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愛媛の景観(平成8年度)

(1)敬作の歩いた道

 ア 古い町並みを訪ねて

 (ア)中町通りの移り変わり

 **さん(東宇和郡宇和町瀬戸 大正元年生まれ 84歳)
 中町通りの形成について**さんに語ってもらう。
 「戦国時代、西園寺実光が黒瀬(くろせ)城(JR卯之町駅のすぐ西、海抜350mの黒瀬山頂)を本城としまして、その下に小さな城下町として松葉(まつば)町(*3)ができました。町名変更については、火災に再三悩まされたので町名を水と縁の深い鵜(う)之町にしたとか、変更の年が辛卯(かのとう)の年であったので卯之町にしたとか、卯の日に市が開かれていたからとかの伝承が残っています。慶長19年(1614年)に伊達秀宗の入府(領主として領地に入ること)により、卯之町は宇和島藩の必需品を売る在郷町(城下から隔たった地方町)として唯一の宿場町として発展し、天保9年(1838年)には、149戸、615人、40頭前後の馬匹(ばひつ)(馬のこと)も常備され、扱う物産も増えてきていました。
 中町通りは、宇和島藩政時代になって形成されていったものですが、城下町宇和島へ通じる旧街道に商家が建ち並び、旅籠(はたご)もできて卯之町の中心街となりました。一方43番札所明石寺(めいせきじ)表参道入り口にもあたり、門前町ともなってにぎわい、明治33年(1900年)県道宇和-野村線が設けられるまで主要な往還としての位置を占めていました。その後、卯之町の中心は次第に県道筋に移動していき、中町通りは、商店街から静かな住宅街へと趣を変えていったのです。でも、中町通りは近世から近代に至る発展過程で、町並みや生活様式の中に、地域の貴重な生活遺産が残り、また、ロマン豊かな歴史も息づいて彩(いろど)りを添えています。開明学校とそれを取り巻く文化遺産、二宮敬作とそれにつながる歴史の展開、町並みには商店はほとんど見られませんが、今も商家、旅籠、庄屋の江戸末期の建物(江戸時代に建設された民家が20軒、明治初期の民家が9軒ある)があり、しっかりとした深みのある造りの家が誇りです。この町並みは、『宇和文化の里(昭和48年、県教育委員会が指定)』にとって欠かせないし、卯之町にとっても掛け替えのない存在です。
 その後大正から昭和初期にかけての中心は、明石寺の登り口にあたる下中通りと県道の交差する四辻一帯でありました。ここには人力車や自動車の待合室、呉服店や料理店・雑貨屋・食料品店などが軒を並べていた記憶があります。しかし、鉄道(現JR)が昭和16年(1941年)に卯之町-宇和島間、昭和20年(1945年)に卯之町-八幡浜間に開通したのにともなって、同じ県道でも卯之町駅に近い『栄座』付近の銀座商店街に中心が移っていきました。」

