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愛媛の景観(平成8年度)

(2)汽車が走る

 ア 宇和の地に汽笛が聞こえる

 明治39年(1906年)から鉄道敷設を運動していた南予に、昭和16年(1941年)7月2日ようやく卯之町-宇和島-吉野生(よしのぶ)間(北宇和郡松野町)をつなぐ「宇和島線」が開通した。これで卯之町-宇和島間(20.2km)の部分運転が開始され、宇和の地にはじめて汽笛の声を聞くようになった。この日に限り宇和島市内の花街、飲食店の営業は正午から差し支えないと宇和島署から許可されたと言う。また、鉄道沿線の産業、風物詩について『海南新聞』(昭和16年7月2日付け)は次のように記している。
 「7月2日宇和島駅から下り卯之町駅行きに乗る。宇和島新駅は公費5万円の請負で建築され、その後内外の装備を終わり四国第一を誇るもの。外部に情緒豊かに表象する棕櫚(しゅろ)の植木が並び、駅内に宇和島観光協会の掲げた『宇和島城天守閣』・『闘牛』・『和霊神社』の大写真3枚が注目されている。(中略)汽笛一声躍進の旧吉田藩3万石の城下町から離れて、第一吉田トンネル、第二吉田トンネルを抜けると、みのりの秋は蜜柑(みかん)の村、黄金の里となる柑橘(かんきつ)畑の山々に包まれた立間(たちま)駅に着く、オレンジの花のあの薫りが車窓に漂っているような気がする。(中略)その後八つのトンネルを千分の30から千分の35の勾配(こうばい)で汽車が喘(あえ)ぎながら貫くと合間々々に宇和海の絶景と蜜柑畑を點綴(てんてい)する。路線の上は断崖絶壁で20年間定期バスが命を的に九十九(つづら)折して上り、九十九折して下りた本県難関中の最難関といわれた県道であろう。九つ目つまり宇和島から16番目のトンネルへ突入する。これが本県第2の大物法華津トンネルで延長1.6km、約3年の日数と50万円の工費を要したもの。長さは夜昼トンネルに劣るが、急勾配のため上り坂(下り列車〔卯之町行き〕)は通過時間が長く約10分、宇和島駅行きの上り列車では逆に3分足らずで突っ走ってしまう。トンネルを抜けると一瞬展開した平野に出る。標高200m、宇和盆地だ。『下宇和駅』を経て高原の街『卯之町駅』へ到着する。宇和島から1時間、宇和島へは47分である。」

 イ 開通ころの思い出(卯之町-宇和島間)

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 大正6年生まれ 79歳)
 昭和12年(1937年)から36年間国鉄(現JR)に勤務していた**さんに当時の思い出を語ってもらう。
 「卯之町駅に列車が到着するたびに、八幡浜駅の国鉄と連絡していたバス(宇和島自動車。定員33名、1日10往復。)に乗るため、卯之町駅前のバス停(現在観光案内図のあるところ)まで、乗り換える客の大きな塊がどっと殺到する光景が見られました。連絡バスはいつも超満員で、乗れないお客さんが毎便出る状態が続いていました。当時はこの卯之町-八幡浜間は交通地獄といわれ、すし詰めの上にカーブの多い山道をゆられて1時間余りかかり、それは大変だったようです。バスヘの乗り継ぎ客のこの混雑が一日も早くなくなるよう、八幡浜までのレールのつながることを願う毎日でした。
 開通時の駅前には、松葉で被われた祝賀アーチが建てられ、駅前道路の上空には万国旗が張り巡らされ、道側には氷屋などの出店でにぎわいました。また、連日汽車そのものを見物に来る町民もかなり見受けられました。
 利用客のほとんどは通勤・通学で、特に恩恵を受けたのは旧制中学校生だったと思います。ほかに、通称カツギ屋と呼ばれた行商人も多く、乗るのも降りるのも窓越しでという風景もありました。また、カツギ屋さんが1番列車で来たときは、駅前では小市場が開かれ盛況でした。
 当時の国鉄機関車は新形式の『C12型』が使用されていましたが、軍関係優先の時代で、地方に配給される燃料の石炭は粗悪品が多く、機関車のばい煙はひどいものでした。それに卯之町-宇和島間は急勾配に加えてトンネルが16本もあり、現在のように冷房装置もありません。暑い時期の通勤・通学には顔もシャツもすすだらけとなる毎日で、この状態は気動車に転換される昭和35年(1960年)12月まで続いたのです。」

