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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成 9年度 愛媛学セミナー集録~

◇村上水軍の性格

久葉
 どうもありがとうございました。
 今、先生が触れられなかったと思うのですが、少し後の資料の中に、元就が、伊予の河野氏から援軍の要請を受けて、それを了承して出兵する時、原文は詳しく覚えてないのですが、確か、「我ら隆元ら、首をつなぎたることがあった、それの恩返しのために、今度は伊予に出兵するんだ。」というようなことを言っている古文書があります。
 そういうふうなものを見ましても、元就、あるいはその子供の隆元が、自分たちの首がつながったというほどの大事件と言うのは、恐らく、厳島合戦のことを指したものだと思いますので、それの恩返しのために、今度は河野氏のために出兵すると言っているような事実から考えても、森本先生が言われるように、厳島合戦には、能島、来島両村上氏も当然参戦したのではないかというふうに、私も思います。
 次に先生にお伺いしたいことなのですが、村上氏の勢力範囲と言いますか、行動範囲というのは、だいたいどういった地域にまで広がっていたのでしょうか。村上氏が自分たちで言うのでは、西は九州の方から、東は近畿近くまで、勢力が伸びていたというような言い方をするのですが、どうなのでしょうか。

森本
 村上氏は、村上喜兵衛という人が書いた、『三島海賊家戦日記』というのがあります。略して『武家万代記』と言いますが、それらによりますと、三島村上氏に限らず、縄張りが皆記載されて、どこでいわゆる帆別銭を取るか、通行税である駄別料を取るかというようなことも規定されております。
 能島村上氏は、西は周防の上関ですね、かまど島(長島)のあるところ、あそこへちゃんと関所を設けています。これは大内氏から公認された関所でした。それから東側は塩飽(しわく)諸島(香川県)で、やはり関所を設けて通行税を取ったということが記録されております。塩飽諸島にはどういう居城があったのか、一生懸命探してみたけれどもわかりません。しかし、児島、つまり、岡山県の児島半島、今の倉敷市ですが、その児島には元太(もとふと)城というのがありまして、これは、村上義弘の正統な子孫である島氏がちゃんと城番として派遣されていたということがわかります。島氏は、最初は河野氏の直属の家来で、能島と主従関係にはなかったのですけれども、その後だんだんと能島の家臣になっていくのです。いろいろな歴史の本で最初から能島の家老になっていたとありますが、これは誤りですね。それから今さっき申しました、備中の笠岡にも居城があります。周防大島や安芸の竹原にも居城があります。
 縄張りを言いますと、能島は、この大島から伯方島の東部、それからずっと飛んで、今言ったような備後(広島県)の田島、百(もも)島。田島はもとは因島の支配下にあったのですが、それを手に入れ、さらに鞆・笠岡、それから東の児島・塩飽諸島の方に縄張りを広げております。
 来島は来島を中心に、小島、今言った大三島の甘崎、それから岩城島、ここは後に能島村上氏が支配しますが、さらに弓削(ゆげ)島(愛媛県越智郡)にまで手を伸ばしております。
 因島は、御存じのように、最初は田島、百島、走島、それから尾道の対岸にある向島とか。生口(いくち)島は小早川の支配下にあるのですが、岩城・生名(いきな)・弓削島にも支配権を及ぼしたと考えられます。だいたいそういうような縄張りでした。

久葉
 はい、ありがとうございました。
 今、村上氏の勢力範囲というようなものをお伺いしたわけですが、その場合、陸の支配というのは、土地を支配しますから、ある地域を支配する、言うならば面の支配になるわけですが、海賊衆の場合は、どうなのでしょうか。先程出ていました、関のような、点の支配になるわけなのでしょうか。それともある程度の面的な広がりも持った支配になるのでしょうか。

