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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 蚕を育てて

 (1) 養蚕の変遷について

ア 養蚕の合理化

 「私(Aさん)が蚕業普及員になったころ(昭和29年〔1954年〕)は、蚕箔(さんぱく)という容器で蚕を飼い、葉摘みした桑を与え、その蚕箔を棚に挿したり出したりするという、棚飼いが主流でした。その後、昭和30年代の半ばから昭和40年代にかけて、桑の葉の付いた枝ごと蚕に与える条桑育(じょうそういく)に変わっていきました。条桑育を行うとなると、桑園も改良しなければなりません。それまでは魯桑(ろそう)という品種が主流で、葉摘みした桑の葉を蚕に与える分には良いのですが、条桑育には向いていなかったので、一の瀬という品種が主流になっていきました。
 また、年に3回飼っていたのを、4回・5回と回数を増やしていく多回育(たかいいく)も始まりました。それまでは、春蚕、初秋蚕、晩秋蚕というのが常識でした。それが、春と初秋の間に夏蚕、初秋のあとに中秋蚕、晩秋のあとに晩々秋蚕と増やしていったのです。
 さらに、昔は、個人で稚蚕(ちさん)(1齢から2齢、または3齢までの蚕)から繭になるまで飼っていましたが、昭和30年代に入ると、小集落ごとに稚蚕共同飼育所ができました。稚蚕の間、技術者が入って専門的に飼うことで、蚕の質が安定するとともに、個人飼育よりも経済的になりました。このように昭和30年代の後半になって、養蚕規模の拡大と、合理化を図っていきました。」

イ 養蚕規模の拡大

 「養蚕の最盛期は、昭和30年代から昭和40年代まででした。しかし、そのころから経営規模の小さな農家は、養蚕をやめていきました。生活水準がどんどん上がる中、出稼ぎに行くなど、農業以外で収入を得るようになったのです。景気が非常に良いときでは、経営規模が小さなままだとついていけず、それならば出稼ぎの方が良いということで、若い人は出稼ぎに行きました。残った桑園は、養蚕を続ける人が引き受けていき、経営規模をさらに拡大していきました。繭生産量が拡大している時期も、養蚕戸数と1戸当たりの生産量を見てみると、戸数が減っていく一方で1戸当たりの繭生産量は増え続けており、経営規模が拡大していることがよく分かります(図表1-2-1参照)。
 昭和56年(1981年)には、野村町で人工飼料による稚蚕飼育が始まりました。そのため、稚蚕共同桑園はいらなくなってきます。人工飼料による稚蚕飼育を昭和56年に始めるという計画に基づいて、私(Aさん)が野村町で勤務していた昭和55年(1980年)から昭和57年(1982年)に、野村管内の稚蚕共同桑園は競売にかけて処分されました。」

 (2) 蚕業普及員として

ア 蚕業普及員になる

 「野村町は養蚕が古くから盛んで、私(Aさん)の実家も養蚕を行っていました。そのため、地元の野村農業学校(現愛媛県立野村高等学校)に進学し、養蚕を専攻しました。在学中、野村農業学校は野村高校へ変わり、昭和25年(1950年)3月、野村高校を1期生として卒業しました。その後、大洲(おおず)にあった蚕業試験場で登録試験を受けて、昭和28年(1953年)に蚕業普及員の資格を取り、翌年から普及員として働き始めました。普及員1年目は野村町で勤務し、その後、明浜(あけはま)町(現西予市)、城川(しろかわ)町(現西予市)、面河(おもご)村(現久万高原町)などへ転勤し、昭和55年(1980年)から62年(1987年)まで野村町で勤務して、定年を迎えました。」

