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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 芋菓子の製造

(1)芋菓子の歴史

 「私たち(Aさん、Bさん)が住む岩城は島ですので、水田が少々ありますが、ほとんど段畑で、夏場はイモ(甘藷(かんしょ))、冬場は麦の二毛作が主流でした。そのほかは商品作物に島の多くの人が関心を持っており、除虫菊とか、紙のりの原料となる植物(トロロアオイ)が栽培されていました。その中で、イモは島の人が食べても余るほどできていましたので、それを商品化したのが芋菓子でした。『芋菓子』という名は全国的にみるととおりが悪いかもしれませんが、創始者が付けた名前で、伊予名産や岩城名産と名を付けて、戦前には全国を売り歩いたという記録があります。私(Aさん)の家は祖父の代から芋菓子を作っていましたが、残念ながら一年中作るというわけではなく、秋に収穫したイモを加工して、3月、4月の暖かくなるころには、原料となるイモがなくなり製造出来なくなるという、季節営業のようなものでした。
 芋菓子は『かりんとう』や『芋けんぴ』という名で売られていますが、各地方で呼び名が異なり、高知県では『芋けんぴ』という名で販売しています。そのほか、九州、岐阜県、関東の川越(かわごえ)市(埼玉県)などのイモの産地で、同じような芋菓子がありますが、見栄えや、味にそれぞれ特徴があり、若干の違いがあります。
 先輩の苦労のおかげで、知名度でいえば岩城の芋菓子は、愛媛県下は言うに及ばず、関西(かんさい)一円にまで好まれる方の記憶に残っています。」

 ア 最盛期から戦時中

 「芋菓子作りは、大正から昭和の初めころが最盛期でした。島全体で30数軒の業者がおり、従業員が300人を超える地場産業でした。戦時中には物資不足で、真っ先に砂糖が自由に使えなくなり、食用油や燃料の石炭とかがそれに続き、昭和18年(1943年)には砂糖、食用油が統制品となり、菓子製造用には回ってこない状況となり、全国的に菓子屋さんは転業、廃業となる時期がありました。物資を供給してもらうために、○岩(まるいわ)製菓組合と、○共(まるきょう)製菓組合(元合名会社)という組合組織にして、両組合が県に登録しました。これによって芋菓子が陸軍の慰問品に採用され、物資を供給してもらえるようになりました。『何社かで合同して、2つの組合にしろ。』と指導したのが、当時村長であり県会議員でもあった稲本早苗さんでした。その稲本さんが、広島県の宇品(うじな)にある陸軍の糧秣支廠(りょうまつししょう)に芋菓子を納める権益を取ってくれたおかげで、戦時中にもかかわらず、ドンゴロス(麻袋)に50kgから60kgくらい入ったザラメが、大きな船で運ばれて来ていました。それを原材料にしながら、芋菓子を作り、村の公会堂に集めて、ブリキ張りの大きな木箱に詰め、宇品へ納めていました。それでも、戦後の物資不足でほかの原材料が手に入らず苦労した時代がありました。」

 イ 戦後

 「昭和27年(1952年)に物資統制が解除され、原材料が自由に手に入り、販売も白由にできるようになりました。戦後は11の業者がありました。私(Aさん)の家では、昭和27年秋に再興し、昭和43年(1968年)まで芋菓子を製造していました。私の家には畑があり、イモのない夏の時期でも農作業の仕事がありましたが、芋菓子の製造だけをしている人は、夏場に仕事がなくブラブラしている人もいました。製造工場で働いている間は従業員に手当(給料)を出していましたが、秋から冬にかけての半年ほどしかできない季節産業で、毎年秋に従業員を集めて製造するというのでは、会社も従業員も手持ち無沙汰だったので、今治の親戚に従業員向けの縫製の仕事を手配したりしていました。私は欲張って芋菓子と縫製の両方をやろうと思ったのですが、実際にやってみると、両立はできない、と諦め、芋菓子製造の方は、得意先を全部別の方に紹介して辞めてしまいました。」