 (イ)中町に住んで50年

  **さん(東宇和郡宇和町卯之町 大正7年生まれ 78歳)

   a お遍路さんの今昔

 「昭和12年(1937年)から旅館を、繭(まゆ)売買所があった場所(現在、愛媛銀行卯之町支店)で営んでいました。ところが日中戦争が激しくなりまして、輸送機関にトラックが使用されるようになり、その駐車場に利用したいということで旅館を売却しまして、新たに現在のところに家を買って旅館経営を続けています。
 お遍路さんは年間400人くらい。来られるのは季節的で、春、秋のお彼岸に集中しております。宿泊客はこのお遍路さんが年間の85%くらいを占め、あとの15%は、夏休みにヒッチハイクで四国一周する学生さんや、家族旅行などで来られるくらいです。年間を通じて常にお客さんがあるというわけではありません。
 今のお遍路さんは、マイカーを利用する方が断然多く、次いでタクシーとかバスを利用する方で、歩いて来る方は年間100人くらいです。お遍路さんも昔と大分変わりました。昔のお遍路さんは一軒一軒を訪ねて念仏を唱え、幾らかのお布施(ふせ)をもらっていましたが、今は宇和町内にある43番札所明石(めいせき)寺をお参りしてからここヘタクシーで来たり、あるいは、お客さんの中には『特級酒はないか。』と言う方があります。『特級酒は置いていません。』と言いますと、『それでは一級酒でいい。』と言われます。最近はそんなぜいたくなお遍路さんが多くなりました。昔は家財をつぶしてしまって、お遍路に行かざるをえないという方も多くおりましたが、大変な変わりようです。
 今は、お遍路さんで歩いて回る方がぜいたくなんですよ。歩いて四国88か所巡りますと、日数は約50日かかり、1日平均1万円の費用がかかります。タクシーですと、割り勘で一人10~15万円で1週間でお参りすることができます。観光バスのツアーですと、1回8万円くらいで(2回に分けて88か所巡りしている)、2回とも参加しても16万円で巡れます。
 わたしはお遍路さんの旅の疲れをいやすために、希望される方にはこの中町の町並みを案内していますが、こんな由緒ある町並みとは知らなかったと大変喜んでもらっています(写真3-1-24参照)。お遍路さんのお世話をさせていただいてもう54年になりますが、余命のある限り希望を持って励んでいきたいと思っております。」

   b 町並みの思い出

 「開明学校の界わいに立派な松の木(樹齢200~300年)が5本あり、住民に親しまれていました。風が強いときなどゴオーゴオーとうなりをあげていましたが、その松も松食い虫のため枯れて昭和50年(1975年)に姿を消しました。また、開明学校の裏に樹齢100年の桜の木が2本、それに今の民具館のところにも桜があって、春には花がいっぱい咲いて美しく、自分の家にいながら花見ができました。わたしはその桜の美しさを今も忘れることができません。この中町は井戸水が良質で、清酒やしょう油の醸造元が7軒もありました。また、お茶をたてる方もここまでわざわざ来られていました。しかし、その水も水道が普及して井戸を使用しなくなったところはだめになりました。
 また、この中町は小学校への通学路になっていることもすばらしいことと思います。毎朝子供たちは気持ちのよいあいさつをして通学していますが、子供たちは無意識のうちに、このすばらしい町並みを誇りに感じていることと思います。
 わたしの子供のころは、この中町に料理屋、旅籠が7軒もありまして、近くに役場、郵便局、税務署など官公庁が並んでいたので、夜などは盛況でした。そのころ芸者の検番所(芸者をそこに所属させ、客席への取次ぎ、玉代〔芸者の揚げ代〕の精算など行う事務所)が現在の民俗資料館の近くにありました。指名された芸者さんは人力車に乗って料理屋へ急ぎ、その時箱持ちといって三味線を持った男衆が人力車について行っていました。当時芸者さんは5、60人いたのではないでしょうか(図表3-1-8参照)。」

