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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 カツオの一本釣り

 カツオの一本釣りは、かつては20t以上のカツオ船(ぶね)が操業していた時期もあったが、現在、20t以上(昭和57年〔1982年〕以前は30t以上)の船は国の操業許可が必要となるため、20t未満の漁船が、愛南町の深浦(ふかうら)港を拠点に操業している。
 愛南町でカツオ釣り漁業が発達したのは、明治時代後期(20世紀初頭)にカツオ漁船の動力化が進められ遠洋からの持ち帰りが可能になったこと、製氷技術が進んで長時間の保存が可能になったことなどが挙げられる。櫓漕(ろこ)ぎの漁船で近海でのみカツオ漁を行っていた明治40年(1907年)に、西外海村福浦(現愛南町)の猪崎保直が、カツオ船に石油発動機を付けて操業を始め、沖合や遠洋に行くことができるようになって漁獲量が増大した。
 明治期から昭和23年(1948年)までの統計では、水揚げ高が1,000tを超えることは稀(まれ)であった。カツオ船に餌(えさ)のイワシを生かす方法と散水器が導入されたのは昭和4年(1929年)で、次第に漁獲が増え、昭和35年(1960年)以降は、2,000t前後で漁獲量が推移している。カツオの餌は、小型まき網で漁獲された5、6cmのカタクチイワシを使う。漁場は、高知県沖が多く、鹿児島県沖まで出て数日間操業する船もあるが、暴風など特別なとき以外はすべて深浦港に水揚げされている。
 昭和20年代に深浦で行われていたカツオの一本釣りについて、Aさん(大正11年生まれ)から話を聞いた。

(1)カツオを釣る

 ア 漁場へ行く

 「私が乗ったカツオ船は、大福(だいふく)丸、国栄(くにえ)丸、新勝(しんしょう)丸、南洋(なんよう)丸などでした。行き先は、西沖(にしおき)や前沖(まえおき)などの近海が多く、一番遠いのが宮崎沖です。西沖は、鵜来島(うぐるしま)や姫島(ひめしま)の南西、宮崎県との境、豊後水道(ぶんごすいどう)の南の海のことです。それに対して、土佐清水(とさしみず)(高知県)の南西に前沖(まえおき)の瀬があります(図表2-3-1参照)。1日で帰って来られる漁場(りょうば)ばかりでした。
 漁船は20t級で、15人から20人が乗り組み、片道6時間かけて沖へ出ます。漁期は、4月から7月までの4か月で、薩摩(さつま)(鹿児島県)沖より半月遅れ、紀州(きしゅう)(和歌山県)沖より半月早く、年に70日くらい漁に出ていました。
 カツオ船の出港は普通、午前3時から5時ごろまでで、早朝のうちに餌を手に入れて漁場に向かいます。餌になるゴマメ(小イワシ)は、奥内(おくち)(宿毛(すくも)湾の大島や大藤島(おおとうじま)の近く)や久良(ひさよし)、当木島(あてぎじま)の辺り、あるいは内海(うちうみ)や御荘湾(みしょうわん)、岩松(いわまつ)湾(宇和島市津島町)でとれるので、それを買い付けるのです(図表2-3-1参照)。小さい船が海でとった直後に、網で生かしている魚を買うのがよいのです。長く時間をあけると生きが悪くなり、カツオがはえ(カツオが、競って餌を食べることを『はえる』という)なくなります。御荘湾で買った餌は籠(かご)に入れて、死んだイワシを取り去って、元気なイワシで『生(い)け漬(つ)けイワシ』(生きたイワシを泳がせておく)を作ります。遠洋漁業など何日も沖にいる漁のときは、餌は生け漬けでないといけません。その代わりに値段は高くなります。内海の魚神山(ながみやま)へも砂浜に船を着けて餌を買い、船に積んでそのまま漁に行ったこともありました。
 生け漬けイワシに対して、『アライワシ』といって、その日に餌に使ってしまわないと、次の日には弱ってしまって使い物にならない餌もあります。当時は、朝早く出漁して夜に港するので、アライワシを使いました。ただ、元気そうなのは、港に生けて(港で生かして保存)使う場合もありました。餌は、『表カンコ』と『トモカンコ』(カンコは『生間』と表記、ともに餌保管場)に入れていました。同じ餌でも分けて保管した方が、漁のときに便利だからです。カンコの中で、イワシの群れが円を描いて泳ぎ始めると、朝の『カンコ番』の勤めは終わりです。
 奥内で生けても(餌のイワシを生かしたまま網からカンコに移すこと)、深浦の沖で生けても、前沖(足摺岬西方の沖合)に出るには『股口(またぐち)』を通ります。股とは、蒲葵島(びろうじま)と沖ノ島(おきのしま)の間の瀬戸のことで、蒲葵島と鰘碆(むろはえ)の間は『陸(おか)の股(また)』といいます(図表2-3-1 参照)。
 釣りで使う竹は、前もって緑(みどり)や一本松(いっぽんまつ)(いずれも愛南町)、藻津(むくつ)(高知県宿毛市)に行って切りました。また、若い人がカツオ釣りを練習するのに、桐(きり)や松の木を使っていました(軽い桐から重い松に替えて練習する)。港に着けた船や岸から、釣り竿(ざお)につけた桐の丸太を海に放りこんで、シャーッと釣り上げ、脇で受け止める練習をしていました。」

