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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)民営化後初の宇和島駅長として

 国鉄からJRへの転換期に駅長としてその腕を振るい、宇和島駅の名物駅長として知られた、松山市勝岡(かつおか)在住の桧垣高明さん(昭和14年生まれ)に話を聞いた。

  ア 車掌から助役、国鉄四国総局時代

 「生まれは波止浜(はしはま)(現今治市)です。高校卒業の昭和33年(1958年)に、同郷の先輩からの誘いで国鉄に入りました。『構内連結手』からのスタートでしたが、5年後に試験を受けて車掌になりました。先輩に付いての見習が3か月あり、ようやく独り立ちしたばかりのときの踏切事故は忘れられません。立ち往生していた軽自動車は、はねとばされて田んぼに突っ込んでおりました。私は必死で車から人を引き出しタオルで止血して、救急車の到着を待ちました。車掌は列車長であり、車掌の合図がないと列車は発車できません。『けが人の救急手配や事故処理は行って、後のことは近辺の人や最寄駅に依頼して列車を発車させることはできなかったか。』と、後で上司にも言われましたが、自分なりに必死でやったことで後悔はしておりません。『事故は1回あったら3回は続く。』と先輩に脅かされましたが、その通りになってさらに2回事故に遭遇しました。2回とも幸い死傷者はなかったのですが、なって間もなしで3回も事故にあった車掌ということで、国鉄内の有名人になってしまいました。
 昭和43年(1968年)に28歳で試験に通り、史上最年少の助役になりました。若すぎるということで、国鉄四国総局では心配だったらしいです。半年間、粟井(あわい)駅(現松山市)の兼務助役を勤めた後、高松市の四国総局に転出し人事・労務関係を長く担当しておりました。昭和60年(1985年)に46歳で駅長となり、土讃線の須崎(すさき)駅に赴任しました。当時の須崎駅は労働組合の力が強く、前任者も大変苦労していたため、人事・労務担当が長かった私は、職場規律の立て直しのために選ばれたようです。国鉄民営化が打ち出されたころで、無人駅も増えたため、須崎駅のみでなく予土線の高知県境までの管理駅長でした。1年で3回も拠点ストを打たれたりしましたが、あくまで妥協せず粘り強く対応し、『駅長、あんたにはかなわんわ。』と言われるようになり、なんとか職場秩序を回復できました。1年間苦労しぬいてようやく落ち着いたと思った翌年の昭和61年に、宇和島駅に転勤となりました。」

