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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇急激な人口増加とその背景

佐竹
 江戸時代の資料を見て、私がまず最初に驚きましたのは、江戸時代の終わりころにかけて、無茶苦茶な人口増加があった点です。私が研究しておりますのは主として広島県内ですから、こちら(愛媛県)とはちょっと事情が違うんですが、たとえば江戸時代の初めころの人口が2,000~3,000人という島が、明治の初めぐらいになると一ケタ多くなっていて、1万2,000人~1万3,000人というふうな状態になります。典型的な例を挙げますと、兵学校が昔あった江田島や、その並びにある倉橋島(ともに広島県安芸郡)などは、猛烈な人口増加を経験しております。
 「なんで、こんなに人口が増えたんだろう。」というのが、まず疑問だったんです。瀬戸内地域の文化の特徴というと、「東西南北いろいろな文化が交流して、日本の文化形成の上で大変大きな意味を持ちました。」という、わかったようなわからないような説明をよく聞きます。しかし、私はむしろ、この江戸時代の人口増加にもっと注目していいんじゃないかと、そのころから考えるようになり、「この問題を抜きにして、瀬戸内ということを語ることはできない。」と、思い始めました。と言うのは、人口の増加はただそれだけではなくして、当然耕地の開発を伴い、段々畑をこしらえ、小さな港のような所に、家々が折り重なるように集まってくる。そして、伝統的な形での瀬戸内の島しょ部らしい景観の形成が、どうも18、19世紀(江戸時代の後半)に、非常に激しく進んだのではないかということを考えたからです。
 瀬戸内には、非常に輝かしい歴史があります。もちろんここの大山祇神社や、厳島神社、いろいろな神様もおられるし、海賊も活躍した。そういう非常に有名なお話とかがあるわけですが、私は、やはり江戸時代の後期における激しい耕地開発と人口増加が、瀬戸内地域の最も大切な現象だと考えます。
 それでは、江戸時代の人口がどういう推移をしたか、御存じでしょうか。江戸時代の初めころは人口統計がございませんから、どうも1,000万人プラスマイナス200万人なんていう非常に大雑把な数字です。テレビドラマの「吉宗」を御覧の方は、先週か先々週か、「人口調査をしてはどうか。」という提案があって、「よっしゃ。」という話があったと思うんですが、徳川吉宗のころ、初めて全国的な人口調査が行われます。
 実は、江戸時代の後半にあたる18世紀初頭から19世紀中ごろの百数十年の間は、調査の結果、日本の総人口は全然変わっておりません。だいたい2,600万人、それに都市の町人や武士の数を入れてプラス500万人、つまり3,000万人内外で、江戸時代の中期以降幕末まで推移しております。それで、内訳を見てみますと、江戸を中心とした関東の特に北部、東北の太平洋側、それから京都、大阪を中心とした近畿地方では、実は人口は停滞か減少しているんです。
 そして、どこが増えているかと言いますと、この瀬戸内をはさんだ中国四国地域、九州の南のほう、あるいは北陸地方で、そういう所の人口が、江戸時代の後半にどんどん増えているわけです。その中でも、特にこの瀬戸内地域というのは無茶苦茶に人口が増えているわけですから、これはおかしいですね。
 私は、「19世紀は、瀬戸内島しょの時代だった。」と、常々言っております。だれもこのことは賛成してくれませんけれども、言いかえれば、非常に特徴的な開発と人口増加の時代があったということです。では、どうしてこういうことが起こったのかということを考えていきますと、一つには自然的条件、もう一つは経済の発達の段階、その二つが結び合った結果、急激な人口増加の現象が起こったと考えております。