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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇化成時代以降の歴史の流れと郷土

 ところで、この萬安港が築造された文化文政時代というのは、どういう時代だったのでしょうか。実は、これは大変な時代でした。文化文政期というのは(俗に、化政期と言っておりますが)、その前が「寛政の改革」(1787―93年)であり、このあとに「天保の改革」(1841―43年)があります。
 「武門天下を平治すること、ここにおいて極まれり。」と、頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』の序文にあります。もう江戸文化が絶頂に達した時期で、同時に、また、非常に派手になった時代でもあります。
 江戸の女性の下駄は引き出しが付いていたと言われています。これに白ちりめんを入れて、上へ上がる時には、ほこりをはたいて上がる。その引き出しは、銅板でできておりまして、冬になったら、湯を入れて、素足で歩いても冷えないようにできておりました。江戸の美人と言えば素足が誇りであります。冬になっても、足袋(たび)をはかないんです。そういう下駄の鼻緒(はなお)には珊瑚(さんご)をちりばめたと。これが文化文政の時代であります。
 そういう文化的には非常に派手な時代でありますが、一面、この時期辺りから、諸藩は財政危機に陥ってくるわけです。伊予八藩の中で一番豊かなのは松山藩でしたが、化政期になると、松山藩士の給料は7割渡しというのが普通でした。今のように物価が上がったからベースアップをするという時代ではなく、物価が上がったら、逆に給料が下がるんです。武士は収入がないので困っていた時代でした。
 もう一つ例を挙げますと、松山藩では、毎年大阪の蔵屋敷に持っていく米が5万石あるんですが、大阪の蔵元への借金が45万石ありましたから、9年間、利子なしで持っていっても間に合わないぐらいの借金をしているんです。伊予では最もゆとりのある藩で、そういう状態ですので、普通の税金ではなかなか財政が賄(まかな)えないというのが、諸藩ともに共通する状況でした。そういう財政を立て直すために、米の経済からお金の経済へと力を入れました。そういう時代に、萬安港の築造が進められた、このことを考えていただければ、ということで、少しお話をしてみたわけです。
 安政元年(1854年)、大地震が起こりました。また、大暴風や高潮もあり、波止は甚大な被害を受けて、大修繕をしないといけなくなり大変な事業になりました。たとえば、慶応3年(1867年)、これは徳川幕府が倒れる年ですが、1月から4月にかけて、波止下砂掘工事を実施しています。人夫は、替地(かえち)諸村と3町から集め、一人平均で銀札11匁(もんめ)8分(1匁は3.75 g)の賃銀を払っています。
 ここで、替地について、少しお話しておきます。
 寛永12年(1635年)、大洲領と松山領の間で替地が行われました。その年の夏までに完了するのですが、この替地によって、今の伊予市はもちろんのこと、砥部町も全部含めまして伊予郡一帯が、松山藩から大洲藩になるのです。寛永11年、松山藩主蒲生忠知(がもうただちか)が参勤交代の途中でなくなりますが、このとき、松山城の留守番を任された大洲藩主加藤泰興が、幕府に領地の交換を願って許されたようなわけです。
 この御替地(新たに大洲藩領となった地域)の役所が郡中に置かれたんです。もっとも、当時は郡中とは言っておりません。いつから郡中と言うようになったかというと、文化14年(1817年)の正月24日に、布達が出され、御替地一円を郡中と改名しました。郡中というのは、郡内、元の大洲藩の領地の田舎(御城下以外)は全部郡内と言っていましたが、郡内と同じに扱うというので、郡中という名前をつけるわけです。
 それからもう一つ、文化5年(1808年)5月29日、大洲藩が郡中3町(三島町・灘町・湊町)を郷村から引き離します。(幕府の許しを得て8月11日に布達されています。)3町は、それまでは村の支配を受けており、三島町と灘町は米湊(こみなと)の庄屋の支配、湊町は下吾川(しもあがわ)の庄屋の支配を受けていました。もちろん町年寄、その他組織はちゃんとあるんです。あるんですが、現実ではそうなっていたんです。