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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇理想の景観・形成する景観

 つぎに理想の景観・形成する景観というものは、具体的にどのようなものかということについて話したいと思います。柳田国男という、民俗学のたいへん偉い先生がおりまして、あちこちで普通の人の話を聞いてきたことを集大成しました。その中で自然について述べているのですが、それは、「自然そのものにも、独立した精神がある。」ということです。つまり、人間にそれぞれ独立した精神があるように、自然そのものにも独立した精神があるということなのです。皆さん、アニメ映画『もののけ姫』を御覧になりましたか。あの映画が主張していることは、まさにこれなのです。自然そのものにも独立した精神がある、と言っているのです。独立精神としての自然、それを侵そうとする人たちと守ろうとする人たちがいたわけですが、あのテーマは、まさにこの柳田国男が言っている考え方そのものなのです。我々は、昆虫に対しても、お盆のころにやって来るアカトンボなどには、ちょっと神経質になる。首をひねって簡単に殺すということはしづらいという、それほど自然に対して細やかな気持ちを持ってきたわけです。この細やかな気持ちは、逆に言うと、人間の弱さとかかわっているかもしれません。
 先程民俗学は、人間の存在の意味は何かということを問いかけたと言いましたけれども、人間って弱いものです。そしていやらしい。もうかる話があったら、やっぱり乗りますね。はっきり言って、歩きながらアイスキャンデーを食べようとすると、その包み袋はそこヘポイと捨てるのが、自分として一番いいわけです。いちいちそれをゴミ箱へ持って行くのは面倒くさい。人間というのは、こういうところがあるわけです。一部にはたいへん道徳的に優れた人がいますよ。しかし私たちは、一部の道徳的に優れた人の基準で、生活をしているわけではないのです。とするならば、我々は、学問を、一部の優れた人を対象にしていてもしょうがないし、環境教育と叫んでみても限度があるわけです。つまり、人間は弱さを持っているし、やはりエゴイストなわけで、だから、その側面をうまく使って、じゃあどうやったら美しい環境や景観がつくれるのかということを考えていかないといけないわけです。
 それで、これから、柳田国男の「美しい村」という昭和15年(1940年)の文章からの引用を読みます。これは、私はすごくいい文章だと思います。「秋田の海岸を特色づける物静かな森林は、もとは砂防のためであった。武蔵野の野火止めの並木の村が、遠い行く手に武光(甲)山の明るい峯を望ましめるのは、多分はただ縄張りの見当にしたものと思われるが、こういうことをしておくと、百年二百年後の旅人が皆脱ぶ。利害は決して一地域のものでなくなっているのである。昔の人たちはこんなことまでは予期していない。強いて風景の作者を求めるとすれば、これを記念として朝に晩に眺めていた代々の住民ということになるのではあるまいか。」そして、ここからがポイントなのですが、続けます。「村を美しくする計画などというものは、有り得ないので、あるいは良い村が自然に美しくなっていくのではないかとも思われる。」私は、この部分がポイントだと思うのです。
 私どもはすぐ、「美しくする計画」とかを言うわけです。このような、強いて何かをするという発想ではなく、自然にいい環境をつくるという論理ですね。たった1軒や2軒の門の樹を目印とせず、だれが始めたともなく全村一様に、真似でも流行でもなしに同じ植物がそちこちに茂っている風景、それこそは調和でもあればまた平和そのものでもあった、という良い景観をつくっていく。そのことが結果として美しい村をつくっていくことにつながるのだという考え方です。これは、ずっと現場を歩いて来た民俗学者が、地元の普通の皆さんから学んだ知恵なのです。