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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇萬安港築港

 文化年間の文化9年(1812年)、今からちょうど183年前になりますが、重波止(おもはと)の普請(ふしん)に着工しました。藩からは、御用掛郡中書役の佐々木政左衛門と岡文四郎が、また、町方としては、宮内才右衛門、宮内小三郎、宮内伊兵衛、宮内弥三右衛門が名前を連ねています。この方々が地元の世話方でございます。
 ここで、注意をしたいのは、この文化9年に始まりました波止の工事は、「普請」と呼ばれていることです。「普請」というのと、「御普請」というのは違うんです。御普請というのは、藩が責任を持つ工事の場合で、地方が責任を持つ場合には普請と言います。とすると、この工事は、藩の役人もタッチしておるけれども、町方が主体となっているということになります。
 港は、萬安(まんあん)港という名前が付けられています。萬は、「萬代、いつまでも」、安は、「安心、安全で」という願いが込められています。それまでは、北風や北西の季節風が非常に強く、船の避難場所がなく、皆さんが困っていた。そこでこういう港の名前を付けたものです。
 文化12年(1815年)には、重波止の延長工事が行われています。最初の普請では、波止は、安広川の河口に造られました。安広川の河口というのは、今、皆さん御承知の庚申堂(法昌寺)というお寺があるところです。あそこから、今の市のポンプ場になっておりますが、あそこらあたりまでが、いわゆる波止でした。これを、その後だんだんと広げていくわけです。
 それでは、文化12年には、どこまで広がったか見てみましょう。現在、彩浜館(さいひんかん)の五色浜(ごしきはま)よりの庭の中に螺旋(らせん)状の階段を持った栄螺(さざえ)堀井戸があります。貝のサザエに似ているから、栄螺堀と呼ばれています。日本ではだいたい螺旋式で、階段のものはたいへん珍しいわけです。当時は、あの栄螺堀までが砂浜でした。砂浜の上に石垣を組んで、潮の満干をわかるようにした、これが栄螺堀です。だから、彩浜館のところから海の方は、全部、砂浜で入江だったわけです。それを想像していただいたら萬安港の位置がわかるのではないかと思います。
 その後も、文化14年、文政元年(1818年)と、事業を拡大していきました。文政6年(1823年)には、波止役所を設け、10月より帆別銭制度を設け、入港した船から入港税を取るというようなことをやっています。具体的に、帆の広さによって、いくらというようなことをちゃんと決めております。
 文政12年(1829年)には、大時化(しけ)があり、傷んだところを繕っています。さらに、天保元年(1830年)にも、時化で傷んだ光明寺裏の石垣45間(約81m)を繕っています。同じ年、岡文四郎が退役をし、豊川市兵衛がその跡を継承しています。
 こうして萬安港がほぼ完成するのが、天保6年(1835年)ですから、今からちょうど160年前ということになります。


江戸時代末期の郡中港

江戸時代末期の郡中港