イ 普及員の仕事

 「普及員になって間もないころは、養蚕農家を1軒1軒回って指導を行っていました。初めのころは、徒歩か自転車で回っていましたが、昭和30年代後半になると、オートバイで回るようになり、移動がかなり楽になりました。それでも、舗装されていないガタガタ道をオートバイに乗って行くのは、肩が凝ってしんどかったことを私(Aさん)は憶えています。稚蚕の間、飼い方がのんきな農家には毎日行って、指導をしなければなりませんでした。繭の出荷の際には、みんなが時期を揃(そろ)えておかなければなりません。そうでないと、乾繭して繭の中の蛹(さなぎ)を殺す前に、蛾(が)になって出てきてしまうからです。気を付けておかなければ、稚蚕の間にずれてしまいます。そうならないように温度の指示などをしても、その農家へ行ってみたら、温度が下がっていたこともありました。稚蚕共同飼育が始まってからは、その施設だけを見ることになり、随分楽になりました。稚蚕の飼育時は飼育所に泊まり込んで、蚕を飼っていました。」
 「昭和35年(1960年)に結婚したとき、主人は城川町で指導をしていました(写真1-2-3参照)。私(Bさん)は、主人が運転するオートバイの後ろに乗って、一緒に養蚕農家を回ったことがあります。遊子川(ゆすかわ)の中心部を過ぎて、川沿いの道を行くと、山の上の方に1軒見えます。そこが養蚕農家の家でした。道路は自転車かオートバイで行きますが、勾配が急な所は歩いて登って行かなくてはなりません。その山の上の農家で蚕を見たら山を下りて、また別の山を登ってと、郵便屋さんと同じように移動していました。
 面河村で指導していたときは、稚蚕共同飼育所ができた途端に、主人はぎっくり腰になって動けなくなりました。唇も腫れてしまって、おかゆしか食べられなくなりました。それでも、『皆さんが頼りにしているので休むわけにはいかない。這(は)ってでも行く。』と言って、主人は蚕を見に行っていたことを憶えています。」

ウ 桑を求めて

 「朝早くから桑を採りに行きますが、私(Bさん)もよく手伝いに行きました。城川町に住んでいたとき、現在、宝泉坊温泉がある辺りは桑畑があり、そこへ行っていました。条桑育になってからも、稚蚕の間は桑の葉を食べさせなければならないので、籠一杯に桑の葉を摘んでいました。蚕が大きくなり、そこの桑だけでは間に合わないときは、主人が運転するオートバイの後ろに乗って、山向こうの、桑が余っている所まで行って、桑の葉を摘んで間に合わせていました。濡れた桑はなるべく蚕に食べさせないように、雨の降るときには、枝を切った後、逆さに立てて水を落とさなければならず、大変な思いをしていました。」
 「雨に濡れた桑は、温度を上げた部屋の中で乾燥させて蚕に与えていました。雨が何日も続いた日は、仕方なく濡れた桑を与えることもありました。蚕をたくさん飼うようになると、5齢期の桑を一番食べるころには、桑が足りなくなります。この辺りの桑だけでは足りないときは、高知県に行くと桑が余っているということが分かっていたので、前もって連絡を取って、計画的に高知県まで買いに行っていました。買った桑をトラックに積んで、夏場は萎(しお)れないように氷の塊も一緒に載せて、夜通し運転して走ったことを私(Aさん)は憶えています。」

エ 葉タバコ農家との調整

 「蚕が泡を吹いてバタバタと死んでいったことがあったことを、私(Aさん)は憶えています。最初は、『農薬が原因かな。』と話をしていましたが、何が原因かは分かりませんでした。原因は、葉タバコが出すニコチンでした。葉タバコ畑と桑畑は、少し離れているくらいだと、風に乗ってニコチンが飛んできて桑の葉に付きます。ニコチンが付いた桑の葉を蚕が食べて、中毒で死んでいったのです。葉タバコは、常にニコチンを出すわけではなく、収穫前の色付いたころにニコチンを出します。それまでに桑を採るというように、葉タバコ農家の方と協議会を開いて、調整しながら被害のないようにしていきました。養蚕農家もそうですが、葉タバコ農家の方も生活が懸かっているので問題は切実で、協議会が何度も開かれたことを憶えています。」