 ウ 初の直通列車走る

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和5年生まれ 66歳)
 昭和20年(1945年)卯之町-八幡浜間の鉄道開通によって高松桟橋から宇和島まで直通列車が通うことになり、予讃線、宇和島線の名称も同時に「予讃本線」に統一され(北宇和島-吉野生間は宇和島線)、住民待望の処女列車が一般乗客を乗せて昭和20年6月20日に走り、陸の孤島南予にようやく陽光を見るようになった。宇和島-高松桟橋間の直通列車は1日2往復、宇和島-八幡浜間は1日6往復となっている。卯之町-八幡浜間は、所要時間約50分、距離はわずか14kmの近距離とはいえ、その持つ使命は大きく、南予の二大都市宇和島-八幡浜を直結させ、交通はもとより産業、経済、文化等各方面に大きく資することになった。開通時の利用状況や料金を松山駅、JR四国支社に問い合わせたが分からなかったので、前述の**さんに、記録がある予土線(当時は宇和島線)の3等運賃を参考に推定してもらうと、卯之町-宇和島間32、3銭、卯之町-八幡浜間22、3銭、卯之町-松山間1円30銭くらいではないかとのことであった。
 卯之町-八幡浜間の工事について、宇和町郷土文化財保存会の**さんに語ってもらう。
 「卯之町-八幡浜線は、昭和14年(1939年)5月に四国循環鉄道の一部として着工され、19年3月には悪戦苦闘の末、路盤工事はしゅん工されました。しかし、おりからの戦争激化のために、国内物資は極度に不足して、宇和町小学校の校庭にあった二宮金次郎の銅像も、溶鉱炉で兵器となってしまうような状況ですから、工事の継続も絶望的となってせっかく出来上がっていた路盤は荒れ放題になったのです。ところが戦局がいよいよ重大化してきた19年末に、本土の防衛にどうしても必要であると考えられて、20年2月に工事の再開となったのです。とはいっても、新線用のレールなどがないため、伊予鉄道の松山市駅-高浜間の複線を単線として、一方の線路を譲り受けるなどして、また、工事道具はシャベルとつるはしと人力で突貫工事が行われたのです。これは地元の人たちの鉄道への情熱による献身的な労力の奉仕によるもので、広島鉄道局が予定していた開通よりも10日早く1番列車を走らせたのです。」

 エ JR卯之町駅の風物詩

 (ア)宇和の夏に一役かいます

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和40年生まれ 31歳)
 「今年(平成8年)も6月27日宇和町の玄関口JR卯之町駅に夏の風物詩として、すっかりおなじみになったヘチマ棚と風鈴(ふうりん)、短冊が取り付けられました。
 昭和47年(1972年)町のイメージアップと乗降客に清涼感を味わってもらおうと、宇和町観光協会、町商工会が始めたもので、今年で25年目になります。
 取り付け作業には、商工会青年部、同婦人部、観光協会の職員等が参加して、ヘチマ棚に風鈴と俳句・川柳愛好者が詠んだ短冊が取り付けられ旅情効果も満点。取り付けられた風鈴は、さっそくホームを吹き抜ける風に心地よい音色を響かせていました。風鈴が登場すると、高原の町宇和町にも夏が駆け足でやってきます。『チリーリーン』と涼を運ぶ音色は、1日平均1,200人(卯之町駅調べ)の乗降客や夏休みを利用した帰省客を優しく迎えております。この風鈴の音色を楽しみにしているお客さんも多く、また、短冊を読んで感想を述べ合っているお客さんもおられます。この風鈴は8月一杯までそよ風に吹かれ乗降客に涼を運んでくれます。
 最近は他の市町村も同様の行事をやっておりますので、企画している青年部の中に、『新しいものにしてはどうか。』との意見が出ており、来年は新たな名物が登場するのではないかと期待しています。」

 (イ)身も心もぬくぬく

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和29年生まれ 42歳)
 「夏の風鈴とともに冬の風物詩として親しまれている『愛の火鉢』は毎年12月から翌年の3月末までJR卯之町駅待合室に設置されています。
 この火鉢は、乗降客に高原の駅の寒さを少しでも和らげてもらおうと昭和34年(1959年)から毎年町と観光協会が設置しているものです。
 昨年(平成7年)で、36回目の暖の奉仕となったのですが、その初日の12月3日、宇和町の朝の気温は5℃でした。観光協会、商工会関係の職員の手で、火鉢がきれいに清掃され設置されました。火鉢の大きさは、縦1.02m、横1.61m、高さ0.4m、期間中に使用される豆炭は約1t、その費用は町負担(年間約9万円)で、宇和町の顔として息長く活躍してくれています。
 乗降客は列車の待ち時間にこの火鉢の周囲に集まり、火鉢を通してほのぼのとした触れ合いの場が広がっています。」