 イ 漁をする

 「カツオ船では、先端の立つ位置によって役の名前が付いていて、『ヘノリ(舳(へ)乗り)』、『ヘノオモカジ(舳の面舵(おもかじ))』、『一番ジャクリ』と呼ばれる人がいました。ヘノリが船の先達(せんだつ)(経験を積みほかの人を導く人)をします。ヘノリは若く、一番ジャクリは年輩の人です。ヘノオモカジは、ヘノリを経験してはいますが、まだ若い人です。年が上の人は、艫(とも)の方(船尾)にいます。先達で熟練した人が『トモノマエ(艫の前)』です。『ウワドモ(上艫)』は年をとった人、『カジノウエ(舵の上)』は年をとってはいるが経験が少ない人の場合が多いです。『エサ投げ(「エサやり」ともいう)』は、カンコから移した生き餌(え)を、小さいタマ(たま網)で海に投げる人の立つ位置です。
 カツオの遊泳水温は18℃以上ですが、カツオがよく釣れるのは21℃から23℃ぐらいです。
 カツオの群れのことを、『ジナムラ』『木付(きづ)き』、『クジラ付(づ)き』、『車輪付(しゃりんづ)き(飛行機の車輪に付く)』などと呼んでいました。ジナムラは、普通の魚群のことです。木付きとは、台風などで川から海に流れ出た流木に、小さいセイ(カメノテと呼ばれる生物)が付き、それを求めて小さな魚が付き、さらにハゲ(カワハギ)などが付き、それを餌にするカツオもその周囲を遊泳していることを言います。クジラの後ろに付くカツオを『クジラ付(づ)き』とか『クジラ子(ご)』といいます。クジラがイワシと水を一飲みにして水を吐き出すとき、こぼれ出たイワシを狙っているカツオのことです。
 木付きのカツオはよく釣れます。流木のすぐ近くには、ハゲやビンタ(マグロの一種で胸鰭(むらびれ)が長い)、ヨコ(マグロの幼魚)がいて、その外側にカツオがいるのです。木に近づいて釣ると、ビンタが釣れるのですが、ビンタは針を咥(くわ)えた口が閉まっているので、針からはずしにくく、ビンタの口に指を入れて針をはずす作業がいるのです。一方、カツオは、口を開けたまま針にかかって釣り上げるので、パカッと針からはずすことができる上に、釣れやすくて値がよく、鰹節にもなります。ですからビンタの多くいる流木のそばでかう(餌を撒(ま)いて釣る)ことをせず、流木から遠巻きの所でかうのです。時々、ナムラ(魚群、『ナブラ』ともいう)の上に『鳥山(とりやま)』があります。鳥山というのは、マトリ(カモメの一種)がナムラの上で群れていることをいいます。そこの海には餌(えさ)になる魚がいるので、クルクル舞っているのです。当時はまだ魚群探知機がカツオ船に装備されていなかったので、船頭(船長)は、4km先の鳥山を見て、カツオのナムラを探し当てていました。
 木付きは、黒潮の流れに沿って、西から東へ流れていきます。西沖へ出漁すれば、木付きに当たる可能性が高いのです(図表2-3-1参照)。西沖では、潮に乗ってナムラが動くのですが、ほかの船がたたいてない(釣っていない)のでよくとれるのです。一方、瀬があってイワシや小魚がいる前沖にはカツオも滞留しているので、カツオ船は、西沖で漁がなかったら前沖へ集まります。前沖では、たたかれ(釣られ)、たたかれしているので、食いが悪く(漁獲が少なく)なります。ですから、西沖へ行く方が、楽しみが大きいのです。
 釣り針には、『カブラ』という疑似餌(ぎじえ)を使います。疑似餌は、鳥の毛やハゲ(カワハギ)の皮で作ります。ハゲの皮はヤスリの代わりに使うくらい丈夫なので、鳥の毛が針から外れないように、上に付けるのです。
 カツオのナムラがいるかどうかを調べるために、船の艫(とも)(後方)から引き縄を2本流し、それに一つずつ付いているカブラでカツオを釣ります。このカブラに流れものの魚がかかっていると、ナムラのカツオが食い付かないので、時々は縄を引き揚げて点検します。いいナムラなら、『引き縄でカツオが食うたぞ(釣れたぞ)。』と叫ぶと、エサ投げ(エサやり)が餌を海にまきます。すると、バーッとカツオが食い付いてくるのです。ナムラをかいつけた(カツオの群れが餌を食べた)ら、乗組員はどんどん釣っていきます。しかし自分は、引き縄(30mくらい)を揚げるのに時間がかかって釣ることができず、慌てることが度々ありました。