 (ウ)生まれ育った中町

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和5年生まれ 66歳)
 **さん宅は、初代より現在の地で旅館業を営んでおり、江戸時代には伊達家のお姫様も泊まったとのことである。
 「わたしが卯之町幼稚園に通園していたころは、中町も昔からの住人がぼつぼつ他の地へ引っ越し、その家も取り壊されて空地があちこちできていました。わたしの家の前に備中屋という酒屋さんがあり、全盛期には特定郵便局を兼ねて、繁盛していたと聞いておりましたが、今は空地になっています。
 中町はT字型の350mの町でして、大洲藩と宇和島藩を結ぶ宿場町として、庄屋、旅館、酒造蔵などが並び、ずいぶん繁盛したといいますが、わたしが幼稚園に行っていたころはひっそりしていました。現在の宇和聾(ろう)学校があるところが、そのころの子供らの遊び場で、カニやイモリを取ったりしてよく遊んでいました。自然環境という面ではよい場所でした。ここには43番札所明石寺がありますので、木賃宿も多く、お遍路さんの姿もよく見かけました。玄関でチリン、チリンと鳴ると、小皿にお米などを入れてあげていました。病気快癒のためとか、家内安全のためとかはっきりとした目的を持って、お四国参りをされていましたが、今のような観光目的の方は少なかったと思います。
 わたしが小学校のころは、よく肝試しといって先輩に開明学校に集合させられ、学校の裏にあるお墓に置いてある物を持って帰るようにと言われ、脅かされた記憶があります。また、そのころは戦時中でしたので、お米がなかなか手に入らないから、泊まり客は玄米を持って来ていました。そのため母は朝早く起きて、玄米を一升瓶に入れて竹で突いていました。その母の姿を見てわたしは、お湯だけでも沸かしてあげようと子供なりに考えて、くどに火をつけてお湯を沸かしていました。」
 中町通りにある古い家には、軒の腕木を支える「持送り」板(写真3-1-26参照)がある。**さん宅は、この「持送り」板に文化元年(1804年)大工矢野市兵衛・弟衛と記された墨書があって、これにより文化元年に建築されたことが明らかになり、年代の判明した町家のなかでは最も古いといわれている。母屋は平入り、入母屋造りで、間口10間(約18m)、奥行き6間半(約12m)の規模をもつ大壁漆喰塗りの町家である。かつて宇和の領主であった西園寺氏との関係があってか京都との交流が多く、**さん宅にも多くの政治家や文化人が泊まっており、元首相の犬養毅とか近代郵便制度の創始者の前島密などの書が残っている。
 **さんの話を続ける。
 「建てられてから200年にもなる古い建物ですので、その管理は大変です。戦時中は、大工・左官さんが召集されていなかったので、雨漏りがしたら、わたしが屋根に上がって瓦の差し替えをしたこともありますが、それでは完全には直りません。仕方がないので雨の日は部屋に湯桶(ゆおけ)を持っていって、ポチン、ポチンという音のなかで商売をしたという大変な時代もありました。
 大雪が降った後、その雪が屋根からずり落ちる時に、瓦が200枚くらいも持っていかれたことがあります。当時職人がいなかったので直すのに1年もかかり大変でした。また、家の『とい』には全部銅を使っていたものですから、戦時中徴集されてしまい、仕方がないから明石寺や光教寺(こうきょうじ)(卯之町3丁目、臨済宗)の竹をもらって、真竹を半分に切って『とい』の代用としましたが、水があふれて家を傷める結果となり、昭和40年(1965年)正面の軒の全面修理を行い、3か月もかかって完成したのを今も懐かしく思っております。
 ここ中町は、わりと静かですし、生活するにも県道沿いに商店街がありますし、また、山であっても海の幸に近いので買物には不自由ありません。中町に住んでいる方の中には、明治、大正時代から住み続けている方はもうほとんどいませんが、ある程度長く住み続けている方が多いので、どちらかというと、都会的でない人間味のある風習が残っていて、お互いの信頼関係の中で隣近所仲良くやっております。」

