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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 蚕糸業と人々のくらし

 旧野村(のむら)町では、明治4年(1871年)ころから桑苗を植える者が現れ、養蚕が始まった。傾斜地に広がる畑地は桑栽培に適しており、換金性と収益性の高い養蚕は急速に普及していった。一方、養蚕の普及に伴い、大正期に入り小規模の製糸工場が旧野村町内に数多く設立され、旧野村町の蚕糸業は、第1期黄金時代を迎えた。
 ただし、このころ旧野村町で生産された繭は、繭仲買人に買い叩(たた)かれることが多く、養蚕農家の収入は不安定であった。このため、大正10年(1921年)、組合製糸の前身である東宇和郡購買販売利用組合が設立され、同12年(1923年)に組合による繭市場、乾繭、倉庫業務が始まった。なお、愛媛県下で生産される生糸は、その品質の高さから「伊予生糸(いよいと)」として名声を高めた。
 大正12年(1923年)の震災恐慌以後、繭・生糸価格が暴落すると、旧野村町内の養蚕は停滞し、旧野村町内の製糸工場は、昭和7年(1932年)に相次いで倒産した。このような状況の中、組合製糸工場の設立運動が起こり、昭和8年(1933年)に組合製糸工場の設立が決議された。同時に組合の名称が有限責任東宇和生糸販売購買利用組合に改組され、昭和9年(1934年)、組合製糸工場の操業が開始された。同工場で生産された生糸は、その後「カメリア」の商標で販売され、その品質が国内外で高く評価された(写真1-2-1参照)。
 昭和16年(1941年)、太平洋戦争が勃発すると、食料増産のために桑畑がイモ畑や麦畑に転換されるなどした。その結果、繭生産量は最盛期の1割程度となり、生糸の生産量も激減した。製糸業も国の統制下に置かれ、昭和18年(1943年)、組合製糸工場の設備一切が日本蚕糸製造株式会社に貸与された。昭和19年(1944年)には、東宇和生糸販売購買利用組合が解散された。
 戦後、愛媛県は、養蚕振興の中核地域として、県内で最も早く旧野村町阿下(あげ)に東宇和蚕業技術指導所を設置し、蚕糸復興に力をいれた。また、昭和21年(1946年)、日本蚕糸製造株式会社の解体により製糸設備が返還され、東宇和蚕糸協同組合(同25年[1950年]東宇和蚕糸農業協同組合に改組)が設立されて組合製糸が復活した。同工場は高品質生糸を生産したため、皇室の御料糸に採用されたり、昭和24年(1949年)には、エリザベス女王の戴冠式にあたり、イギリス王室から式典用御料糸の特別注文を受けたりした。こうして昭和40年代に入り、旧野村町の蚕糸業は第2期黄金時代を迎え、養蚕農家は900戸を超えた。なお組合製糸の営業基盤が県内全域になってきたため、昭和49年(1974年)、組合が愛媛蚕糸農業協同組合に改組された。以後、県内の多くの地域から繭を集荷し、製糸を行うようになった。
 昭和50年代に入ると、養蚕農家の高齢化の進行や後継者不足による繭生産の減少、外国産繭・生糸の大量輸入による繭・生糸価格の低迷のため、国内の蚕糸業は衰退し、旧野村町の蚕糸業も衰退していった。この苦境を乗り越えるべく、昭和62年(1987年)、県内の3組合製糸と県養蚕農協連が合併して愛媛県蚕糸農協連合会となり、同野村工場となった。しかし、国内の蚕糸業低迷の波には逆らえず、平成6年(1994年)3月、他の組合工場とともに野村工場は閉鎖された。
 蚕糸業が衰退する中、旧野村町の発展を支えた蚕糸業を後世に伝えるため、平成6年(1994年)、野村シルク博物館、絹織物館が設立された。野村シルク博物館では「伊予生糸」の継承にも取り組み、平成17~25年(2005~2013年)の第62回伊勢神宮式年遷宮の御料糸に採用されたり、能装束の復元に使用されたりするなど高い評価を得ている。こうした取組により、平成28年(2016年)には「伊予生糸」が地理的表示(GI)として登録された(写真1-2-2参照)。地理的表示(GI)とは、高い品質と評価を獲得した地域の農林水産物の名称を知的財産として国が保護するために、平成27年(2015年)に設けられた制度で、「伊予生糸」は非食用農産物として初めての登録となった。
 本節では、旧野村町の養蚕について、Aさん(昭和7年生まれ)、Bさん(昭和6年生まれ)、Cさん(昭和17年生まれ)から、東宇和蚕糸農協野村工場について、Bさん、Dさん(昭和22生まれ)からそれぞれ話を聞いた。