 海上で風が吹くとさざ波が立ちますが、海の下に大きなナムラがあると、ナムラの上だけ、海面が鏡のようにペターッとなります。そうなると、『絶対大きなナムラだ、とろみだ。』と沸(わ)き立ちます。とろみというのは、カツオの塊(かたまり)(群れ)のことです。カツオのナムラは足が速く(動きが速い)、船で追いつかないようなナムラもあります。とろみがあると、群れの先兵みたいなカツオが、海の上でチョポッ、チョポッと跳ねるのです。その1本(カツオは1本、2本と数える)が跳(と)んだのを見て、餌をまくとバーッと食い付いてくるのです。『餌(えさ)知らせ』は、餌を海上に落とすことをいいます。大きなナムラになると、カブラを入れさえすればどんどん食い付くのです。海面から跳びあがってカブラに食い付くカツオさえいます。餌を取り合うように競争しているのです。
 カツオは、腹いっぱいになっているものがよく釣れます。カツオは餌のホウタレを追い回して食べますが、カツオに追われたエトコ(ホウタレが集まって塊(かたまり)になっているもの)が海の上に浮き上がることがあります。その近くに行って、ホウタレを網ですくってカンコ(餌を保管する場所)に入れることもありました。
 カツオがはえていないとき(餌を食う気があまりないとき)は、生き餌で釣ります。そのうちカツオが狂うてくる(見境なく餌にとびつく)と、カブラ(疑似餌)に変えます。船は、右を面舵(おもかじ)、左を取(と)り舵(かじ)といいますが、『カツオをかう』のは、取り舵の方でかう(取り舵の側でカツオを釣る)のです。竿(さお)の長さは3mか4mくらいですが、よく食うときは短い竿で釣ります。
 木付きなど、よく釣れるときは船頭(船長)が胴の間で、ホロという道具で釣ることがあります。ホロは竹の長さが1mくらいで短く、1尺(約30cm)くらいの糸の先に少しカギ形の針が付いています。船頭が胴の間近くの台張りに座り込み、竿の先を海面に落とすとすぐカツオがかかる、それをピンとはね上げ胴の間へ、間髪を入れず次のカツオをはね上げる、この動作が続くのです。つまり、初めのカツオが胴の間に落ちようとする時、次のカツオが宙に舞い、その次のカツオが海面から跳び上がっていて、3匹が宙に舞っているのです。たくさんカツオを釣り上げると、乗っていられないくらい船が傾きます。
 ナムラが食いだす(カツオが釣れ始める)と、船を、面舵(右舷)に風を受けるようにして流して行きながら、散水器をかけます(使います)。散水器があるとないとでは、まったく漁獲が違います。船の大きさによって本数が違いますが、普通、船の前の方に6本くらい、艫の方(後方)に5本くらいあって、一斉に海水が出ます。
 散水器で水を撒(ま)くのは、雨が降っているかのように魚をだますんじゃないかと、私は思います。上からシャーッと水を撒くと、海面にしぶきが立ちます。すると、雨が降っているように魚には見えます。だいたい魚は、晴れた日よりも曇った日の方が釣れるのです。雨が降ればよく釣れます。雨が降ると、餌になる小さい魚が海面近くに上がってきます。カツオには、雨のしぶきが、ゴマメやキビナゴが泳いでいるように見えるのではないかと思います。また、カツオに追われたイワシが水の上で跳ねているように見えるからだとも言われます。カツオをカブラ(疑似餌)で釣るには、散水器を使わないと釣れません。
 カツオを釣っている最中に、釣る人が体に付けているバンドなどを海に落とすと、いっぺんに魚が逃げて食わなくなることがあります。それから、餌や釣ったカツオのうち、死んだものを海に流すと、カツオの食いが悪くなります。
 木付きのときは別ですが、普通、カツオが一度に釣れる時間は短く、長くて30分、普通10分から20分でかいかえます(撒(ま)き餌(え)をしてカツオを釣る)。釣っているときは忙しく動き回らなければならないので、少し時間がたつと、年寄りの人はせいがたとうた(疲れて動きが鈍くなる)ようでした。たくさん釣れると、船は取り舵側(左舷(さげん))に大きく傾きます。そこで、2、3人で面舵側(右舷)に魚を移す『荷直し』になります。カツオの荷直しを終え、船をおがいます(海水で洗いす)。顔を洗って後始末を終えると、『かい上げ(カツオ釣りが終わる)』になります。」

