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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 岩城の町並みをたどる

(1)町の景観

 ア 商店

  「岩城八幡神社の西側にあった呉服・洋装店には、毛糸を販売していることを示す看板と写真店の看板の2つが出ていました(図表1-4-2のケ参照)。手芸糸や毛糸の商品は店先の下の方に僅(わず)かに置かれており、店の主人は専ら写真店の仕事をしていました。同じ店舗で写真と洋装の両方の営業をしていました。
 私(Dさん)は、お使いで雑貨店へお茶を買いに行っていました(図表1-4-2のキ参照)。ただ、店の構えはしておらず民家のような感じで、そこへお茶を買いに行くと、店の人が廊下の奥にあるお茶の箱から茶葉を取り出して、袋に入れてくれていました。この店について、私(Cさん)が聞いた話では、化粧品やお菓子など、いろいろな品物があったようです。
 上小路(うわこうじ)の電気店では、以前は文具を扱っていました(図表1-4-2のク参照)。テレビなどが店頭に出てくるのが昭和30年代中ころくらいで、テレビが出始めたころには、電気屋に人だかりができていたのを憶えています。私(Cさん)は、中学1年生の時に父親に無理を言って、トランジスターラジオを買ってもらいました。中学1年生か2年生のころにビートルズやプレスリーの歌が流行(はや)り、持っていないと時代に乗り遅れるような感じでした。私は駄々をこねながら、皆から半年ぐらい遅れて買ってもらった記憶があります。そのころからちょっとした家電を置くような店舗ができてきたのではないかと思います。それまでは、家電を置くような店はなかったように記憶しています。岩城で一番早くテレビを購入したのは山形医院(図表1-4-2のシ参照)で、まだカラー放送がされていないときからでした。また、この山形医院では、往診用の自転車を購入していて、自転車を所有したのも、島で最初ぐらいでした。」

 イ 島の学校

 「私(Cさん)が幼いころには、幼稚園はまだ開園されておらず、保育所があっただけでした(図表1-4-2のア参照)。家から保育所までは歩いて行っていました。普通の道を通った方がよほど近いのですが、近道と思って山を越えて行ったことがありました。しかし、直線距離は短いのですが、登って下るので、近道には全くなっていませんでした。冬は、田んぼが凍っていて、氷が張った所に足をわざと入れて氷を砕いて遊んでいました。ある時、思い切って足を突っ込むと、氷の下に水たまりがあって、靴や靴下が濡れてしまいましたが、履き換えるために家に帰ったら母親に怒られると思ったので、そのまま保育所へ行きました。
 昭和30年代は、小学校、中学校、高校が同じ敷地にあり、運動場も共用でした。だから運動会は、小学校から高校までの合同で、小学生が500人くらい、中学生が300人から400人、高校生が100人くらい、大方900人くらいの生徒に、保育所の子どもたちも来ていたような気がします。さらに保護者が来ていたので、運動場は人で一杯でした。ラジオ体操のときは、真横の人と手が当たるので、体を朝礼台の方へ向けて斜めにして体操をしないといけませんでした。当時は、村民の多くが参加する村民運動会心学校の運動場で催されていました。」

 ウ 娯楽施設

 「岩城座にプロの芝居が来ていたのは昭和25、26年(1950、1951年)くらいまでです(図表1-4-2のセ参照)。その後トーキーになったころから、上映のために今治の会社から映画フィルムを持って来ていました。昭和40年(1965年)のころまで岩城座はあったと思います。それから、岩城座にはチンドン屋さんが来て、太鼓や鐘を鳴らしながら宣伝していたのを憶えています。
 公会堂はいろいろな事に使われて、村の集会場のようでした(図表1-4-2のサ参照)。青年団などの素人の芝居などの、今でいう発表会とかに使っていました。」

 エ モノ作りの店

 「私(Cさん)が小学校2年生の時に、芋菓子の工場の見学に行きました(図表1-4-2のカ参照)。その時は、金平糖(こんぺいとう)を作っていたように思っていましたが、家に帰ってから母親に、金平糖を作っていたという話をしたら、『豆菓子だったろう。』と言われました。また、その工場では、パンや駄菓子など何でも作っていたと聞いています。
 戦後、私(Aさん)とほか2人が、芋菓子を製造していた関係で、今治(いまばり)ヘパン作りの講習を受けに行き、受講後3人のうちのリーダー格1人が主になり、1軒の芋菓子工場でパンを作っていました。まだ芋菓子の製造が再開される前のことで、油や砂糖が統制物資のため人手できないときのことです。『パンは主食』ということで、材料の調達が可能でしたが、砂糖の代わりにサッカリン(人口甘味料)で甘みを付けていました。以前は、夏になると芋菓子つくりは終わっていますので、夏の仕事としてアイスキャンディーを作って販売していた芋菓子製造業者もいました。
 井戸は各地区で管理していました。お堂の井戸には塩分がありませんが、役場の裏の古井戸は、塩分を含んでいました(図表1-4-2のイ参照)。水質の良い井戸の水は、生活用水としていただけでなく豆腐作りや酒造りにも利用されていました(図表1-4-2のエ参照)。」

