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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)先祖を迎えて

 ア 盆の行事

 前年の盆以降、新たに亡くなった人が出た家では、その年の盆をアラボン、シンボン(新盆)と呼んで他の家よりも早く盆の行事に取りかかり、祭壇を設けてていねいに祀った。
 アラボンの家では、6月末に施餓鬼幡(せがきばた)(*4)を立てて盆灯籠(ぼんどうろう)のトボシゾメ(点し初め)を行った。施餓鬼幡は白木綿で作り、「三界万霊何々家先祖代々」などと寺で文字を書いてもらう。幡と灯籠はアラボンの家を示す目印で、以後3年間は盆ごとに立てることにしていた地域が多い。また、盆棚(精霊棚(しょうろうだな)、水棚(みずだな))を設けて位牌(いはい)を安置し、供物を供えて亡くなった人や先祖の霊を供養した。盆棚は、室内に作る地域と屋外に作る地域、仏壇を飾りつけて済ませる地域の三つに別(わ)けられる。
 精霊の迎え火は7月13日か14日に焚(た)き、送り火は15日の夕刻に焚いた。火を焚く場所は墓地・門口・川端などさまざまで、おがら(皮をはいだアサの茎の部分)や松葉、松明(たいまつ)などを燃やした。松山市窪野(くぼの)町では14日の昼までに墓参に出向き、そこで迎え火を焚いてその火を線香に移した。送り火は15日夕刻に家の門口で焚き、「この明かりで丈夫に帰ってくださいませ。」と唱えた。また、盆行事の最後に精霊流しを行う地域があり、瀬戸町川之浜(かわのはま)地区では麦わらのオショロブネを作って故人の好物を入れ、沖まで運んで流した。
 このほか盆行事には、先祖供養の盆踊りや火祭り、子どもたちが河原や浜辺に集まって炊(た)く盆飯などがある。また、七夕も盆と関係が深いとされ、7月7日の七夕を「七夕盆」・「七日盆(なのかぼん)」などと呼んでこの日に墓参する地域も多い(①)。

 イ 新盆の行事と盆着の風習

 越智郡上島町魚島地区は瀬戸内海の燧灘(ひうちだな)に浮かぶ周囲6.5kmの島であり、漁業を主な生業としている。昭和35年(1960年)には人口1,500人余りを数えたが、その後著しく減少し、平成16年(2004年)現在は300人を下回った。それでも盆や正月を迎えるころになると、多くの帰省客で島はかつてのにぎわいを取り戻す。
 昭和30年代から40年代中ころの魚島地区の盆行事とその装いについて、魚島在住の**さん(昭和24年生まれ)に聞いた。
 「通常のお盆には墓掃除と墓参りをするくらいですが、この1年間のうちに死者があった家では、8月7日に新盆(あらぼん)の行事を行いました。
 新盆が近づくと、まず、お寺に施餓鬼幡をもらいに行き、それを墓のそばに立てます。また、お墓にはおがらの杖を立てかけたり、ハスの葉を敷いてその上に松の小さな割り木を100本束ねたヒャクタバを置いたりしました。一方、家では仏壇を開けて位牌(いはい)を出し、そこにシャシャキ(ヒサカキ。ツバキ科の常緑樹で、仏前・墓前に供える。)やシキビ(シキミ。シキミ科の常緑樹で、仏前に供えたり墓地に植える。)を立てたりお供え物をして、6日になると灯籠を吊(つ)ります。これを3年間続け、3年目の盆がすむと灯籠をお寺に納めました。
 親戚や近所の人たちは、だいたい8月5、6日に新仏(しんぼとけ)へのお供え物を持って行きます。6日の晩に親戚たちで御詠歌(ごえいか)(仏教の信者が詠(うた)う、仏の徳をほめたたえた歌)をあげ、翌7日にも親戚が集まって昼食を食べた後、一同で墓参りして新盆の行事を終えました。
 これら一連の行事は、現在ではだんだんと簡略化されつつあります。ただ盆行事の服装については今と変わらず、特に喪服を着るわけではなく、地味目のよそいきの服を選んで着るようにしていた程度です。」
 かつては県内各地に、盆に新しい衣服や履物をおろす盆着の風習があった。魚島の盆着について**さんに聞いた。
 「盆で思い出すのは、反物や桐(きり)下駄、上等の草履をお中元として実家の親や仲人(なこうど)さんの家に贈る風習があったことです。これは、贈ったものを盆におろしてくださいとの意味です。また、私が新しい服を盆前に買って来たところ、親から『もうすぐお盆だから、それまで着るのは待っとったら。』と言われたこともありました。
 正月にも盆着と同様の正月着がありました。このような風習は、昭和40年代ころまでは続いていたと思います。昔は、古い衣服のほころびを直しながら着続け、盆、正月を境に新しく取り替えたもので、衣服に限らず生活のすべてにおいて盆と正月が大きな区切りになっていました。」
 盆着、正月着について、『魚島民俗誌』には次のように記されている。「人々は、正月および盆がくると、衣料をパリッとさせた。ことに子どもには、肌着、足袋を新しく買って与え、履物(アサウラ)を作って与えた。(中略)例えばアサウラをもらった時などは、夜、床につく時、枕もとにきちんとそろえてから寝たものだという。(中略)盆に与えたアサウラは、『ついでに祭りまで(今のものを)はいとけ。』などといったものだ。子どもがすぐに使いはじめてはもったいないので、1月先の祭りの日までおろさずにいるように促していたのである。(③)」