 ウ 漁を終えて港へ帰る

 「漁が終わると、カツオ船は、釣ったカツオでぎっしりになります。船の側面に台張りがあると、船が横転しにくく、釣ったカツオを中に収めることもできます。脇バリには、氷を入れておきます。氷は最初氷室に入れておき、カツオが釣れると脇バリで氷漬けにします。
 カツオは氷漬けしておかないと売り物になりませんでした。大きな氷は運びにくく危ないので、氷を四つ切りにして、小さくしていました。私が木付きのカツオをとっていたころは、とれ過ぎて台張りだけでは入りきらないので、カンコにも釣れたカツオを入れました。詰め込んだカツオが動くと皮が剥(は)げて値打ちが下がるので、その上に畳(たた)んだ帆を置いて、さらに錨(いかり)を重しに置いてカツオが動かないようにして、港に戻りました。
 入港するときに船に旗を立てるのは、時代によっても違いますが、私らのころ(昭和20年代)は、大体400貫(約1.5t)から500貫(約1.9t)釣ったら1本でした。700貫(約2.6t)から800貫(約3t)なら2本、1,000貫(約3.8t)なら3本でした。
 『沖上がり(漁後の宴会)』は、漁があってもなくても(漁獲の多寡にかかわらず)、必ずありました。日和(ひより)が悪かったら、『オヒヨリモウシ』といって、よい日和になるように祈念して宴会をしていました。」

