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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 戦時中の記憶

 ア 空襲の記憶

 「私(Aさん)は終戦の年には、鈍川国民学校高等科の2年生でした。私はそのころはまだ身長が低かったので行くことができませんでしたが、国民学校の同級生4人が、海軍の志願兵の検査に行ったことを憶えています。当時、今治地方の志願兵の検査は日高国民学校で行われていました。検査当日の8月15日に終戦を迎え、検査が中止されたので、戦場に行くことはありませんでしたが、そのような境目の年だったことを憶えています。
 今治が空襲に遭ったときのことも憶えています。私は友人と今治のマスヤ書店に自転車で教科書を購入しに行ったときに空襲に遭いました。昼でもときどき、空襲警報が鳴っていたのです。8月5日から6日にかけての今治の空襲では、玉川でも辺りが真っ赤になっていて昼のような明るさでした。B29が上空をぐるぐる回りながら、焼夷(しょうい)弾をばらばらと落としていき、焼けて真っ黒になった家もはっきりと見え、ひどい光景だったことを憶えています。また、いつだったかはっきりとは憶えていませんが、叔父と一緒に今治へ氷を買いに行ったときにも空襲に遭いました。母が肺炎を起こしたので、夜になってから氷を買いに行かなければならなくなったのです。そのときは今治の親戚の防空壕(ごう)に入って難を逃れましたが、氷を買って戻るときにはもう明け方で、眠くてたまりませんでした。自転車の荷台に積んでいた氷を目に当てて、眠気を覚ましながら帰ったことを憶えています。」

 イ 子どものくらし

 「そのころ、祖父には『家でしっかりと勉強しなさい。』と言われていて、私(Aさん)が『農家になるのに、なぜそんなに勉強しないといけないのだ。』と言うと、『いずれは兵隊に行かないといけないが、軍隊に入っても中学校を卒業していなければ、いつまでも二等兵でいなければならない。だから中学校に入るためにしっかり勉強した方がよい。』と言われました。
 私の家は農家だったからかもしれませんが、食べ物には苦労をした記憶がありません。鈍川には疎開してきた子どもが多かったことを憶えています。終戦前には鈍川国民学校の児童が320人くらいいました。今治から疎開してきた児童が多かったですが、大阪から疎開してきた児童もいました。叔父は子どもが7人いましたが、家族で疎開してきていました。私も7人兄弟でしたが、そのころは非常に子どもが多く、どこの家も5人から7人はいたのではないかと思います。
 子どものころにはよく野球をして遊んでいました。野球といっても子どものころは『1銭野球』といって軟らかいゴムの球をピッチャーが投げ、それをバッターが手で打つというもので、三角ベースで遊んでいました。また、『釘(くぎ)立て』といって、五寸釘のような長い釘を地面に投げ立て、順番に陣取りをするような遊びをしていました。そのほかにはよく『パッチン(メンコ)』をしていましたし、もっと小さいころには、隠れん坊をして遊んでいたことも憶えています。」

(2) 昭和30年代の記憶

 ア 薪の採集

 「昭和30年代に燃料が木炭からガスに替わりましたが、そのころは風呂も薪(まき)で焚(た)いていました。スギやヒノキを切って索道で運び出すと、その下に枝が落ちていました。それを近所の母親たちがもらう約束をして、お年寄りたちと一緒に昼間に束にして縄でくくっていました。私(Bさん)たちは学校から帰ると、その薪の束を荷車で運び出していました。にぎやかな鈍川温泉街を荷車を引きながら通ることが子どもながらに恥ずかしかったことを憶えています。荷車で持ち帰った薪の束は家の表へ積み上げていました。そのころは、薪をたくさん積んでいるほど、家に活気があってよいといわれていたので、集落の各家が競争のようにして薪を家の前に積んでいました。竈(かまど)で煮炊きするのも、風呂を焚くのも燃料は全て薪だったので、学校から帰ると勉強などはせず、すぐに山に行っていましたし、日曜日にもよく山で手伝いをさせられていました。」

