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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 今治市の中心商店街の町並み

 旧今治市は県中央部高縄半島の北東部に位置し、北は旧波方町、西は旧大西町、南は旧玉川町、旧朝倉村(いずれも現今治市)と旧東予(とうよ)市(現西条市)と接し、東は燧灘に面している。
 明治22年(1889年)の町村制施行により今治町、日吉(ひよし)村、立花(たちばな)村、富田(とみた)村、桜井(さくらい)村、清水(しみず)村、日高(ひだか)村、近見(ちかみ)村、波止浜(はしはま)村、乃万(のま)村の1町9か村が成立した。大正9年(1920年)に今治町と日吉村が合併し、今治市が成立した。昭和8年(1933年)に近見村、昭和15年(1940年)に立花村、昭和30年(1955年)に富田村、桜井町(大正6年〔1917年〕に町制施行)、清水村、日高村、波止浜町(明治41年〔1908年〕に町制施行)、乃万村、昭和35年(1960年)に波方町の一部を今治市に編入してその区域が確立した。
 旧今治市の起源は、慶長7年(1602年)に今治城の築城を始めた藤堂高虎が、慶長8年(1603年)に着手した城下町の町割りに遡る。高虎は今治城の外堀でもある金星川とその北側の別宮大山祇神社との間のほぼ四町四方(約19ha)を城下町の町域とし、海岸側から片原町、中浜町、風早町、本町、米屋町、室屋町の六町を配した。寛永12年(1635年)に初代松山藩主松平(久松)定行の弟である松平定房が封じられ、以後、松平家の城下町として繁栄した。なお、定房入部直後、辰の口下の広場と海浜を埋め立てて新町を、本町4丁目の北方に北新町を取り立て今治八町とした。
 藩政時代から商業の中心は本町であったが、戦後、新町と川岸端が一直線の商店街となり、港務所から今治駅方面への通行路として適したため、にぎわいを見せるようになった。川岸端からドンドビにかけては、今治銀座商店街と称している。
 本節では、昭和30年代から40年代を中心に、今治の中心商店街の様子や人々のくらしについて、Aさん(昭和7年生まれ)、Bさん(昭和13年生まれ)から話を聞いた。