(2)カツオ船とともに

 ア 脇バリの穴でとり損なう

 「木付き(流木の周囲を遊泳するカツオの群れ)は、西の方から土佐沖の方へ流れて来ますから、今日のヤマ(よく釣れた場所)をちゃんと確かめておいて、今の潮の流れなら明日はだいたいどの辺りになる、と予想し、翌日はそれを目掛けて船を出すのです。そのようにして何番(何回)も釣っていました。
 昭和25年(1950年)には、後から後から何番も、木付き、竹付き(海に流れ込んだ竹に付いたカツオの群れ)、車輪付きがやって来たのです。沖ノ島沖に、オカ、ナカ、オキと3列になって漁場がありました。普通なら、潮が動かないと魚は餌を食いませんが、その時の木付きでは、昇り潮がピタッと止まっていても何ぼ(いくら)でも食うのです。当時、カツオ船が、深浦には 10杯(ぱい)(隻)ほどおったし、久良(ひさよし)には20杯(隻)ほどいましたが、皆、『今日はオカじゃ。』『今日はナカじゃ。』とそれぞれ都合のよい漁場へ行って釣っていました。毎日毎日、1杯(隻)で少なくとも500貫(約1.9t)から1,000貫(約3.8t)の水揚げがありました。深浦にたくさんカツオ船が戻って来て、市場に揚げるのに一度に2、3杯(隻)しかできませんから、港で待つのです。そういうことが、盆の1か月前から盆過ぎまで、1か月ほど続きました。がいなもん(すごいこと)でした。ああいうことは珍しいです。
 反対に、船に問題があって残念なこともありました。垣内(かきうち)(深浦の東隣にある集落)の南海(会社の名前)が大野造船に作らせたカツオ船を川村水産が買収し、南洋丸と命名してカツオ漁を始めたのです。この船長が私の父で、私たち兄弟3人もそれに乗り込んで出漁しました。
 船の船底はキールといい、それにあばら骨のように骨組みを立て、その骨組みにベンコという広い板を貼(は)ってボルトで留めて船の形にするのです。ところが、機関室のにき(近く)の板に、穴があるのにボルトが入っていない箇所があったのです。
 漁場へ行って、カツオがむしくるほど(たくさん)釣れて、船体が傾いたのですが、しばらくすると、穴から機関室へ海水が入りだしたのです。当時は焼玉エンジンでしたから、『これはいけんどぉ。』ということで、私のような若い者は、アカトリ(機関室に溜まった水を汲(く)み出す)で忙しく、カツオ釣りどころではないのです。スクリューに向けてシャフトがある辺りが、水で一杯になるので、どんどん汲み出さないとエンジンが使い物にならなくなるのです。海では何ぼでも食うのに(カツオが釣れるのに)、釣れたカツオを満載した船が沈んだらさっぱり(元も子もない)ですので、水汲みばかりなのです。艫(とも)の所を開けて、そこから水を汲み出し続けました。
 騒動をしているところへ、同じ深浦の幸生丸(こうせいまる)がやって来ました。最初、遠くで南洋丸を見ていた幸生丸の船頭が、『ありゃ。こりゃどうも、南洋丸は、おかしな動きをしよるぞ。』と言いました。ところが、幸生丸に乗り組んでいた年寄りが、『なぁーに、南洋が何や(カツオが釣れるものか)。』と相手にしてもらえなかったそうです。確かに、人が足りなくて、南洋丸の乗組員はカツオ釣りの素人(しろうと)が多かったので、漁獲は大したことないと思われていました。しかし、幸生丸のオヤジ(船長)が、『どうもおかしい(たくさん釣れているのかもしれない)。南洋丸の方へ行てみるか(行ってみようか)。』と言って、やって来たのです。その時、幸生丸は、餌がトモガンコにはなく、表ガンコだけに残っていたのですが、2番手ながら800貫(約3t)も釣ったのです。私ら南洋丸は1,300貫(約4.9t)でしたが、浸水がなければ、3,000貫(約11.3t)くらいは釣れていたはずです。まことに残念の極みでした。」

