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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

(3)絵図から読み解く地域のすがた

 ア 西条のうちぬき

 西条(さいじょう)は「水の都」と言われ、「うちぬき」と呼ばれる自噴水が市内各地に見られ、環境庁の名水百選にも選ばれている。『河川流域の生活文化』の中で、西条市の**さん(昭和4年生まれ)は、次のように話している。
 「生まれてからずっとここで育ちましたからね。うちぬきは当たり前の存在で、どこの家庭でも自噴するものだと思っとった。西条中学へ入学して、町の友達の家に行くまでずっとそう思っとったわけです。子供心に『それにしても、もったいないもんだな。どうして止まらないんかな。』という感じはもっておりました。」
 西条には、**さんのような考えの方が少なくないようである。ではなぜ、西条に「うちぬき」があるのだろうか。『河川流域の生活文化』の中で、うちぬき工事に携わった**さん(昭和11年生まれ)は次のように語っている。
 「よそではできんわけなんじゃ。西条だからできる。というのは、西条の地下水がおるのは砂利層で、30mくらいまでのところに水の層と水を通さん粘土層や砂の細かい層が、何層にもなっておるんですよ。」
 西条では、石(いし)鎚(づち)山に源を発する加茂(かも)川が四国山地の水を集めて海へ流れ込む。この加茂川の水が平野部の地下水の供給源となっていて、地中の砂利層の中を北へ進むにつれて下り、圧力を受けている。地中に10~30mのパイプを打ち込むと自噴して取水できるので、「うちぬき」の名がある。うちぬきは市内に2千本以上あり、生活・産業用水に利用されている。水温は一年を通じて約13℃で、冬は暖かく夏は清涼さを感じさせてくれるという。
 明治時代の地誌「地理図誌稿」には、禎(てい)瑞(ずい)新田の項に「打抜(うちぬき)泉」の記述がある。それによれば、長さ4間(けん)(約7.27m)、太さ6寸(すん)(約18.2cm)の鉄管4本を用いて地面に差し込み、水が出れば鉄管を抜いて竹管を挿入していた。うちぬきの掘削(くっさく)作業の絵を見ると、やぐらを組んで1人がやぐらの上で鉄管を握って采(ざい)を振っている。下では、掘削のため鉄管を回転させ地中深く差し込む人が13人描かれている。『西条市誌』によれば、この作業のとき、この地方特有の「打ち抜き音頭」で勇ましく打ち抜いたとされている。
 こうした作業によって「打抜泉」が造られた。「地理図誌稿」によれば、泉1か所で4~5反から1~2町の広さがある田の用水をまかなうことができ、清冷な水が海に近い新田の塩気を消し、稲苗を育てるのに最適であったという。
 『河川流域の生活文化』の中で、**さんは次のように語っている。「西条の人は、子供でもおせ(大人)でも皆、うちぬきには関心があると思うんよ。仕事やりかけたら、『うちぬき、うちぬき』言うて近所の人が大勢見に来て、『ああ出た。』『出ん。』じゃ、『深い。』『浅い。』じゃ言うて、人だかりがするくらい人間が寄ってきたりしよったわいねぇ。田んぼへ行きゃあ、どんどん水が出よるのを『うちぬきじゃあ。』言うて飲めるしねぇ。」
 西条は、豊かで良質な水に恵まれているといえる。

