代の積極的な企業誘致により、製造業の躍進はめざましく、五二年度の製造業出荷額約一八〇億円が五五年には二七六億と急伸した。松下寿電子工業とその関連企業の立地がその最大の理由で、主婦の就労機会の増加や、兼業農家の農外収入の増加に寄与している。重信町も昭和四〇年代の人口増加とともに、安価な土地や豊富な労働力を求めて、下請け中小企業の進出が増加したが、中心は食料品、窯業(コンクリート加工・生コン・砕石など)電気機械などである。砥部町は地場産業の砥部焼が中心である。


  2 臨海工業地域

 臨海工業地域の形成

 松山市の製造業出荷額は、四国の都市では新居浜に次いで高く(昭和五五年度、五六七六億円)、主として化学工業の立地発展によるところが大きい。この臨海工業地域は、三津港南部の旧大可賀新田から重信川河口にいたる沿岸で、さらに松前町の東レの立地する松前港北部にまで至り(図2-19)、化学工業が集中的に立地している。
 この臨海地域は、もとは新田地帯で、江戸中期の寛文四年(一六六四)に松山藩の命により松平貞幹が完成した吉田浜新田と、安政五年(一八五八)に完成した大可賀新田とである。昭和一五年ごろまで、高さ一〇mの砂丘が三列あり、桃などの果樹が栽培され、低地部には水田もあった。
 この地域への工場立地は、昭和一五年、大可賀新田に石油輸入国策会社の貯油所誘致がきっかけである。第二次世界大戦当初南方原油の、国内精製能力の拡張が計画された。これを背景に、一七年に丸善石油が約六六万㎡の用地を買収、当初処理能力一八万バーレルの製油所建設に着手し、一九年にその一部が操業を開始しただけで終戦を迎えた。操業再開は二七年と遅れたが、三五年ころからは帝人・東レ向けにポリエステル繊維の主原料を供給するなど、次第に石油化学の拠点化していった。しかし、石油業界の競争の中で経営不振におちいった同社は、昭和五七年四月に本社より分離独立して、丸善松山石油として再建にとり組んでいる。同社は協力下請企業だけでも二〇社以上が関係しており、同社の動向が地元経済に与える影響は大きい。丸善松山石油の北に隣接して、二六年に昭和工業が立地したが、これは、東レ愛媛工場(松前町)への二硫化炭素供給の目的であった。また、その南側に翌二七年に大阪曹達が立地した。同松山工場は瀬戸内沿岸の工業地域のほぼ中央部に位置し、原料や製品輸送の交通的条件にも恵まれていることから、旧予科練跡地を利用して立地したものである。原料塩はメキシコ・オーストラリアから呉市沖の三ツ子島の貯蔵所に揚陸された後、小型船で運ばれる。主製品の可性ソーダは隣接する帝人や伊予三島・川之江の製紙会社へタンクローリーで供給される。塩素は帝人や対岸の広島県大竹のコンビナートへも供給している。同工場は、これら無機化学の技術を基礎としたダップ樹脂などの主力工場でもある。
 臨海工業地域最大の工場は吉田浜の帝人松山工場である。昭和二五年に誘致が決定し、三〇年にアセテート日産五トンで操業を開始した。三三年にはポリエステル(商品名・テトロン)を生産開始し、同社の主力工場となった。さらに松山空港をはさんで隣接する愛媛工場が四五年に操業開始し、素原料のパラキシレンから最終製品のテトロン繊維まで一貫生産体制を確立した。これに伴う中間原料の生産のため、松山工場内に帝人ハーキュレス、隣接地に帝人化成・帝人製機が立地している。さらに、松山空港と愛媛工場の中間に機械関連企業団地があり、主に帝人協力会(約四〇社)の主要下請企業が立地している。現在、ポリエステル(テトロン)中心の生産で生産量は松山工場が日産二二七トンとわが国最大で、愛媛工場でも日産一一八トン生産している。原料の混合キシレンは、徳山・四日市・千葉などから輸送している。従業員は協力会企業を含めて四〇〇〇名をこえるが、その通勤圏を松山・愛媛の両工場の従業員からみると、表2-12のごとく松山中心に中予一円に及んでいる。
 重信川河口の南部、松前町に東レ愛媛工場が立地している。同工場は昭和一三年東洋絹織愛媛工場として創業したもので、同一六年に東レに吸収合併され現在に至っている。レーヨンを日産四二トンでスタートし、スフ糸・スフ織物・染色の一貫工場として生産を開始した。ここは砂丘地帯で、他の候補地に比べ、地下水、労働力が豊富なことなどを理由に決定した。昭和五〇年にレーヨンの生産を中止し、現在はポリエステル(テトロン)日産一五四・六トン、アクリル(トレロン)同一三万八トン、炭素繊維(トレカ)同三・五トンを生産している。この生産規模の拡大により松前町内での工業用水採水(現在一日四万八〇〇〇トン)は限界に達し、三九年から面河ダムからの県工業用水(現在一日四万一〇〇〇トン)の供給を受けている。従業員は一三八二人(昭和五七年五月現在)で、これは松前町の工業統計による従業員の約五〇%も占める。従業員を出身地別にみると、地元松前町が八〇〇人、伊予市二八〇人、松山市二六〇人、砥部町一五人、重信町・双海町各三人、その他一〇人となっており地元が三分の二を占めている。また、同工場の下請関連企業で組織する東レ協力会には約二〇社あり、建設、メンテナンス部門や付帯作業を受けもっているが、その約半分は地元企業である。現在、工場の西海岸約三四万㎡が埋立され、いかなる新工場が建設されるか注目される。


 重信川の河口北岸

 今出地区に昭和四二年に完成した松山木材工業団地は、木材港を背景に出荷量が県下第一位の木材団地である(写真2-6)。本県の木材・木製品工業の出荷額(昭和五五年度)七四四億(内、製材業六三〇億円)で従業員数六〇二三人(内、製紙業四五〇〇人)である。
 県内の製材工場は四三八工場で、その内、松山に三六工場あるが、木材団地に九工場が集中しており、その規模も他より大きい。五七年には団地内製材工場は一二工場に増加している。五六年度で四一万m3の輸入木材(米ツガ・米松など米材七〇%、ラワンなど南洋材三〇%)を扱った同団地には製材以外に、合板、木材加工、チップ、原木卸売販売など二六企業が立地している。五一年には陸上貯木場の新規埋立地の造成も完成し、木材港としての機能は高まっているが、木材関連産業をとりまく環境はきびしく、同団地内にも休業中の企業もあるなど今後の発展は楽観を許さない。

表2-8 松山市の製造業の推移

表2-8 松山市の製造業の推移


表2-9 松山市製造業の地区別構成(昭和55年)

表2-9 松山市製造業の地区別構成(昭和55年)


表2-10 松山市製造業の構成

表2-10 松山市製造業の構成


表2-11 松山周辺市町村の製造業(昭和55年)

表2-11 松山周辺市町村の製造業(昭和55年)


図2-19 松山地区工業地帯

図2-19 松山地区工業地帯


表2-12 帝人2工場の従業員通勤圏(昭和57年4月現在)

表2-12 帝人2工場の従業員通勤圏(昭和57年4月現在)