(2)くらしと行事

 ア お風呂

 「私(Bさん)は、昭和29年(1954年)に結婚して大西(おおにし)町(現今治市)から岩城に来ました。当時、嫁ぎ先の地域では、古くからあった家には井戸が掘られ、その水を使ってお風呂を沸かすことができました。私が嫁いだ家にはお風呂があり、夜になると近所の方がもらい風呂に順々と来られ、集まった近所の方と世間話をしていると時間が過ぎ、私たち家の者がお風呂に入れたのは最後ぐらいでした。」

 イ テレビ

 「家にテレビを置いたのは、早いところで昭和33、34年(1958、1959年)のころではないかと思います。後は爆発的に増えていき、ちょうど東京オリンピックがあった昭和39年(1964年)には、ほとんどの家にテレビが入った、という感じでした。私(Cさん)の家では、東京オリンピックまではテレビを買わないことにしていましたが、私が小学校5、6年生くらいのころ、父親が突然、中古のテレビを持って帰って来て、『テレビがよその家よりも早く入った。』と、すごく喜んだ記憶があります。実は、農業試験場に勤めていた人が急に転勤することとなり、そのまま島に置いていくというのでもらってきた、とのことでした。当時は、まだ子どもだったので、どのようにして譲ってもらったのかまでは分かりませんでしたが、置いていったとはいえ、幾らかのお金を代金として渡したのだろうと、後になって思いました。自分のうちにテレビが入るまでは、すでに購入している知り合いの家を、あちこち移動しながら見せてもらっていたので、『テレビジプシー』という言葉を自分でつくってそう呼んでいました。そのうち学校でも購入され、授業などでテレビを見ることができるようになりました。」

 ウ 手伝い

 「母親が忙しい時には、よく買い物へ行かされていました。私(Cさん)は保育所に入る前から、お使いで豆腐を買いに行っていました。買ってから家まで帰る途中で何回か豆腐を落としてしまって、親に怒られた記憶があります。また、電球は散宿所(さんしゅくしょ)(電力会社の駐在事務所)でしか売ってなかったので、そこへ買いに行っていました。昔の電球は持って帰るまでに振ってしまうと、すぐにフィラメントが切れていました。フィラメントが切れたり、電球が割れたりしないように家までずっと大事に抱いて帰りましたが、1回か2回は切れてしまったのを憶えています。買ったばかりの電球が点灯しないこともあって、そのときは、『散宿所が、いいかげんな物を売りよるわけがない。あんたが、振りよったんじゃろ。』と母に言われると、大事に持って帰って来たのにそんなはずはないと思ったりしてました。
 小学校入学前に高原(たかはら)へ引っ越してからも、母親が小学校の近くで、駄菓子や文具、食品などいろいろな品物を置いた雑貨店のような店を営んでいました。よく店の手伝いで、パン屋さんや蒲鉾(かまぼこ)店へ母の店で売るための商品を取りに行っていました。相手の店は忙しく、配達はしてくれないので、母親に何を何個ずつ、と言われると、嫌だなと思いながらも行っていました。しかし、蒲鉾店では卸してもらう商品とは別に、帰るときに出来たての練り物をくれるので、蒲鉾店へのお使いは、『よっしゃ。行ったろ。』と思って行っていました。今治や尾道(おのみち)の方からも、渡海船が帰って来ると、注文をしていたいろいろな荷物が届きます。例えばサンマなども注文していましたが、少しでも早く店頭に並べて売りたい母親は、忙しいので、私に取りに行かせていました。船が着いている所へ行き、『すみません。』とお礼を言ってから持って帰ってくる、そんなことを繰り返していました。今でも、母親の手伝いをよくしたものだと思います。私(Eさん)の家は農業をしており、収穫したイモを大八車に載せて親と一緒に芋菓子工場へ運んでいました。帰り際にはいつも工場の人が芋菓子を一袋くれて、家でそれを食べていた記憶があります。」