 ウ 販売
  
 「私(Aさん)は就学前に祖父に連れられ、大阪の親戚の家で何日か泊まった記憶があります。寒い時期での商売でしたので、祖父はマントを着て、駒下駄のようなものを履いて、傘と茶色の四角いボストンバックを持って、宿を転々としながら、一週間ぐらい得意先を回っていました。北陸地方へも行っていました。商品は持たず注文を取ってから商品を納め、後で集金に行くという形態で行っていました。卸屋さん、乾物屋さん、昔は万(よろず)屋といえば八百屋さんで、小間物まで売っているような店が多かったです。各芋菓子製造業者は、それぞれ得意先を持っていましたが、青果卸売市場にも出荷していました。芋菓子は生鮮モノではないので、単価を製造業者が決めて交渉をしていましたが、商品に少しでも品質が悪いものがあったりすると、値が引かれることもありました。売り掛けして、代金が回収できずに倒産した事業所もあります。販路は、愛媛、香川、山陽、山陰、近畿、北陸地方などのほかに、北海道に送った業者もいました。関東や九州では元々芋菓子が作られていたので、出荷することもあまりありませんでしたが、岩城の芋菓子を好まれる方のために、少しは出荷していました。」

(2)芋菓子作りの方法

 ア 原料

 「自分(Aさん)の畑で作ったイモは、芋菓子の材料として使用していました。近隣の、大三島(おおみしま)、生名島、因島、伯方島、広島の向島(むかいしま)など、瀬戸内海は夏場に乾燥する地域なので、イモの栽培に適していました。私が子どものころに、『アメリカ芋』と呼んでいた白イモは、ふかしイモにしても焼きイモにしても、ポマード(整髪用のねり香油)のように柔らかくなるので、『鬢付(びんづ)け』といわれていました。こういうイモは揚げても、食感がカリガリとせず、フニャフニャになってしまって芋菓子には不向きなのです。イモといってもいろいろとあって、原料にするのは、イモ自体が固く、蒸(ふ)かすとホクホクとなるイモです。
 昔から、芋菓子の原料となるのは、『げんき芋』や『源氏芋』と呼ばれるイモでしたが、戦時中には、食糧難の中で大量生産できる『高系4号』が、芋菓子の主な原料になりました。『高系4号』は身が固くて、昔からあるげんき芋に近かったです。」

 イ 作業

 「私(Bさん)は、朝4時に起きて、すぐに工場へ行き一釜ごとに熾(おこ)し火をして石炭をたき付けていました。そして、職人たちが出勤してきたら家へ帰り、食事の支度などの家事をしていました。姑(しゅうとめ)が元気な間は、家事を手伝ってくれていたので、時間があるときには、工場の仕事を手伝っていました。
 芋菓子作りは、朝の早い仕事でした。夏は、早朝から明るくなっていますが、冬はまだ真っ暗な中で石炭を燃やし、イモを揚げるために1時間くらいをかけて、油を一定の温度まで上げていました。子どもが小さいときには、妻は子をおんぶして作業をしていました。私(Aさん)は、その日の芋菓子作りの作業が終わると、外に置いている石炭から、翌日使用する分を準備し、工場の中の後片付けをして、夕方4時から5時ころに仕事を終えていました。後に、主なエネルギー源が石炭から石油に代わる中で、工場の燃料も石炭から重油に変えました。屋外に重油タンクを設置し、そこから油を送って、各釜を点火していました。点火したらすぐに油の温度が上がりました。火種がいらず、点火するときに使う点火剤が必要なだけでした。油の温度を上げ、また、水や砂糖を沸かすために、熱源は必要なものでした。その熱源は石炭から石油へ、そしてガスヘと変化していきました。また、製品を入れる包装材も茶封筒のような紙袋から、セロハン、ポリ製品になり、電熱で密封できるものへと変化しました。
 端を落としたイモをカンナのような道具を使って削って、揚げる前の形にしていましたが、後に機械を導入して作業をするようになりました。機械は、刃の上下の角度によってイモの厚みを調整することが可能で、芋菓子の切り口が正方形になるように作ることができるものでした。芋の端は、家の前の浜で天日干したのを、醤油(しょうゆ)の醸造元(じょうぞうもと)が買いに来ていました。イモは形が丸いので、どうしても端々に屑(くず)ができます。自分で利用できないかと考えたこともありましたが、そこまではできませんでした。
 切ったイモは、1日置いてから翌日に作業します。切ったその日に作業をすると、イモの水分が多くて、油で揚げる際に効率が悪くなります。揚げる時間が少し長いとイモが固くなり、少し短いとフニャフニャになってしまうのです。切ったイモをどのくらい置けば良いかというのはこれまでの経験による勘です。切ったイモをザルに入れ、表面の乾燥具合によって作業します。
 工場内では、浜辺でイリコを茹(ゆ)でるのに使うような直径90cm程の大きな釜が8基並べられ、一人が4基担当し、二人で作業していました。油断するとイモが黒焦げになってしまうので、それに目配りしながら、昼休みのときには交替しながら作業をしていました。一人が4基を調整しながら、順に揚げていけるようになると一人前でした。職人は皆、それぐらいの腕をもっていました。石炭を使用していた時には、かまどから出る煙を煙道に集めて、真ん中に煙突一本を建てて煙を屋外に出していました。素焼きで、暗渠(あんきょ)に使うような、円形に積み上げた煙突でした。黒煙が出るので、近所に迷惑をかけないように、かなり高く立てられた煙突でした。年に1回は煙突の煤(すす)掃除をします。煙突の上から滑車に藁(わら)をつけて、ボンボン(毛糸や羽毛で作った丸い房)みたいにしたもので、煙突の内側の煤を落していました。垂油に切り換えてからもしばらくは、煙突を残していましたが、風が強い日には揺れて危険なので、無用の長物となり、除(の)けてしまいました。
 揚げる作業は、金網の杓文字(しゃもじ)のような道具を使って、色、手触り、油を混ぜるときの音などに神経を使いながら、経験と勘で、固すぎず、柔らかくなりすぎないように揚げていきます。
 袋詰めで出荷する以前は、木箱を使用して出荷していました。杉板を今治の製材所でそろえてもらい、箱作りを専門にする人が作業場にいました。子どもたちは、『箱じいちゃん』と懐いていました。リンゴの木箱を半分にしたくらいの大きさで、箱の内側には油を通さない紙を敷き、芋菓子を入れていました。木箱には○共の赤いラべルを貼り、蓋をして、縄で荷造りをして、大八車で港まで運び、夕方に渡海船に乗せて今治や尾道に出荷していました。」