  イ 宇和島駅長として

 「宇和島駅長も、高知県境までの予土線、いよ石城(いわき)駅(西予市宇和町)までの予讃線、CTCセンター(松山以西)を管轄した管理駅長でした。国鉄民営化(昭和62年〔1987年〕)の直前で組合側も必死で不安感も強く、ストも多かったです。国鉄分割・民営化で約3割の人員を削減するという当局の方針の中で、私も人事の面では本当に苦労しました。辞任を申し出た部下を引き留めましたが『駅長、お世話になりました。』と去っていくことに、眠れない思いをしたこともあります。 
 しかし『JR』となってから民間会社として、活性化していかねば大変なことになるという危機感をみんなが持ち、職員一丸となった体制を作れるようになったことも確かです。それまでの宇和島駅は終着駅そのもののイメージだったのですが(写真1-2-5参照)、待合室のペンキ塗りは私も率先してやり照明も明るくし見違えるようになりました。合理化でなくなった小荷物取扱所を全部直営店舗に換えて、航空券や旅館手配も行う旅行センターもこの時期に改造工事したものです(写真1-2-6参照、現在の上部がホテルとなった駅舎は桧垣さん退任後に建設)。『桧垣さん、あんたが来る前の宇和島駅とうんとイメージが変わった』と言われ、うれしかったです。JR四国全体の駅舎改装の方針で予算がついたこともありますが、アヤメをホーム沿いに数百株植えて駅の名物にしたり、駅前の大和田建樹(*1)詩碑のある市の三角公園を非番の駅員で清掃奉仕したりするなど、駅員全体の協力のおかげでもありました。『宇和島駅は終着駅かもしれんが、始発駅でもあるんぞ。その誇りを持て。』とこのころ、部下によく言ったものです。
 南予の人はうちとけるまでは、ちょっと距離を置くところがありますが、1年経って地域の人とのつながりが深くなってくると、本当に人情味が深かったです。昭和63年(1988年)の選抜高校野球大会で宇和島東高校が初出場・初優勝したときは、貸切バスの手配でてんてこまいでした。決勝戦が近づくと泊り込む人が増え、帰りはカラ(空車)で帰ってこんといかんので、実は採算はとれなかったんですが、地域のために頑張りました。地域の人にほんとに大事にしてもらいました。
 宇和島駅から松山駅まで、当時は特急で2時間ちょっとかかっておりました。私は駅長になった当時、『1時間半にしますよ』と公言したところ、大ぼらふきじゃと言われたものです。内山線が開通(昭和61年)し、これまでの長浜回りの海岸線に比べ大幅な距離の短縮になるのと、カーブでもスピードを出せる振り子列車の開発ができており、私自身は確信をもっての言葉でした。宇和島駅を転勤する直前には、最速1時間15分で宇和島-松山間を結ぶようになりました。
 CTC(列車集中制御装置、信号・ポイントの切り替えを一か所で集中して遠隔操作するシステム)ができたのもこのころ(昭和61年)で、各駅の係員が不要となり、駅の無人化と安全運行を進める力になりました。昭和63年6月の集中豪雨で南予の交通網が寸断されたときにも、このCTCが役に立ちました。数日来の雨が気になって、その日は宿舎に帰らず駅長室におったところ、夜9時ころざーと部屋に水が流れ込んできて、いすやダンボールがふわふわ浮きはじめたんです。あわてて他の棟の3階にあるCTCセンターまで走りこんで『線路が流れるぞ、全部列車を止めい』と指示を出しました。宇和島のCTC指令室は松山以西が管轄で、特急を八幡浜駅で、普通列車を下宇和駅で止めました。列車を途中で止めるのは翌日の運行に支障が出ますし、払い戻しなどの損害もありますから勇気が要ります。指令室でも『駅長、宇和島まであと少しですから走らせたら』という声もありました。しかし、翌日の線路点検で、法華津峠トンネルの手前で土砂が線路をふさいでいたことが判明し、判断は正しかったと胸をなでおろしました。後日、社長から安全運行の表彰も受けました。
 瀬戸大橋が開通した昭和63年(1988年)、鉄道利用者が大幅に増えJR四国全体では旅客収入が前年比25%増でした。大橋効果で道後温泉も空前のにぎわいを見せたそうですが、それも松山までで南予は交通アクセスの関係でブームから取り残されてました。当時人気絶頂のRCサクセッションや吉田拓郎を招いた南レク野外コンサートの開催や、予土線へのSL誘致案がこのころ持ち上がったのも、何とか南予の観光の核作りをという願いからだったと思います。宇和島駅としても何とか協力したい、コンサート15,000人のチケットを3,000枚引き受けましょうと見得を切って、駅に帰ってよく考えたら顔色が青くなりました。1枚5,000円で150万円だと思い込んでいたのが、1,500万円だったんです。JR四国の旅行センター全体の協力もあって、何とか完売できたときにはほっとしました。
 予土線では、四万十川沿いの美しい風景を楽しんでもらうために、昭和59年(1984年)から日本で最初のトロッコ列車(貨物車を改造した開放展望車両)を走らせ、評判が高く現在も続いています(写真1-2-7参照)。さらに蒸気機関車を復活させれば観光の目玉になるのではないかと、平成元年(1989年)1月に宇和島市議会が中心になって、高知県も含めた沿線市町村に呼びかけ、初会合がもたれました。鉄道のことなので最初から相談を受けておりました。私は『議長さん、できることは何でもする。しかし昭和30年代に四国は気動車に切り替わって、機関士の資格を持つ者も機関車もない。山口や京都からすべて引張ってこんといかんので1か月2千万円はかかる。自分が関係機関と手配調整しているうちに、費用や市町村の協力がつかず、はしごがはずされておったということがないようにしてくださいよ』とくぎをさして、SL運行の段取りをつけていったんです。私の転勤後の平成元年11月に、無事にSLが運行されました(写真1-2-8参照)。」
  
  ウ 鉄路から離れて

 「平成元年(1989年)から平成3年までJR松山旅行センター長として、平成4、5年とJR四国愛媛事務所長を勤め、平成6年から退職までは松山キヨスク支店長でした。松山旅行センターは、愛媛県内の九つの旅行センターを統括する役目もあります。すでにJTBや近畿ツーリストさんなどの伝統ある旅行代理店業界に、素人のJR職員が入り込んでいくんですから、これは苦労しました。松山の中心地の千舟町にも営業所を出して、私自身も毎日営業に回りました。特に、松山-ソウル便の開設は、県知事の肝いりもあって、旅客確保と観光キャンペーンに力を注ぎました。韓国からの観光客誘致のために、県観光協会、旅行業者、道後の業者さんを連れて2回キャンペーンにも行きました。キヨスク時代も、宇和島駅から松山駅そして伊予小松(こまつ)駅までの、松山管内全域の管理を担当しておりました。それまでの駅売店・車内販売を一手に握っておったのが、JR自身が子会社を多く作って直営店やコンビニを駅構内にも作る時代になったので、営業的には苦しい部分がありましたね。
 今思えば、国鉄からJRへの転換期を、駅長として第一線で過ごすことができたのは、しんどい部分もありましたがすばらしいことでした。すでに退職して十年近くなりますが、思いは今でも鉄道から離れません。」



*1 宇和島市出身の明治時代に活躍した国文学者、歌人、詩人。「鉄道唱歌」の作詞で有名。


写真1-2-5 SL時代の面影残す宇和島運転区転車台

写真1-2-5 SL時代の面影残す宇和島運転区転車台

宇和島市錦町 平成19年9月撮影

写真1-2-6 現在の宇和島駅

写真1-2-6 現在の宇和島駅

宇和島市錦町 平成19年9月撮影

写真1-2-7 予土線トロッコ列車

写真1-2-7 予土線トロッコ列車

鬼北町近永付近 平成19年9月撮影