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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 林業と人々のくらし

 旧玉川(たまがわ)町は、高縄半島の中央部に位置し、東は旧東予(とうよ)市(現西条(さいじょう)市)、旧朝倉(あさくら)村(現今治市)、北は旧今治市、旧大西(おおにし)町、旧菊間(きくま)町(いずれも現今治市)、西は旧北条(ほうじょう)市(現松山(まつやま)市)、旧松山市、南は旧重信(しげのぶ)町(現東温(とうおん)市)、旧丹原(たんばら)町(現西条市)に接している。明治22年(1889年)の町村制施行により、鴨部(かんべ)村、九和(くわ)村、鈍川(にぶかわ)村、龍岡(りゅうおか)村の4か村が誕生し、さらに昭和29年(1954年)には4か村が合併して玉川村が成立、昭和37年(1962年)に町制を施行して玉川町となった。
 主要産業は農林業であり、南部は険しい山々に囲まれ、今治・越智地方では最も林業が盛んな地域となっている。北部は蒼社川流域に田園地帯が形成され、旧今治市への通勤者も多い。また、名勝地鈍川渓谷の一角にある鈍川温泉は、平安時代に記録がある歴史の古い温泉で、近世には今治藩の湯治場として利用されていた。明治以降に観光地としての開発が始まり、昭和27年(1952年)には民間資本により株式会社鈍川温泉が設立され、交通条件の整備が進み、本格的な開発が進んだ。
 温暖な気候と多量の降水のため林業に適した旧玉川町であるが、地質はもろい花崗岩(かこうがん)真砂土であるため、藩政時代から水害に悩まされてきた。明治期には森林の乱伐が広がり蒼社川奥地の森林も犠牲となった結果、山崩れ土砂流による河川氾濫が多発し、特に明治26年(1893年)には豪雨による蒼社川の決壊で甚大な被害がもたらされた。そこで、明治30年(1897年)に森林法が制定されたことを契機に、明治36年(1903年)からは共有山組合が直営林の造林に着手し、これ以降明治から大正にかけて着々と造林が進められた。
 第二次世界大戦後には木材ブームにより県下有数の林業地帯へと飛躍し、昭和27年(1952年)には各村に設立された森林組合を中心に盛んに林業が営まれてきた。林業の盛んだった昭和58年(1983年)には旧玉川町の総面積10,398haのうち森林面積は8,982haと86.4%を占めており、国有林を除く森林面積8,153haのうち、造林面積は5,536haと67.9%であった(図表2-2-1参照)。
 本節では、旧玉川町における林業と人々のくらしの様子について、Aさん(昭和6年生まれ)、Bさん(昭和24年生まれ)から話を聞いた。