 イ 最初の愛媛県庁

 伊予の地誌として名高い『愛媛(えひめの)面影(おもかげ)』の著者半(なか)井(らい)梧(ご)菴(あん)は、明治5年(1872年)、石(いし)鉄(づち)県の命をうけて、新しい地誌の原稿「地理図誌稿」の編集を始めた。その「地理図誌稿」を基にして、愛媛県になって完成したのが「地理図誌」である。「地理図誌」や「地理図誌稿」には、石鉄県であった伊予国東部の各郡や各村の人口や生産物の統計などのほか、各地の有名な景観が図で描かれている。
 「地理図誌稿」と「地理図誌」で、同じテーマの図でありながら、全く構図が違う景観図が一つある。それが「愛媛県庁」の景観図である。
 景観図には、天守・二ノ丸・陣営・県庁などの文字が書き込まれている。本丸には二層の櫓(やぐら)が各所に林立し、堅固な城郭(じょうかく)であることが強調されている。また、本丸と二ノ丸とを結ぶ道が明確に描かれ、二ノ丸の西にある大門が城の正面入口であるかのように描かれている。県庁の背後(北側)には陣営があって、守備隊が駐在していたとされる。上空からの視点で鳥(ちょう)瞰(かん)図(ず)のように、松山城の本丸・二ノ丸と、堀之内にあった県庁・陣営を描かれている。この図から、最初の県庁が、最近整備された堀之内公園のどこにあったか、その位置を知ることができる。
 続いて、この図には、建物の表札に「県庁」の文字が書かれているが、天守・二ノ丸・陣営の文字はない。天守への登城経路もこの図ではわからない。県庁の建物が大きく描かれ、県庁の建物は、玄関を上がると板間があって、その奥の間で2人の人物が執務している様子までわかる。さらに、県庁敷地の右(東側)の堀端には、掲示場があって、県の通知などが掲示されている。このように、県庁こそが図の主題であり、松山城はその後景にしか過ぎないのである。
 この二つの図は、図の構図が違うが、共通する点がある。それは、城と県庁を描くことによって、城を南側から見るのが正面であるかのような視点で描いていることである。つまり、城の南側から、城に入っていくのがメインルートであるという観念に基づいているのではないか、ということである。「愛媛面影」にある松山城や城下を北側から見る景観図から、城の北側を正面ととらえる視点や、JR松山駅の東に「大手町」の地名があることから、城の西側を正面とする視点もあるが、それらとは違う視点なのである。

 ウ 大洲の肱川渡し

 半井(なからい)梧(ご)菴(あん)が幕末に著した地誌『愛媛(えひめの)面影(おもかげ)』には、各地の景観図が描かれていて、読む人を楽しませてくれる。大(おお)洲(ず)については、「大洲城」の景観図があり、手前から若宮(わかみや)村、肱川(ひじかわ)(「比志川」と書かれている)、そして大洲城と城下町、背後の山々には宇和(うわ)へ抜ける峠道の名「鳥坂」が書かれている。
 肱川の部分を観察してみよう。川に舟が4艘(そう)描かれている。これらは、上流から下流へ荷物を運ぶ船ではなくて、対岸への渡し舟のように見える。城下の2か所が船着き場となっており、二つのルートがあったようで、明治時代の初め、右の航路は「桝形(ますがた)渡(わた)し」、左の航路は「中渡(なかわた)し」と呼ばれ、松山と宇和島を結ぶ街道を行き来する人々は「中渡し」を利用していた。
 図の中央に大きく描かれている「桝形渡し」の城下町側船着き場は、大洲城本丸のすぐ東にあった。江戸時代の城下町絵図を見ると、船着き場の前には町会所(町御役所)があり、藩士(武士)が対岸にある武家屋敷に往復したり、八幡浜へ向かう人々が、「中渡し」より近道になる「桝形渡し」を利用したりしていたことが考えられる。
 一方の中渡しには、明治8年(1875年)9月、船橋(川に船を並べてその間に板を渡し、つなぎ合わせて対岸へ渡れるようにした橋)が架けられた。橋の中央部が上流や下流を行き交う船を通すため、写真にあるようにやや浮き上がっており、「浮(うき)亀(きの)橋(はし)」と命名された。
 浮亀橋は肱川に架かった最初の橋とされている。便利になった船橋を、街道を行く旅人だけでなく、馬や荷車も通行するようになった。浮亀橋に対抗して、桝形渡しでも架橋の計画があったが、実現せず、桝形渡しはすたれていった。
 船に板を渡した浮亀橋が近代的な鉄橋にとってかわられたのは、大正2年(1913年)のことであった。『河川流域の生活文化』の中で、肱川橋の近くに長年住んでいた**さん(明治34年生まれ)は、次のように語っている。
 「わたしが女学校に上がる前に、肱川大橋ができまして、盛大な式をやって、おおにぎわいじゃったのを覚えております。橋が架かると、店が橋の前ですけん非常に繁盛するようになりまして、現在に至っておるわけです。
 橋が架かる前は、今の橋の上手の油屋旅館さんから対岸の渡し場まで、浮亀橋いうて舟を浮かべてそのうえに板を渡したものがありまして、通行料は1銭(せん)5厘(りん)じゃったでしょうか。内子や新谷(にいや)から中学校(大洲中学校、現県立大洲高等学校)に通う生徒さんらは、それを惜しんで、ぞぶって(水につかって)渡る人もおりました。」
 渡し舟から簡易な船橋へ、そして近代的な鉄橋へ、肱川を渡る交通手段の変遷から、人々の動きや地域の変化を読み取ることができる。