 オ 娯楽の殿堂から町営駐車場

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 明治44年生まれ 85歳)
 昭和20年(1945年)に予讃本線が全通すると、それまで中心街としてにぎわってきた明石寺の登り口にあたる通称下中通りと県道の交差する四辻一帯から、同じ県道沿いでも国鉄卯之町駅に近い栄町、銀座商店街にその繁栄が奪われていった。**さんによると、卯之町駅前に家畜市場があって、春や秋には花市とか馬場市と言って盛大な牛市が開かれ、周辺の道端や広場には出店や簡易な見世物が出されていて大変にぎやかであったという。
 県道沿いに進出した商家は、中町から下りて来たものは少ない。卯之町駅北側の馬場とか栄町には、近在の岩城(いわき)(宇和町)あたりの農家が、また銀座商店街、旭町には、近在の田之筋(宇和町)あたりの農家が進出して商業を始めた者が多く、このようにして栄座の周辺に新しい商店街が形成されていった。
 この新しい商店街の中心地銀座商店街の一角(現卯之町3丁目)に、宇和町民ひいては東宇和郡内の住民の憩いの場として「栄座」が大正元年(1912年)建築され、その後、昭和2年(1927年)に火災で焼失したが再建築された。しかし、この栄座も時代の流れにはどうすることもできず、昭和48年(1973年)に60年の歴史に幕を閉じ、商店街通りが駐車禁止となったのをきっかけに、同年4月に解体された。その跡地には町営第一駐車場(駐車台数約50台)として無料の駐車場が完成した。
 栄座に18年間勤務していた**さんに栄座の思い出を語ってもらった。
 「わたしは、学校を卒業してから大阪へ左官の見習に行っていましたが、徴兵検査のため20歳の時に宇和町へ帰ってきてから、父親の仕事(左官)を手伝っていました。
 わたしは小さい時から、芝居が好きなものだからよく栄座に行っていました。そんなことから理事の方の世話で、出方(客の案内を職業とする)として勤めるようになり、大道具・小道具の係や幕引きなどもしていました。道具係は、その日の出し物に必要な道具を準備するのですが、道具が栄座にない場合は、他の市や町に借りに行っていました。また、左官の仕事は、栄座に興業がある、月に2、3日は休んでいました。
 栄座では、娯楽の少ない農村にあって名優の演技を見ることができ、また、浪曲や流行歌の公演も行われて町民は楽しんだものです。特に、終戦後は食糧事情もあったためか、宇和は米どころだということで、こんな田舎にまで一流の芸人が来てくれました。昭和20年(1945年)には井上正夫、21年には片岡千恵蔵、板東好太郎、尾上菊五郎、23年には長谷川一夫、鈴木米若、25年には市川右太衛門などがつぎつぎにこの栄座に来て、その都度超満員でした。当時町民は公演が行われる日を楽しみに小遣いをためて、重箱弁当を持って観劇に来ていました。
 幕引きも簡単なようですが、引く速度が早くても遅くてもだめで、芸人と呼吸が合わなければいけません。踊りの師匠であった藤間藤一郎さんは、よくわたしの幕引きが上手だと言って、他の劇場の公演の時にも声を掛けてくれていました。また、幕切れや舞台の転換の時に打ち鳴らす木頭(きがしら)(一般には拍子木という)は、カシの木でできていて、1週間くらい種油に漬けて置くと鳴りがよいのですが、これもよい音を出すために苦労しました。家で何度も練習したものです。
 栄座は町民にとって思い出深い建物でしたが、時代の流れにはどうすることもできず、昭和32年(1957年)に映画館へ、さらに昭和42年(1967年)にはパチンコ店へと看板が変わり、ついに昭和48年、解体されて駐車場となったのです。町内には卯之町東映(昭和25年〔1950年〕開館)という映画館がもう一軒ありましたが、昭和59年に閉館となり宇和農協マーケット(現そごう)に変わりました。
 昔の栄座を知るお年寄りにとっては、一抹の寂しさを隠せないものがあると思います。町民の娯楽の殿堂としての栄座の役割を高く評価して、わたしは拍手を送りたい気持ちで一杯です。」