 (エ)休憩所から見た中町

 **さん(東宇和郡宇和町下松葉 昭和28年生まれ 43歳)
 「この中町は、生活のにおいがする町並みですよ。造り酒屋があったり、しょう油屋さんがあったりして、酒を搾るころには町並みにお酒のにおいがしたり、お味噌や、おしょう油を仕込むころには、大豆を蒸したにおいがこの町並みを包みます。これが非常に懐かしい感じがするのです。ところがなかには、親子連れで、子供が『変なにおいがするよ』と言うと、『そうね変なにおいだね』と、親が顔をしかめて答えている光景も見かけます。わたしはこの会話を聞いて大変残念に思いました。こういう生活のにおいこそ大切にしなくてはいけないと思うのです。」
 **さんは、訪れた人が、中町の町並みを探索する手助けになればと、休憩所で「宇和文化の里」の素朴な「卯建(うだつ)」(写真3-1-25参照)とか「持送り」(写真3-1-26参照)、「飾り瓦」(写真3-1-27参照)などの写真を片手に説明や案内をしている。
 「卯建」とは「梲(うだつ)」とも書き、江戸時代の民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの袖壁(門の両側にある垣根)のことである(⑬)。**さんによるとこの中町には「卯」の象形文字である、「卯建」が残っているという。
 **さんの話を続ける。
 「建物が密集した中町では、火事が起きた場合の燃え広がりが恐ろしく、軒桁(のきげた)など木肌が見えるところを漆喰で覆ったり、袖壁を作ったり、いろいろ工夫しています。特に類焼を防ぐために、『Φ』の字形の分厚い漆喰壁を作ったのが『卯建』の始まりだと思います。それが時代を追うごとに商いが栄え財政に余裕ができ、漆喰の技術も向上し、防火のための『卯建』というよりも財力を見せつけるための装飾へと変化し、華やかで立派なものへと発展してきたのではないかと思います。装飾された『うだつ』は『梲』と書き、防火用の『卯建』と区別され、課税の対象となったのではないかと思います。出世できないことや仕事がはかどらないことを『うだつが上がらない』と言いますが、これもこの辺から来ているのではないかと思います。中町の町並みにある『うだつ』も視点を変えると先人たちの知恵袋が見えてくるようで味があると思います。また、軒の下には『持送り』と言って棟木を支える彫刻されたケヤキの短い柱があって、それが各家でデザインが異なっています。
 『ダイコン』2本と『ナス』3個を組み合わせたユニークな『飾り瓦』があがっている家が中町通りにあります。自己流の解釈かもしれませんが、宿場町だったことから、『ナス』は男性、『ダイコン』は色白の女性を象徴したものでしょう。『ダイコン』の重なりが、普通の家紋や着物の重なりと逆で、左手前になっており、『ダイコン』に黒筋があります。玄人など芸者を意味する『飾り瓦』ではないでしょうか。昔の人の遊び心がしのばれます。中町の町並みには、『水』の字だけの防火のおまじないや『家紋』、『鯱(しゃち)』、五穀豊じょうの『七福神』などいろんな種類の『鬼瓦』があってちょっとした瓦のミュージアムといった感じがします。」
 宇和文化の里休憩所に入ると、ひときわ目を引く大火鉢(樹齢推定500年余りのカゴノキの大木でつくったもの)がある。夏はガラスのふたをしてテーブルに、冬は炭火を入れて暖を提供し、お休み所の番人のごとく来訪者を迎えている。休憩所を来訪した人は、年間約7,000人(平成7年度)で、1日約20人くらいだそうだ。ここでは、近くの造り酒屋の大吟醸酒の搾りかすに、黒砂糖をたっぷり付けてこの大火鉢で焼いて食べさせてくれる。ほんの一時胃袋も心もほろ酔い気分になったと喜んでもらっているとのことである。また、酒かすで作ったシャーベットやフキのお菓子などで訪れる人をもてなしたりしている。