 イ 土佐沖で遭難しかける

 「昭和22年(1947年)には、私は大福丸に乗っていました。大福丸は、かなり古くなった船を土佐から買(こ)うて来たもので、少し小さい船(15t)でした。
 戦後すぐのころは、焼玉エンジンの燃料の重油が入手しにくく、代わりに松根油(しょうこんゆ)(松の根株を加熱し揮発させて得た油)を使っていました。この油は、ゴミが多く、そのためエンジンのノズルがよく詰まってしまうことから、エンジンを止めてはノズルを洗って起動させていました。出漁した時、私が『30分おきに止まるのかな。』と尋ねると、機関長をしていた私の叔父が『しようがないが。』と言い返しました。
 大福丸で土佐清水(とさしみず)の沖へ出漁していた時、海が時化(しけ)になってマジ(南の風)が吹いていましたが、『もうすぐオオニシ(北西の強風)やけん、沖へ出るどころではなくなる。今夜のうちに帰ろう。』ということになり、大きな船は皆、帰ってしまいました。『どがいすら(どうしようか)、どがいすら。』と言っているうちに、ほかの船は皆いなくなりました。大福丸は、風が強くなったころになって初めて、『いんでみるか(深浦港へ帰るか)。』ということになり帰り始めましたが、それがいけませんでした。もっと早く帰ればよかったのですが、風が一番強くなったころに、遅まきながら帰り始めたのです。清水港を出て叶崎(かなえざき)(図表2-3-1参照)の灯台の近くまで帰ったら、灯台がパアッ、パアッと灯光を出していました。『ここまで来たけん、どがいすら。』とだれかが言うので、『どがいすら、いうたち、もういぬる(帰る)以外なかろが。今から清水へ引き返す、いうたち、いけまいが。』と言いました。
 だんだん波が三角波(方向の異なる二つ以上の波が重なり合ってできる波)のようになってきました。それを見て、叔父の機関長が『いけん、陸(おか)が近いぞ。危ないから風上に行け(沖へ出よう)。』と言って、マジ(南風)に向かって船を進めました。柏島(かしわじま)の向こうに大堂(おおど)海岸(図表2-3-1参照)がありますが、そこの陸にまで行っていたようです。そこで、私ともう一人の乗組員は、身体に巻いたロープをデッキの所に縛りつけて流されないようにしておいて、竹の筒でアカトリ(機関室から排水する)をしました。機関長から『船が止まったらいかんけん。ええか、お前らの頑張りにかかっちょるんぞ。』と言われました。甲板の下はカツオをいれる船倉なのですが、その上の板が風波で飛ばされてなくなってしまいました。私たちは一生懸命、アカトリに励みました。
 そのうち夜が明けて山が見え始めました。『おっ、あれが朴崎(ほうさき)ぞ。』『よし、これやったら古満目(こまめ)へでも入るか。』と言って、大堂海岸の東の古満目港に入りました(図表2-3-1参照)。古満目の港には、一杯トロ(1隻で底引き網を引く)が3杯(隻)入っていました。普通、トロ(底引き網漁)は2杯(隻)で漁をするのですが、高知では一杯トロというのがありました。それが嵐を避けて、錨(いかり)を船の前に2丁、後ろにも2丁下ろしていました。
 あのまま海の上でごぞごぞ(ぐずぐず)していたら、船が波でやられていたかもしれませんでした。この時に限って、なぜか、ノズルがいっぺんも止まりませんでした。松根油を使っているので、普段は30分から1時間に1回止まって、そのたびにノズルの掃除をするのですが、この時には3時間ほど1度も止まらなかったのです。奇跡だと思い、『こがいなことがあるもんかね。』と言うと、信心深い機関長は、『ずうっと「石鎚山(いしづちさん)、頼みます。」と唱えておった。』と言いました。
 しばらくして、『何ぞ炊(た)くか(食べるか)。』との声がありましたが、炊くものがありません。釜のある所は水浸しで火が点(つ)きません。『いけんねぇ。思い切って、このまま帰るか。そのうちヤマジ返し(ヤマジ〔西風〕からニシ〔北西の風〕に変わる)でオオニシ(強風)になったら柏島(かしわじま)を回れんぞ。』と話し合って帰港することにし、何とか深浦に帰ってきました。
 帰って岩水(いわみず)(深浦の対岸にある集落)のドックに船を持ち込み、船大工が船底をタンタンとたたいたら、コポッと穴が開きました。あきれた船大工さんが『よう、こがいな船に乗っちょりゃ。』と言いました。船が古くて穴が開いたのですが、よくもっていたものです。
 深浦では、東の風はコチで、南東の風はイナサといいます。マジは南、シモマジは南西の風です。真西はヤマジといいます。ニシというのは北西の風です。風が強いとオオニシと言います。雨が降ったりすると、その後は必ずオオニシになります。そうすると、柏島にキュウガハエという所がありますが、そこと蒲葵島(びろうじま)との間の瀬戸を曲がって前沖から宿毛湾に入るのが難しくなるのです。」