 エ こどもの遊び

 「私(Cさん)が子どものころ、男の子はパッチン(メンコ)でよく遊んでいました。パッチンは、勝負に勝てば対戦相手のメンコを持って帰れますが、密(ひそ)かに家へ持ち帰り、見つかれば親に叱られるので、引き出しの中に隠していました。メンコは木の箱に丁寧に詰めて、きちんと揃(そろ)えながら『たまったな。』と満足感に浸っていました。しかし、あるとき母親に見つかって、『これどしたん。』と聞かれ、『パッチンで勝ったんじゃから、取る権利がある。』と私が答えたら、『馬鹿たれ。』とひどく怒られ、放り捨てられました。親も同じような遊びをしてきたのではないかと思うのですが、母親の方は、取ったり取られたりの遊びはしていなかったのかもしれません。そのとき、父親は全く怒りませんでしたから、子どものころは同じようなことをしていたのだと思います。小学生になってからもパッチンをして遊んでいましたが、小学校低学年のうちに遊ばないようになり、その後はビー玉を使った遊びへと変わっていきました。
 ビー玉を使用した遊びは3種類ありました。『丸出し』は、縦3m横2mくらいの四角形を地面に描き、その3分の1くらいの位置に円を描きます。次に、参加する人は平等にビー玉を出し合うのですが、3個ずつビー玉を出すなら『3モン出し』、1個なら『1モン出し』、2個なら『2モン出し』と言っていました。例えば、10人くらいの参加者がいると1個ずつ出しても枠の中にたくさんのビー玉があるので華々しいのですが、3人くらいだと数が少なくて寂しいので、一人が2個出したり、3個出したりして、それを『モン』と言っていました。そして、ビー玉をその描いた円の中に先に置いておき、それを弾き出す遊びでした。順番を決めて、狙いを定めて、その丸の中から弾き出せばそのビー玉を取って連続して狙うことができるというものです。細かいルールもあったと思いますが、忘れてしまいました。丸を描けば『丸出し』、三角を描けば『三角出し』と呼んでいました。ただ、『三角出し』はほとんどせず、『丸出し』でよく遊んでいました。遊ぶ場所も決まっていて、登記所と公会堂の広場でした(図表1-4-2のス、サ参照)。決まった時間にそこへ行けば誰かがビー玉を使った遊びをしていたので、ビー玉をジャラジャラとたくさん持って、暇があれば行っていました。それから、『メカッチン』は、適当な石や階段の角にビー玉を落として、跳ね返った玉が遠くに飛び、相手の玉に撃ち当たれば取れるという遊びでした。下手な人は、狙っても階段の角には当たらず、あまり玉が飛ばず、上手い人は、ちょうど角に当たり、遠くへ飛んでいきました。メカッチンは低学年の子どもがする遊びですが、相手の玉を狙い撃つなど相当なテクニックが必要な遊びでもありました。また、地面に小さな穴を掘って、その穴に順次ビー玉を入れていく遊びもありました。いろいろなルールがあり、アウトで1回順番を飛ばされたり、変な所にビー玉を止めていて、ほかの人から弾き出されて1回順番を飛ばされたりして、参加できない状態が続くこともあるので、結構難しい遊びでした。
 釘(くぎ)遊びは、名前の意味はわかりませんが、『ネンガラダチ』と言っていました。自分の五寸釘で相手の五寸釘を取り巻きながら投げて、地面に立ったら線を引いて、相手の釘を取り囲んでいく遊びです。相手の釘の逃げ場がなくなると、相手の負けとなりました。なぜか、夏休みの夕方の、日が暮れかかって、少し涼しくなったころに学校の校舎の陰で遊んでいました。
 私(Fさん)たち女の子は、お寺の境内で、低学年の時に高学年の人と遊んでいました。どのようなルールで遊んでいたかは忘れてしまいましたが、輪ゴムを繋(つな)いだゴム飛び、おはじき、あやとりなどをしていましたし、毎週、少女雑誌を読むことを楽しみにしていました。また、夏休みになると、私が住んでいた地区の子どもは、現在小学校が建っているあたりが浜辺でしたので、保護者が当番制で監視をする中、決まった時間内にそこで泳いでいました。」