 ウ 菓子作りの合間

 「芋菓子作りは夏場には材料のイモがなくなるので、その間は農業をしていました。米、麦、イモなど、自分の家で食べる分だけを作っていました。子どもの時は農繁休暇が年に2回、春と秋にありましたが、農作業を手伝わされるのが嫌でした。春は麦刈り、イモ植えは5、6月ころ、秋は稲刈りとイモ掘りをしていました。親戚の中で農地を持っていないいとこたちも手伝っていたのを憶えています。
 私(Bさん)は、畑の野菜や麦に下肥(しもごえ)をかけるのに、リレー方式で畑まで運搬するのを、手伝わされたのには驚きました。実家(大西町)では、田植えを手伝った事はありましたが、下肥の作業は男性の仕事で、女性がすることはありませんでした。」

 エ 現在の芋菓子工場

 「芋菓子は、イモを千切りにして、油で揚げ、砂糖蜜を絡めるという簡単な製造工程でできる庶民的なお菓子で、高級品ではないので販路が限られ、新規での販路開拓ができませんでした。戦後間もないころには岩城だけで11軒の工場が製造していましたが、高度経済成長とともに減っていき、現在では2軒だけとなりました。
 岩城では、大正末期から昭和30年代前半まで、造船関連の企業などの経済効果で、電気代の集金が滞りなくできたというエピソードがあります。それは、製造業者はもちろん、製造に携わる従業員の方々にも現金収入があったということです。芋菓子製造業も、地場の経済にかなり貢献したと思います。」


<第1章の参考文献>
・日本旅客船協会『旅客航路事業現況表』 1959
・生名村『いざな』 1964
・愛媛県『県政グラフ No. 38』 1969
・朝倉書店『日本図誌大系 四国』 1975
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・佐伯増夫『島に生きる』 1983
・弓削町役場『弓削町誌』 1986
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』 1986
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・魚島村『魚島村誌 魚島村のあゆみ』 1996
・弓削町『弓削民俗誌』 1998
・生名村『生名村誌』 2004
・魚島村『魚島村施行一〇八周年記念写真集』 2004
・愛媛県教育委員会文化財保護課『愛媛県の近代化遺産』 2013
・魚島村『広報うおしま』