森本
 因島は、備後の山名氏の支配下にありましたから、これは陸地の支配をずいぶん持っております。これに対して能島の場合は、だいたい、通行税の徴収と、陸の大名の水軍に傭兵(ようへい)として出陣するというようなことと、それに、いわゆる交易ですね。おそらく朝鮮や中国にも行って、交易をしたのではないかと思われるのですが、そういう収入がほとんど大部分で、陸地の収入としましては、今さっき申しました笠岡に、1,000貫、その後、8,000貫と言われるような大領地を持っております。しかし、これは能島の本家ではなくて、分家なのですね。ですから、能島の場合はやはり通行税収入が主体ですね。それから交易収入。さらに今言った陸の大名たちに加担をして、傭兵となり、その後、毛利氏からも領地を屋代島・能美島・江田島などでもらっていますが、そういうことですね。

久葉
 先程から出てきました村上氏、三島村上氏ということで、能島、来島、因島の、この大きな三つの村上氏というのが、芸予諸島では勢力を持っていたわけなのですが、先生も少し言われましたように、その三氏の性格というのは、それぞれ、どうも異なっているようです。因島村上氏は、お話にありましたように、中国側に近い関係もあり、山名、あるいは大内と言った大名に近づき、それらから領地をもらうというようなことを通じて、陸の武士に近いような形にもなってきたようです。一方、来島村上氏というのは、伊予の本土に近い関係もありまして、早くから河野の家臣団の一翼を担っております。やはり本土に近い関係から、どうも伊予の国本土のほうにも領地を持っていたりするようです。その二つに比べて、能島村上氏というのは、海上における勢力というのが一番強くて、一応河野を主家とは仰いでいるのですが、あまり強いつながりというのはないように見受けられます。
 で、この三つの村上氏が、お互いに協力することによって、芸予諸島や瀬戸内海の主要な水路を抑えて、そこから通行税に当たるようなものを徴収していたというふうに言われているわけなのですが、この三つの村上氏のつながり方というのは、どういうふうなものだったのでしょうか。一応、能島村上氏を本家という形で仰いで結びついていたというふうに、私たちは解釈しているのですけれども。

森本
 能島の系譜を見ますとですね、皆さん、北畠親房(きたばたけちかふさ)の孫が顕成(あきなり)で村上師清を名乗り、それから三島村上氏がスタートして、長男が吉顕(よしあき)で、次男が吉房(よしただ)、それから三男が吉豊というようにして、三島村上氏ができた。そうすると吉顕が総領家ですから、一番の中心だというようになるわけです。村上氏が北畠の子孫だというのは、当時、北畠親房が南朝の重臣として海事政策を一手に掌握をしていた、そういうことから出てきた説でありまして、私の研究したところでは、この村上師清は信濃から来たと考えております。村上義弘の祖先も信濃で、これは島氏系図を見ても、清和源氏の子孫だということが分かっております。そういうことで、清和源氏の子孫、これが信濃に行って、そこからこちらの瀬戸内海へ進出してきたと、そんなふうに考えています。
 南北朝期における村上氏の瀬戸内進出については、当時、信濃に宗良(むねなが)親王という征東将軍がおりましたが、これが南朝の、やはり征西将軍懐良(かねなが)親王と並ぶ重鎮なのですが、この人の命令で、南朝政権の命を受けてやってきたということがわかるわけです。そういったことで、能島村上氏を宗家に仰ぐという、そういう考え方が生まれて、事実、経済力からすれば、今申しました通行税の収入とか、交易収入では、もう能島村上氏が随一だったわけですね。それで能島村上氏を中心にまとまる。しかも自由闊達(かったつ)な、これは自在の民ですね。来島は、後に河野氏の分家だというように、名前や家紋からして変えてしまいますが、能島は最後まで、陸地の大名、たとえば毛利氏に対しても従属ばかりしてはいませんね。たびたび毛利氏に反逆し、楯(たて)突いているのです。毛利氏が秀吉から命令されて来ても、この命令をはねのけるというぐらい、まあ海の大名として非常に強い気概を持って活躍をしているわけです。水軍魂を体得した、本当に祝福すべき人間ですね。私はそういった意味で、能島村上というものを、一番尊敬しているのです。能島が水軍の本家、本流だということを、私も信じております。

久葉
 ありがとうございました。
 では時間も参りましたので、この辺で対談講演を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。


三島村上氏略系図

三島村上氏略系図

(『萩藩閥閲録』・『久留島家譜』による)