 ウ 餌を求めて奄美大島へ

 「昭和20年代の終わりころ、この辺りだけでは漁場が狭いので、将来は、南方の屋久島(やくしま)や口永良部島(くちのえらぶじま)辺りへ行って漁をしなければならんのではないか、それなら、その近くで餌がとれるかどうか調べようということで、鹿児島県の奄美大島(あまみおおしま)へ行ったことがあります。戦前、私の父親の時代には、冬場になると、サバを釣りに山川(やまがわ)(鹿児島県指宿(いぶすき)市、鹿児島湾の湾口にある港)を停泊地にして、屋久島、口永良部、種子島(たねがしま)周辺の海で、灯(ひ)をたいて(集魚灯を使って)釣っていたので、鹿児島県へ行くことになったのです。
 私は深浦漁協の理事をしていましたので、昭和29年(1954年)、理事5人で鹿児島県へ視察に行きました。当初、旅行の行程表では、八幡浜から九州へ渡り、国鉄で南下し、鹿児島市を経て山川へというコースでした。それが突然、地元の鶴島丸が明日九州へ向けて出航するので、これに便乗して旅費を節約しようという話が舞い込み、急きょ、深浦から鶴島丸に乗り込みました。天気もよく順調に船が進んで、午前4時過ぎに油津(あぶらつ)(宮崎県日南市)に入港し、初めて九州に上陸しました。ところがここで、大変な案違(あんたが)い(考え違い)が生じたのです。油津の港から国鉄の駅に向かい、駅で時刻表を見て驚きました。私は地理に詳しいと自信を持っていたのですが、日南(にちなん)線(宮崎市の南宮崎駅から鹿児島県志布志市の志布志駅までを結ぶ)にある油津が日豊(にっぽう)本線(北九州市の小倉駅から大分駅、宮崎駅などを経由して、鹿児島市の鹿児島駅までを結ぶ幹線。南宮崎駅で日南線が分岐する)の駅だと勘違いしていたのです。時刻表を見ると、油津から南宮崎に行く列車は1日にわずか数本で、しかもバスの運行も数本しかありません。万事休す、という状態でした。
 しかし、致し方ないので、まずは朝食をということになり、駅前の食堂に入りましたが、ここでまた大失敗をしました。それは酒です。食堂で、『まずは、九州上陸第一歩のお祝いにお酒を飲もう。』と酒を5杯注文したのですが、出てきたのは日本酒ではなく、イモ焼酎のお湯割りでした。
 そんな失敗がありましたが、列車を乗り継いで山川へ行き、戦前から付き合いがあった地元漁協の方にお会いして鹿児島湾の状況をお聞きしました。深浦からカツオ船で鹿児島の沖まで来ても、鹿児島にはよい餌がないとのことでした。カツオの餌にはゴマメ(ホウタレの子)が一番いいのですが、それがないのです。鹿児島湾にキビナゴはいるのですが、すぐに死んでしまうのです。『ゴマメがどこかでとれないか。』と、奄美大島まで探しに行くことになりました。
 鹿児島の人は方言が強く、言っていることが分かりにくいのです。奄美大島の古仁屋(こにや)(鹿児島県大島郡瀬戸内町)へ行った時、食堂があるので、そこのおばあさんに注文するのですが、言葉が通じないのか、おばあさんが手を振るのです。『おかしいな。』と思いながら、別の店でパンを買って食べていたら、その食堂で地元の人は食べているのです。『おかしいね。』『言葉が分かりにくかったんでしょうかね。私ら標準語で話したんですが。』と話していました。すると、地元の人から『標準語が分からん人がいますから。』と言われました。
 結局、奄美大島でもよい餌を見つけることができずに帰ることになりましたが、風土というか文化の違いに驚きました。」

(3)漁師のくらし

 ア カツオ漁の報酬

 「カツオ船の乗組員は、若い人は16、17歳でした。旧制の高等科(現在の中学2年生)を終えた後、船に乗ります。年配の人は60歳くらいではなかったかと思います。私が初めて船に乗った(漁船に乗り組んだ)のは、26、27歳のころでした。20代から40代が中心でした。比較的若い人が船長になって漁をしていたように思います。
 乗組員の報酬は、久良(ひさよし)は歩合(ぶあい)制ですが、深浦は等皆(とうかい)制です。久良では、船主が、餌代や食糧費、燃料代など『雑費用(ぞうひょう)』を全部負担して、四分六(しぶろく)(乗組員が4割、船主が6割)とか五分五分(ごぶごぶ)(乗組員と船主で等分)とか、収入を分けるのですが、深浦は違います。深浦では、船を持っている親方が船の分(ぶ)(取り分)を持っていて、私らが入った当時は、5人前か6人前を持っていました(後に11人前に増加)。そのほか、船頭が2人前、機関長が1人半前、ヘノリ(舳乗(への)り)が1人2分(ぶ)前、ヘノオモカジ(舳(へ)の面舵(おもかじ)、舳乗りを経験した古参)が1人3分(ぶ)前、船子(ふなこ)(一般の乗組員)が1人前、カシキ(学校を出てすぐの漁師見習いで、食事を作ったり餌をカンコに入れたりする人)は8分(ぶ)でした。それらを足して人数を出します。漁の水揚げから、まず餌代などの雑費用を差し引いて、残りを人数で割るのです。不漁のときは、久良の歩合制の方が船の乗組員にとっては比較的利があるのですが、大漁のときは、深浦の等皆制の方が、利益が大きかったです。

