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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成 9年度 愛媛学セミナー集録~

◇厳島合戦と村上水軍

久葉
 森本先生、どうもありがとうございました。
 森本先生の方から、御自身の水軍研究へのかかわりと研究史、それから水軍研究の歴史的意義と、その問題点というのをお話していただきましたが、今、先生がお話された中から、私がいくつか興味を持った点を、お伺いしてみたいと思います。
 まず一つ、厳島合戦への、能島村上氏、あるいは来島村上氏の参戦問題なのですが、今お話の中に出てきましたように、一部の学者の中には、来島村上氏、あるいは能島村上氏は、厳島合戦に参加しなかったのではないかと言われる方もおられます。その理由として、当時、合戦のあとに毛利元就から、それらの海賊衆にあてて恩賞が与えられたり、あるいは感状と言いますが、よく戦ったというようなことを文書でくれたりするはずですが、そういうものが残っていなかったり、あるいは、合戦の直前まで来島村上氏が来ないというようなことを、元就が息子の小早川隆景(こばやかわたかかげ)に書き送っていたりしたことがあげられております。
 その一方で、最近、山室恭子さんという方が、この方も歴史家なのですが、同じような素材を見ながら、180度違った見方をされております。どういうことかと言いますと、確かに村上氏のほうにも、そういうふうな感状をもらったり、恩賞とかをもらったりした記録がないのだけれど、もう少し調べてみると、毛利家の中にも、厳島合戦の時の感状をもらった家臣がいないということに、山室さんは興味を持たれまして、どうしてあれだけ大きな合戦、有名な合戦であるのに、そういうふうな証拠が残っていないのだろうかと考えられたわけです。で、最終的に出した結論というのが、厳島合戦というのは、実は毛利氏が活躍したのではなくて、その合戦の主要な部分というのは、村上氏、山室さんは来島村上氏を代表として挙げているのですが、その村上氏が中心になって戦った戦いだったというものです。つまり、毛利氏は厳島合戦では主力として戦っていないから、元就としては感状などを出せるようなものではなかったと。それがどうして話がすり変わったかと言うと、毛利氏というのは江戸時代も大名として残っていきますので、その毛利氏が江戸時代になって、自分のところの歴史を編纂していく過程で、村上氏はその時にはもう毛利氏の家臣団に入っているか、あるいは豊後の森に行っていまして、海賊衆としては残っていないわけですので、厳島合戦での村上氏の手柄というのを、自分の手柄として取り込んだ。それを世間に毛利氏が、いろんな機会を通じて宣伝するものだから、いつの間にか村上氏の功績というのが消えて、あるいは小さくなって、毛利氏の活躍というのが大きくなったのではないかと、そういうふうなことを言われております。
 ですから同じように、資料が少ないということについて、宇田川さんと山室さんは、全然違った評価をされているわけです。
 そこで森本先生に、そのあたり、どういうふうにとらえたらいいのかということを、ちょっとお伺いしたいのですが。先程森本先生の方から、棚守氏の日記ですとかが紹介されていましたから、そういうものから見る限りにおいては、村上氏が参戦したということは間違いないと考えていいのでしょうね。

森本
 はい、私は、間違いないと思っております。
 一つは、天文20年(1551年)9月に陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を弑(しい)して政権を奪う。晴賢も最初はそういうつもりでなかったのがエスカレートして弑逆したのであって、本当は自分が大内家に成り代わろうというような気持ちはなかったと思うのですけれども。そのあと、能島村上氏が上関(かみのせき)(山口県)に設けている関所がありますが、ここは通行手形なしに通ってはならない海の関門で、大内氏も公認していたのですが、そこを陶晴賢麾下(きか)の水軍が鉄砲を撃ちかけながら、天文20年暮れに強行突破をしているのです。そのために、能島と因島の村上氏が協力をして蒲刈(かまがり)島(広島県)のところで、向こうの水軍を全滅させたことがあります。そのころから、陶と能島村上氏は対決しているわけです。
 それから能島は、毛利氏とは厳島合戦のときまで全然関係がなかったというように、従来言われておりますが、私が調べたところ、能島村上氏は小早川隆景から備中(岡山県)の笠岡で領地をもらっているのです。これは隆重(たかしげ)という人、村上武吉(たけよし)の叔父さんにあたる人ですね、元は宗勝とよばれていたのを、隆景から偏諱をもらい隆重と名乗るようになったのですが、その人が少輔太郎名義でちゃんと土地をもらっている。これは『萩藩閥閲録』に資料があります。そういうところから、もうすでに、能島村上氏と小早川氏とは、主従関係に近いような結びつきをしている。そういうことで、能島は毛利氏に加担することの必然性があるわけです。
 と同時に、この隆重は、能島村上家で義益と武吉の間で相続争いが起こったとき、尼子方に味方した義益派に対抗して、兄義忠の子道祖次郎武吉を助けて大内方に加担しているのです。天文9年(1540年)8月に大内氏が伊予の村上水軍を攻撃し、その後も、大内氏は度々瀬戸内海へ進出して来て河野氏麾下の水軍を攻撃していますが、そのとき攻撃された能島というのは武吉側ではないのです。正統な系図から言えば、本家のほうにあたる義益側で、それがやられたのです。今言った隆重なんかは、大内方に味方しているのです。で、その当時、毛利氏は大内の支配下にありましたから、そういうところからも、毛利氏と結びついていたということがわかるわけです。
 それから能島の村上氏が援軍を出したのは、天文24年、すなわち弘治元年(1555年)の9月の28日です。 28日に援軍を出したのですが、そのとき、厳島の囮(おとり)城である宮ノ尾(みやのお)城は陥落寸前にあった。これが陥落したら、すぐさま陶軍は、そこに番兵を置いて海田市(かいたいち)(広島市郊外)へ上陸して吉田の郡山本城を襲うという、そういう瀬戸際でした。なぜそのようにギリギリになるまで待ったかと言うと、能島の水軍が味方に来なければ勝利がおぼつかなかったからです。だから、28日に援軍が来ますとすぐさま、翌29日の晩に包ヶ浦(つつみがうら)に上陸をして、翌朝早朝から、あの塔ノ岡(とうのおか)の陶軍の本陣に襲撃をかけているのです。これは能島の水軍の記録にちゃんと載っておりますが、「晦日(みそか)」とだけ書いて、「三十日」とは書いていない。だから、従来の説は30日があったように言いますが、貞観4年(864年)から貞享元年(1684年)まで施行された、当時の宣明暦では、9月29日が晦日のようです。
 仮に毛利軍が村上水軍の来援なしに10月1日卯の刻(午前5時からの2時間)に塔ノ岡の陶軍本陣を攻撃して勝利を得たとしましょう。しかし、このとき毛利の水軍部隊は因島村上氏の水軍を加えても百数十艘ですから、500艘に及ぶ陶水軍は、敗れた陶軍将兵を収容して島外に脱出し、陶晴賢も周防へ逃れて再起を期したことと思えるのです。だから、そうした政治的背景を考えても、能島、来島両村上氏の水軍が、毛利氏に味方したことは明白であります。
 もはや宮ノ尾城は弥山(みせん)に続く山の尾根を埋め立てて、そこから総攻撃をすれば、わけもなく落ちるようにしておきながら、迷信に惑わされて、2日間も空費した陶軍の作戦計画に最大のミスがあったわけです。


厳島・宮ノ尾城跡

厳島・宮ノ尾城跡