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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇民具と文化構造

 先程、轆轤の話が出ましたが、轆轤で椀をひく木地屋という木工職人は、歴史的にいいますと、近江(滋賀県)の君ヶ畑(きみがはた)、蛭谷(ひるたに)という所が本家なのです。そこから、近江の木地屋が良質の木地を求めて、全国をまたにかけて漂泊して行き、また日本各地で木地屋が生まれるのです。ここで大事なことは、彼らは木地屋の基本道具である轆轤をかついで、轆轤鉋一つと小さい鞴(ふいご)を持って行ったということです。なぜ、鞴を持って行くかというと、轆轤鉋を自分らの使いやすいようにつくるためなのです。だから、彼らは、行く先々で、鉋の刃が減ったら、それを自分でつくる鉄工技術者でもあったのです。
 考えてみますと、近江のあたりには、「俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)のムカデ退治」の話があります。ムカデとは何かといいますと、動物のムカデもありますが、「百足」とも書きますように、鉱道のこともいうのです。つまり、鉱山は主なる鉱道から小さい鉱道を枝のように伸ばしていきますので、ちょうどムカデの格好をしていますから、鉱道のことをムカデと古代からいったのです。そうすると、俵藤太秀郷が三上(みかみ)山のムカデを退治したという話は、そこの鉱山を抑えたという話になるのです。近江の君ヶ畑、蛭谷地方には、金糞(かなくそ)・タタラ谷など鉄に関する小字名が存在しており、木地屋の発祥の地は、同時に鉄の生産地でもあったのです。そして、木地屋は木工生産者であると同時に、鉄工技術者でもあるということが言えたのです。また、彼らのいくところは、たいてい鉱山のあるところでしたので、それを追い掛けていくのが山伏です。山伏というのは、まさに山師でして、松本清張の『西海道談綺』という小説にも、九州の日田(ひた)の鉱山を山伏が取り合いをする話がのっておりました。
 木地屋はまた、良質の木地を求めて漂泊する間に病気になったり、けがをしたりすると、道端にある草や木を生活の知恵や体験から薬に使いました。これが薬草で、日本の薬草はそこから始まっていくのです。ですから、木地屋中興の祖といわれる大岩助左衛門は、その先祖が、日本の薬学、医学の元祖として知られる和気清麻呂とされています。木地屋はその子孫ですので、そういう薬種の知恵も持っていたというわけです。「富山の薬売り」や奈良の「吉野の薬売り」も、そこから出てきたのです。要するに木地屋一つとらえても、そこまで展開して、考えることができるということです。