 イ 様々な漁

 「カツオ漁は、1年のうち、5月から6月くらいまでがよかったです。7月になると『照(て)り』といって、魚が餌を食わないし、いなくなります。10月、11月は戻りカツオの時期で、いったん三陸沖(青森県、岩手県、宮城県)まで行って大きくなり、脂(あぶら)がのったおいしいカツオが釣れることもありました。2月、3月は、ヨコ(マグロの子)を釣っていました。
 冬場には前沖でメジカ釣りをしていました。竿(さお)に付けた引き縄を船の後ろへ10本くらい出し、縄には『板シャブキ』という桐の板をつけ、海面すぐ下を這(は)わせてある程度の水深を保って、流しながら釣っていました。メジカが食い付いたら、板シャブキが浮かび上がるので釣れたことが分かります。また、昭和20年代の初めは、冬場にメブト(目太、メダイのこと)漁をしていました。
 戦時中のある年、『島内(とあい)』まで、マグロが入ってきたことがあります。島内とは、沖ノ島より北、姫島や鵜来(うぐる)島より東、鼻面(はなづら)岬までの海のことです(図表2-3-1参照)。それで皆釣りに行ったのですが、大きい船より小さい船の方が好都合でした。大きな船で漁をすると、マグロと船とで引っ張り合うので、糸が切れてしまうのです。小さい船は、無理に船に揚げようとしても、マグロが大きいので難しく、しばらくはマグロの泳ぎたいようにさせるのです。マグロの言いなりに船が動き、糸が切れません。そして、マグロが弱ったころに引っ張り上げるのです。
 私が子どものころは、祖父がアカモノ釣り(イトヨリやビッタレ〔アマダイ〕などの一本釣り)をしていたので、学校が休みの日にトモノオシ(艫(とも)の押し、船を漕ぐ役)で祖父と海に出ていました。深浦のアラセ(湾奥の満倉(みちくら)方面から湾口に向かって吹く、霧を伴った風)を利用して、帆をまいて(掛けて)当木島(あてぎじま)(當木島)方面へ向かいます。深浦湾から吹き出すアラセも白石(しろいし)を過ぎるとなくなり、当木のマエバラに到着します。少し北西に進むと水ノ子や烏帽子(えぼし)(烏帽子碆)の沖(北側)にアカハイという瀬があり、さらに進むと亀倉鼻の沖合にコトンドの瀬があります。
 アカモノの魚は、80尋(ひろ)から100尋(1尋は両手を横に伸ばした長さで約1.5m)の深い海にいました。海岸に近い所は大きな石がありますが、深くなるにつれて小さい石や砂になり、さらに泥のような海底になります。イトヨリやハランボは、浅い所にもいますが、ビッタレ(アマダイ)やコヅナ、シロコヅナなどは、深い泥の海底にいるのです。釣り糸を垂らして、海底に付けて待っているのですが、魚が泥に潜ってじっといる時があり、魚が餌にもたれかかるような状態になることがあります。そうすると、浅瀬にいるイトヨリが食い付いたなら、釣り糸にビビッと反応がきますが、深い海底の泥の中のビッタレやコヅナの場合は、ジワーッと釣り糸が重くなり、海底に付いている感じがしなくなります。そこでシャーッと糸を引くと、魚がかかるのです。」

 ウ 「おえべっさん」の信仰

 「カツオ漁に出るとき、朝は3時くらいに出港ですが、早いときは2時のときもありました。深浦の蘇家(そが)神社の境内に、おえべっさん(恵比須社)があります。おえべっさんは、タイを抱えた像が有名で、漁の神様ですが、それ(おえべっさんの神像)をだれにも分からないように船に積み込んで、船玉(ふなだま)さん(漁船の守護神として信仰されている神霊)のにき(近く)に据(す)えると、漁がある(漁獲が多い)とされていました。私らの船でも一度そうしていたのを憶(おぼ)えていますので、時々、そういうことをしていたようです。そして、お返しするときも、絶対に人に見られないようにして返していました。」
 話を聞かせてくれたAさんは、昭和29年(1954年)からは城辺町役場職員となって陸(おか)に上がり、その後、『城辺町誌』(昭和41年)の刊行にもかかわった。『城辺町誌』に、前沖の37か所の瀬の名前と位置が列挙され、漁場詳細図とともに掲載されているが、これは、Aさんが中心になって作成したものである。そして、Aさんは地元深浦の方々と一緒に、『深浦の移り変わり』(平成16年)を編さんするとともに、現在も深浦地区の歴史と文化を次世代に伝えようと努めている。

図表2-3-1 深浦のカツオ釣り関係地図

図表2-3-1 深浦のカツオ釣り関係地図