 オ 行事

 「『とんど(左義長)』は1月に行われる行事で、正月飾りを各集落内の家から集め、それを海岸で燃やしながら、餅を焼き、家に持ち帰って食べていました。前年に行われる『亥(い)の子(こ)さん』から、年間通しての子どもの役が決まり、各行事のチームができ上がりました。なぜか亥の子さんからスタートしていました。
 春になると、お大師さんの花祭りがあり、何軒かのお寺さんに行った記憶があります。島四国(八十八か所霊場のミニ版)は、小漕(おこぎ)から東へ向かい、島を一周するコースになっています。お菓子等で歩き遍路さんたちを接待していました。
 旧暦の6月17日には『十七夜(じゅうしちや)』をしていました。海岸に麦わらの家を作って、夜にそれを焼きます。1月の『とんど』によく似た行事でした。広島(ひろしま)の厳島(いつくしま)神社の祭日と同じ日に行っていました。
 6月25日の『天神さん』では、各地域から小さな神輿(みこし)を出して、天神さんが祀(まつ)られている鶴山(つるやま)(学校の横)の祠(ほこら)に向かいます。
 お盆には、新仏の供養のために踊る『地蔵盆』が、各集落で催されていました。集落によっては踊る場所が決められていました。私(Cさん)が住んでいた高原では、新たに亡くなられた方の家の近くで、人が踊れる程の場所があると、そこで踊っていました。今、そこに行くと、こんな所で踊っていたのかと思うぐらい狭い場所でした。そのほかにも青年団が運営していた盆踊りが行われ、大人や子どもに関係なく参加できたのですが、どちらかといえば大人の方が多かったように思います。運営が商工会に変わってからは、出店がありました。
 『くんち』は、亥の子に似た行事で、亥の子より少し前の旧暦9月9日に、決められていた場所を亥の子石でついていました。その日は、亥の子石のつき始めの日でした。ついた後に宿(くんちの大将の家)に寄って、御飯やうどん、おにぎりを食べていました。
 亥の子の日には各家の前を亥の子石でついて回っていました。そのときには亥の子唄を歌いながらついていました。亥の子唄は地区で少しずつ違っており、高原は山手なのに船の歌を歌っていましたが、海がある地域の子どもたちは船の歌を知りませんでした。この歌を歌うのは、岩城の地区15か所の中で2か所だけで、高原と海原(かいはら)だけでした。ただし、統一的な歌もありました。亥の子さんには、亥の子宿があり、餅を飾って、餅に悪さをされないように寝ずの番をします。それぞれの亥の子宿同士で、攻めて行ったり、攻められたりといろいろなことをしていたからです。宿に決まった家では、朝御飯を食べ、宿から学校へ登校していました。両親に『亥の子の宿をしてもいいか。』と尋ねたら、『いい。』との返事をもらったので、やろうとしたら、『俺にさせろ。』と強く言う友だちがいたので、その友だちに譲り、別の行事で大将をしました。大将には中学2年生くらいの人がなりますが、子どもが多かったので、いろいろな行事で大将や総大将がいました。天神さんや、十七夜にも総大将がいて、中学2年生の人みんなが大将や総大将になれるようにしていました。ただ亥の子さんの総大将が子どもの行事の中でメインの大将でした。
 一年をとおして子どもの行事は多くありました。各行事には役による階級があり、上の階級の人に統率されて動きますが、みんなで活動するのは楽しかったことを憶えています。」

 カ 秋祭り

 「秋祭りは、岩城八幡神社の祭礼で10月15日に行われます(図表1-4-2のコ参照)。祭りの当日は、朝8時に宮出し、海原の獅子、高原の奴(やっこ)、東(ひがし)と西(にし)のダンジリ、浜(はま)と五箇村(ごかむら)の神輿2台で行列を組み、上小路、下小路(したこうじ)から御旅所の厳島神社へと向かい、下小路、上小路と練り歩き、岩城八幡神社に宮入りします(図表1-4-2のウ参照)。神輿1台を15人で担ぎますが、交替の人を入れれば30人の担ぎ手が必要となります。昔は宵のうち(前日の夜のうち)に帰郷していないと神輿を担ぐことができませんでした。『町』うちの家ごとに、料理や酒の用意をしています。無礼講の酒宴で、親戚だけでなく、知らない人が来ることもありました。何人来るかわからないので裏方は大変で、私(Aさん)のうちでは妻の妹に手伝いに来てもらっていました。挨拶程度ですが、来られたら『上がれ、上がれ。』と招き入れました。お宮さん(岩城八幡神社)の近くの家では宮入りするころまで宴会が続きます。
 私(Cさん)の住んでいた高原地区では、前日の14日に子ども神輿を担いでいました。祭りの当日には青年による奴が練り歩きますが、子どもは参加できませんでした。ダンジリに乗ることができる子どもは、西と東地区だけであったのが、ほかの地域へも広がって、ダンジリの修理などに寄付をした家の子どもたちも乗っていました。ダンジリは、祭りの前日に足慣らしをします。イヒ粧をしたりして支度に時間がかかるので、朝学校へ登校して、2限目あたりで、先生からダンジリに乗る子どもたちに、誰々さんはどこそこ公民館へ、と言われると、私はダンジリに乗る友だちを内心羨(うらや)ましく思っていました。小学校入学前に高原へ引っ越す前は、ダンジリに乗ることのできる地区に家があったので、親と、『5年生になるときには元の家に戻る。』ということを約束して、それを条件に引っ越しに賛成しましたが、実際は戻らなかったので、5年生の時の祭りの当日は、ダンジリに乗る友だちの姿を見て、一日中気持ちが沈んでいました。」

図表1-4-2 昭和30年ころの岩城の町並み①

図表1-4-2 昭和30年ころの岩城の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-4-2 昭和30年ころの岩城の町並み②

図表1-4-2 昭和30年ころの岩城の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。