 イ テレビの思い出

 「私(Bさん)が子どものころ、私が住んでいる集落にもテレビを持っている家が1軒ありました。小学生のころは夕食をとった後、その家へプロレスを見に行っていたことを憶えています。今考えると、迷惑なことをしていたのではないかと思います。テレビは現在のようにきれいに見えたわけではありませんが、熱中して見ていました。また、当時は相撲も人気があり、私は行ったことがありませんが、夕方になるとみんながその人の家へ相撲中継を見に行っていました。図々しいなと思ったこともありますが、この集落でテレビを持っていたのはその家だけだったので、みんながテレビを見せてもらっていました。」

 ウ 子どもの遊び

 「私(Bさん)が子どものころはプールがなかったので、学校から帰ると川で泳いだり、魚を獲(と)ったりして遊んでいました。学校では軟らかいボールを使って野球をしていましたが、この辺りには広い空き地などはなかったので、休みの日にはやりませんでした。そのほかにはパッチンなどもみんながやっていました。
 祭りのときには神輿(みこし)も出て、にぎやかでした。子どものころに特に記憶に残っているのは、夏に行われていたマンドという行事です。山の奥の方など方々の子どもたちが、麦藁(わら)を束にして作ったサイトとよばれる松明(たいまつ)を持ち、お年寄りたちが道端で見学している中を、河原へ歩いて行きました。そして河原では竹や麦藁で作った小屋にサイトで火を点(つ)けました。マンドはお盆のときの送り火で、先祖の供養のために行われていたのではないかと思います。
 昭和40年代に入ってからのことですが、私が高校を卒業したころに、私が住んでいる集落の方が中古のミゼットを購入しました。私は貝を掘るのが好きだったので、その方に旧東予市河原津の国民休暇村へアサリを掘りに連れて行ってもらったことを憶えています。その方が中古のミゼットを購入するまで、この辺りでは誰も車を持っていなかったのではないかと思います。」

 エ 遠足の思い出

 「私(Bさん)が子どものころ、この集落に店はありませんでした。キャラメルや飴(あめ)を売っていた駄菓子屋さんが近くに1軒あったと思いますが、ほとんど買うことはありませんでした。私が自分の子どもたちによく話すのが、小学生のときの遠足の話です。鈍川温泉の奥にある木地地区からさらに奥の方に、仏峠や千疋峠といった南北朝時代の史跡があり、桜の名所になっています。遠足では鈍川小学校の方から山を登り、その峠に出て、そこで弁当を食べた後、解散していました。私たちは木地川沿いに温泉街を通って帰り、小学校の近くに住んでいる子どもは来た道を通って帰っていました。
 遠足のおやつは、小さい箱に入ったキャラメルや紙に包んだ飴を一つくらい持っていれば良い方でした。そのため、塩を新聞に包んで持って行き、帰りに山に生えているイタドリを採って、塩をつけて食べながら帰っていたことを憶えています。」

 オ 食べ物の思い出

 「駄菓子屋さんのほかには店がなかったように思いますが、私(Bさん)の子どものころには、魚屋さんがバスに乗って上がってきて、箱に魚を入れて行商に来ていました。その人が行商をやめると、別の人がオート三輪に魚を積んで行商に来ていました。そのオート三輪は足で踏んでエンジンをかけるものだったことを憶えています。しかし、魚もめったに食べることはなかったので、イモや大根を食べることが多かったのではないかと思います。
 父は鈍川発電所に勤めていたのですが、電力会社の方が鈍川に来て花見をするというので、家族で呼ばれたことがありました。そのとき電力会社の方は鈍川温泉の奥の方の山の中にシートを敷いて、すき焼きを作ってくれました。すき焼きには牛肉やマツタケ、野菜が入っていましたが、私は普段牛肉をあまり食べたことがなかったので、牛肉ばかり食べていたようです。現在は気候が変わったためかマツタケもほとんど採れなくなっているそうですが、そのころはマツタケがたくさん採れていたので、牛肉に目が行ったのではないかと思います。その後、母から『マツタケを食べずに肉だけ食べていた。少しは遠慮をしないといけない。』と言われました。
 御馳走といえば、私の家では卵を取るために鶏を飼っていたので、盆や正月になると鶏を潰して食べることが楽しみでした。卵を産まなくなった鶏を食べていましたが、父が『まだ卵を産んでいるから、もうちょっとしてから食べるか。いやもう食ベよう。』と言ってさばいてみると、『卵がまだたくさんあったなあ。まだたくさん卵を産むところだったなあ。』などと言うこともあったことを憶えています。」