 イ 教育への情熱を伝える開明学校

 (ア)モダンな校舎で模擬授業

 **さん(東宇和郡宇和町田野中 昭和30年生まれ 41歳)
 「開明学校は明治5年(1872年)の学制発布と同時に、卯之町坪が谷(現在の県立宇和聾(ろう)学校所在地)に私塾として建てられていた申義堂(しんぎどう)を校舎として開校されました。その後、明治15年(1882年)現在地に舶来のガラスを使った擬洋風のモダンな校舎が新築され、当時は見学者が絶えなかったといいます(写真3-1-28参照)。
 よくお客さんから『この田舎町でどうしてこのようなモダンな校舎が建ったのか。』と質問を受けるのですが、その都度わたしは、宇和町の歴史から説明しています。
 太古から中世まで、この町は南予の中心地でした。また、江戸時代には宇和島藩の宿場町、米どころとして重要なポイントでした。この卯之町に、天保4年(1833年)から安政3年(1856年)までの22年間、シーボルトの弟子の、蘭学者二宮敬作(1804~62年)が、蘭方医を開業しました。敬作は蘭学塾も開き、門人だけでなく、町民にも近代の思想を説き、修得した西欧文化を紹介したのです。また、敬作を頼って同門であった高野長英や村田藏六・三瀬周三・シーボルトの娘イネ等が訪れており、多感な若い世代をはじめ町民は刺激され、発奮させられたことと思います。
 敬作が去ってからも、町の若者たちは儒学者左氏珠山(さししゅざん)(1829~96年)を大師堂に招き、安政5年(1858年)から11年間私塾が開かれました。当時教育者として名高かった珠山は、当地に近代教育の下地を築き、のちに夏目漱石の『坊っちゃん』に漢文の先生のモデルとして登場します。申義堂内に掲げてあります珠山直筆の『申義堂記』には、建築の由来や戒めなどが漢文で書かれています。それには『私が卯之町を去るとき、弟子たちが私費を出し合って学び舎を建てようとした。これを聞いた人たちは我先に手伝い、1か月余りで完成した。この学び舎に私が孟子の言葉から引いて申義堂と名づけた。』とあります。
 まだ学校のない時代、民間人の手によって自発的に建てられた学び舎は、当時の町の人たちの教育に対する情熱を表していると言えるでしょう。そして13年後、地方にありながら少しでも文明開化に近づこうと努力した町民の教育に対する情熱は、開明学校として擬洋風のモダンな校舎を新築するのです。この校舎は昭和48年(1973年)に修復され、現在は教育資料館として活用されています。
 開明学校の2階には古い教室が残されていて、2人掛けの椅子や使い込まれて丸くなった傷跡のある机などがあり、みなさん懐かしく目を輝かせて見ています。また掛図(明治初期の掛図のコレクションは全国一を誇る貴重なもの)を使用した模擬授業は大変好評です。この教室に腰かけると、みなさん童心にかえられ、『ハイ、ボクちゃん。』などと言って指名しても怒る方はありません。町の歴史の話をしたり、時間のある方には敬作やシーボルト、イネらの話をするのですが、中には涙をためて熱心に聞く方もあります。また、ボランティアガイドの方がオルガンを弾いて、『春の小川』など唱歌を一緒に合唱してもらうのですが、教室を出られる時、男性の方でも『本当に涙が出たよ。』と言って感動されています。また、昔の試験問題にも挑戦してもらいます。次の問題は明治19年(1886年)の修身科、初等5級生の問題ですから、今の小学2年生くらいを対象にしたものと思います。当時はこのような試験に合格しないと進級できなかった時代でしたから留年する人も多く、クラスには年齢の違う子がたくさんいたことになります。といっても授業料がいるのでいつまでもは留年できず退学する子も多かったようです。

 (一) 朝起キタルトキハ如何セバ善キカ。 
    答 早起き、着替え、手と面を洗い、髪をくしでけずり、父母に礼をなす。
 (二) 父母病アレバ如何。        
    答 かたわらを離れずして、ねんごろに介抱し……。
 (三) 父母二事フル(仕える)礼ハ如何。 
    答 父母に仕えるの礼は、外にいづる時は必ずこれを告げ、内に帰りたる時も又これを告げ、父母にものを言うは、顔
     色を柔らげ、言葉を穏やかにし、父母の申し付けを守り、その心に逆らわざるほど孝道にかなうは礼なり。