 ウ “仮装する”盆踊り

 盆踊りは県内各地で催される盆行事だが、この地域の盆踊りは踊り手が仮装することに特色がある。魚島の盆踊りについて**さんに聞いた。
 「盆踊りは島をあげての盆行事です。特に新盆を迎えた家は、盆踊りの費用の一部を寄附し、家族が踊りに参加しなければなりません。どちらかというと、寄附よりも盆踊りへの参加の方が大事だとされていました。
 現在の盆踊りは新暦の8月14日の夜に行いますが、かつては旧暦の13日から15日まで三日間にわたって、毎晩踊っていました。夕方になって潮が引き始めると、役場前の浜に人が集まって来て自然と踊りが始まります。潮が満ちるにつれ踊りの輪は場所を求めて徐々に移動し、満潮になって踊る場所がなくなると終わりました。
 踊りは、内(なか)踊りと外踊りの二重輪踊りの隊形をとります。外踊りの人たちは普通の浴衣ですが、内踊りはめいめいが仮装して踊ります。仮装は個人で自由に行ったり、青年団などのグループで統一して行ったりさまざまですが、私自身は青年団の一員として仮装することが多かったです。お盆が近づくと団員で相談して衣装を決め、それから準備を進めました。
 昭和40年代中ころには、赤穂浪士(四十七士)の討ち入り衣装で踊りました。網目模様を書き加えた白いシャツの上に、家からひっぱり出した古いきものを着て、足には草履を履きました。袴がなかったので女子学生のスカートを借りて代用し、細かい飾りは馬糞紙(ばふんし)(わらを原料とした安価な板紙(いたがみ))を切り抜き、金紙・銀紙など色紙を貼り付けて作りました。青年団員は47人もはいませんから、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)・主税(ちから)親子などの主だった浪士と、あとは吉良上野介(きらこうずけのすけ)を登場させました。吉良役は白い寝間着を着て、頭に“てんかふ”(天花粉(てんかふん)のことで、あせも・ただれにつけるカラスウリの根から取った白い粉)を散らして白髪に見えるようにしました。
 もっとも盆踊りは三日間毎晩あるわけですから、一晩は赤穂浪士の格好で踊った人が、次の晩は別のグループの一員として南洋の原住民、また次の晩は案山子(かかし)と、日によって仮装を替えて踊ることもあります。一晩のうちに、一人が何回か衣装を着替えて来る場合もありました。
 魚島の盆踊りはやぐらを組まず、外踊りの人たちによる中太鼓と“四つ竹”(写真2-2-6参照)の音を伴奏として、音頭(おんど)の歌声にのって踊る素朴なものです。当時は、上手に音頭を口説く(節をつけて叙事的(じょじてき)な歌詞を唄(うた)う)人がおおぜいいました。盆踊りの音頭は、短い文句を何回も繰り返すものや、いつ終わるのだろうかと思うほど長い物語調のものなどさまざまです。ただ、踊りやすいようにリズムのとり方はどれもだいたい同じにできています。」

 エ てんてこ、てんてこ、てんてんや

 魚島には、盆踊り以外にもテンテコと呼ばれる踊り(練り歩き)が伝わっている。盆踊りと同様に参加者が仮装するが、盆踊りが広く先祖の霊を慰めるために踊られるのに対し、テンテコは、南北朝時代(1336年~1392年)に戦に敗れて落ちのび、魚島で亡くなったとされる武将篠塚伊賀守(しのづかいがのかみ)の鎮魂が目的の行事だといわれる。テンテコについて**さんに聞いた。
 「テンテコは15日の午後、潮が引いた大木(おおき)海岸で行われます。まず、鬼のお面をつけたダイバン役が二人いて、一人は笹束を持ち、もう一人は六尺棒(6尺は約1.8m)を持ちます。二人のダイバンを先頭に、その後ろに思い思いの仮装をした人々が行列を作って続き、砂浜を左右に横飛びしながら練り歩くのです。
 テンテコの一団は、鉦(かね)・太鼓のお囃子(はやし)にあわせて『てんてこ、てんてこ、てんてんや、やーこらさ、こらさ』と大きな掛け声をあげながら進んでいきます。砂浜の中央まで来ると、二人のダイバンは敵味方に分かれ、お互いに笹束と六尺棒を振り回して戦うしぐさをします。その後一団は、砂浜中央の一角に設けられた幕を張った陣屋に練り込んでテンテコは終わります。たぶん、テンテコの名称はこの掛け声からきているのだと思いますが、詳しいことはわかりません。
 昭和30年代、テンテコの世話は青年団がやっていて、ダイバンは青年団員が務めていました。ダイバンの装束は、上は白い肌着のシャツ、下はステテコといたって簡単なもので、今のように袴をはいたりはしませんでした。行列の後ろに続くのは主に小学生たちで、めいめいが家から古着を持ち出して着ました。男女とも、顔におしろい・口紅を塗り、眉墨(まゆずみ)で眉を描きます。お互いに化粧しあったり、婦人会の人に化粧してもらったりしました。
 テンテコにしろ、盆踊りにしろ、仮装には場を盛り上げる“賑(にぎ)わし”の意味があるのだと思います。」
 なお、テンテコの由来については武将の鎮魂説以外に別説もある(③)が、かつてテンテコの際に浜辺で少女たちによって炊かれていたテンテコメシは、盆行事の一つである盆飯の別称ではないかと推定されている。


*4:施餓鬼幡 餓鬼道に落ちて飢餓に苦しむ亡者(餓鬼)やその他の亡者に飲食物を施す供養の法会(ほうえ)の開催を示す
  旗。

写真2-2-6 四つ竹

写真2-2-6 四つ竹

旧魚島村役場にて。平成16年6月撮影