(3) 玉川を襲った災害について

 ア 昭和43年の雪害

 「昭和47年(1972年)の水害はひどかったのですが、その前の昭和43年(1968年)に大雪が降ったことを鮮明に憶えています。県下で大雪害が起こり、植林していた幼木が大きな被害を受けました。玉川町でも昭和30年(1955年)ころより増植された、樹齢2年から16年くらいの木がほとんど倒れたり折れたりして、大変な被害を受けました。みんなで多くの倒木にロープをかけて起こしたり、どうにもならない場合は再造林したりするなど、大変な手間と費用がかかりました。倒木を起こすための機材やロープの斡旋を森林組合が行っていたことを憶えています。私(Aさん)は森林組合に入った昭和26年(1951年)に、自身の山林に300本植林をしていました。昭和43年の豪雪時には、そのほとんどの木が折れてしまって、樹齢17年の木は柱にできず、端太(ばた)角(コンクリート工事などで、型枠などを押さえたり支持したりするために使う、10㎝角程度の木材)としてしか売れなかったことを憶えています。その当時はまだ旧鈍川村役場に森林組合の事務所があり、そこから家に帰るとき、足が雪に埋もれてしまい動けなくなったため、四つんばいで帰らなければならないほどでした。それが昭和43年の雪害で、私が経験した中では一番ひどいものでした。」

 イ 昭和45年の台風

 「昭和43年の雪害の次に大きな被害をもたらしたのが、昭和45年(1970年)の10号台風でした。玉川にも大きな被害がありましたが、そのときに今治港の内港の桟橋が全て落ちてしまいました。内港には第1、第2、第3の三つの桟橋がありましたが、全ての桟橋が海に沈んでしまったのです。当時は大阪万博が開かれていて、私(Aさん)はPTAの世話役をしており、大阪万博に子どもたちを連れて行くことにしていました。ところが、桟橋が使えなくなって阪神行きのフェリーが今治港から出港できなくなったため、仕方なく新居浜港からフェリーに乗ったことを憶えています。昭和45年の10号台風は風も強く、山の木も多くが風で倒れてしまいました。山師が山の奥から戻ってきて、『木が倒れてきて恐ろしかった。』と言っていました。」

 ウ 昭和47年と昭和51年の水害

 「昭和47年(1972年)の水害により、玉川では土砂崩れで流されたり、土砂に埋まったりして4人の方が亡くなり、鈍川地区でも1人の方が犠牲になりました。さらに昭和51年(1976年)の水害でも4人の犠牲者が出るなど大きな被害が出ました。どちらの水害でも自衛隊に助けてもらいましたが、山の方でも大きな被害が出て、麓から見ても恐ろしいくらいでした。小さい川でも水の勢いは強く、何でも流してしまうような状況でしたが、土砂崩れでは入れ土をして大規模に造成したミカン畑が崩れたことを私(Aさん)は憶えています。
昭和51年の水害では法界寺地区で大きな土砂崩れがありました。そのとき、私は旧玉川町役場の2階の事務所にいましたが、ミカン畑を造成していた所が崩れて、家が押し流されているところが窓から見えたことに衝撃を受けたことを憶えています。ちょうど昼時でしたが、窓から見ていると、山がじわりじわりと崩れるところが見えたのです。その後、土砂は蒼社川に出るとものすごい勢いで流れていきました。私はこの水害があったときも含めて長い間消防団で活動していたので、大きな水害について強い印象を持っています。」



参考文献
・ 平凡社『愛媛県の地名』1980
・ 玉川町『玉川町誌』1984
・ 今治市・玉川町及び朝倉村共有山組合、今治地方水と緑の懇話会『今治・越智地方緑と水の文化史』1993
・ 玉川町『時の瞬き 玉川町の軌跡とふるさとの情景』2004