 この問題からも分かるように、当時の子供は早起きでした。始業時間は午前7時。朝のうちに勉強を済ませ、早く帰って家の手伝いをしていたのです。模擬授業の時、最前列の人から『そんなに早かったら毎日遅刻じゃ。』という声が漏れ、教室内がどっと沸きました。また、PTA研修会の一環として来ていたある女性の方は『子に仕える礼なら分かりますが。』と話され、笑いを誘いましたが、まさしく現代を風刺した言葉であったかもしれません。答えにあるような威厳を持つ親が今どのくらいおられるでしょうか。当時は、その親が尊敬する先生は、子供にとっても崇高でありました。先生は親を、親は先生を尊び合うなかで子供は育ったのです。このルールが失われつつある今、親が子を導く力だけは見失わないように生きたいものです。
 わたしは、何よりもこのすばらしい校舎を建築した先輩たちの心意気に畏敬(いけい)の念を覚えずにはいられません。今のわたしたちにそのまねはできないとしても、先輩たちが築いた文化の里に生まれ住む者として、せめてそんな歴史を包み込んだ老校舎を支え受け継いでいく責任はあるのではないでしょうか。」

 (イ)学び舎(や)での思い出

 開明学校で学んだ方々は、すでになくなられたり、高齢であるためここでは文献により当時の様子を紹介する。
   「光教寺下」  門多 幸一さん  『宇和町小学校開校80周年記念誌(⑭)』より
 「校門の真正面に本館があり、玄関に開明学校と大書した木の扁額が掲げてあった。本館の向かって右端に幅広の階段があって2階の3教室に通じていた。
 講堂がないので三大節(旧制の三大祝日で、新年、紀元節、天長節の総称)や学芸会などの際は、その2階の教室の板仕切りを取り払い、机や椅子は高学年の生徒が幅広の階段に向かい合って2列に並び、ヨイショ、コラショと掛け声しながらリレー式に校庭へ下ろし、大きな牡丹(ぼたん)桜の下へ積み重ねて行くのであったが、これが甚(はなは)だ面白そうで私には羨望(せんぼう)の的であり、早く大きくなってヨイショ、ヨイショとやってみたいものだと思った。
 その階段に接して本館の鍵の手に平屋の一棟があり、炊事場、裁縫室、高等科教室の順ではなかったかと思う。炊事場に大きな水瓶があり、光教寺の山門の下にある深い井戸から長い竹の樋を通して水を充たしていた。釣瓶(つるべ)に取り付けた鉄の鎖がカラ、カラ、カラ、カラと長く秋天に鳴り渡った。
 この校舎に向き合って上下4教室の2階建の校舎があり、これと本館との狭間(はざま)を抜けたところに長い便所があった。
 何分運動場が70坪(230m²)くらいの狭さなので休み時間や体操の時は、光教寺の庭を借りていたし、時には経の森公園に登って体操をしたり、王子神社前の公設運動場まで走ったりもした。(後略)」

 (ウ)信州の地で姉妹館提携

 **さん(東宇和郡宇和町坂戸 昭和8年生まれ 63歳)
 「長野県松本市が市制80周年を迎えた記念の節目の年、昭和62年(1987年)10月6日に同市の開智(かいち)学校(*4)2階ホールで、松本市長と宇和町長の手で開明学校と開智学校の姉妹館提携の調印式が行われました。なお、宇和町でも同年11月18日に松本市より市長さん以下関係者を迎え、開明学校や中町の町並みを御案内した後、祝賀会を行いました。
 提携のきっかけは、町会議員の方から昭和60年(1985年)ごろ『開智学校と提携してはどうか。』との提案があったのです。しかし、宇和町として提携の申し出をすることは多少ちゅうちょする面がありました。それは先方の松本市は、人口規模で宇和町の10倍の20万人、開智学校は国の重要文化財、開明学校は県の有形文化財(昭和60年2月指定)と格差があり、また所蔵する教育資料の数においても、開智学校は約65,000点、開明学校は約5,000点と差があったからです。でも、お互いに向上するためにはそんな心配はしなくてもよいのではないかと考え、わたし(当時宇和町社会教育課長)が交渉を始めたわけです。
 昭和61年に松本市の博物館長(開智学校を含む博物館すべてを掌握する館長)が視察に来町しました。その後、『人口の多少、建物の文化財的格付けや資料数の差などは問題ではない。その地で教学の道を拓(ひら)いていこうとした先人の尊い心と資産を残していこうとする共通の精神こそ大切なのだ。』と市長さんの理解をいただいて提携へと進んだのです。
 単なる形式的な提携とせず、今後いろいろな分野で交流し合い目的を達成するために力を尽くすことが大切であると考え、行政職員等による視察、研修、資料貸与による特別展などが、双方で実施されています。しかし、中部地方と四国の西南という遠距離のために、年間を通じて頻繁に交流事業を組むことは大変困難なのが実情です。そこで、次の時代を背負ってくれる中学生たちに『開明の心』を知ってもらう一助として、修学旅行(宇和中学校3年生全員)に開智学校を訪ねる日程を組み、松本市教育委員会関係者の温かい案内を受ける行事を毎年実施しています。今後は民間人との交流などを期待したいものです。」

