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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇芸予諸島の古代製塩

長井
 ただいまは森先生から、日本人と塩との歴史的なかかわりにつきましてお話をしていただきました。そのなかにもありましたように、藤原京跡や平城京跡などから出土した木簡には塩に関係するものが多い。しかし、残念ながら、伊予国から塩が出されたことを示す木簡はまだ出ていません。けれども、森先生が能登半島の例を引かれたように、そうした木簡が出ていないからといって、伊予国では製塩が行われていなかったということにはならないのです。実際には、伊予国でも製塩がかなり行われていたのではないでしょうか。
 また、森先生からは、各地には塩作りにかかわる伝承が残されているのではないか、という研究課題も示していただきました。これについては、伯方島はまさしく塩の島ですから、皆さん方のどなたでも調査を始めることができますね。地元の古老などに聞き取り調査をして、取り組めるのではないかと思います。
 さて、わたしは、芸予諸島の古代製塩をテーマにお話しさせていただきます。まず、「芸予諸島の製塩土器出土地分布図」を御覧ください。これは、芸予諸島のうちの愛媛県側で、製塩土器が出土した遺跡を、現在分かっている範囲で網羅したものです。ただし、大事なことは、分布の多少とその地での製塩の行われ具合とは、正比例するわけではないということです。今後の各地での調査の進展によっては、製塩土器の新しい出土地が加わる可能性があります。
 この分布図において、最も古い製塩土器は、今治市沖の馬(うま)島のハゼヶ浦遺跡と亀ヶ浦遺跡から出土したもので、時期は弥生時代の終わりころ(3世紀末)です。そして、伯方島の袈裟丸(けさまる)遺跡からは、4世紀の終わりころの製塩土器が出土しています。この後、伯方島では、7世紀の初めころまでは間違いなく製塩が続けられています。伯方島での製塩は、江戸時代にこつ然と始まったかのようにも見えます。しかし、それは今治藩が組織的に塩田を作っての製塩であって、自給自足段階のものではありません。
 また、豊(とよ)島(越智(おち)郡弓削(ゆげ)町)や津波(つば)島(越智郡岩城(いわぎ)村)など、今では無人島の状態に近いような島からも製塩土器が出ております。ということは、このような小さな島にも弥生時代以来人が住み、製塩が行われていたわけです。
 次に「芸予諸島の縄文遺跡分布図」を御覧ください。これも、先ほどと同じく、現在分かっている範囲内での縄文遺跡で、ここに記している以外にもまだ地下に眠っている遺跡がたくさんあるはずです。見ていただきますとすぐお分かりいただけると思いますが、これらはすべて臨海性遺跡、すなわち海岸の砂浜にある遺跡なのです。したがって、これらの場所では、ひょっとすると製塩が行われていたのかもしれない。ただし、残念ながら、考古学的にそのことを示す資料は出ていません。しかし、これはまだ出ていないだけであって、将来発見されるかもしれないのです。
 以上のように、芸予諸島の縄文遺跡の大きな特色の一つは、あまりにも海岸に集中しているということです。もちろんこのことには、製塩だけではなく当時の海上交通とのかかわりも当然あるとは思います。しかし、製塩という新しい切り口で、芸予諸島の縄文遺跡を調べるという未解決の課題が残されているようにも思われます。そしてこの課題の解決には、製塩が行われていたことを示す縄文時代の遺跡の発見が最も有効です。遺跡の発見は案外簡単です。皆さんが散歩をする時に、足元に注意を向けていただければいいわけです。例えば、大潮の干潮の時に海岸を歩く。そうすると、いろいろなものが落ちていることに気付きます。これが、遺跡発見のきっかけになることが多いのです。そして、こうした地道な作業は、地元の方でないとできません。研究材料を提供してくれる方が地元にいるからこそ、研究者はそれを活用することができる。わたしは、このような地元の方々が一番立派だと思います。さらに言いますと、こうした作業が地域を知ることにもつながるのではないかと思います。
 このくらいで、わたしの話を終えさせていただきます。