オ 面河村での思い出

 「私(Aさん)は普及員になってから、あちらこちらに転勤しました。一番思い出深いのは面河村での勤務です。昭和39年(1964年)から昭和47年(1972年)までの8年間を面河村で勤務しました。当時、面河村は養蚕を始めたばかりで、養蚕の基礎を作ったときだったのです。山を切り開いて広い共同桑園を造り、桑を植えるところから指導をしました。稚蚕共同飼育所を造るなど、最初から一緒に作り上げていったという思い出があります。桑を育てるのが初めて、蚕を飼うどころか見るのも初めてという方に教えるのは大変でした。」
 「主人が巡回に行くと、養蚕農家の方からトウモロコシやダイコンを山ほどもらって帰ることがありました。私たち家族だけでは食べきれないので、官舎に住む近所の先生方に配っていました。上蔟(じょうぞく)(繭を作ろうとしている蚕を集めて、繭を作らせる巣に移す作業)のときのように忙しい際には、私(Bさん)も手が足りない養蚕農家へ手伝いに行きました。すると、養蚕農家の方が、『お礼に、いくら差し上げましょうか。』と言うので、私が『手伝いで来ただけですから、1円もいりませんよ。』と答えると、『それはいけない。』と言って、庭先にできている豆などを採ってくれていました。後日、私が『おいしかったですよ。』と言うと、養蚕農家の方は喜んでくれました。
 私たちの2人の子どもたちは、城川町で出生届を出していますが、ふるさとは面河村だと思います。完成したばかりの石鎚スカイライン(昭和45年〔1970年〕完成)を通り、家族で石鎚に登って景色を楽しんだり、遊んだりしました。また、主人は『蚕と桑と魚以外は一切いらない。』というくらい釣りが好きなので、絶壁みたいな谷を下りて、アマゴを釣りによく行っていました。上の方から私が『もう帰らないの、暗くなったよ。御飯を食べないの。』と呼びかけると、下の方から主人が『もう帰る。』と答える、といったやり取りをしていたことが思い出されます。」

 (3) 旧野村町での養蚕

ア 養蚕を始める

 「私(Cさん)は50年ほど前から、父の手伝いで養蚕を始めました。その当時は、養蚕だけでなく、3、4頭の牛で酪農も行っていました。父が60歳になった時に、『これからは、お前がやりなさい。』と言われ、昭和50年代に入ってから本格的に始めました。
 当時も今も、基本的な蚕の飼い方は変わっていません。午前3時半から4時ころに起きて、前の日に採ってきた桑を蚕に与えます。その後、朝食を食べてから、自宅の前と、城川町にあった桑畑に桑を採りに行きます。午前9時ころには、桑を軽トラックに積んで戻って来ます(写真1-2-4参照)。
 昭和40年(1965年)ころは、テーラーという畑を耕す農機具に、箱を付けて桑を運んでいました。繭を蚕糸工場へ出荷する際にもテーラーを使っていました。当時の野村の町は、周辺から工場へ繭を出荷に来る車で渋滞していて、私たちがテーラーで工場へ繭を出荷に行くと、『車が入って来るから、退(の)いてくれ。』と言われていたことを憶えています。軽トラックを使うようになったのは、昭和50年代半ばころだと思います。」

イ 苦労した桑の確保

 「昭和40年代の半ばが、野村町での養蚕の最盛期ですが、この辺りの桑だけでは足りず、高知県中村(なかむら)市の勝間(かつま)(現四万十(しまんと)市勝間)まで買い取りに行っていました。そのころは、桑は奪い合いで、事前に勝間の桑を栽培している方へ電話で連絡をして、私(Cさん)が買い取りに行く桑を押さえてもらい、勝間まで何時間もかけて行くのですが、その間に別の人が私になりすまして、現金で支払いを済ませて、桑を持って行っていたこともありました。勝間へ行っていたころは、朝2時ころ、前日に採っていた桑を蚕に与えてから、出掛けていました。」