 (エ)宇和中学校生徒の紀行文

 宇和中学校では今年(平成8年)も修学旅行の日程に開智学校訪問を計画し実施した。その後、生徒たちによって修学旅行紀行文が書かれているのでその一部を紹介する。

   a 開智学校を見学して

 「晴天に恵まれるようにと、数日前から、てるてる坊主を作って待っていたのですよ。」と言われ、色あせたてるてる坊主を見せていただくと、開智学校の人たちのとても温かい心遣いを感じた。(中略)今回の修学旅行で開智学校に行かせていただき、当時の人々が学問に力をいれ、努力一心でやっていたこと、そして大変困難であったけれども、全住民の理解が確かなものであったということを感じた。
 私の住むこの宇和町にも、学問に力をいれ頑張っていた人がいたということを誇りに思い、そしてそのことと、自分たちも受け継ぐことができたらと、今強く感じている。

   b 開智学校を訪ねて

 (前略)とてもしっかりした柱に白い壁、そしてステンドグラス。本当にここが学校だったのだろうかと思うくらいでした。そこには数え切れないほどの資料が並んでいました。明治初期に学校を新築したときの資料や、明治・大正・昭和3代の教科書、卒業証書などどれもが珍しく、くい入るように見ていました。すると、新築費寄付人名簿という資料が目にとまりました。これは、開智学校を建てる費用をだれが寄付したかが記されていました。それを見てびっくりしたのは、寄付した人の多さでした。それだけ松本市の人が教育熱心だったのだと思いました。この人たちが力を合わせて頑張ったからこそ、こんなすばらしい学校が建てられたんだろうと思いました。(後略)

 
*3:黒瀬山近くの宇和川に沿った地域を総称して鬼ガ窪といい、鬼ガ窪の中ほどに形成された城下町を松葉町と呼び、卯之町
  と改名された。松葉町はいわゆる西園寺氏の城下町として、町の家並みが形成され、宇和郡の中心地として栄えていた
  (⑫)。
*4:明治6年(1873年)5月に開校され、校舎は明治9年に新築され、国内で最も古い小学校の一つで昭和38年(1963
  年)まで使用された。昭和36年に建築史上貴重であるとして、学校建築としてはわが国で初めて重要文化財に指定され
  た(⑮)。

写真3-1-24 敬作の歩いた道(中町通り)

写真3-1-24 敬作の歩いた道(中町通り)

平成8年7月撮影

図表3-1-8 昭和初期ごろの中町通り

図表3-1-8 昭和初期ごろの中町通り

宇和町郷土文化財保存会所蔵資料を参考に聞き取りして作成。

写真3-1-25 古い町並みに見られる「卯建」

写真3-1-25 古い町並みに見られる「卯建」

平成8年7月撮影

写真3-1-26 各家でデザインの異なる「持送り」

写真3-1-26 各家でデザインの異なる「持送り」

平成8年7月撮影

写真3-1-27 遊び心が考えられる「飾り瓦」

写真3-1-27 遊び心が考えられる「飾り瓦」

平成8年7月撮影

写真3-1-28 モダンな校舎の「開明学校」

写真3-1-28 モダンな校舎の「開明学校」

平成8年7月撮影