ウ 大事な4齢期

 「昔は、蚕を4齢まで、室内の2階で飼っていて、網代(あじろ)で育てていました(写真1-2-5参照)。5齢になったら、箱を担いで、梯子(はしご)を上り下りして2階から外へ出し、テントの下で飼っていました。当時は、私(Cさん)の妻も4箱同時に担いでいましたが、かなりの重労働で、小学生の息子は、手伝うとすぐに筋肉痛になっていました。後にリフトで運べるようになって、楽になりました。
 今は、4齢から5齢になるとき、蚕座(さんざ)を広げています。一番忙しいのは4齢のときです。5齢が桑を一番たくさん食べますが、蚕の状態を見るのは、4齢が一番大事だと思います。大きい蚕や小さい蚕があるので、それを分けてやらなくてはいけません。また、3、4齢のときに、新芽の良い桑を与えなければなりません。昔は、4齢のときは、『何でもいいから適当に与えておけばいい。』と言われていましたが、やはり成長期に栄養をしっかりと与えなければいけないと思います。」

エ 機械化が進む

 「昔と比べて機械化されてきたので、養蚕の仕事は少しずつ楽になっていると私(Cさん)は思います。繭にするにも、昔は藁蔟(わらまぶし)でしたが、昭和30年代の後半ころに段ボールの枠へ変わり、回転蔟になりました(写真1-2-6参照)。当時は、押し抜きで繭を一つずつ抜いて取り出し、毛羽取りを行っていました。繭の取り出しも毛羽取りも手間が掛かる作業でしたが、昭和50年代の後半ころから、全自動収繭毛羽取機で同時にできるようになりました(写真1-2-7参照)。」

オ 今年の繭

 「今年(平成30年〔2018年〕)は、晩秋蚕の出来が悪くて、繭の年間生産量が去年より100㎏くらい少ない700㎏余りでした。一生懸命に育てた蚕でしたが、何が原因なのか分からないのに繭になりませんでした。上蔟したときはまだきれいだったのに、繭家(まゆや)(回転蔟を吊(つ)っているとき)になってから、蚕が下に落ち出して、たまりませんでした。私(Cさん)には原因が分からなかったので、晩々秋蚕の出来も悪くならないかと心配していましたが、今までの中でも一番の出来だったので、安心しました。天候的に少し寒い時期があって、5齢が糸を吐くまでに時間がかかったのが良かったのかもしれません。」

カ 養蚕農家として

 「自分が『この仕事だ』と思って続けてきたので、特に辛(つら)かったと思ったことはありませんが、野村工場が閉鎖になった(平成6年〔1994年〕3月)ことは、残念でなりません。あのときは、野村で養蚕を続けている人は、17、18人くらいいたと思います。組合製糸がなくなって、農協の養蚕部会で繭を集めるようになり、渓筋(たにすじ)まで繭を持って行くようになりました。
 私(Cさん)は蚕が好きで、今まで養蚕を続けてきました。嫌いであれば、絶対に続けていません。繭の買い取り価格が上がったら、もちろん嬉しいですが、日に日に蚕が大きくなっていき、きれいな糸を吐いて、良い繭ができたときが一番の喜びです。
 また、着物をデザインする方から、『帯地にするには、ここのものが最高なので、ぜひ続けてください。』と言われました。そのため、嫌でも続けなくてはいけないと思いました。良いものを作っているというプライドがあります。」


図表1-2-1 野村町の養蚕戸数、1戸当たりの繭生産量の推移

図表1-2-1 野村町の養蚕戸数、1戸当たりの繭生産量の推移

『愛媛蚕糸業の歩み』により作成

写真1-2-5 網代

写真1-2-5 網代

平成30年11月、野村シルク博物館にて撮影